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空海の知(知の源流)

知の源流-日本列島と古代インド

はじめに
 知によってものごとを理解し、是非・善悪を識別することよりも、「知とは何か」が哲学の究極的な命題となる。例えば、紀元前五世紀ギリシャの哲学者ソクラテスは、「無知の知」すなわち、ヒトはほんとうのことが分かっていないのに、余計な知によってすべてを知っていると思っている。だから、自分はヒトが無知であるということを知っている分だけ、他のヒトより少しだけ勝っているとの自覚を得たし、ほぼ同世紀の古代インドのブッダは、知そのものの本質が「無(む)」であることを瞑想によって感得し、なぜ、知による識別が無であるかの真理「十二縁起(えんぎ)」を考察した。そのような知によってヒトは世界と向き合ってきた。

 <ヒト>:ほ乳類ヒト科の動物。現存種はホモ・サピエンス"知性ある人"ただ一種。
 その知性によって作りだされる言葉の論理性に気づいたのがソクラテスとブッダである。つまり、ヒトはモノ・コトの存在を、原因と結果の考察によってとらえ、それらを論理とし、道理を導きだし、「なぜ、そうであるか」を結論づけようとする。しかし、そのことによって、とらえられたことが真実であるかどうかを、事象の経緯のすべてにわたって検証・判断しなければならないという知の煩雑さを抱え込むことになり、こころの迷いもまた、生じることになった。

 そこで、ソクラテスは論理によって検証・判断する必要のない絶対の道理(神とその言葉・哲学的理念・倫理・自然の摂理など)をヒトは感得することができると認めていたし、ブッダは知の作りだす論理そのものが、ヒトの言葉による識別から生じた連鎖に過ぎないと考察し、識別がなければ迷いはもともとないとした。

 それではほんとうの知とは何なのか、言葉以前の知、あらゆるいのちがもともと有していて生きるちからとなっている知、その根元の知のはたらきを空海が説いた。

 本論では、そのような知の系譜を日本列島と古代インドを結んで辿ってみたい。

Ⅰ 縄文一万年の知
 今から七万年前、ナウマン象やオオツノ鹿などの大型草食動物が草原を歩き回っていた時代、今日からもっとも近い氷河期は始まった。
 そうして、数万年をかけて、陸地の三分の一が氷におおわれた。
 (極地の)海水は氷となって盛り上がり、(地球上の)海面は百メートルも下がることになった。

 (その結果)海のなかの陸があらわれ、島と島、島と大陸が結ばれた。
 しかし、生物の環境は激変し、上にいたものは下に降り、北にいたものは暖かい環境へと、あらわれた陸を渡って移動することを余儀なくされた。

 手をつかい加工した石や木を道具とする二足直立歩行の動物(ヒト)も、その知能のもつ旺盛な好奇心によって住み場を離れ、食糧と快適さを求め、未知の土地への旅に出た。
 そのうごきに合わせて、もろもろの動物も生存本能をかけて、暖流の流れるところ、すなわち、緑のある暖かい地へと移動することになった。

 やがて、数万年に及ぶ氷河期の終わる一万二千年前には、海面はふたたび上昇を始め、衣食住に恵まれた地に渡っていた二足直立歩行の動物は、(彼らの祖先がその旅により、未知の環境を克服する知恵を身に付けたことをも含め)より知能を発達させ、すぐれた道具となる石器(せっき)や木器(もっき)や土器(どき)、動物の角や牙や骨を加工した釣り針や縫い針、それに機織りによる衣服や丸木舟を作るようになり、生物界のなかでのヒト科の地位を向上させていた。(そのようななかに、日本列島の縄文のヒトビトもあった)

 六千年前、海面の上昇がピークに到達すると、黒潮(暖流)と親潮(寒流)の流れるところにタツノオトシゴ(竜の落とし子)のかたちをした日本列島が、大陸に寄り添って、洋上のノアの方舟(はこぶね)のように、ぽっかりと浮かんでいた。

 方舟の山幸彦(やまさちひこ)と呼ばれるヒトビトはタツノオトシゴの背骨(尾根)を道として行き来し、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれるヒトビトは丸木の舟をこぎ出し、海流に乗り、太陽と夜空の星を羅針盤として海の道を開拓し、魚場を見つけ、荷を運び、島と島、島と大陸を結ぶようになった。

 (日本列島の)
 針のかたちをした葉の繁る北の森にヒト。
 手のひらのかたちをした葉が落ちては、また繁る、東と西の森のヒト。
 さまざまなかたちをした常緑の葉の繁る、南の森のヒト。
 ヒトビトは陸の道、海の道を通って交流しながら、その旺盛な好奇心を満足させる日々の生活を、あま(天・海)照らす太陽のもと、甘露の水の湧くところ、そして、森に囲まれたところを住みかとし、せっせと営む。

 そこには、多様な種からなるいのちの息吹<生命知>と、生きる喜び<生存知>を映しだす環境要素(太陽の光と暖かさ・澄みきった水・清々しい空気)があり、そして、衣食住を平等に相互扶助することのできる<創造知>豊かな土と森と海とがあった。そのなかで、ヒトビトは世界のかたちと出来事を好奇心をもって観察<学習知>し、それらをイメージとして記憶することができたし、編集して物語にすることもできた。また、五感と手足<身体知>を使い、自己の情感と遊びをさまざまに表現し、その生を楽しむことができたし、互いの意思を伝え合うことができた。

 それらの生まれもった原初の知によって、ヒトビトはたくましく生きていた。

 五千五百年前、タツノオトシゴの首部分(本州最北端、三内丸山)に位置する森に道が切り拓かれ、盛土(もりど)が築かれ、六本柱のやぐらがそびえ、大小数百の建物が立ち並ぶコロニーが出現する。
 東の森のヒトビトが、目の前の海峡の向こうの島に住んでいる北の森のヒトや、陸つづきとなる西の森のヒト、遠方の南の森のヒトの交流地点として、縄文の都を築いたのだ。

 ヒトビトは大地をならし、地をうがち、陸の道、海の道からこの地を訪れるヒトビトのために、太さ一メートルもある栗の巨木を三対に計六本、組み上げ、そのやぐらをランドマークとし、やぐらの前には、百名以上を収容できる多目的(集会/共同作業等)ロングハウスが二棟、これに併設する高床式の倉庫が十数棟、また、生産エリアには土器製作所や燻製食品加工所、食糧貯蔵庫、それに海につづく河口には港湾施設、生活エリアには谷水を利用した飲料水用の共同水場と下水用の水場、そして、共同墓地など、皆で使用する施設を次々と建設していった。
 また、住居エリアは数十戸単位ずつに分散され、それらを手入れした栗林で囲んだものが計五百戸以上あり、それぞれの単位を家族と親戚から成る血縁の小共同体として、地縁による大集落の広がりを形成していた。

 都ビトは、森と共生する生活のなかで、便利さ、豊かな食糧、美味しい料理、すぐれた道具づくり、公共工事や海・山からの協同収穫、季節の祭りや死の弔い、他の森のヒトとの交流と交易など、誰もがその生活基盤の快適さとこころの拠りどころを求め、その共同体の秩序を維持するために協力を惜しまなかった。

 はるばると都を訪れるヒトには、物々交換による交易を目的とするヒト。道具の加工や狩りの達人、または都の技術を学ぶヒト。他部落からの表敬訪問のヒト。遠方からの花嫁や花婿がいた。

 旅に好期な季節になれば、ヒトビトの往来は昼夜、絶えない。
 千客万来。長(おさ)は多目的ホールで宴(うたげ)をもよおし、かしこまった挨拶のあとは客人をもてなすヒトと客人が、果実の酒を酌み交わしながら、マダイ・ブリ・ヒラメの魚に、ウサギ・ムササビ・カモの肉、腹ごしらえに栗・芋・ヒエ、デザートにキイチゴ・ヤマブドウ。四季の味覚に皆で舌づつみをうち、楽器を奏で、歌や踊りに興じる。
 女たちは美しく着飾り、客人のお相手をし、その旅の疲れを癒したであろう。
 客人にとっては見るもの聞くものみな珍しく、都の住人は客人の風貌や見知らぬ土地に想いをはせ、夜の更けるのも忘れ、宴はつづくー

Ⅱ 渡来文化と神
 さて、縄文一万年は六千年前の温暖化のピークの後、寒冷化へと徐々に向かい、日本列島の森の文化も、東北から南下することになる。(三内丸山の縄文の都は千五百年間も栄えたが、やがて、海面後退と寒冷化によって、豊かな暮らしを得る地の利はなくなり、衰退してゆく)
 気候変動による地の利の移行が、その後、大陸から米を主食とする大勢のヒトビトが(東海中の不老不死の島、蓬莱と呼ばれた)日本列島の南や西に渡って来たことを要因として、新しい文化の開化につながる。すでに、縄文の末期には、寒冷化による食糧事情から根菜農耕や雑穀農耕が行なわれるようになっていて、森の文化は畑の文化を一部取り入れつつあったから、その下地はできていたのだ。
 そう、農耕文化の始まりである。その文化が大規模な稲作文化へと渡来人によって決定的に移行する。何しろ、稲は畑の穀物として、雑穀よりも収穫率が高かったのである。
 稲作文化、つまり、水田耕作が豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに:これが原初の日本のすがたではないことは縄文時代の数多くの遺跡によって確認できるから、あくまでも、米を主食とするヒトビトから見た日本の葦原の豊かな土地部分を指した表現である。本来は、豊かな森の島である)へと日本列島を変えることになる。縄文の森の国が水田造成によって大規模に開拓されることになったのだ。
 また、渡来人の伝える製鉄技術も、日本列島の各地に多く産出された砂鉄を鍛造(たんぞう:金属のかたまりを加熱し、それを打ち、強いかたちを造りだすこと)するために、その燃料としての森の木を伐採することになる。(技術の発達が、人為的な環境を生みだし、その環境は自然を改造、もしくは破壊することによって成り立つ)

 それらの生活技術の導入が、人為的な秩序を自然に対して要求することになる。
 縄文時代には自然の秩序そのものがヒトの世界でもあったから、自然を観察することによって、そこに世界観を置けばよかったが、その自然をヒトの手で大はばに弄(いじ)り始めると、当然ながら、世界観は再編集されなければならない。そこで、生み出されたのが"神"の概念である。自然科学のなかった古代において自然をとらえるとなると、その底知れぬちからをもつものを神格化して分類し、皆の納得のいくところで、都合の良いように世界は神によって再配置されることになった。

 (どのようなことかと云うと)まず、太陽・月・風・雷・星とそれらの運行による時空の刻みは<天の神>となり、土(つち)・水(みず)・火・金属・木などは<地の神>とし、天の神はうごき、地の神はうごかない大地にあるものものとする。
 その地の神にヒトは手を加え、そこから産みだされる豊かな恵みを得ることになった。その恵みの豊穣なることを願うには、神のちからをコントロールしなければならない。例をあげるならば、<山の神>は無垢の自然の底知れぬちからをもつ神であり、<田の神>はヒトの手が作りだし、改造された自然の神である。その神に、無垢の自然のもつ底知れぬちからが宿るように祈る。つまり、作物が豊作であるように、種まき・発芽・生長・成熟・収穫と種子の採取のプロセスを、山の神を招き、田の神としてのちからを発揮していただくように祈るのである。また、<金属の神>には、良質の砂鉄とその堅牢なるかたちを産みだすことを、<水の神>には、必要なときに豊かなうるおいをもたらすように、<火の神>にはすべてを浄化し、ヒトの願うかたちを産みだすちからを発揮してくれるように祈る。そのことによって、物質的な恵みを産みだす自然の神々へのヒトのこころによるコントロールが可能になる。

 このように、人心による自然のコントロールが始まると、すべての事物と事象を神にしなければ収まりがつかない。そこで、ヒトビトはそれらの神々を序列化するために神話の世界を作りだす。

 うごかない大地の上を運行しているのが天の神である。
 そこから、渡来民は<天つ神>、先住民は<国つ神>の神話の骨格が生まれる。ここで云う国つ神とは地の神と同義である。天つ神は渡来し、もともとそこにあった土地にいる国つ神からその国を譲り受けた経緯を物語にして<記紀神話>に記す。(天の神は、すべての大地の上を運行しているから、地の神より常に上位の存在である)
 また、多くの<地主神>も生みだされ、その地域の風土(由来をもつ地名・産物:銀銅/土器/織物/草木/禽獣/魚虫など・地勢・山川原野の名称・古老相伝と史籍、つまり歴史)によって固有の文化を築いていたヒトビトとして、水田開拓民としての先祖と、そのもっと前の森の民としての先祖がいるが、それらを、古(いにしえ)から伝承された物語<祖神神話>にし、地縁によって結びつく一族の氏神(うじがみ)として、祭った。

 このように八十万神(やそよろずのかみ)を出現させることによって、渡来した者と、もともとそこにいた者とを融和させる、神話による国<倭国:わこく、二世紀から七世紀>の土台が出来上がった。(自然と共に暮らしていればそのような神々を生みだす必要もなかったが、本来、自然体であることにヒトがさまざまな行為を及ぼすから、自然の秩序が混乱し、その秩序を図るために神々による世界を創作しなければならないことになる。しかし、これはこれで、日本列島に住む混成民族が生みだした巧みな精神文化である)

 神々によって秩序を保っていた国、その国にインド伝来の仏教が伝わって来た。

 その教えの根本とは、「ヒトは言葉によってモノ・コトを識別し、その識別への執着によって、こころを迷わせられているが、識別がなくても世界は初めから存在している。そこにあるのはあるがままのヒトのからだと生命圏(空間)のみである。その空(くう)のなかで慈悲のこころと自他の喜びをもって、無心に生きよ」というものであった。 (この教え、縄文のヒトビトが無垢なる知によって生きてきたものと同じものである。自然の秩序と共にヒトは無心にして生きることができるのだが、そのことができないのは、常に、ヒトが余計な知識でもって、自然に人為を加えるから、その作りだされた世界に秩序を与えつづけなければならないことになる)

 ではその仏教、どのようにして、日本国(七世紀末期以降)に根付くことになったのか、以下は、そのことを考察してみたい。

Ⅲ 聖徳太子と仏教
 大和王権によって、日本列島の平定が進みつつあったなか、縄文一万年の知を受け継ぐヒトビトは中部地方以東、関東から東北地方一帯に、まだ多くが暮らしていた。つまり、大陸から渡来し、米を主食とし、鉄によって各種の道具を作り出し、それらの技術と神の文化によって列島を平定しようとする渡来集団と、もともと列島にいて、森や海の自然と共に暮らしていた先住民とが、まだ、共存していた時代に、インド大陸から中国・朝鮮半島を経て、ブッダ(本名はガウタマ・シッダールタ。父はインドのシャーキャ族の王。紀元前五世紀頃の人。二十九歳で「ヒトはなぜ、生老病死に苦しみ生きるのだろう」との迷いをいだき出家する。そうして、その迷いを脱却するために数年にわたる山林での苦行をしたが答えは得られなかった。だが、三十五歳のとき、それまでの苦行を止め、川水でからだを清め、村の娘から供養された食物を摂り、涼しい菩提樹の下で静かに呼吸を整え、ふかい瞑想に入り、やがて、東の空に明けの明星がかがやくのを見て、そこに、迷いのない無垢なる知をもつ自己がいると悟った。その知によって、七日間の思索をつづけ、「ヒトに迷いをもたらす執着は言葉による識別を因とし、情動を果としている」と分析し、次に「因と果による存在は、ヒトの識別した事柄に過ぎないから、もともとの自然にはそのようなものはなく、あるがままである。因があるから果がある、因がなければ果はない」と考察した。その考察によって、こころの迷いは消え去り、しばらくはその心地好い開放感に浸っていたが、そこに、インドの天地と言葉の創造神である<梵天:ぼんてん>があらわれ、「そのようなことに気づいたのはお前が始めてである、お前にはその考察した法のちからを用いてヒトビトのこころに生じる迷いを取り除く特別な使命がある」とうながされ、「ヒトの甘露の門はひらかれた。耳あるものは聞け、古き信を去れ」との説法の決意をした。その後、その法をもってヒトビトのなかに入り、屈託のない遊行によって一人ひとりの悩みに接し、それぞれの素質に合わせて、こころを執着から解き放つさまざまな説法を行なった。また、生まれによる差別を排し、すべての階層のヒトを平等に受け入れ、生きとし生けるもののいのちを大切にするこころと、相互扶助による質素な衣食住を得る生活と病気治療と健康法をも指導し、その教えにもとづいて生きようとする集団の生活規範<戒:殺さない・盗まない・邪淫しない・偽らないなど>を定め、八十歳でクシナガラ郊外の沙羅双樹のもとで安らかな入滅を迎えられた。しかし、ブッダの説いた<法>と<戒>はヒトビトのなかで永遠に生きつづけることになった。原初のさまざまな説法は「阿含経:あごんきょう」として伝えられ、法はその後、さまざまな解釈がなされ、多くの「大乗の諸経典や論書」を生んだ)を祖とする仏教が伝来した。

 五三八年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来(ブッダ)像や経典、仏具などを献上したことが仏教伝来の始まりとする。だが、その仏教とは、為政者にとって、異国の神としての祈りの対象となるものであり、本来の「生の悟りと、その悟りによる慈悲の実践」を得るものとはほど遠かった。
 では、その後、仏教本来の教えが本格的に列島に住むヒトビトの精神世界に広く入り込むようになったのはどのような経緯によるのか、そこに登場するのが聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのおうじ)である。
 太子は五九二年、推古天皇の即位にともない二十歳のとき摂政となり、新興国家づくりのために仏教本来の教えによる文明開化を行なうことを決意し、そのことによって列島を平穏に平定することを願った。

 その文明開化とは、日本最初の官寺となる四天王寺(五九三年建立。インドをルーツとする情報と利を司る神<多聞天:たもんてん>と、国土の秩序を支え守る神<持国天:じこくてん>と、五穀豊穣と万物の成長・繁殖を司る神<増長天:ぞうじょうてん>と、異文化・異言語を理解する神<広目天:こうもくてん>の四天王を祭り、列島の平穏を守り、また、ブッダの説く"慈悲"の精神を実践する、こころの修行の道場である「敬田院:きょうでんいん」と、病人に薬を施す「施薬院:せやくいん」と、病気の者を収容し、病気を癒す「療病院」と、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院:ひでんいん」の四つの福祉施設を併設する)や法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれる。太子没後の六二三年に仏師、鞍作止利(くらつくりのとり)作の釈迦、すなわちブッダの像とその慈悲のはたらきを示す二菩薩の三尊像を祭る)などの数々の寺院の建立と、六〇四年に我が国最初の「憲法十七条」を制定し、その第一条に「一にいわく。和をなによりも大切なものとし、いさかいを起こさないことを根本とする云々」と記し、第二条に、「二にいわく、あつく、三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは、仏(いのちの知に目覚めること)と法(その無垢なるいのちの知のはたらき)と僧(そのはたらきがもたらす相互扶助によって生きる集団)とである。それらは、四生(ししょう:胎生<ほ乳類>・卵生<鳥類と爬虫類>・湿生<水棲類>・化生<昆虫と両生類>のすべての生物)の根元の拠りどころであり、すべての生きとし生けるものの世界の究極の規範である。どんな世界であっても、いかなるヒトであっても、このいのちの規範を大切にしないといったことがあるだろうか。ヒトには、もとよりわるい者はいない。よく教えるならば、正しい道にしたがうものなのだ。そのためには、すべてのいのちのかけがえのない存在と、そのいのちのもつ無垢なる知と、その知にしたがい無心に生きる集団への慈しみを説くブッダの教えに帰依する他にない。そうしなければ、まがったこころをただすことはできない」と記すことによって、争いの絶えない世にあって、万民のこころを鎮め、いのちの"和"を大切にする国づくりを目指すものであった。(この条文、当時の日本列島の異民族間の人心を太子が憂いをもって受けとめ、その問題を解決するためにブッダの教えである"慈悲"のこころと、その実践をもってしようとしていたことに他ならない)
 そうして、太子は、亡くなる一年前の六二一年に仏教の学問所として「熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)」を創建し、百年後(八世紀初頭)の、大陸の最新の文化を学び、その情報を集約し発信する仏教総合大学「大安寺(だいあんじ)」の隆盛へとつなげた。

Ⅳ 仏教総合大学「大安寺」
 奈良時代、平城京の「大安寺」には海外からの渡来僧を含め、九百人近くの僧侶が居住して、日夜、勉学修行に励んでいたという。(今日的に云えば、仏教の国際大学の様相を呈していた)
 仏教は、聖徳太子の蒔いた"ブッダの慈悲の精神の種"によって、信仰の対象としてだけではなく、「ヒトはどう生きるのか、そして、どういう知をもって国の文化を築くのか」の人間総合学の学問として、東洋の果ての新興国日本に定着したのだ。

 その学問は、(仏教学にとどまらず)古代インドの学問分野「五明(ごみょう)」までをも取り込んでいた。それらの学問を身に付けてこそ、ブッダの教えも広がる。なぜなら、ブッダの教えとはヒトビトの精神と物質の両面を救済しようとする社会福祉(相互扶助)の実践の教えでもあったからだ。

 その学問分野とは
 ・工巧明(くぎょうみょう):工芸・技芸、土木・工学技術、天文学・占術
 ・医方明:医学・薬学
 ・声明(しょうみょう):言語学(文法・音韻)、仏教音楽(音曲)
 ・因明:論理学
 ・内明:仏教(各宗)学、倫理、哲学
である。
 以上の学問を「大安寺」では総合的に教えていたのだ。

 大学には、海外からの渡来僧が多くおり、七三六年に遣唐使にしたがって来朝を果たし、大安寺に住していたインド僧の菩提僊那(ボダイセンナ)。ボダイセンナは行基*と親しく交わり、東大寺の大仏殿開眼供養では大導師を務めた。また、ボダイセンナの来朝時には唐僧の道璿(どうせん)やベトナム僧の仏哲(ぶつてつ)も来ており、同じく大安寺に住している。その他、朝鮮半島からの僧もいた。
 また、大安寺の僧が(ブッダの教えの伝わる)唐に留学することも頻繁に行なわれ、その留学僧(るがくそう)には、入唐して「三論宗(さんろんしゅう)」*を究め、空海の師である勤操(ごんぞう)にその三論の奥義を授けた善議(ぜんぎ)。七三三年の第九次遣唐使に加わり、在唐二十年、五度の渡航失敗を経て、七五四年に帰朝を果たし、鑑真和尚を招聘した普照(ふしょう)。入唐し十七年目の七五〇年に熱病で入寂した栄叡(ようえい)。唐から帰朝し、事情により筑紫の国師となった戒明(かいみょう)。渤海経由で入唐し、長安の西明寺で学び、空海が入唐したときに僧坊を譲って帰国し、その後も空海との親交がつづいた永忠(ようちゅう)などがいる。
*行基(ぎょうき)奈良時代の僧。父は百済系渡来人の書(ふみ)氏の分派の高志才智(こしのさいち)。六八二年十五歳で出家し、飛鳥寺の道昭(どうしょう)を師とする。道昭は、六五三年に入唐して長安の玄奘(げんじょう)に師事し、同室に住むこと許された。その後、経論をたずさえ帰国、民間で井戸・船・橋などを造る社会事業に努めた僧。行基はその影響を受け、インドの学問分野「五明」にも目をそそぎ、諸国を巡遊し、最初の日本地図の作成や丸瓦葺(まるかわらぶき)や鼠色の素焼きものなどを独自に考案するとともに、土木・建築・農業技術にも通じた。また、多くの社会福祉事業を行ない、その事業は孤児院の設立にまで及ぶ。(その不屈の社会活動は聖徳太子が目指した仏教による国づくりの理念と一致するものであった)
*「三論宗」(さんろんしゅう)大乗仏教の論理を説く三つの論書によって一宗としたもの。その教学の大成者は隋の吉蔵(きちぞう、嘉祥大師)。
(1)『中論』龍樹(南インドのバラモン、ナーガールジュナのこと。「ナーガ」が「龍」という意味で、アルジュナが昔の英雄の名で、音写して「樹」としるす。「りゅうじゅ」と読む)の著作:ヒトは作用と作用主体の相対性の論理によって存在をとらえているが、その論理を突き進めていけば、存在の有無を論証することできない。有るともいえないし、無いともいえない、そのような存在意識の中間にヒトはいると説く。
(2)『百論』龍樹の弟子の提婆(だいば)の著作:作用と作用主体の相対性によって、すべての論理は論破できると説く。
(3)『十二門論』龍樹の著作:中論の入門書として作られたもの。

 当時の多くの僧たちの、荒海もものとはせずに渡航し、異言語をも克服し、時にも耐える屈託のない行動力そのものが、仏教によって文明開化を図ろうとしていた新興国日本のすがたそのものである。その国家プロジェクトの仕掛け人こそが聖徳太子であったのだ。

Ⅴ 青年空海と大安寺
 空海(幼名、真魚:まお。七七四年に生まれる。父は佐伯直田公、母は阿刀氏)の青年期おける仏教の師は大安寺の勤操(ごんぞう:七五四年、大和国高市(たけち)に生を受ける。十二歳で大安寺の門をくぐり、十六歳にして山岳修行をし、二十三歳のころ大安寺の僧となった。若き日の空海を伴い、和泉の槙尾山寺(まきのおさんじ)に赴いて出家させたとも、また、空海に「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじのほう)」<からだを自然のもつ過酷さとやさしさにゆだね、言葉を本来のひびきに戻し、意識を自然の道理と一体化すれば、そこにいのちの発揮する無尽蔵の知のファイルが開かれるとする修行>を授けた人物であるともいわれる。八二七年に遷化された)であった。
 (空海は『勤操大徳影の讃序』を記しているから、当然ながら、その生涯において大きな影響を受けたのが勤操であったにちがいない。そのことからして、青年期の空海は大安寺に出入りして、その学問の場で多くのことを学ぶ機会を得ていたと推測できる。したがって、)空海は大安寺の経蔵(大学図書館)に入り込んで、膨大な蔵書を紐解いて読破し、それらのすべてを記憶する勉学に励んでいた。(それらの書物の大半は漢語で書かれたものであり、そのすべてを空海は読むことができたし、話すことができた。また、一部には梵語もあったであろう。梵語の基礎程度は理解していたと思われる。それらの、勉学の手助けをされたのが大安寺におられた勤操先生であった)
 空海のことだから、分からぬところは先生をつかまえ、真摯に屈託なく質問攻めにしたであろう。(そのようなことをしても、憎まれない性格の持ち主であった)そのようして、空海の青年期は、大安寺を拠点とした勉学と、仏道修行の瞑想と、山岳修行の日々によってまたたくまに過ぎていったのであろう。

 また、大安寺のあった場所は、当時、渡来文化の栄えていた地(大和国:今日の奈良)であり、空海が『大日経』(だいにちきょう:七世紀インドの最先端の経典。ヒトの知の根元とは何かを考察し、その知によって生きよと説く。その知とは極めてエコロジカルなものであり、自然と共にあるからだと、言葉のもつひびきのちからと、それらによって無心に形成される意識<知>こそが、ヒトとあらゆる世界を結ぶものであるとする)を目にしたという久米寺(くめでら)は、その地の高市(たけち)郡(住人の九割を渡来人が占めていた)にあり、それも百済から渡来した技術集団、東漢氏(やまとのあやし)が朝廷から賜り、居住していた檜隈(ひのくま)のすぐ近くであった。
 空海はそれらのヒトビトとも屈託なく交流し、大陸渡来の土木・建築技術、造船と港湾技術、金属生産と加工、織物等の工芸技術、それに、渡来人を通じて、実地に外国語会話や文書の作成を学んでいたと思われる。(つまり、仏教者としての幅広い学問「五明」を書物だけではなく身をもって学んでいた)
 人一倍好奇心が強く、向学心に燃えていた空海にとって、奈良の地はそれらを満たすには有り余る環境であった。当然ながら、渡来人の多くの各種技術者とも人脈をもったことであろう。(そのことが、後の貯水池や港湾の築造、寺院建築、各種工芸等の空海の無尽蔵の創造性を可能にしたと思う)

 そのように大安寺と大安寺の位置する当時の国際都市、奈良の地は、青年空海にとって、時代の与えた先進文化の学びの場であり、そこから、後に弘法大師と呼ばれるたぐい稀なる人格も形成されることになった。

Ⅵ 空海密教誕生
 さて、縄文一万年の知から始まり、渡来文化によって激変を余儀なくされた日本列島は、渡来民と先住民との融和の課題を孕みながら、その世界観の秩序を模索しつつ、空海という時代の落とし子を生んだ。
 その空海の父方は佐伯、すなわち、エミシ(縄文の血をひくヒトビト)と関係のある家系であり、母方はその叔父(阿刀大足:あとのおおたり)が天皇の皇子の家庭教師を務める家柄であった。双方の気質の融和のもとに空海は生まれた。
 その原質となる知をもって、空海の後の知も生まれることになる。

 若き日の空海が山岳修行によって悟った知、それは縄文一万年の知につながるものだが、その心境を記した空海の詩の一節がある。

谷川の水一杯で、朝はいのちをつなぎ
山霞を吸い込み、夕には英気を養う。
(山での住まいは)たれさがったつる草と細長い草の葉で充分
いばらの葉の上に杉の皮を敷いた上がわたくしの寝床。
(晴れた日には)青空が恵みの天幕となって広がり
(雨の日には)水の精が白いとばりをつらねて、自然をやさしくおおう。
(わたくしの居場所には)野鳥が時おりやって来て、歌をさえずり
山猿は軽やかにはねて、その見事な芸を披露する。
(季節になれば)春の花や秋の菊の花がほほえみかけ
明けがたの月や朝の風がわたくしのこころを清々しくする。
(この山中で)自分のからだと言葉と思考のすべての知のはたらきが
清らかな自然の道理と一体となって存在している。
今、一欠けらの香を焚き、立ち昇る煙りを見つめ
真理の言葉を一口唱えると
それだけのことで、わたくしのこころは充たされる。
そこに生きていることの悟りがある。
遍照発揮性霊集「山中に何の楽(たのしみ)か有る」より

 このように若き日の空海は自然と共にあることだけで、生を楽しむことができた。そして、自然の秘める無尽蔵の知を感得していた。これ以上の知はない。その知と同質の知を説いたものが奈良の久米寺で空海が目にした『大日経』であったのだ。

 この"無垢の知"でもっていかに生きるべきか、そのことを求めて、八〇四年五月に空海(三十一歳のとき)は満を持して唐の長安へと留学生(るがくしょう:期間二十年)として旅立った。

 そこには、青竜寺の恵果(けいか:教理の始祖を龍樹とする密教第七祖。不空金剛*の弟子)が空海の来るのを久しく待っていたし、また、恵果に会うまえには醴泉寺(れいせんじ)のカシュミール出身の般若三蔵(はんにゃさんぞう)や中インド出身の牟尼室利三蔵(むにしりさんぞう)から、直接に梵語を学ぶ機会をもが用意されていた。(すでに『大日経』を久米寺で目にし、その説くところと同質の知を感得していた空海にとって、その感得したことをいかに表現し伝えるかを編みだしていた密教修法を実地に学ぶ目的があったのだ。それにはハードではあるが粛々と異国の密教伝授者の手順にしたがうことのできる語学能力が必要であった。空海は漢語に関しては中国の文化人以上に堪能であったが、その手順と教義をすぐに理解できるには梵語の習得が不可欠であったのだ。なにしろ、インドを本家とする密教の教義には梵語がそのまま多数、含まれていたのである) 
*不空金剛(ふくうこんごう、インド名アモーガヴァジラ)七〇五年西域地方に生まれる。父はインド北部出身のバラモン。七二〇年長安で金剛智(こんごうち、インド名ヴァジラボーディ。六六九年南インドに生まれる。十歳のときナーランダー寺院に入り出家した。各種経典や五明の論書を学び、七二〇年インドから中国に渡る。『金剛頂経』などを訳出し、同じく長安に赴き、『虚空蔵求聞持法』や『大日経』を漢訳していた中部インド出身のシュバカラシンハ・善無畏と共に中国に密教を広めた)に師事。師の入寂後の七四一年にセイロン・インド南部に渡り、多くの経典を集め、それらを七四六年に中国に持ち帰り漢訳した。七七四年入寂(その年に日本で空海が生まれた)。

 そのような、成るべくして生る、時の幸運とでもいうべきことが重なって、短期間で密教のことごとくを恵果から伝授された(八〇五年)空海はインド伝来の密教第八祖となって、師の遺言(空海に密教を伝授し終えた恵果はその年の十二月十五日世寿六十で入滅された)となった「空海よ、早く郷国に帰って国家をたてまつり、密教を天下に流布し蒼生(そうせい)の福を増せ。しからば四海泰(やす)く、万人楽しまん云々」の約束を果たすべく、留学期間を二年に短縮し、八〇六年十月に帰朝する。

 その後の活躍は史実にある通りである。

 空海の知とは、日本列島に住む民族の融和を祈り、安泰を願うものであり、その安泰はすべての生物(空飛ぶ鳥・地を這う虫・水に泳ぐ魚・森に遊ぶ動物)にまで及ぶ広大無辺ものであった。
 願いの理念は、八三二年八月二十二日初秋、空海五十九歳のとき、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと共に満天の星の下、「世界の包括的なすがた<物質・生命・意識>」(胎蔵)とそのすがたを形成している「物質といのちをうごかしている知の原理」(金剛界)の一対のマンダラを示し、そのすべてのすがたとすがたのもたらす知のはたらきに感謝し、万の灯明と万の美しい花をささげて催された「高野山万燈会」の願文に詳しい。
 それらの世界の本質のなかで、すべてのいのちは親から生を受け継ぎ、住み場所を得、生きとし生けるものの相互扶助のはたらきと、そのはたらきにしたがういのちの知の原理によって生かされている。(そこに、すべてのいのちあるものの生活がある)

 万燈会はその後、千年以上つづけられている。
                                      

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