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空海と永遠の仏法 New

はじめに-空(くう)の論理

 紀元前5世紀頃、人生における生老病死の苦を克服しようと出家したインドのガウタマ・シッダールタ(釈尊)は、肉体を痛めつけることによって精神力を鍛える修行を試みた。
 だが、肉体が弱ると精神までもが萎え、納得のいく結果は得られなかった。そこで、その苦行を中止し、川に入って体を清め、村娘が差し出した牛乳粥を食し、体力を回復させることにした。
 そうして体調を整えた後に、菩提樹の下に座り、長い瞑想に入った。
 まず、息の出入りを数えることに意識を集中させたシッダールタは、そのことによって瞑想中に起きる雑念を封じた。
 次に体内を流れる気(プラナ:生命エネルギー)をイメージすることによって、それを制御することを覚えた。
 そのことによって身体の各部位がエネルギーを得て活性化することを知った。
 そうして、長い間、瞑想に耽った後にシッダールタは過去・現在・未来の時空と自他を超える事象を自在に捉える意識に目覚めた。
 その目覚めこそがさとりであった。
 シッダールタはそのようにしてさとりを得た後、改めて静かに坐り直し、今度は思索した。
 そこで、人に苦をもたらしているのが煩悩であると気づき、それが「十二因縁」によって起き、その煩悩は「縁起の法」「縁滅の法」によって消し去ることができるとの論理を得た。
 どのようなことかと言うと、物事すべてが相対的に展開していて、結果は原因によって生じるのだから、その原因がもし無かったとしたら、結果も生じていなかったことになる。
 シッダールタはこの因果論を法として用い、人を苦しめている煩悩の本質を解き明かし、その煩悩苦から人びとを解放する説法を始める。
 それがブッダ(目覚めた人)の説く教え、仏教となった。

 それから後の紀元2、3世紀頃、この因果論にインドの思想家ナーガールジュナ(龍樹)が様々な存在状況を当てはめて考察し、存在は「生起しないし消滅しない」「断絶しないし常住しない」「同一でなく異なりもせず」「去ることはなく来ることもない」という「八不(はっぷ)」の説を立てた。
 存在には固定した実体がないということを論証したのだ。
 そうなると存在を証明する相対的な存在はないことになり、有りとする苦の存在状況そのものが成立していないのだから、その苦の原因も成立しない。
 「有ることも無いこともない」。
 その中間に人が立っている。
 それが大乗仏教の説く「空(くう)の論理」の論拠となった。

 そのナーガールジュナの唱える論理を踏まえて、空海は自著『十住心論』第七住心「覚心不生心(かくしんふしょうしん)」の章の冒頭において、次のような世界観を綴っている。


 「何と宇宙はひろびろとして静かなのだろう
そこに潜むエネルギーが万象を充たし
(地球という星の)深く澄みとおる大海では
水の元素が限りない物質を孕(はら)む

その潜むエネルギーと水の元素の存在によって人は知ることができる
元素がすべての母であり
空(くう)が存在現象の根本であると

(なぜ、空なのか)すべての存在現象は常に移り変わり、固有の実体を持つことなくそれぞれが瞬間毎にあるがままの形相を成しているものに過ぎないからだ

その存在を絶空(絶対の空)と呼ぶ
絶空はナーガールジュナの中論による相対的な存在とならない存在であり
だからと言って、存在しない存在ではない

すべての存在は実体を持たないから
現象が起きてもすべてはそのままに空であると言うのだ

そのように空なることが存在の本質であるから
現象する形相に固定した実体がなくても、そのようなものがそのままに存在する

だから存在のすべては空であり、空なるものが存在する(色即是空、空即是色)
現象して来るすべての存在がそうである」と。

 以上の記述によって、空海の示す空(くう)は大乗仏教の唱える観念的な空とは異なり、実在する空間と物質を捉えた上での空であると理解できよう。
 まず初めの数行において、空間と物質の存在が物理学的視点と生物学的視点とによって一気に捉えられており、次にそれらの存在はナーガールジュナの相対の論理によってその固有性を否定されるものであると述べる。
 そのような空なるものがあるがままに存在しているということが空論の本質なのだ。
 しかし、ナーガールジュナの説いた空の論理は大乗仏教の中観派によって曲解されてしまった。
 「存在そのものが存在しない」と。

中観派と密教の間

 さて、空海『十住心論』第七住心の絶空を土台にしてその上に空海密教がある。
 しかし、空海はいきなり第十住心の密教へと行かずに、その間に第八住心の法華一乗「あるがままの存在」と、第九住心のあるがままに存在している世界の構造「蓮華蔵(れんげぞう)」の教えを挿入している。
 つまり、第七住心で立証された固有の実体を持たないあるがままの存在(絶空)と我が身が一体であることによって、自らもその空なる存在としての万物、例えば泥田に美しく咲く蓮の花のように実在していることを説く「法華経」を第八住心として配置し、そのあるがままに展開している存在は、素材は同じだが、その都度、変化・集合して様々な形相を呈するから、それを蓮華蔵(蓮の花の生態系)の喩えにして説く「華厳経」を第九住心に配置する。
 また、それらの仏法はナーガールジュナによって、論理では物事の存在を証明することはできないとした後の教えであるから、その教えは論理ではなく、行為とイメージが主体となって説かれるのである。
 その為、天台では数年から十数年に亘って山中をただひたすら日夜駆けて、天地自然と身心とが一体であることをさとらせる修行をさせ、華厳では善財童子がさとりへと向かう旅の物語の門口において「わがいのちをわがいのちとして引き受けること自体がさとりの世界を望み見る入口である」とさとりへの旅をもってさとりを諭す。

第十住心 実在する知

 ここでは観念のさとりではなく、自らに宿り、実在する知が形成している世界に目覚めることを説く。
 それが密教の説くさとりなのだ。
 このさとりの世界はマンダラ図によって如来と菩薩と明王と天(神)のすがたが編成するかたちとして描かれるが、それら諸尊は実在する知のちからとはたらきを象徴的に示したものだ。
 その霊なる知のちからを発揮してあらゆる生命が生きているのだから、その知に目覚めて生きることになれば、観念による煩悩などの入り込む余地は何処にもない。
 では、その実在する知とはどのようなものなのか。

 それを説くのが『金剛頂経』である。
 『金剛頂瑜伽(ゆが:ヨーガ)十八会』では天(神)と明王、如来と菩薩、ブッダと弟子と信徒、生きとし生けるものを登場させ、その者たちによる地上と天界の集会場所での金剛の講義と瑜伽(相応)の場面が描かれ、仏法が頂点へと展開する。
 その中の第六会ではいのちを継いでゆくための性愛(理趣経)との相応、第十五会では男女の秘密集会による世俗的な悦楽をもってさとりを説くなど、ヒンデュー教のタントラヨーガの要素が入り込んでいるが、それらをも組み入れ、大乗哲学の究極の宇宙観や物質世界との相応、共に生きる個体の目覚めなど、実利的なるものとの相応が一貫して説かれる。

 また、『金剛界マンダラ』九会の中心に位置する「成身会(じょうじんね)」では、生きとし生けるものが対象の美しさを感受し、自らその美しさを表現し、宇宙の意思に身を任せ、共に生き、世界を学び、自ら作業する為の三十七の知が示される。

 <知の編成>
 a 感応知
  a-1 感応プロセス
  a-2 美しさの媒体
  a-3 感応の表現
 b 宇宙知
 c 霊性知
 d 共生知
 e 学習知
 f 身体知

 以上の要素によって生命の知のちからとはたらきが編成されている。

 以下は上記編成された知の個々の内容解説。
 尚、一部項目はそこに説かれる知の事柄を今日の科学によって解説し、その意味が解り易くなるようにしたことを予めお断りしておく。

金剛界三十七の知

a 感応知

 知には感性と理性があり、理性は論理的・物理的に世界を捉え、感性は対象との接触がもたらす快不快感によって世界を情緒的に捉える。ここでは五感が惹き起こす感応の四段階のプロセス、感応をもたらす美しさの四つの媒体、感応を表現する四つの行為が示される。

 a-1 感応プロセス<四摂(ししょう)菩薩>
 生きとし生けるものは感覚器官(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)で対象を知覚し、それをイメージ化し、快不快を判別し、感応する知をもつ。

 ①知覚:金剛鉤(こう)菩薩
 ②イメージ:金剛索(さく)菩薩
 ③快不快の判別:金剛鎖(さ)菩薩
 ④感応:金剛鈴(れい)菩薩

 a-2 美しさの媒体<外(げ)の四供養(しくよう)菩薩>
 その感応する知のはたらきがあるから、万物の香り・かたちと色彩・あかりと明暗・潤いに反応し、その芳純さ・美しさ・安らぎ・心地よさに生きとし生けるものは癒され、それを日常の悦びとして生きる。

 ⑤香り:金剛香(こう)菩薩
 ⑥かたちと色彩:金剛華(け)菩薩
 ⑦あかりと明暗:金剛灯(とう)菩薩
 ⑧潤い:金剛塗(ず)菩薩

 a-3 感応の表現<内の四供養菩薩>
 また、感応する悦びがあるから、生きとし生けるものは身を飾り、歌い、舞う。

 ⑨悦び(生きている幸せの感応表現):金剛嬉(き)菩薩
 ⑩飾り(身を飾ることによる同一性の感応表現):金剛鬘(まん)菩薩
 ⑪歌(声の振動とリズムによる感応表現):金剛歌(か)菩薩
 ⑫踊り(肉体の同調と共鳴の動きによる感応表現):金剛舞(ぶ)菩薩

b 宇宙知

 宇宙のもつ不変のエネルギーが万物を創造し、維持させ、消滅させ、また創造する。それを実行しているのが宇宙の意識<法界体性(ほっかいたいしょう)智>

 ⑬宇宙といのちに宿る知のちから:大日(だいにち)如来
 その知のちからの作用形。
 ⑭エネルギー:金剛波羅蜜(こんごうはらみつ)菩薩
 ⑮創造:宝波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩
 ⑯維持:法波羅蜜(ほうはらみつ)菩薩
 ⑰消滅:羯磨波羅蜜(かつまはらみつ)菩薩

c 霊性知

 宇宙と生きとし生けるものを動かしている霊なる知(神)のちからによって世界が映し出される<大円鏡(だいえんきょう)智>

 ⑱万物を汚れなく映し出す知のちから:阿閦(あしゅく)如来
 その知のちからのはたらき。
 ⑲個体の存在:金剛薩埵(こんごうさった)
 ⑳無私:金剛王(おう)菩薩
 ㉑慈愛:金剛愛(あい)菩薩
 ㉒幸福:金剛喜(き)菩薩

d 共生知

 植物の光合成によって二酸化炭素と水と光からブドウ糖が生産され、それを地球上の生物(動植物)が共通の栄養素として摂取し、生命の維持・成長を図っている。
 光合成とは空気中の二酸化炭素を植物がその葉の気孔から呼吸によって吸収し、根から吸い上げた水を原料として、太陽光エネルギーと葉緑素のはたらきでブドウ糖をつくり、酸素を放出するというものだ。
 空気と水と光、それに葉緑素、幸いそれらがこの地球には存在するから、多種多様な生命が生存できる。
 そのように生きとし生けるものが共生することによって生命圏が維持され、そこに豊かな森と海の生態系が生まれ、生命のゆりかごとなる地球という名の奇跡の星が宇宙に存在することになる<平等性(びょうどうしょう)智>

 ㉓ 共に生きるエネルギーを生成し相互扶助する知のちから:宝生(ほうしょう)如来
 その知のちからのはたらき。
 ㉔ブドウ糖(無機物質から植物のみ生産できる有機物質):金剛宝(ほう)菩薩
 ㉕光合成:金剛光(こう)菩薩
 ㉖呼吸:金剛幢(どう)菩薩
 ㉗生態系の形成:金剛笑(しょう)菩薩

e 学習知

 生きとし生けるものは対象を観察し、世界を学習する<妙観察智(みょうかんざっち)>

 ㉘極微から極大、過去・現在・未来の出来事、自他、隈なく世界を観察する知のちから:無量寿(むりょうじゅ)如来
 その知のちからによる学習。
 ㉙法則:金剛法(ほう)菩薩
 ㉚役立ち:金剛利(り)菩薩
 ㉛原因:金剛因(いん)菩薩
 ㉜情報:金剛語(ご)菩薩

f 身体知

 生きとし生けるものは身体行動の所作をもって対象とコンタクトする<成所作(じょうそさ)智>

 ㉝自らの身体行動によって目的を達成する自在なる知のちから:不空成就(ふくうじょうじゅ)如来
 その知のちからによるはたらき
 ㉞作業:金剛業(ごう)菩薩
 ㉟守り:金剛護(ご)菩薩
 ㊱攻め:金剛牙(げ)菩薩
 ㊲技(わざ):金剛拳(けん)菩薩

 以上、三十七の知によって、生きとし生けるものが宇宙の中の地球という星の上に生存し、多種多様な個体<金剛薩埵>が生まれ、それらが共に生き、その生を謳歌しているのが金剛界である。
 その実在する知に目覚めよ、そうして、迷妄の観念世界を打破せよ。
 それが生きとし生けるものの究極のさとりであると密教は説く。
 この金剛界マンダラの説く霊なる知のちからは誰でもが理解・獲得できるものではないから、そのちからを理解・獲得した者だけが知るところであり、空海はそれらの知によって成る世界に目覚め、そこに居た。そうして、今もそこに居る。

瞑想と弥勒と仏法

 空海は832年8月22日に高野山において、初めて万燈万華会(まんどうまんげえ)を催し、以下のように祈願する。
「鳥は空に羽ばたき、虫は地にもぐり、魚は水に泳ぎ、けものは林に遊んでいる。それらの多種多様ないのちを引き継ぎ、個体を生むあらゆる生きものの親の恩、その環境を守るものの恩、共に生きる生きとし生けるものの恩、それらいのちのもつ知のちからに目覚め、法を説き、祈るものの恩、そのものたちによってもたらされているいのちの連鎖が永遠に続きますようここに祈ります。さあ、共にこのさとりの世界に入りましょう」と。


 この年の暮より空海は穀物を断ち、瞑想に入る。

あくる833年の2月には淳和天皇が譲位し、3月6日に仁和天皇が即位する。
この年、空海は俗事を断ち、日々瞑想に耽る。

翌834年の正月、中務省での修法。
2月、東大寺真言院で
『法華経』を四種(イメージ・シンボル・文字・行為)の表現媒体と蓮の花の生態系を喩えとして講釈するとともに、真言の教え『般若心経秘鍵』を講じる。
3月、比叡山西塔院の落慶法要に列する。
5月29日に空海は弟子たちを集め「寿命は残り少なくなった。お前たち、和やかに暮らして仏法を守ることに努めなさい。わたくしは永く山に帰ってしまうのだから」と話す。
この年もまた、瞑想を続ける。

835年、空海六十二歳。正月からは水分も断つ。
1月8日より宮中、後七日御修法(ごしちにちみしほ)を真言の法をもって行なう。
3月15日、高野山において空海は諸弟子に遺告を与える。
3月21日、高野山で入定。

 ニ年以上にわたる空海の瞑想はこうして区切りをつけた。
 その間、空海は弥勒菩薩を前にして結跏趺坐し、弥勒の真言「オン バイタレーヤ ソワカ」を唱え続けた。

 弥勒(マイトレーヤ、2-3C)はインド仏教「唯識(ゆいしき)派」の第一祖であり、その教えは説一切有部(せついっさいうぶ)の教団の中の「瑜伽(ゆが)師」と呼ばれる瞑想修行の僧たちがその体験によって作り上げたものである。
 「唯識派」は学派名であり、それを担ったのが「瑜伽師」たち。だから、「瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは:ヨガ・チャーラ)」と呼ばれる。
 この二つの関係はインド哲学のサーンキャ学派とヨーガ学派と同じであり、サーンキャが哲学部分、ヨーガは実践部分。
 また、精神と物質の二元論を説くサーンキャ学派は神を認めず、ヨーガは自在神を認める。

 空海は自著『十住心論』の第三住心に仏教以外の思想としてインドの諸哲学を紹介しているが、初めにサーンキャ学派を解説し、その後に瞑想の実践について述べているから、上記ヨガ・チャーラを理解していたのであろう。
 また同書の第六住心に八識(前五識・意識・マナ識・アーラヤ識)から成る唯識論を説き、第十住心においては金胎両部マンダラを解説した上で、十識から成る唯識論を説き、第九識をアマラ識(無垢識)、第十識目をフリダヤ識(霊なる意識・真言)としている。
 また、不空訳『金剛頂瑜伽十八会指帰』を自著『金剛頂経開題』の中で注解釈し、瑜伽行を説く。
 だから、唯識を自らの思想とし、ヨーガの瞑想を学んでいたに違いなく、神については八百万の神が当然のごとくに空海の周りに存在していたから、空海は弥勒を自らの守護神として捉えていた。

 さて、この唯識派の唱えるところによれば、仏教思想は「小乗」から「中観派」へ、そこから「唯識派」へと転法輪したことになるが、中観派が存在は空(くう)であるとしたのに対し、唯識派は存在の実在性を肯定し、それら万物の存在を捉える意識の構造そのものを分析し、その意識を制御するのが瞑想であるとする。
 どのようなことかと言うと、身心と日常世界のすべては意識上に表象されるものであるから、その意識を正しく使うことによってのみ存在の本質がそこに現われる。だから、意識の成す表象世界とその背後に潜む霊なる知のちから(神)を目覚めさせ、時空と自他を超えて個の存在を自在に感得できるようになるのが瞑想であり、そのさとりのもたらす知のちからを永遠の仏法として説く。

 空海は早くからその教えによって修行をしていたと思われ、そのことは若き日の空海が弥勒を第一祖として祀る奈良法相宗の寺々に出入りしていたことからも伺える。
 空海の気質からすれば、唯識派の実利的な教えが合っていたのであろう。
 だから、中国留学時に青竜寺の恵果和尚から大日如来を本尊とする密教第八祖を継承することになったのだがそれはそれとして、釈尊が入滅を前にして、その教えを未来において説くことができ、生きとし生けるものすべてを救済できる唯一の弟子として約束していたのが唯識派の弥勒であるから、その弥勒を目指す、若き日の空海がいたことは空海著『三教指帰(さんごうしいき)』に記されている通り。

 弥勒の真言を一心に唱え、座り、瞑想することによってすべての俗事を捨て、弥勒と一体になることを今生において示し、永遠の存在へとその身を向かわせたのだ。

 その間、弥勒と一体となった空海が時空を超えてどのような事象を捉えていたのか、その事象を師から伝えられた弟子はいなかったのか、伝えられたのに弟子にはそれが分からなかったのか、あえてそれを記録しなかったのか。
 そこにこそ、空海の永遠の仏法があったはずである。

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