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『空海の夢』ノート 8

●18--和光同塵

 話は一転して、空海の一大事業である高野山開発に移る。空海は高野山の開発にあたって神仏の習合に意を注いだ。その問題である。ここもまた松岡さんの「得意」のところである。

 まず、高野明神(別名、狩場明神)。大小二匹の黒犬を連れた身の丈八尺の赤ら顔の異様な猟師。高野の犬飼。「『今昔物語』巻十一にみえている有名な話の前半部」。

 そして、丹生明神。空海が紀伊の境の大河の岸辺に泊ったおりに逢った山人。この山人に案内されて行った山に唐土で投げた三鈷杵があった。

 続いて、「高野(山)」の宗教民俗学的あるいは地誌学的考察。

 高野の「野」という名称は死者の霊が仮泊しうる場所ということである。古来、ヤマにたいしてサトがあり、その中間にノがあった。山から川が流れ、その川が合流するところが落合、そのあたりから里がはじまる。野はそれに対して「野辺の送り」と言われるように、死者を葬送する特定の場所だった。吉野も高野も天野もまた熊野にも、そうした「野」の影が落ちている。

 天野とは、高野山の麓(かつらぎ町)の丹生都比売神社(天野社)のある里。この天野の里には、高野山に入る空海がよく来ていたらしい。丹生都比売神社は空海以前からあり、この辺の水系から丹生(硫化水銀)を採掘していた山人たちの首領を祀る神社といわれる。この丹生都比売神社の神域に空海が曼陀羅院という小堂を建て密法を修したともいわれている。のちに空海は高野山を開発し、この曼陀羅院を山上に移したのが今の金剛峯寺となっているという。

 丹生とは、硫化水銀を含んだ赤土のこと。日本全国に「丹生」「丹生川」と名のつく地名は多い。空海は、丹生明神と聞いて高野周辺に丹生が産することをすぐ察知したにちがいない。そのことを伝説的に偉人伝の異能ぶりにしてしまうか、山に伏した頃やあるいは長安で不老長寿の妙薬としてその調合まで空海が現実に得ていた知識とするか、私は後者をとる方だ。
 この丹生のエピソードは、空海の頭の中にタオイズムの「錬丹術」のノウハウのほか、鉱山・鉱水・治山・治水・薬品化工など、理化技術系の知識と方法とが満載されていたことを物語っている。そしてそれらの余学が空海の場合は単なる開発技術にとどまらず、みなその密教を具現化するための周辺ツールだったことに驚かざるをえない。

 松岡さんは、空海の高野山開発に「「コトダマ」の原理」を見る。

 かの山の裏に女神あり。名づけて丹生都比女のミコトという。そのヤシロのまわりに十町ばかりの沢あり。もし人到り着けば即時に傷害せらる。まさにわが上登の日、巫祝に託していわく、妾、神道にあって威福を望むこと久し。まさにいま菩薩この山に到る、妾が幸いなり。

 巫祝は、「コトダマやコトシロの媒介者」。

 空海は直接に丹生明神と談判したのではなく、この巫祝をエージェントとして交渉した。

 この巫祝とは、天野祝という一族の者という五来説を松岡さんは紹介している。

 いよいよ高野山開発である。

 ・・・空海、少年の日、好んで山水を渉猟せしに、吉野より南に行くこと一日にしてさらに西に向って去ること両日ほど、平原の幽地あり。名づけて高野という。計るに紀伊国伊都郡の南にあたる。四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり。・・・わずかに修禅の一院を建立せん

 弘仁八年、空海は弟子「実恵」と「泰範」を連れて高野山に入る。この開発にあたって、空海は土地の神々を祀って習合した。「高野祝」を高野明神として、そして丹生明神も山上に迎えた。そして弘仁十年、七里結界。

 敬って十方諸仏、両部大曼荼羅海会の衆、五類の諸天および国中の天神地祇、ならびに此の山中の地・水・火・風・空の諸鬼等に白さく

 諸々の悪鬼神等、みなことごとく我が結界のところ七里の外に出て去れ、正法を護らん善神鬼等の我が仏法の中に利益あらん者は意に従って住せよ

 松岡さんは、空海の高野山開発にあたっての神仏習合を和光同塵の先駆とする。以後日本では、修験道しかり、天台と山王一実神道(比叡と日枝)しかり、伊勢神宮の内宮・外宮を金胎両部に見立てた両部神道しかり。

さらには紀伊田辺で空海が遇った年老いた大男が実は稲荷明神で、のちに稲を背負って東寺にいる空海をたずねそれを空海が歓待、この老人は近くの柴守に滞留して東寺の五重塔建設の時に伏見稲荷の山から用材を調達したという話しかり、であると言う。
 この老人が滞留した柴守にあった稲荷明神のお旅所は今も東寺の東方に残っていて、四月下旬には祭りが行われている。また東寺の僧形八幡神像が密教と八幡信仰のつながりをみる。これ、また松岡さんの言う密教の特質の「引き込み」。



●19--即身成仏義体験

 空海密教の特色は何かといえば、従来の仏教をすべて「顕教」とし、自分の仏教を「密教」としたところだ。その顕密の峻別を支えるメインコンセプトを空海はいくつか用意した。

 「六大縁起」。本来清浄なる地水火風空と識によって宇宙法界のすべてが成り立っている、法身もまた同じ、私たち凡夫もまた同じ。清浄の故に「無礙」(障害がない)なのである。

 「法身説法」。宇宙真理を身体とする大日如来は始めもなく終りもなく時空を超えて説法している、そうあるべくしてある宇宙原理の言語化・具象化して示している。
 私たちはそれに気づかないだけ。

 「声字実相」。人のことばも鳥のさえずりも風の音も、字も色も形もみな如来の説法。如来の説法は宇宙原理の言語化・具象化であるから、そこにこそ宇宙の真実が宿っている。果分可説。

 「三密加持」。前に述べた。
 「四種曼荼羅」。前に述べた。
 「十住心」。前に述べた。

 そして「即身成仏」。「顕」では、途方もなく何千万光年の果てまでも時間をかけなければ成仏できないというのに対し、空海は一瞬のうちに生身で成仏できるという。「顕」は不可能なほど時間がかかり、「密」は速く一瞬なのだ。電気的というか、電波的というか、雷鳴のごとくに速疾なのだ。小宇宙の私が大宇宙のほとけと一瞬にして交感する。その一瞬の交感を『金剛頂経』の「五相成身観」が伝えている。

「第一、通達菩提心」。
「そこで一切の如来たちに驚覚されて、一切義成就菩薩(釈迦の密教名)は(はっとして)我にかえり、その無動三昧より起って一切の如来たちに頂礼し、呼びかけて次のように問い申し上げた。
「世に尊き諸の如来たちよ、教示したまえ、私はどのようにすれば、(また)どのような(真理命題としてのその)真実に通達することができるのでありましょうか」と。その様に言われて一切の如来たちは、かの菩薩に口を揃えて次のように仰せられた、「通達せよ、善男子よ、(自己の心を各各に観察する三昧(大日経の如実知自心))によって、(すなわち、その命題の内容とそれを誦することとの同一性がその)本性よりして成就しているところの(、したがって、誦しさえすればそのことが成就するはずの、次の如き)真言を好きな(回数)だけ誦することによって・・・・。オーム チッタプラティヴェーダム カローミ(オーム、われは[自]心[の源底]に通達せん)」。
かい 「第二、修菩提心」。
「そこで(一切義成就)菩薩は一切の如来たちの次の如くに申し上げた、「私は教示され(、その通りにいたし)ました、世に尊き諸の如来たちよ、(その結果)私には(私)自身の心臓(の上)に月輪の行相が見えてまいりました」、と。一切の如来たちは仰せられた、「善男子よ、(汝の心臓の上に月輪として表彰されたところの汝の)この心は本性清浄である。それは丁度(汚れている布が)浄治され(て本来の清浄さをとり戻し)た如くに、その如くに(清浄なものとして本来より)あるのである。(逆に言えば、汝のその心が現に煩悩によって染せられているにしても、それが本来清浄なることは、本来)白い衣を染料で染めた(場合の)如くなのである」と。そして一切の如来たちは、(この、自)心が本性清浄であるという認識を増大せしめんがため、重ねてかの(一切義成就)菩薩に対して、オーム ボーディチッタム ウットゥパーダヤーミ(オーム、われは菩提心を発さん)という、この(命題の内容とそれを誦することの同一性がその)本性よりして成就している真言(を教示し、それに)よって(菩薩に清浄の)菩提心を生起せしめた。そこで(一切義成就)菩薩は重ねて一切の如来たちの教勅(に従ってこの[発菩提心真言]を誦し、それ)によって菩提心を生起せしめて(その結果を)次の如くに申し上げた、「(私の心臓の上に顕現した)その月輪の行相をしたものが私には(いまや真の)月輪そのものとして見えてまいりました」。」。

「第三、修金剛心」。
「一切の如来たちは仰せられた、「汝の(この菩提心はそこに法身・大毘盧遮那が住する)一切如来の心臓である。(汝は今や)普賢(菩薩の大菩提)心を発したのであり、(そのことによってわれわれによって)敬礼されるべきものとなっている。そ(の大菩提心)はよく完成されねばならない。(そこでまずその)一切如来普賢心を発すことを堅固になさんがために、汝はこの真言(を誦すること)によって自らの心臓の月輪中に金剛(杵)の影像を思念せよ。オーム ティシュタ ヴァジュラ(オーム、立て、金剛(杵)よ)。(一切義成就)菩薩は申し上げた、「世に尊き諸の如来たちよ、私は月輪中に金剛(杵)を見ます」と。」。

「第四、証金剛身並びに名潅頂」。
「一切の如来たちは仰せられました、「汝はこの真言(を誦すること)によって一切如来普賢心たるその金剛(杵)を堅固になせ、オーム ヴァジュラアートマコー アハム(オーム、われは本性においてこの金剛(杵)に他ならず)」。(一切義成就菩薩は言われた如くにこの真言を誦した)すると、一切虚空界に遍満するほど(に多くの)それら一切如来身語心金剛界のすべては、一切の如来たちの加持によってその薩た金剛(杵)の中に入った。そこで、一切の如来たちによって、彼、世に尊き一切義成就菩薩は、「(汝は)金剛界なり」と、金剛名潅頂によって潅頂された。そこで(今や)金剛界(という潅頂名を得た一切義成就)大菩薩は、それら一切の如来たちに次の如くに申し上げた、「世に尊き緒の如来たちよ、私には私自身が一切の如来たちの(総体を自らの)身体(とする者)であるように見受けられます」。」。

「第五、仏身円満」。
「一切の如来たちは仰せられました、「大薩たよ、そ(の観を更に進め、)次の如き自性成就の真言を好きな(回数)だけ誦して、(それ)によって、あらゆる最勝の行相を具備し、仏の影像ある(その)薩た金剛(杵)を(汝)自身であると観想せよ、オーム ヤター サルヴァタターガタース タター アハム(オーム、一切の如来たちがある如くに、その如くにわれはあり)」。かくの如くに言われて金剛界大菩薩は(直ちにこれこそがかの[一切如来の真実]、すなわち即身に成仏をもたらす究極の真理の命題に他ならざるところのこの[仏身円満の真言]を誦したのであるが、それによって)その場で自らが(今や)如来であると(知って)現等覚(した。現等覚)して彼ら一切の如来たちに頂礼し、次の如くに申し上げた。「私を加持したまえ、世に尊き諸の如来たちよ、そして(私の)この現等覚を堅固ならしめたまえ」。そのように言われて、一切の如来たちは金剛界如来のその薩た金剛に入った」。

「金剛界如来(=一切義成就菩薩=釈迦)の成道」。
「すると世に尊き金剛界如来はその刹那直ちに、一切如来たちと(自らと)の平等性(を認識したそ)の智慧によって現等覚せるもの、一切如来たちと(自らとがその)金剛(の智慧)において平等なること(を認識したそ)の智慧によって印契の秘密の三昧耶に証入せるもの、一切如来たちと(自らとがその)法において平等なること(を認識するそ)の智慧に通達することによって自性において清浄ならしめられるもの、一切如来たちと(自らとがその)あらゆる点で完全に平等なること(を認識したこと)によって本性清浄なる智慧の源となったるもの、如来・阿羅漢・正等覚者となったのである」。(以上、津田真一『金剛頂経』東京美術)

 これが「即身成仏」の正体である。
真言僧は自分が一切義成就菩薩と同様に法界に遍満する一切の如来たちと相入(瑜伽)することを「加行」中に体験するはずになっている。しかし、残念ながらこの「五相成身観」で「即身成仏」した密教阿闍梨すら私は知らない。いわんや加行の行者においておやである。

 『金剛頂経』では、「釈迦の成道」(菩提寺下でサトリを得たこと)を、一切義成就菩薩(釈迦)の「仏身円満」(宇宙法界に遍満する一切の如来たちがそうあるように、そのように私もある=金剛界如来となって金剛界会の如来ネットワークに相入(瑜伽)する)という場面設定になっている。仏教史の中で唯一の「即身成仏」成就者・釈迦の成道を密教はこのように説明したのである。

 そのことを空海は租借して「八句の頌」で言い換えている。もちろんそこには空海のオリジナル編集がみえる。
 松岡さんは、この「八句の頌」の要約を試みておられる。これがまた絶妙だ。仮に密教研究者の解説をいくつか参照したにしても、四十才でここまでわかっていたのかとただただ驚くばかりだ。ちなみに私の解釈は、前半四句のみだが別冊『一途半生』の巻末「遺言に代えて」にある。お目通しいただければ幸いである。

 最後に松岡さんは「重重帝網なるを即身と名づく」を、

互いの宝珠が互いに鏡映しあっているホロニックなネットワークを、そのままそれ自体として「即身」ととらえた思想的直感は、世界哲学史においてもとくに傑出するものだ。そこには現代科学の最先端のフィジカル・イメージさえ先取りされている。

 「帝網のイメージ」は密教的生命を得ることによって現代につながったのである。空海はそれだけで満足したのではない。その「帝網のイメージ」が身体のコズミック・リズムと同調していることに気がつく。

と絶賛する。



●20--六塵はよく溺るる海

 この章は、空海の『秘蔵宝鑰』の序文「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを知らず 生れ生れ生れ生れて生の初めに暗く 死に死に死に死んで死の終りに冥し」に触発されて、ほとんどを遺伝情報も含む生命史の論述に終始する。

 「生れ生れ生れ生れて・・・」という「空海要語」を生命史とつなげて考えてみる、そういうことをこの本で私は初めて教えられた。こういう着眼や思考方法を「編集」ということもあとで教えられた。よくよく私の仏教の勉強はアナログだった。

 この章の書き出しに、松岡さんの名文がある。

 われわれがいつかは考えなければならないもっとも怖るべき問題のひとつは、「生命が生命を食べて生きている」ということにある。この怖るべき事実から唯一のがれられるのはわずかに緑色植物の一群だけである。

 『秘蔵宝鑰』は有名な『十住心論』の略本ともいわれるが、序文のはじまりからして「生命が意識をもち、意識が進化していく生命進化史」と「十住心」を重ねているような気配が大いにあり、いや空海のことだから「無明」や「阿頼耶識」の果てに「無始無終」の宇宙の大生命史を脳裏に浮かべていたとしても不思議ではない。

 古代のイノリ。かならずしも祈願を意味しないイノリ。
 神話や宗教に登場するおびただしい数の動物・植物。生命のさまざまな形態や性質を取り込む。
 イノチの歴史に内在していた異常=死。かならずしも一致しないイノリの普遍性とイノチの普遍性。イノリの普遍性は宗教が重視したが、イノチの普遍性は手がつけられなかった。「生命が生命を食べる矛盾」も回答が準備されなかった。

 生命が内にひめる矛盾を考えるには、ある程度は科学の言葉を借りなければならない。そのためには、生命が宇宙史のなかで占めている特殊な役割が問題になってくる。生命は宇宙の現象にとってはけっして一般的な存在ではなく、しかしまた例外というわけでもないという奇妙なものである。

 最初はアミノ酸、そして単細胞生物、多細胞生物、植物、動物、水から陸へ、ヒトへ、意識の形成へ。

 宇宙が大いなる熱死に向っている。エントロピーの増大。少なくとも宇宙の誕生以来、宇宙の進化は確実に熱死に向っている。

 生命は、生まれて以来、宇宙の進化とは逆に秩序に向ってきた。
 熱力学者、ブリゴジヌやブリッジマンの説明。

 部分系エントロピーである生命は、みずから器官や組織や形態をつくりだすことによって、そのとき発生したエネルギーを部分系の外に放出し、結果的には全体系エントロピーの増大をうめあわせている。

 結局、生命という部分系は情報を生産することによって、全体系としての物質宇宙とのバランスをとっていた。このことは生命の本質を考えるばあい、ひじょうに重要である。

 生命は、散逸構造でもあるが、同時に宇宙開闢とともにはじまった情報構造の一プロセスでもあった。

 話はまた「生命が生命を食べる矛盾」にもどる。インドでよく見られる孔雀がヘビを食べる光景。その悪食の孔雀が密教では「孔雀明王」になる。悪食の故である。

 地球生命の誕生。宇宙科学者の永遠のテーマだ。ここに空海がどうかかわるのか、松岡さんの生命史がより深くなる。ところがそれについていけないつらさがこのあたりから読者に生まれてくる。

 大気の変換(大気の還元性の成立)、エネルギーの獲得(太陽や電撃や火山活動の援助)、分子の形成(アミノ酸などの生成)、吸着と縮合(ポリマーの成熟)、情報の保存(核酸の活躍)の五段階。

 「情報の保存」。
 生体高分子がみずからの情報を保存するのに一番確実な方法は、自己複製能力をもつこと。
 保存には核酸が主役。
 核酸のひとつ、DNAが遺伝情報を保存。その遺伝情報をもうひとつの核酸RNAに転写して自己複製の舞台をつくる。
 生命は、情報高分子としてスタートを切った。
 情報高分子はみずからの系をまとめておくための細胞膜を必要とする。
 選択透過性。必要物質と不必要物質の選択。
 膜の内側の状態の保全。情報の維持。このときエネルギーの散逸が起こる。ナトリウムイオンを排出して、カリウムイオンを取り込む現象。エネルギー代謝の誕生。
 生命は、情報高分子と細胞膜とエネルギー代謝という最低三種類の基本条件を獲得した。

 地球上にひしめく生命の数。三十年前では植物が約五十万種、動物が約百万種(現在最低五百万種)。だが、自給自足している生物は緑色植物の一部のみ、という。他のすべての生物は全面的にこの緑色植物に依存している。「全生物のために酸素をつくりだした「光合成の者たち」」だ。

 初期の地球には酸素がなかった。緑色植物の光合成は、地球で最も古い岩石ひとつの珪酸質鉄鉱層の縞模様にその痕跡が見られる。光合成は二十億年から三十八億年の以前にあったと。 この緑色植物の正体は、低い海底にある「藍藻」の一種と考えられている。
光合成植物は、炭酸ガスと無機塩類しか食物として必要としない。光合成で発生した酸素が地球を取り巻きオゾン層をつくった。大気に包まれた温室ができた。紫外線を止めるオゾン層のために、そこに誕生する生物は光合成で自給自足できる生命体にはならなかった。

 ここに「生命の矛盾」がはじまる。生物は共存する。だが一方共食する。

 釈迦が出家した動機に、カエルがヘビに呑まれるのを見て生命のはかなさを悲しんだからというのがある。仏教のはじまりにも「生命の矛盾」があった。

 大乗の人たちは仏教徒が護るべき戒律の分析議論を「十善戒」に集約した。そしてそのトップに「不殺生」戒を置いた。
 「他の生命を奪ってはいけない」ことは古今東西人類社会が守るべき倫理の命題だ。しかし他の生命を食べなければ生きていけない生物として、人間は「生命の矛盾」をどう背負って生きなければならないか、「不殺生」戒には生命史への深刻な苦悩がある。そここそが坊さんが触れるべき問題なのである。
 合掌をして「いただきます」と言う仏教徒の食事のマナーは「あなたの生命を私の生命保持のためにいただかせていただきます」「申し訳ありません」という食べられる生命への「謝罪」と「生命の矛盾」を生きる「懺悔」のことばだった。「不殺生」を安直に「生き物を殺傷しないように」「蚊も害虫も殺してはいけない」と説教しているようでは坊さんの無学がばれる。

空海もまた、集大成した自らの密教思想に生命や意識の進化への洞察を忘れなかった。晩年の作といわれる『十住心論』の第一住心に「異生羝羊心」という動物の生命のあり方を置いた。

 自他兼ねて利済す、誰か獣と禽とを忘れん。

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