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『空海の夢』ノート 4

●7--密教の独立

 思想は時代を横なぐりする。しかし、空海は時代をタテになぐった。

 私はこの文が『空海の夢』で一番気にいっている。松岡さんの目はヤマから一転して密教の独立というインドにおける密教の歴史の考察に移る。

 松岡さんは、密教の起こりについて、いつからはじまり開祖は誰で何を主張し何を行ったのか、という密教正史のようなものがないことをまず述べる。
 密教というのはそういうものではなくて、「多様な強引」によって形成された宗教で、密教の潮流の特質というのは「entrainment」(飛沫同伴現象・多様な強引・引き込み)だと言う。その例証を主にインド仏教史の時間軸で松岡さんは追っていく。

 四世紀。
 サンスクリットが教団用語となり、経典や論書にサンスクリット語系の概念が使われるようになり、それによって大乗経典の編纂もさかんに行われたが、他方ではヒンドゥーの神々との「神仏習合」がはじまり、呪術的集団に宗教的様式の確立を促していた。密教儀礼のはじまりである。供養法、観仏法、結界作壇法、護摩法、請雨止雨法、それから古代帝王の即位式に行われていた潅頂の密教化がそれらである。

 時に、これらはみなもともとヒンドゥー(教)の中に続いてきた宗教儀礼や修行法である。

 供養法とは、例えば「プージャー」。今でもインドやネパール・ブータンで行われている供犠儀礼で、祀っているヒンドゥーの神(例えばカーリー)や仏尊(観音ほか)が好むという生け贄を供えたり、そのほか水や花びらやバターや火といった供物をささげながら、主宰するバラモン僧や密教行者が神や仏尊への祈りのことばを長々と唱える。バラモン僧や密教行者にはしばしば神や仏尊が憑依する。そのプージャーに参加した信者は、施物と引き換えにバラモン僧や密教行者からさまざまなご利益をいただく。

 観仏法とは、仏教の瞑想法の一種で、心にほとけの姿を思い浮かべそこに全精神を集中する観想法である。ほとけと自分とが一体になる修行である。

 結界作壇法とは、先ほどの「プージャー」などでも行われることで、場所をえらび神や仏尊を祀り供物を供える壇を築いてまわりをロープなどで囲い、内と外に聖と俗の区別をつける。

 護摩法も元はといえばヒンドゥーやゾロアスター(拝火教)の火の儀礼で、今でもインドでは見られる。松岡さんはゾロアスターの影響を重視しているが、私はやはり火神「アグニ」のサクリファイスだと思う。なぜかというと、私たち真言僧が伝授される護摩法に「火天段」という修法があり、「オン アギャノエイ センジキャー ソワカ」というご真言を唱える。この「アギャノエイ」は明らかに「アグニ」だからだ。

 五世紀。
 松岡さんは、ヴァスバンドゥ(世親)とバルトリハリの時代、『ヨーガ・スートラ』の完成があり、マンダラの原初形態が芽生え、四方四仏などが『金光明経』に説かれた時代だと言う。

 ヴァスバンドゥ(世親)とは、兄のアサンガ(無著)とともに仏教教団の中では有力学派だった「説一切有部」(小乗)で出家したペシャワール(現、パキスタン)のバラモンの家出身の学匠で、「存在の分析学」といわれるあの大書『アビダルマ・コーシャ(阿毘達磨倶舎論)』の著者であり、のちに大乗に転じて有名な『唯識三十論』を著し唯識学派(瑜伽行派)の中心となった。

 「空(存在しているものはすべてそれ自体で存在しているのではなく、複数の条件によって成り立っているもの)」の思想を徹底して、「空」を認識する認識主体でさえ「空」であるという中観派(ナーガールジュナ・龍樹、『中論』等)に対して、「空」を認識する認識主体は「空」なるものではなく「有(もともとそれ自体としてあるもの)」だと説き、その「有」なる認識主体を「アーラヤ識(阿羅耶識、意識の奥にある第七識)」と言った。これがやがて第八識・第九識にまで発展し、後世の心理学者によって関心をもたれることになる。

 バルトリハリとは、インド哲学の主流ヴェーダンタ学派(「ヴェーダ」聖典の解釈学)系の文法学・音韻学の学匠。その言語哲学は、「ヴェーダ」というヒンドゥー聖典のことばとその概念についてのつながりを論じたものとしてはミーマンサー学派と問題を共有するものであるが、彼は、ことばが発せられた時に、つぼみから花が開くように、ことばの霊威(言霊)が破れ出るという「スポータ説」を主張した。
 一方ミーマンサー学派では、「ヴェーダ」のことばである「声」(シャブダ)は永遠の実在(ブラフマン)として現象の奥にひそんでいて、それが発音される時は声として生じるのではなく現象として顕われるという(「声顕論」)。バルトリハリの「スポータ説」のように、ことばと概念の有機的なつながりに神秘的なものを認めなかった。

 『ヨーガ・スートラ』は、インド哲学のサーンキャ学派と密接な思想的つながりをもつヨーガ学派の聖典。ヒンドゥーのバラモン僧をはじめ修行者の間で行われていた伝統的な瞑想法を、パタンジャリが「八支のヨーガ」に体系化した(禁制・勧制・坐法・調息・制感・執持・静慮・三昧という八段階の精神集中によって観照者の独存(解脱)に至る)ものである。

 六世紀。
 匈奴系異民族エフタルの侵入に代表される異文化の脅威が強くなり、インドにとって内憂外患の時代。造壇の技法、種字(ほとけをシンボライズした梵字)のアイディア、ほとけを持ち物によって代替する方法(サマヤ・三昧耶)のアイディアなど、密教の「方法」が顕著になってくる。

 七世紀。
 「三密」の成立。それも松岡さんによれば「意密」、「口密」、「身密」の順に密教僧たちが行った「entrainment」だったという。
 松岡さんは、「三密」の成立を密教の成立の条件と見ている。その「三密」のうち「意密」だが、「意密」はすなわち「ヨーガ」だ。

 その「ヨーガ」。
 松岡さんはしばしばシチェルバトスコイ(チェルバツキー)が言ったらしい「於格(として)のヨーガ」ということばを出される。『ヨーガ・スートラ』に関しても「於格のヨーガ」と言っているところがあったようにも思う。実はこれがよくわからない。
 ここでは「於格のヨーガ」とは、「ヨーガがめざす生理状態が集中思考を胚胎させてきたその依ってきたる場所の普遍性の自覚」だと。これもよくわからないのだが、「その依ってきたる場所」とは何か。「意密」の場合の「心」のことだろうか。
 こうしたところに、修士論文でインド学として『ヨーガ・スートラ』をやった私ではよくわからない視点がひそんでいるのが松岡さんの「知」の広さだ。

 『大日経』『金剛頂経』の成立。
 密教を代表するこの二大密教経典の成立と伝播のわからなさが縷々語られている。両経の成立と伝播についてはかなり専門的な知識を要する領域だし、この本でそれを深く求めてもあまり意味のない作業だ。そんな中で、『金剛頂経』には「タラ(部族)の思想」が引き込まれていることが研究者の論から紹介されている。仏部・蓮華部・金剛部・宝部・羯磨部の五部のことである。

 密教の特徴は仏教にはめずらしい多様性とその多様を総合する包摂性である。その多様性を松岡さんは「entrainment」(強引・引き込み)ということばで見ようとした。たしかに密教は、いつも何かを引っ張り込んでものにしてしまうところがある。時には敵対したり矛盾するものまで引き込んでしまう。

 この章で松岡さんは、インド社会の動向と仏教史の動向とその中で密教がどのようにして起こってきたか通観している。密教はインド社会の動向やヒンドゥーの宗教儀礼や宗教哲学や宗教言語やゾロアスターの儀礼(そして私はタントリズムも入れておきたい)までも大胆かつ巧みに「引き込む」という。のちに空海はそれとまったく同じ態度をとった。「吸収」ではない「引き込み」、それが密教の特質であり、ことばを替えると「多様」の「総合」という「編集」ということになる。



●8--陰と陽

 密教の「引き込み」の舞台がインドから中国へそして日本に移る。

 まだ空海が密教を本格的に知らなかった時に書かれた『三教指帰』に示された道教への好意的な態度が暗示したように、中国の道教や日本に入っていた陰陽(五行)道をも密教は「引き込み」の対象とした。

 以下、中国における密教者とタオイズムの関連。

 金剛智の漢訳経典の中に『北斗七星念誦儀軌』(宿曜道)が見える。
 大衍暦の大成者・一行が『太衍玄図及義決』という道教の経典『太玄経』の解説書を著してタオイズムに通じていた。同じ一行が、密教タオイストとしては『摂調伏蔵天一太一経』『太一局遁甲経』『北斗七星護摩経』を著している。

  空海は出家のためにいったん方士や道士の思想を捨てたのではあったが、その後に密教の裡にその共鳴内在する音を聞きあて、たくみにみずからの真言密教の体系にこれを取捨選択するにおよんだと考えられるのだ。

 空海がタオイズムから取捨選択したものとは、いわば「観念技術」であった。

 「観念技術」。陰陽道 陰陽五行 陰陽タオイズム 陰陽師。
 日本では宗教としてではなく、博学一般の学術として六世紀初頭から朝廷内に受け容れられた。暦学・医学・天文遁甲・方術など。これは仏教よりも早かった。しかしそれは単なる学術ではなく、「モノとコトを変えてしまう術」つまり「観念技術」の中国版だった。

 モノとは、「霊(もの)」であって「物」であり、コトは「言(こと)」であって「事」である。上代日本語のモノとコトは観念と言葉と事物および現象を分別しなかった。

 初期の日本では、天の運行の吉凶と人の運勢や運気とを一致させて考える「天人相関」の「災異思想」や、修験者の「道(教)・神(道)の習合」や、聖徳太子に見られる儒(教)・仏(教)・道(教)の習合にあらわれる。
 養老令では、中務省に属した陰陽寮のリーダーが何か異変のあると密封奏聞を行い、その部下は占筮相地を行った。さらに天文暦法と漏刻(時刻)の管轄もしていた。

 陰陽寮の「観念技術」陣を陰陽師といった。陰陽師は例えば新都選定の「占地」を行った。少年真魚も長岡京や平安京の新都造営の際そのことを聞いていたであろう。

 朝廷側の官製「観念技術」と在野の民間「観念技術」の対立が、平野部の中央仏教と山間部の山林仏教の対立にも発展し、奈良時代中後期の二大潮流となる。

 密教タオイスト空海。空白の七年の間、空海は「どこかでタオイズムの洗礼を受けていた」。

 再び朝廷の陰陽道。
 吉備真備。唐から大衍暦関係の典籍を持ち帰る。鬼神をよく扱いうる秘術を心得る。空海はこれを知っていただろう。
 藤原仲麻呂。淳仁天皇に『黄帝九宮経』を認めさせ、専制をほしいままにした陰陽道権力者。
 道鏡。孝謙天皇の病気を宿曜秘法の祈祷で治した。天皇になりそこねて失脚。陰陽タオイズムと雑密の習合。

 現在も真言系の祈願寺院では、「星まつり」といって占星宿曜(当年星)の祈祷が行われている。
 近年ちょっとした「陰陽師」ばやりである。夢枕漠さんの『陰陽師』に起因する。その夢枕漠さんを、私たちのオープンフォーラム「六塵ことごとく文字なり」のゲストで招いたのは企画監修と当日のナビゲーターをやっていただいた松岡さんだった。夢枕漠さんは「ここのところずっと空海をやっているんですよ」と言われた。その意味を聴衆の何人がわかったであろうか。かく言う私もほんとのことはわからなかった。

 こういう視点は道教研究者からは出てこない。私はかつて日本道教学会の事務局を担当する早稲田大学東洋哲学研究室にいたのだったが、空海周辺の道教について何の気配もなかった。また松岡さんが道教の薫陶を受けたらしいわが智山の吉岡先生からも、そんなお話をうかがう機会には恵まれなかった。

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