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空海の詩文を読む(その七)

恩師、勤操先生 『故贈僧正勤操大徳影讃』(訳文)

大きな舟は物を乗せて海を渡ることができ、
馬車は物を乗せて運ぶことができる。
しかし、馬車は御者がいないと遠くに行き着くことができないし、
舟は梶をとる船頭がいないと深い海を越えることができない。

仏道もまた同じである。
人を導くのは教えであり、
教えが通じるのは道である。
その道も教えを説く人がいなければふさがり、
その教えも人の交流によって伝播することがなければ廃れてしまう。

(そのようなことだから、)
ブッダ(釈尊)の誕生がなかったら、
この世の人はブッダの説くさとりの教え(縁起の法・縁滅の法による無)を聞くことができなかったし、
(ブッダの後世において)
論理家のナーガールジュナ(龍樹)が生まれていなかったら、
インドの人びとはブッダの説いた無の法が、八不(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去の相対的な存在による八つの否定)という空(くう)の論理によって証明されることを知らずにいたであろう。
(そうして、)
(西域出身でインドに渡り、大乗仏教とインドの学問五明のすべてを修めた)クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)が(長安に来て、サンスクリット語の『法華経』『阿弥陀経』『維摩経』などの大乗仏典をはじめ、ナーガールジュナの『中論』などの多くを漢訳し、)ブッダの説く無の法とその無を証明した空の論理とインドの学問を伝え教えたから、中国の人びともブッダのさとりと僧が身に付けるべき学問を知ることになった。
その空の論理を説く三論(『中論』『十二門論』『百論』)を、飛鳥時代に呉から父と共に来日した智蔵(ちぞう)が、元興寺にいた高句麗の僧の慧灌(えかん)から学び、その後、入唐して、慧灌の師で三論教学を大成した吉蔵(きちぞう)に直接師事、帰国後、法隆寺で三論の教えを広め、奈良時代に入ると智蔵の弟子の道慈(どうじ)が唐へ渡り、長安の西明寺で三論と五明を修めるとともにシュバカラシンハ(善無畏)に密教を学び、帰国して大安寺に住まわれたから、日本の国の人びともインドの論理家ナーガールジュナの考察した八不の一つ不異(同じがなければ別もない。物事は相対的であることによってのみ論理的にその存在の有無を証明できるのだから、相対性を外せば存在は証明できない。だから存在は空である)というような哲学的な教えを知ることになった。

世に「物事の道理を広めるのは人である」というが、この言葉は真実なのである。

(先生の生い立ちと遍歴)
 ここにも仏法を伝えた一人の人物がいる。
 その僧の名は勤操(ごんそう)、俗姓は秦氏(はたのうじ)である。
 母親は島の史(ふびと)氏、すなわち奈良県高市(たけち)郡の島の庄の人。母は世継ぎが生まれないのを憂い、しばしば駕龍寺にお参りし、仏像に香華をお供えして真剣に男の子が授かるようにと祈った。すると、ある夜、明星が懐(ふところ)に入る夢を見、ついに妊娠し、勤操が生まれた。だが、生まれて間もなく父親を亡くし、母方の手で育てられという。

 十二歳(766)にして、大安寺の信霊(しんりょう)和尚の弟子となった。
 景雲四年(770)の秋、宮中と山階寺(興福寺)で千人の僧の得度試験があり、千人の僧の一人になった。
 十六歳にして、俗塵を嫌い、静かな山林にあこがれ、さとりを得ようとして泉州の槙尾山(まきのおさん)の岩屋にこもった。

 二十歳になると、大安寺の信霊和尚にしばしば呼び戻され、戒壇で具足戒(ぐそくかい)を受けさせられた。また、同寺の学匠善議(ぜんぎ)和尚のもとで三論宗の奥儀とインドの学問<五明>を学ぶことになり、十余年が過ぎた。因みにこの善議和尚、今は亡き入唐学法の沙門道慈律師の弟子であった(から、仏教の開祖ブッダに始まり、ナーガールジュナ、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)、吉蔵、シュバカラシンハ(善無畏)などへと引き継がれ、系統進化した仏法の本道を勤操先生は学んでおられたことになる)。

(このようにして、)先生は寺院では経典の研究に精を出し、山野に入っては瞑想に耽り、わずかな時間を惜しんで自らのさとりと他の人びとを救済する行に精進されたから、その名は天皇にまで届くことになった。

 弘仁四年(813)に律師(りっし)に任命した勤操を、嵯峨天皇は招請して、宮中の大極殿で『金光明最勝王経』を講義させた。
 さらに講義の終了日には、紫宸殿において高僧を集め、諸宗の教義を論議させたが、その座主となった勤操に、三論と法相、どちらが上かと嵯峨天皇が問われた。
 勤操先生が答えた。
「三論は祖先・主君の宗門、法相はその臣下の教えである。何故ならば、法相の祖であるインド唯識学派の学匠アサンガ(無著)は三論の祖であるナーガールジュナ(龍樹)の『中論』を注釈し、同じく法相のダルマパーラ(護法)は、ナーガールジュナの弟子のアーリアデーヴァ(提婆)の『百論』を注釈しているが、その際、双方とも著作者に対し、南無論主と称して弟子の礼をとっているからだ」と。
 これには高邁(こうまい)なる論理を展開する法相宗の高僧も三論宗の前に跪(ひざまず)かざるを得なかった。

 その時の明解なる答えに嵯峨天皇は感服し、勤操先生を小僧都(しょうそうづ)に任じ、兼ねて造東寺別当に命じられた。
 また、中国古代の舜(しゅん)が聖天子堯(ぎょう)から帝位を譲りうけたように、嵯峨天皇から帝位を受け継いだ今の淳和天皇も、先帝のすぐれた判断力と実行力を見習い、勤操先生の聡明さと雄弁さ、謙虚さとあきらめない指導力、巧みな救済行為を見抜き、大僧都(だいそうづ)に抜てきし、やがて造西寺別当に転任を命じられた。(因みにこの際、空海が小僧都になり、造東寺別当になる)

(このように、)勤操先生の位はますます高くなったが、心はますます謙虚であった。それは中国の晏嬰(あんえい)が斉の宰相になっても質素で慎み深かったことや、釈迦十大弟子の羅喉羅(らごら)が自制と忍耐を第一としたことによく似ている。

 先生は

  • 四無量心(しむりょうしん:生きとし生けるものが共に生きるために発揮している無量の知。慈・悲・喜・捨)を衣とし、
  • 一如(いちにょ:存在の固有性は論理的には存在しないという絶対真理)を座とし、
  • ブッダの説いた、縁起・縁滅による無の法という唯一の乗り物にまたがり、
  • 不二(ふに:八不不二。固有の存在は相対的なものであるという唯一絶対)を唱え、
 迷える人びとのために
  • 空(識別された観念は空である)
  • 無相(空であるから、物事の差別相はない)
  • 無願(差別相がないから、物事に求めるものはない)
 の三空(さんくう)の道理を説かれた。

 そのような謙虚な姿勢と明解な論理性が、信者全員の心を惹きつけた。

 また、冬場の煖をとるための便利な火鉢を考案して諸寺に広め、また、老僧用の衣を工夫して作り差し上げるなど、寺院での生活向上にも気を使われた。
 また、お釈迦様の誕生日「灌仏会」のための歌謡(和讃)を作り、
 また、釈迦仏を礼讃し、唐楽(雅楽)を奏でる会を催された。

 三千の仏(すべての生きとし生けるもののもつ無垢なる知のすがた)を供養する仏名会(ぶつにょうえ)を催すこと二十一年間、八座の法華(『法華経』八巻を八人・八座で講讃し、故人の菩提を祈る法会)は(796年に勤操先生が大安寺の同朋七人とともに、平城左京東山の石淵寺で亡友栄好の母のために始めてから)三百余会。
 法話の優美な声は聴く者を深く感動させ、その読経の清らかで美しいひびきは参加する者すべてを恍惚とさせたという。
 そのようなことだから、善男善女は競って信仰心を起こし、都会、田舎であることを問わず、民衆は仕事を割いてまでして法会に集った。
 それは、先生のもつ慈悲に満ちた美声のせいである。

 いのちのもつ無垢なる知のちからをもって衆生を救いへと導く使者こそが勤操先生であったのだ。
 その証しに法会を催すお堂の上には、必ず、紫雲(瑞雲)が湧き出したという。
 それは先生のまごころが天に届いていることの現われであり、その昔、渡航の際に舟が風波に耐えられたのも、乗船していた先生の観世音への祈りが通じていたからにちがいない。

 また、先生は貴賤の別なく、如何なる相手の問いにも応じ、どんな時にも即座に明解な答えを出される方であった。
 (まだまだ、先生のお人柄とその徳を挙げると切りがない)

 ああ、そうなのである。真実の知によって人びとを救い助ける医王のごときブッダは、迷える生きとし生けるもののためにその定めである生者必滅を身をもって示されたが、その生涯においては自らのさとりを起点として、縁起・縁滅による無の法を考察し、その法を用い、人びとのあらゆる苦を取り除かれた。そうして、その法を伝えて行きさえすれば、この世に生まれて来る多くの迷えるものは法よって救われると弟子に言い残された。
 (そのように、)この世の勤操先生の死去は悲しいことであるが、(生きている間に見事な徳を示されたから、)その生きすがたは生きることの喜びのすがたとして未来に必ずや伝えられて行くことだろう。

 稲妻の一瞬の輝きは止めることができず、まして、生あるもののいのちの輝きを誰が久しく保てるであろうか。

 先生は天長四年(827)五月七日に都の西寺の北院においてにわかに遷化された。享年七十、僧侶になられて四十七年であった。
 十日に東山の鳥部の南麓にて荼毘に付した。この日、勅命があって先生に僧正の位が贈られた。その詔旨はまことに丁重であった。
 宮中の人びとも哀悼の意を表わし、仏教に関係する者(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷。出家・在家)すべてが悲しみに包まれた。
 道を行く人びとも涙を流し、身分の上下に関係なくみなが嘆き、先生を知る者も知らない者も誰一人として悲しまない者はいなかった。

 弟子の僧たちは、中国の丁蘭が亡き両親の像を彫り、生けるがごとくに孝養を尽くしたという故事や、インドの優填王(ウダヤナ)が釈尊の像を栴檀(せんだん)の木で作って思慕したという伝説に倣って、師の木彫像を作った。
 そうして、勤操先生のすがたとその徳を後世に長く伝えるために、その讃をわたくし空海が書くことになった。

 小生と先生とのお付き合いは(わたくしが大学を中退して大安寺に出入りし、独学で仏道を勉強し始めたときからだから、)随分と長くなる。
 (わたくしの放浪時代に先生には仏道修行の方法から貴重な仏典の存在、それに僧として身に付けるべきインドの学問、五明<ごみょう:声明(言語・文典)、因明(論理学)、内明(哲学・教義)、工巧明(工芸・工学・技術・算術・暦法)、医方明(医学)>など多くのことを教わった)。
 (それらが結実して学問上の恩返しができたのは、わたくしが唐に渡り、青竜寺の恵果和尚から直接学んだ最新の仏法『大日経』や『金剛頂経』の奥儀を帰国後のさまざまな出来事を経て、密教流布の足場づくりにも目処がつき、先生に自信をもってお伝えできるようになったからである)。
 (帰国十年目の)弘仁七年(816)初秋、わたくし空海は式衆(しきしゅう)を率い、高雄山神護寺の密教道場において、三昧耶戒(さんまやかい)と金胎両部灌頂を先生に授けることになった。
 (因みに)先生の三論とわたくしが学んだ密教とは宗祖が同じであり、三論宗は宗祖の弟子の提婆(だいば)が広め、密教は宗祖の弟子の龍智(りゅうち)が広めたから、法脈上は兄弟の関係にある。

 (こうして、)墨を含ませ、筆を走らそうとして(先生との初めての出会いのことやその後の個人授業の数々、留学に際しての先生のご助力、帰国後の様々な出来事、京都での親密なる日々を思い起こすと)、不覚にも涙がはらはらと紙の上にこぼれ落ちる。

 仏教という名の城があれば、先生こそが城主であり、仏法本道の解っておられる指導者だったのに、なぜわたくしを棄てて、早くに亡くなられてしまったのか。

 ああ、哀れで悲しい。

 先生の広い徳とその足跡の多さ、まして仏道の学究は深くて計り知れない。
 (だから、)先生の業績が余りにも大き過ぎて大切な部分を書き漏らすことがないかと心配である。
 易において天・地・人の一切の意義をふくみもつということがあるが、以下の詩においてそのことを叶えたい。

(無垢なる知のちからのはたらきの象徴が菩薩であるが)
菩薩、菩薩、そのすがたは何に似ているのか
顔つきは人間の形状をしている
(無垢なる知のちからそのものの象徴が如来であるが)
ブッダ、ブッダ、その容姿形状を何というべきか
仏教の開祖ガウタマ・シッダールタの顔かたちは迷える人間そのものである
わが勤操先生の風貌も人間そのもの
だが、先生の知と行為は文殊のようであったし、志(こころざし)は神のようであった
三論の空の論理を修め、空なる識別にとらわれ迷う人間を哀れと思い
一乗(エーカヤーナ)の教え、すなわち、ブッダの説いた"あらゆる物事は無である"という法一乗によって、人びとをさとりへと導かれた

空(そら)に浮く雲は幾度も生滅し
庭の紅の花は毎年、春が来れば咲き、そして散る
水に映る満月は掴もうとしてもそこに無く
錯覚が起こす、きらめく花は真の花ではない

この世に生きる者たちにこれらのことを説けば
わが身の存在の虚しさと生きることの悲しみに誰もが気づかされる
渡り鳥なら今年も戻って来るが
流れ去った川の水は二度と戻らない

長夜の室である先生の墓は静かに眠り、歳月だけが過ぎて行く
世間の人は先生のすぐれた徳をまだ口にしているが
墓の上を通り過ぎる松風はもの悲しく
遠くに聞こえる猿の声は切ない
先生の麗しい声は、今、誰を相手に説法されているのだろうか
天長五年(828)四月十三日

あとがき

 こうして、弟子の僧たちだけでなく多くの信者からも慕われていた勤操先生(三論の空の論客であり、五明の学問の修得者)のことを真正面からとらえた空海の文章を目にすると、本来的な仏道に宗派の垣根はないと分かる。
 密教も一乗も同じ道の上にある。それは空海の亡き弟子智泉のための法施を読み、この恩師、勤操先生への讃を読めば、明白である。

  • ブッダ(釈尊)
    人間としてのさとりの体現者。縁起・縁滅論を思索し、無の法を方便として心の苦を除いた。
  • ナーガールジュナ(龍樹)
    物事を相対させることによって存在の固有性を論理的に考察し、固有性は相対的でなければ証明できないから、すべては無であるとした。したがって、そのような無と現実の有との間に存在があると説く。
  • 空海
    論理的には固有の実体をもたないモノによって世界は構成されている。
    そのモノとは物質と意識の融合体であり、そこにいのちのもつ無垢なる知のちからが存在する<五智>。
    その知のちからとはたらきによって世界は秩序を保っている<マンダラ>。
    無垢なる知のちからは多様ないのちのすがたをとって現われる<四種法身>。
    そのありのままのすがたをもつ生きとし生けるものが、行動・コミュニケーション・意思<三密>によって活動し、自然の中で共生している。
    その無垢なる知を人間はイメージ・シンボル・文字・作用の四つの媒体を使って表わし、伝達している<四種マンダラ>。
    など存在の実相を説いた。
    そうして、五明の学問によってさとりの実践である社会事業に励んだ。

 この仏教思想の本道の中で、勤操先生が教えたのは主に龍樹の『中論』とインドの僧の必修の学問であった五明、それに密教のことも師の善議から学んでいたはずであるから、その存在と主旨をも語られたであろう。
 それらの仏法を先生から聞き出した若き空海は、その性格からして観念的な教えではなく、生きていることの実感をともなう教えを密教に求めたにちがいない。
 そこで唐に留学し、長安の青竜寺の恵果和尚から生命の教えともいうべき密教を受け継いだ。
 先生は空海の持ち帰ったさとりの本質をすぐに理解されたと思う。
 その時、先生と空海の仏道が一本の道として繋がった。先生の目的が空海によって果たせた。
 真のさとりに宗派の垣根などはない。

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