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空海釈『金剛頂瑜伽十八会指帰』抄 New

はじめに

 空海はその著作『金剛頂経開題』の中で、留学先の唐から持ち帰った不空訳『金剛頂瑜伽十八会指帰』の概略を注釈している。
 十八とは、『金剛頂経』の実践の教えすなわち無垢なる知の原理とそれらの規範を成す知に個別に相応(瑜伽:ゆが)する方法を十七の説法場面(テーマ毎の観想を特定の場と登場者によって物語的に展開し、理解を促す手法)にした各経典に、それらの全体を説く経典、初会『金剛頂一切如来真実摂(しょう)大乗現象大教王経』を加えた数である。
 この十八会を解説した諸書物によると、この経を説いたのは大日如来ということになっているがそれは比喩なので、ここではいのちのもつ無垢なる知のちからによって説いたとし、第十八会の金剛薩埵がお招きしたのは前後の文脈上、生きとし生けるものの個体としてさとりを開いた人間ブッダ(釈尊)にしてあることをあらかじめ断っておく。
 以下が訳文である。

初会

 十八種からなる『金剛頂経』の初会となる経典。
 自らに具わるすべての無垢なる知のちからを開示し<一切如来(いっさいにょらい)>、その知に偽りなく<真実(しんじつ)>、大乗の教えをも収めて<摂大乗(しょうだいじょう)>さとり到る<現証(げんしょう)>から、大いなる教えの王<大教王(だいきょうおう)>と名づけられる。(つまり、無垢なる知の原理の全体と、その全体を構成する個別の知の形相の理念と行為を具体的に一覧にして説く、さとりの実践目録書となる経典であるから初めにくる)

第二会(場面1)

 一切の無垢なる知のちからの為す秘密との相応。
 物質世界の最上段<色究境天(しきくきょうてん)>において説かれる。

 1、生きとし生けるものの知の原理が成す多様な形相による表現<表象>(金剛界)
 2、個別的な形相により全体を示し、なお且つ世代間を継承する知<象徴>(降三世)
 3、物質的存在としての言葉による内外の世界の調整<言語>(遍調伏)
 4、一切の知活動による生命の完成<作用>(一切義成就)

の知の四つの表現媒体によって、広く微細に物質の真実のすがたが明かされる(ことこそが、この『金剛頂経』のテーマなのであると空海は『開題』に記している。筆者)。
 さらには万物の創造と活動を司る神<大自在天>を降伏させ、存在しているすべての個体<金剛薩埵>のためにその知と媒体とによって把握される世界の実相の一つひとつを大自在天の偈(げ:単一文句による教え)にして授けることを説く。

第三会(場面2)

 すべての個体による集団的相応。
 生きとし生けるもののもつ知のちからを象徴する<大日如来>の宮殿に集まって、個体のすべてが瞑想に入って説かれる。
 大日如来のもつ五つの無垢なる知のちから、生命知・生存知・創造知・学習知・身体知のそれぞれを示す諸尊が、異口同音にそれらを自ら具えもつ個体の存在そのもの<金剛薩埵>に百八の質問をし、第二会の物質世界の最上段の場で<大自在天>から教わった偈をきちっと学び取っているかを一つひとつ回答させる。
 (また、この会場において、月輪をシンボルとして「五相成身観」の瞑想体験方法が説かれる。筆者)

第四会(場面3)

 過去・現在・未来、世代間にまたがる知との相応。
 無垢なる知のちからから成る実利的世界の頂上において説かれる。

 <八大菩薩>
 1、個体の存在<金剛手菩薩(金剛薩埵のこと)>
 2、学習<観自在菩薩>
 3、万物の構造<金剛蔵菩薩(金剛虚空蔵菩薩のことか)>
 4、技術<金剛拳菩薩>
 5、創造<文殊師利菩薩>
 6、真理の応用<転法輪菩薩(金剛因菩薩のこと)>
 7、文明<虚空庫菩薩(金剛業菩薩のこと)>
 8、科学<摧一切魔菩薩(金剛牙菩薩のこと)>

 この一つひとつの菩薩の知のはたらきが、表現媒体である表象・象徴・言語・作用の四種を用いてそれぞれに説かれ、それらによって、人間社会が引き継がれて行くのだ。

第五会(場面4)

 世間と出世間の知との相応。
 釈尊が成道ののち最初の説法を行なった鹿野苑(ろくやおん)のある地において説かれる。
 概略すれば生きとし生けるものが生まれながらに具えている五つの無垢なる知のちから(生命知・生存知・創造知・学習知・身体知)を五如来(大日・阿閦・宝生・無量寿・不空成就の仏)のイメージにして説く。
 (世間では余計な煩悩という知を背負って凡夫が生きているが、煩悩をなくしてしまえば、それらの五つの無垢なる知のちからが発揮されて生きていると説く)

第六会(場面5)

 生きとし生けるものの個体どうしが性愛の知をもって結びつき、その愛という清浄なる欲望の形相があるから子孫が誕生し、生と知が引き継がれ、虚しくなく生きられることへの相応。(『理趣経』の教えである)
 (殺戮・飢餓・畜生・修羅・俗世・極楽浄土という生存本能がもたらす欲界のすべてを操り、すべての欲望をかなえる神)<他化自在天>の宮殿において説かれる。
 この経の中には生存するための本来の知の清浄なるはたらき<普賢菩薩>(今日では生態系や食物連鎖による共生の知のはたらき)や、すべての生命が具えている無垢なる知のちから<大日如来>のはたらき(今日では生物の体内で行なわれる物質とエネルギーの代謝や遺伝子の情報とその作用を司る知のはたらきによって生物が生き、その遺伝子によって個体の生命と知が受け継がれることが解っている)などが説かれる。

第七会(場面6)

 生存知<普賢菩薩>のはたらきが作り出す文化との相応。
 生きとし生けるものの生存世界において説かれる。
 生きとし生けるものすべてがもつ、生存知のはたらきによって自然界に生態系が形成され、その中でそれぞれの生物がその身の丈に合わせた生きるための技芸<金剛拳>を磨くから、それが土壌となって、地域固有の文化が生まれ、また古代においては、現実の眼によっては掌握できない宇宙・自然・歴史と創世・善悪などの世界を取り仕切る神々<外金剛部(の二十天)>が創作され、それが神話となり、世界に秩序が与えられた。
 それらすべてが生きるための普く賢い知のはたらきであり、その生存知の生み出す生態系文化や神話による創作文化の個々が、イメージ(表象)・シンボル(象徴)・言葉による個別の分類名称や文脈(言語)・活動(作用)の四種の表現媒体を用いて、さらにその形相を際限なく多彩にしながら一つひとつ説かれる。

第八会(場面7)

 五つの無垢なる知のちからのそれぞれとの相応。
 対象を知覚・イメージ・判別・感応によって把握する知と、個体の生命活動を司っている内なる知とによって世界はその存在を認識されているが、そのような知によって為される生存世界<普賢の宮殿>において説かれる。
 展開の仕方はほぼ第七会と同じ。

第九会(場面8)

 一切のいのちのもつ無垢なる知のちからの集約でもある欲望の網との相応。
 真言の宮殿において説かれる。
 それらの欲望の網の成す無垢なる知のちからが凡庸なる自身の中に宿る仏身なのだから、その欲望を外に求め、形相化してはならない。それらはあくまでも内に留めおくものなのだと説く。だから、自身の外に仏像を作ることをしてはならない。

第十会(場面9)

 普遍的なる知のちからとの相応。
 法界において説かれる。
 この経では第九会の事柄を受けて、以下のような詩を説く。

  愚かな子供は無知であるから
  仏を心の外に求め、自らの心のなかに仏があることをさとらない
  それらを外に求めても、そんなものは何処にも得られない
  生きとし生けるものすべての心のなかに仏がいるのだから
  他所に仏を説かないのだ

第十一会(場面10)

 大乗仏教を包摂し、その空(くう)の論理を超克する実在する知との相応。
 (第二会と同じ)物質世界の最上段において説かれる。

 広く実在する知の原理を
 無垢なる五つの知のちからを表わす<如来>と
 それらの知のちからのそれぞれがもつ四つのはたらき表わす、計二十の<菩薩>と
 四つの伎芸と四つの癒しの知のはたらきを示す<八供養菩薩>と
 四段階の認識(知覚・イメージ・判別・感応)を司る<四摂菩薩>の
合計三十七尊のそれぞれの四つの表現媒体(表象・印象・言語・作用)が示す意味によって説く。

第十二会(場面11)

 個別的な形相による清浄なる知との相応。
 存在の固有性は論理上証明できないことから、一切は観念的に空(くう)でしかないとするさとりの道場において説かれる。
 しかし、それでも生きとし生けるものは実在している万物のなかで生きていることに違いないし、道場に精神と物質、感性と理性の上下左右に分けられる知と、それらの知を展開している中央のいのちのもつ無垢なる知のちから<如来>とそのはたらき<菩薩>を示す図<胎蔵マンダラ>を掲げ、そこに図示される諸尊のいずれかと自身とが合致することを説き、言語のア字の喩えをもって、それがもともと我が身に具わっているものであり、そこには汚れと清らかさ、有為無為(ういむい)の作為などはなく、自由にしてさえぎるものがないことと同じであると説く。

第十三会(場面12)

 無垢なる知の普遍的なる真実の形相との相応。
 知の原理の示す道場<金剛界マンダラ>において説かれる。
 無垢なる知をもつ個体を示す<金剛薩埵>をお招きし、生きとし生けるものが意見を同じくして、自らに具わる無垢なる知のちからのはたらきに未だ目覚めていないもののために、個別的に具わるその知の存在を説くように乞う。
 そこで乞われた金剛薩埵は普賢菩薩によって象徴される生きとし生けるものすべてが具えもつ(生態系を成す知によって共に生き、自らは内なる代謝や遺伝子による)知のちからのはたらきによって生存できていることを説かれた。
 また、普賢菩薩(と金剛薩埵とによる十七清浄句)の十七字の真言なども説かれた。

第十四会(場面13)

 いのちのもつ無垢なる知のちからの個別の真実の形相との相応。  この経の教えのなかにおいては、いのちのもつ無垢なる五つの知のちから<五智如来>の中心に位置する生命知<大日如来>を取り囲む四つの如来のそれぞれの四つの知のはたらきが十六種の諸菩薩として説かれる。

<十六大菩薩>

 生存知<阿閦(あしゅく)如来>
 1、個体としての存在<金剛薩埵(こんごうさった)>
 2、自由<金剛王(おう)菩薩>
 3、慈愛<金剛愛(あい)菩薩>
 4、喜び<金剛喜(き)菩薩>

 創造知<宝生(ほうしょう)如来>
 5、産物<金剛宝(ほう)菩薩>
 6、美と価値<金剛光(こう)菩薩>
 7、労働<金剛幢(どう)菩薩>
 8、充足感<金剛笑(しょう)菩薩>

 学習知<無量寿(むりょうじゅ)如来>
 9、真理<金剛法(ほう)菩薩>
 10、利用<金剛利(り)菩薩>
 11、原因<金剛因(いん)菩薩>
 12、伝達<金剛語(ご)菩薩>

 身体知<不空成就(ふくうじょうじゅ)如来>
 13、作業<金剛業(ごう)菩薩>
 14、守り<金剛護(ご)菩薩>
 15、攻め<金剛牙(げ)菩薩>
 16、技(わざ)<金剛拳(けん)菩薩>

 それらのはたらきの一つひとつに<四摂(ししょう)菩薩>が関わる。

 1、知覚<金剛鉤(こう)菩薩>
 2、イメージ<金剛索(さく)菩薩>
 4、判別<金剛鎖(さ)菩薩>
 5、感応<金剛鈴(れい)菩薩>

 以上を一身のはたらきとして為しているのが<普賢菩薩>である。
 また、五つの無垢なる知のちから<如来>とそのはたらき<菩薩>のすべては相互に作用して、円(まど)かに融け合い、それらによって発露される知のもつ理性と感性は常に相互に干渉し、調和を保つ。

第十五会(場面14)

 禁欲を解き、さとりを開示する秘密集会(しゅうえ)瑜伽。
 いのちのもつ無垢なる知の完成したはたらき<般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)>(今日の生命科学によると、身体の内部においてはその個体を維持するためのエネルギーを生み出す知・個性を司る知・その子孫を残すための知など)は生きとし生けるものすべてに最初から具わっているのだから、そのようにすでにさとりを具えているあるがままのいのちの宮殿に凡夫たちが内緒に集まって説かれる。
 そこでは、生の三つの知活動(行動・コミュニケーション・意思)の教え、諸尊によって無垢なる知のちからとそのはたらきを示す壇、諸尊の印契(いんげい)、真言、善悪の行ないの規律と他の救済、それに禁戒などが世間でいう欲望と非倫理的行為をもって説かれるので、理性ある者たちが節度のある大人であればそのような言葉を口に出すべきではないと申し立てるが、凡夫の話を聞いて機縁をもつには、世間の言葉の文脈に沿わなければ通じない。汚い事柄を清い言葉では表現できないのだから、その汚い言葉のちからをもって凡夫を仏の道に引き入れることができるのだ。凡夫の欲望にしたがう言葉をもってこそ利益(りやく)も大きい。汝ら、そのことに疑いを生じてはならないとブッダ(釈尊)が説く。
 また、広く(欲望のすがたを借りて)存在の実相との相応、四種の表現媒体による知の展開と祈りなどを説く。

第十六会(場面15)

 無二平等(むにびょうどう)瑜伽。
 絶対真理の世界において説かれる。
 この経の教えには、迷いとさとり・世間と出世間・自と他は平等であって無二であり、動心(どうしん:意識)・挙目(こもく:視覚)・声(しょう:聴覚)・香(こう:嗅覚)・味(み:味覚)・触(そく:触覚)の六つの認識器官によって捉える対象とその対象によって乱される自身の心や思考も無二一体であるから、絶対真理の世界と自身も同体であると説かれている。
 だから、自らに具わる無垢なる知によってみな一切の仏身をもともと成就していることになる。

第十七会(場面16)

 虚空の瑜伽。
 実際宮殿(生命圏、すなわち知の存在の及ぶ極限の場)において説かれる。
 ここでは生命のもつ三十七の知活動と、それらのすがたかたちが四つの媒体を通してことごとく表現され、その表現された知を印として祈りが捧げられる。
 この生命のもつ知によって、虚空(宇宙空間)のあらゆるすがたかたちが捉えられる訳だから、それらの個体のもつ認識量と宇宙空間の広がりは等しい。
 また、知は生命に宿るから、生命そのもののすがたかたちがなければ一切万物は認識されず、知も存在しない。
 また、一切万物の発しているエネルギー量と宇宙空間の物質の総量は等しく、そのエネルギーはもとより来ることも去ることもなく最初から宇宙に存在していて形(かたち)を変えているだけで不滅である。
 そのような(宇宙物理学的な)法が説かれる。

第十八会(場面17)

 知の原理を頭上に頂く瑜伽。
 第四静慮天(だいしじょうりょてん:物質世界と知とが一つとなり、静まっている状態)において(つまり、前段の第十七会の瑜伽の心境を受けて)説かれる。
 ここでは生きとし生けるものすべての個体の存在を示す金剛薩埵が、修行によってさとりを得た個体の唯一の象徴である人間ブッダ(釈尊)をお招きして、宇宙と言葉の創造神である大梵天のために、いのちのもつ無垢なる五つの知のちからによる瑜伽を説いて頂くのである。


 以上の十八の瑜伽(相応)によって説かれる、いのちのもつ無垢なる五つの知のちからとそのはたらきによる生きとし生けるものの一つひとつの個体のすがたかたちは、それらが放つ知の光によって、まるで帝釈天の宮殿を飾る網目の宝珠のように互いを映し込んでいて際限がない。

 また、その一つひとつの個体のもつ身体、一つひとつの身体の細部、一つひとつの身体の形相とその分類、一つひとつの形相のもつ特徴、また、個体どうしによって為される一つひとつの相互扶助作用<福徳資糧(ふくとくしりょう)>、一つひとつの知恵の行為<知恵資糧(ちえしりょう)>は、それらによって生命世界すなわち知の為す世界が形成されるから、その生きとし生けるものによる共生世界は広がりつづけ、そこに際限というものがないから、虚空に等しい。
 しかし、無際限に広がりつづけている世界でありながら、その世界の中で生きる個体はそれぞれに自立しているから、そこに自由があり、共に平等であるから、そこに慈愛があり、その喜びによってすべてのものが共存しているから、そのおかげで世界は混乱を免れ、秩序を保っている。
 そのように、生きとし生けるものには共に生きる知のちからが具わっているから、自性身(じしょうしん:生命)・受用身(じゅゆうしん:個体)・変化身(へんげしん:個性)・等流身(とうるしん:種)のいのちのありのままのすがたが世界に現出している。

 もし、修行者が自分もこの生きとし生けるものの個体の一員でもあることをよく理解することができるならば、この経に説く知の諸尊のいずれかと自らが相応し、それらと平等であって異なることがないとさとることになるであろう。

 以上の十八会は、みな同じく無垢なる知の原理との相応による法を説いているのだから、全体を金剛頂瑜伽(こんごうちょうゆが)と名づける。

 以上、十八会の全体と個の概略の解釈と注釈を終わる。

あとがき-密教の選択肢-

 こうして『金剛頂瑜伽十八会』に接すると、どうしてもタントラ仏教のことに触れなくてはならなくなる。
 それは欲望によってさとりを開くという「秘密集会(グヒヤ・サマージャ)タントラ」が第十五会となって取り入れられているからだ。
 だから、空海がその箇所をどのように解釈したのかが気になる。
 「この会はいわゆる喩師婆伽処(ゆしばがしょ:ヨーシド・バガの音写。女陰の意)の説なり」と注釈しているから、その内容を空海は把握していたのだ。しかし、本文を読めば分かるように具体的な記述は避け、それらが凡夫の行為に合わせて諭すこととして広い心をもって解釈しておられるから、その辺りが空海のタントラに対する見方なのであろう。

 ところで、空海密教の説く理念は
 五つ要素からなる物質<五大(ごだい:固体・液体・エネルギー・気体・空間)からいのちが形成され、そのいのちが五つの無垢なる知のちから<五智(ごち:生命知・生存知・創造知・学習知・身体知)>をもつことによって、ありのままの身体のすがた<四種の法身(ほっしん:生命・個体・個性・種)>が世界に現出している。
 その身体をもって、生きとし生けるものは三つの知活動<三密(さんみつ:行動・コミュニケーション・意思)>を為し、その知活動は四つの表現媒体<四種マンダラ(表象・象徴・言語・作用)>によって多様に伝達される。
 であり、
 空海の哲学は

 ・物心一体の存在論を説くのが『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
 ・サンスクリットの言語学によって、万物の究極的な実相表現を説くのが『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
 ・四つの存在テーマ(原因・本不生・損減・増益)と字義とによって実在の固有性を検証するのが『吽字義(うんじぎ)』

 の三つの著作によって説かれている。

 それらは、生命と知の規範によって成る世界のすがたを、すなわちさとりの世界を、物理・生物・生態学・情報・言語によって捉えようとして考察した事柄であり、そのことによって密教と哲学が成立しているのもまちがいないのだが、そのすべてをそのように学問的・学術的に理解するのは大変難しい。
 そこで、それらのすべてが行き着く結論だけを見れば、「存在はあるがままでしかない」ということになりそうだから、それなら誰にでも理解でき、凡夫は密教の難解な教えはスルーし、哲学にも触れず、そのあるがままの境地に到る即物的な宗教を求めることにもなる。

 その受け皿となったのが、身体的瞑想(ヨーガ)の教えである。
 空海も最晩年は結跏趺坐し、坐禅三昧に入る日々が多かったというから、それだけで十分に一つの宗教形態を成す教えである。
 中国と日本では禅と呼ばれるが、インドでは7世紀頃からヒンドゥー教の一派であるタントラ教がその修行行為であるヨーガ(肉体的自己制御と精神的欲望の快楽とが同時に与えられる瞑想)によって、多くの下層民の信仰を集めていたから、その影響を仏教も受け、8世紀中期~12世紀頃にはタントラ仏教となり、チベットにも伝えられた。
 空海の学んだ密教もその系譜にあり、だから金剛頂経瑜伽(ゆが:ヨーガ)が経典となっている。
 また、日本においても7世紀中期には役行者(えんのぎょうじゃ)の山岳信仰と修験道によって、山岳修行による自己鍛錬と行動的瞑想が宗教として行なわれていて、若き日の空海もその修行の一つ「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)」に挑んでいる。
 空海密教にもそのような下地があった。

 話をもとに戻そう。この十八会、冷静に読めば、そこに近代の合理主義的な視点があると分かるのだが、それには今日の科学と思想の到来を待つしかない。
 だがら、9世紀初頭の日本において信者たちは密教の教義はよく理解できなくても、その多彩さに目を奪われ、とにかく即効の利益をもたらす神秘の宗教として受け入れることになる。
 だが、空海のようにその教義に説かれている生命と知の奥深い意味をサンスクリットの言語学をマスターしてまでも真剣に読み取ろうとする努力をしなかったら、修行者にとってその教義は未消化のまま、呪文とマンダラとヨーガだけが残る教えであっても不思議ではない。

 空海ただ独りが、生命のもつ知のちからとその知の規範を説く密教の教えを正しく唐の恵果和尚から学び取り、それを引き継ぎ、和尚の遺言「早く郷国に帰って国家をたてまつり、天下にこの教えを流布して民衆の幸福を増せ、しからば四海は安泰で、万人楽しまん」を実現すべく、早々に帰国し、その教えを日本国に広めることを懸命に為したからこそ、仏教の頂点にあった密教の教えは真言宗として確立され、今日まで廃れることなく継承されることになった。

 だが、未だにその教義は神秘の領域にとどまったままである。
 しかし今日、その教えに予断なくアクセスすれば、人は日々誰もが、踊り・歌い・身を飾り・悦ぶことによって感情を発露し、香りに惹かれ・自然の花々の美しい色とかたちを愛で・灯りに親しみ・身体を潤すことによって心を癒し、それらによって互いを供養し、共に楽しく生きよと金剛界マンダラは説いているし、高野山万燈会においては、空飛ぶ鳥・地を這う虫・水を泳ぐ魚・林に遊ぶ動物(ほ乳類)と人とが共に住む世界が永遠につづきますようにと祈り、また、空海が執筆を依頼された勝道上人日光開山記には「そもそも環境は心にしたがって変化する。心がけがれると環境は汚濁されるし、その心は環境によって移り変わるから、けがれなく静かな環境を得られれば、心は自ずと清らかである」とその日本初の登山記の序に環境論が記されている。
 それらによれば、日々の生活の中で人は技芸を磨き・楽しみ、四季の草花と灯りと潤いに心身を癒し、自然の中で生きとし生けるものと人とが共に安心して生きることのできる世界を願い、静かな環境を守り、そこに身を置き、その中で清らかなる心をもって生きることなど、極めて現実的な事柄による知の教えを空海が説いておられることに気づくだろう。

 それ以上の真実のさとりなど何処にあるだろうか。
 明日の開かれた仏教がすでにそこにあると思うのは筆者だけであろうか。

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