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『空海ノート』補記 「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」

 弘法大師空海の生涯には終始、東アジアの渡来系氏族との関係が色濃くあった。従来の空海伝(とくに仏教学系のもの)は、古代の日本と東アジアの文明交流史に関心が薄く、空海と東アジアの渡来系氏族のかかわりについてあまり言わないのだが、空海の出自から仏教修学や山林修行、さらに入唐留学や帰国後の活動、また高野山の造営や東寺の密教化や潅漑用水・港湾の修築まで、その生い立ちや行動のかげには、4~6世紀、朝鮮半島や中国などから渡来し、農耕・土木・養蚕・機織・鉱山・治水・製銅・精錬・冶金・工芸・酒造・製塩・船運等の技術で富を築き、経済力を背景にヤマト王権以降の朝廷や西日本各地の地方豪族に大きな影響力をもった渡来系氏族のサポートがあった。また空海には、彼らがもたらした宗教が日本化するかたちで陰に陽に影響を与えている。
 空海と最も深いかかわりをもったのは渡来系氏族の代表格でもある秦(はた)氏であった。その秦氏とは、空海の時代、婚姻等を通じて親縁の関係にあった藤原氏、また秦氏と当初から深い結びつきのある和気氏、さらに空海の母の出自の阿刀(安斗、阿斗、安刀、安都、あと)氏、そして高野山麓の丹生(にう)氏などとの縁も無視できない。
 以下、それぞれの概要と空海との関係、さらにその周辺について略記してみる。

◆秦氏
◇秦氏のルーツ
 秦氏は、『日本書紀』によると、応神14年の条に、弓月君(ゆづきのきみ)という人が百済から120県の民を連れてきて帰化したことが記され、平安初期の古代氏族名鑑『新撰姓氏録』には、応神14年、秦始皇帝の5代あとの孫融通王(弓月王)が、127県の百姓を率いて帰化したことを伝えている。秦氏はこの弓月君をもって祖とするという。
 秦氏のルーツには、中国春秋時代に滅んだ呉・越の流浪の民である(越出身の者は銅の生成に優れる)とか、秦始皇帝にさかのぼるなど諸説あるが、新羅あるいは加羅(百済と新羅の間にあった朝鮮半島南部の国、伽耶ともいう)だという説が有力といわれている。

 秦氏のルーツ説に関して興味深いのは、かの「日ユ(日本・ユダヤ)同祖論」を提起した佐伯好郎博士の「弓月」国ルーツ説および秦氏=ユダヤ人景教徒説である。
 「弓月」国は、中央アジア、今のカザフスタン東部にあるバルハシ湖の南方に、1~2世紀に存在したといわれる小さなキリスト教国で、中国語でクンユエといわれる。クンユエには「ヤマトゥ」(「神の民」の意)という地名があり、「ヤマトゥ」が「やまと」になったともいう。この「弓月」国の民が、実は景教徒、すなわち空海が留学先の長安で見聞したはずの大秦寺の、あるいは華厳・密典・サンスクリットの師般若三蔵に聞いたはずの、ネストリウス派キリスト教の信徒たちであったという。
 ネストリウス派は、431年エフェソス公会議で異端とされ、ローマからシリア・ペルシャへ、そしてシルクロードを経て中国に流浪するのだが、ユダヤ教の色彩が濃く、「弓月」国の景教徒は古い頃イスラエルを追われた初期のユダヤ系キリスト教徒ではないかともいわれている。
 空海は、このネストリウス派のキリスト教を長安の大秦寺(大秦寺の旧名は「波斯(経)寺」で、「波斯」とはペルシャを意味し、「大秦」はローマ帝国をいう)で見聞し、般若三蔵からその大秦寺の僧景浄(アダム)を紹介されていたはずである。般若は、その景浄と胡本(ソグド語版)の『六波羅蜜(多)経』を漢訳し、それが不備であったため、のちに梵本(サンスクリット版)から再度訳出した。空海はこの漢訳を般若三蔵の原本から書写したのであろう、長安から持ちかえって『御請来目録』に載せている(『大乗理趣六波羅蜜(多)経』)。
 景浄は、唐の長安にネストリウス派のキリスト教が布教されていたことを石碑に書いて残している。空海がそれを見ていたかどうかは不明だが、今、西安市の碑林博物館に安置されている大秦景教流行碑がそれである。そしてそのレプリカが、明治時代、『弘法大師と景教の関係』を著したイギリス人のE・A・ゴルドン夫人によって高野山奥之院に建てられている。


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高野山奥之院、大秦景教流行碑レプリカとE.A.ゴルドン夫人の墓


 秦氏とユダヤ教・イスラエルの関係について、もう一つ興味深いのは、秦氏の根拠地となった山背国(山城、今の京都)の太秦に秦河勝が建てた氏寺広隆寺があり、それに隣接してある秦氏ゆかりの通称「蚕の社」(木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)境内の湧水「元糺の池」のなかに建つ「三柱鳥居」(みはしらとりい)の三角形がユダヤ教やユダヤ民族のシンボルである「ダビデの星」に同じで、しかもその三角形は広隆寺を中心に東南東の稲荷山(伏見稲荷大社)、西南の松尾山(松尾大社)、そして北の双ヶ丘を指している、という説がある。この三所はいずれも秦氏の重要な聖地である。

◇豊前の「秦王国」と水銀鉱脈
 秦氏の祖先はおそらく、九州の筑前(那ノ津、今の博多)から入ったであろう。『隋書』倭国伝にいわれる「秦王国」(豊前(今の福岡県南部から大分県にまたがる地域)が有力)は最初に秦氏が定住していた地にちがいない。そこにはまた、中央構造線に沿うかたちで水銀の鉱脈が走っていて、同じ頃丹生氏も肥前からこの地に移住してきていたといわれている。
 この「秦王国」にはまた、後述する八幡神や弥勒や虚空蔵の信仰など、新羅に発する諸信仰の事蹟がある。

 その後、秦氏の一団は、四国の伊予・讃岐、中国の長門・周防・安芸・備前・播磨・摂津を経て畿内に入り、河内から山背(山城)に至って太秦に本拠を構え、さらに北陸の越前・越中や東海の尾張・伊勢・美濃、そして東国の上野・下野から出羽にまで進出した。
 そのうち讃岐では、空海の出自である佐伯氏領する多度郡真野(まんの)の東方の中讃地域に居住した。この地は、空海の時代にはすでに水田開発に条里制が採り入れられていた。これもヤマト王権の時代この地に定着した秦氏の農業技術がもたらしたものであろう。讃岐平野は秦氏の潅漑技術、とりわけ農業用水を池に溜め、それを広く田畑に引きまわす農業土木術の恵みで古くから潤った。讃岐佐伯氏の本家筋にあたる佐伯直のいた播磨にも同様の水田開発がみられる。赤穂では製塩や船運が秦氏によってはじめられたという。

 この讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。

◇秦氏の神「八幡神」
 ところで、空海の母の「阿古屋(あこや)」を「玉依(たまより)姫」と尊称する。
 「玉依(タマヨリ)」は神の名で、玉依毘売命・玉依日売命(タマヨリヒメノミコト)・活玉依毘売命(イキタマヨリヒメノミコト)であり、海神(ワタツミノカミ)の娘・豊玉姫命(トヨタマノヒメノミコト)の妹である。吉野の水分(みくまり)神社や京都の下鴨神社は祭神としてこの「玉依(姫)」を祀っている。
 また「タマヨリ」は、「霊依(タマヨリ)」であり、「憑依」「魂憑」、すなわち神霊神威が依り憑くこと。「ヒメ」はその依り憑く巫女、あるいは乙女の意味である。
 さらに「玉依(姫)」には子供を産む女性特有の能力が強く反映されている。神話の「海幸彦・山幸彦」に出てくる綿津見大神(海神、ワタツミノカミ)の娘の例はこの代表的な事例である。
 「タマヨリ」の女性は神との婚姻による処女懐胎によって神の子を身ごもったり、選ばれて神の妻となったりする。そのような巫女的霊能のある女性を「玉依」と呼ぶことがある。

 空海の母は、実家跡といわれる今の多度津町仏母院近くの八幡社に子宝授与を祈願して空海を身篭ったという(仏母院に伝わる空海誕生伝説)。この八幡社は、多度津町の海べりに鎮座し応神天皇と神功皇后・比売神を祀る熊手八幡宮の分社で、熊手八幡宮はおそらくこの地一帯の秦氏の産土神(うぶすなかみ)であった。秦氏の奉ずる八幡神(やはたのかみ)は、後に弓矢神すなわち武神・軍神となったが、その原初は銅や鉄を産する神だった。民俗学者柳田国男はこれを鍛冶の神と言ったが、熊手八幡宮の八幡神は秦氏の治めるこの土地の(領有の)神であるとともにお産の神(産神)であったと思われる。八幡宮はみな応神天皇を主祭神とし神功皇后(応神天皇の后)と比売神(ひめかみ、主祭神の娘等)をともに祀るのだが、神功皇后が応神天皇の母であることから母子神ともいわれる。

 さて秦氏が奉じた八幡神についてである。八幡宮の総本社である宇佐神宮のある大分県宇佐市のあたりは昔の豊前すなわち「秦王国」で、渡来した秦氏の民が多く住むところであった。


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宇佐八幡宮                 熊手八幡宮



 ある説によれば、この土地に秦氏系の渡来氏族辛嶋(からしま)氏があって、新羅からきてこの地の河原に住んだという「香(鹿)春」(かはる、かわら)の神を奉じ、その神とともに宇佐郡に移って定着し、その「香春神」にヤマト王権の使いできた大神比義(おおみわ(九州では、おおが)のひぎ)が応神天皇の霊を付与して「ヤハタの神」(=香春八幡神)としたという。
 香春神とは辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)。「辛国」(からくに)は加羅の国。すなわち加羅から渡来した神である。辛国息長大姫大目命を祀る香春神社(辛国息長大姫大目神社)は、古来銅の産出で有名な香春岳の山麓にある。ほかに忍骨命(おしほねの)・豊比売命(とよひめのみこと)を祀る。息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命について諸説あるが、ともに整合性のある説ではない。「香春」(かはる)はもともと「カル」。「カル」は、金属とくに銅のことである。

 「辛嶋」(からしま)とは「日本の加羅(秦の国)」という意味になろう。その辛嶋氏の加羅の国にヤマト王権(蘇我馬子)の意を受けた大神比義が派遣され、渡来の神辛国息長大姫大目命を「ヤハタの神」(=香春八幡神)にチェンジさせたのである。


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      香春神社           香春神社鳥居と香春岳     新羅国神の字が見える石碑



『八幡宇佐宮御託宣集』に、
 辛国ノ城ニ、始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、
 吾ハ日本ノ神トナレリ
とある。

 大神比義の大神氏も辛嶋氏と同じルーツの渡来系氏族だといわれる。以後大神氏は、宇佐地域に居住するようになる(豊後大神氏)。辛嶋氏も香春の地から宇佐の地(豊後)に移っていた。
 この「ヤハタの神」(=香春八幡神)が何度かの移座を経て神亀2年(725)、現在の宇佐小倉(椋)山に辛嶋勝波豆米の託宣によって遷座される。
 ここには、この地の国造宇佐氏によって信仰されていた比売神三座が馬城峯(御許山)から移されていた。その社に応神天皇の霊を付与された「ヤハタの神」が主祭神として遷座されたのである。宇佐八幡のはじまりである。ここに「秦王国」に辛嶋氏によって奉じられた渡来の神が、辛嶋氏(と大神氏)によって日本の国神(くにがみ)「八幡神」となったのである。このことは同時に辛嶋氏つまり秦氏の日本同化策であった。事実、この半世紀前の「白村江の戦」に辛嶋氏は出兵させられている。

 「ヤハタ」の意味には史家の間に諸説ある。しかし、「ヤ」(八)は「弥」で、数が多いこと、幾重にも重なる様のこと。「ハタ」(幡)は「幟」「旗」で、神々が降臨する依り代。つまり「ヤハタ」とは「数多くの幡(が幾重にも重なって風になびく)」の意味で、祭祀の際に降臨する神の依り代として何本も立てる幡、と考えるのが妥当だろう。韓国で祭祀の際に数多くの旗が並び立てられる例があるのに符合する。

◇秦氏のシャーマニズム、山岳信仰と弥勒信仰
 ミルチア・エリアーデの言葉を借りるまでもなく、古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところである。日本で言う「巫」の周辺では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していた。
 「秦王国」といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫(とよくにのくしかむなぎ)や豊国法師といったシャーマンが活躍していた。
 『日本書紀』の用明天皇2年4月2日条には、用明天皇の病気に際し、皇弟皇子がこの豊国法師を呼んで内裏に入れたところ、物部守屋大連が反対して怒ったことが書かれている。
 わが国への仏教公伝は、宣化天皇3年(538)と欽明天皇13年(552)の二説(538説が有力)あるが、崇仏派天皇だった用明天皇が三宝(仏・法・僧)への帰依を表明しつつも、周囲の薦めで秦氏系の法師(仏教僧ではない)が内裏に招き入れられた記述から、百済系の仏教を容認したヤマト王権(蘇我氏、用明・聖徳太子)がシャーマンのもつ病魔除け呪術や医薬品の効能に期待し、豊前(秦系・新羅系)の高度な文化や医術の情報をすでにキャッチしていたことが読みとれる。

 その「秦王国」には、常世信仰や山岳信仰や弥勒信仰を含む新羅系仏教が伝わっていた。新羅には古くから、熊野信仰につながる擬死再生の常世信仰があった。太子や花郎(ふぁらん)と呼ばれる山岳修行者は神が降臨した依り代とみなされ、鉱脈を探索するために山に入り、洞窟(=穴)などに篭って斎戒修行を行った。そこに仏教の弥勒下生信仰が重なり、彼らに弥勒菩薩が降臨(憑依)することから、彼らは弥勒の化身だといわれるようになった。
 豊前には英彦山という日本の代表的な修験の霊山がある。この英彦山には、弥勒菩薩の浄土(兜率天)内院の四十九院に付会した四十九窟がある。その英彦山と、英彦山で修行し「法医」とまでいわれた法蓮という僧(辛嶋氏系宇佐氏の氏寺・虚空蔵寺の座主や宇佐八幡宮の神宮寺・弥勒寺の別当)と、宇佐八幡宮の八幡大菩薩にかかわる弥勒信仰の伝承には、秦氏がもたらした新羅の仏教が大きく影を落としていた。


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       英彦山登山口、銅の鳥             英彦山中岳山頂



 この秦氏の弥勒信仰はやがて、秦氏が本拠地とした山背太秦に秦河勝(はたのかわかつ)が建てた蜂岡寺(後の広隆寺)の本尊弥勒半跏思惟像や、聖徳太子の伝建立七寺の本尊弥勒半跏思惟像や、平城京の官大寺に流行した弥勒信仰や、空海の弥勒信仰にも大きな影響を及ぼした。

 余談ながら、秦氏が豊前の地に展開した宇佐八幡やシャーマニズムから想い起されるのは、神護景雲3年(769)に起きた宇佐八幡宮神託事件とその主役の道鏡の雑密呪術である。道鏡は大和の葛城山に篭り、雑密の宿曜法に習熟したという。葛城山は役行者以後葛城修験の道場となるが、役行者以前から豊前の英彦山の山岳修行と同系の山中篭行が行われていた。かれは山中篭行を行うなかで、すでに日本に伝えられていた雑密系の修法を身につけたのであろう。当時としては新しい雑密呪術を駆使して度々霊験を顕わしたのか、天皇の病気平癒を担うシャーマンの役を与えられたのである。かれは女帝孝謙上皇(後に重祚して称徳天皇)の看病禅師として宮中に出仕し、雑密呪術を以て上皇の病気を治し妖僧とまでいわれた。
 上皇の信頼を得た彼は、「藤原仲麻呂の乱」を経て、復位した称徳天皇の側近となり、天平神護元年には僧侶でありながら太政大臣となり、翌年法王の座に上りつめ、朝廷の実権をにぎった。
 神護景雲3年(769)、兄道鏡の栄達とともに出世の道を急速に進んだ実弟で、大宰帥(大宰府の長官)大納言弓削浄人(ゆげのきよひと)と、大宰主神(だざいのかんずかさ、大宰府の神祇長官)だった(中臣)習宜阿曽麻呂((なかとみの)すげのあそまろ)が道鏡を皇位につけることをもくろみ、道鏡を皇位につけることが神意にかなう旨の宇佐八幡の神託を朝廷に奏上した。宇佐八幡は早速、称徳天皇に対し側近の女官であった和気広虫(わけのひろむし、出家して法均)を派遣するよう求めたが、からだが弱かったため代りに弟の和気清麻呂が宇佐八幡に下向した。
 ところが、大神の禰宜・辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)への託宣で、道鏡を皇位につける神託は偽りだということがわかり、清麻呂は帰ってそれを称徳に報告すると、道鏡を皇位に就けたかった称徳は怒り、清麻呂を改名までさせて大隈国へ配流してしまった。その翌年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権勢は急速に衰え、やがて下野国の薬師寺へ左遷され没した。

 秦氏は技術力・開発力・経済力・宗教文化によって大きな富と権勢を得、その隠然たる力をもって朝廷のさまざまな氏族と混淆したが、徹底して政権の表舞台には立たなかった。同系の山岳信仰をもつ氏族として道鏡の栄華と失脚を他山の石として見ていたのかもしれない。渡来人の氏族には、謂われなき冤罪で非業の死を遂げた人材が数々あった。分をわきまえることに敏だったのだろう。

◇秦氏の虚空蔵信仰
 先に述べた辛嶋氏の本拠地辛嶋郷に宇佐地方で最初に建てられた仏教寺院を虚空蔵寺といった。7世紀末、白鳳時代に辛嶋氏と宇佐氏によって創建され、壮大な法隆寺式伽藍を誇ったという。その別当には、英彦山の第一窟(般若窟)に篭って修行したシャーマン法蓮が任じられた。宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺はこの虚空蔵寺を改名したものである。
 虚空蔵寺の寺名になぜ虚空蔵菩薩の名が用いられたかは謎であるが、秦氏には、蚕神や漆工職祖神として虚空蔵菩薩を敬う職能神の信仰があった。
 まず、虚空蔵寺の別当に任じられた法蓮という花郎(ふぁらん)であるが、このシャーマンは7世紀半ば(670頃)に、飛鳥の法興寺で道昭に玄奘系の法相(唯識)を学び、先に述べた「秦王国」の霊山香春山では日想観(太陽の観想法)を修し、医術に長じていたという。
 唯識(法相)に虚空蔵三昧が説かれることはあまり知られていないが、日想観を修していた法蓮が山中の洞窟で虚空蔵菩薩のシンボルたる金星(太白)を観想する占星巫術を行っていたとしてもおかしくはない。
 医術に長けていたとは、おそらくその巫術と関係があり、医術とはつまり毉術(不老長寿の道術)のことで、石薬(鉱物系の医薬)の生成とその巫術的使用を指すのであろう。法蓮という僧は、道教系雑密の毉術に長けたシャーマンであり、同時に常世の行者として金星(虚空蔵菩薩)を観想する仏教僧だったと思われる。虚空蔵寺の名は、宇佐の里にはじめて宇宙の仏が降臨したことを隠喩したのかもしれない。

 飛鳥時代すでに、斑鳩の法興寺(飛鳥寺、後に元興寺)には虚空蔵菩薩があって、7世紀には大和の地に居住する渡来人たち(秦氏・東漢氏ら)、とくに製銅・製鉄・鍛冶・冶金あるいは養蚕・織物・漆製造・漆工芸を職能とする技術者の間で虚空蔵信仰があったことが知られている。
 宇佐地方でも同じことがいえるであろう。豊前地方に展開した秦氏が養蚕・織物・漆製造・漆工芸の技術に長けていたことは言うまでもない。

 まず養蚕の神としての虚空蔵菩薩であるが、蚕の糞を蚕糞(こくそ)といい、虚空蔵と語呂合わせができることと、蚕は幼虫→繭→蛾と死と再生(擬死再生)を三度くりかえすので(不老不死の)常世虫といい、それが常世の神(蚕神(かいこがみ))として信仰されたことから、養蚕や絹織物に励む秦氏の民にとって、蚕(常世虫)と常世の神(蚕神)と虚空蔵菩薩は一体となったのである。
 豊前「秦王国」の香春郡には桑原という地域があり、秦氏が勢力を伸ばした大隈国にも桑原郡という郡名がある。蚕用の桑の木が一面に生い茂っている様を思い起こさせる。

 また、漆工職の祖神としての虚空蔵菩薩であるが、漆工職が使う木屎(こくそ、木粉を漆に混ぜたもの)と語呂合わせができ、漆工職人とくに木地師の間では護持仏として虚空蔵菩薩が敬われている。
 『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項に、倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。
 宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

 京都嵯峨(嵐山)に行基が建立した葛井寺(ふじいでら)に、貞観16年(874)、虚空蔵菩薩を祀って寺を再興し、寺名を法輪寺に改めたのは讃岐国香川郡の秦氏を出自とする道昌であった。道昌は空海の同郷の弟子である。法輪寺のある一帯は、ほど近い太秦を本拠地とする秦氏の勢力圏であった。道昌は、秦氏が5世紀後半に桂川に築造した葛野大堰の後を受けて承和年間に大堰川の堤防を改修し、承和3年(836)には太秦広隆寺の別当となっている。爾来、法輪寺は漆寺といわれるようになり、漆工職の信仰を集めることになった。
 余談ながら、嵯峨(嵐山)の法輪寺から南に下ると秦氏一族の氏神(大山咋神(おおやまくいのかみ)=松尾山の神)を祀る京都最古の神社松尾大社がある。大宝元年(701)、秦忌寸都理(はたのいみき、とり)が社殿を建立し、松尾山山頂の磐座(いわくら)から神霊を移したのが開基である。
 秦氏は酒の醸造技術ももたらした。中世以降秦氏に由来する醸造祖神として、杜氏など酒づくりに携わる人たちから敬われるようになった。


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     松尾大社            

嵐山渡月橋からの法輪寺(漆寺)

 



◇秦氏の勤操・護命と空海の虚空蔵求聞持法
 若き日の空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは、空海にとって公私にわたる大外護者ともいうべき大安寺の勤操であり、実質的な恩師ともいうべき元興寺の護命であったが、この二人ともに出自は秦氏である。
 このうち勤操は大和国高市郡の出身で、大和国高市郡といえばその当時河内地方にかけて、渡来人(秦氏・東漢(やまとのあや)氏・東文(やまとのふみ)氏)などの一大居住地であった。
 余談ながら、高市郡に所在する久米寺で『大日経』を空海が感得する話にも勤操や渡来系の仏教僧が関与しているかもしれない。また、空海が碑銘を書いた大和益田池も久米寺南方の高市の地にある。益田池の修築になぜ空海がかかわったか。秦氏のもつ潅漑土木技術を思わないわけにはいかない。
 護命は美濃の秦氏出身である。当時秦氏は、伊勢・尾張・美濃そして北陸地方にも勢力を伸ばしていた。護命は空海が祝いの詩を送ったくらいの長寿をであったが、勤操と生きた年代がほぼ一致する同時代の人である。

 私見だが、通説では、空海の虚空蔵求聞持法の師を勤操だというのであるが、私は護命だと確信している。
 その根拠は、勤操はたしかに道慈にはじまる大安寺の虚空蔵求聞持法伝持の一人ではあるが、一方、三論(大乗中観派の宗学)の論学の人で、大安寺に関係の深い吉野比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡にはじまる虚空蔵求聞持法修行者のグループ)とのかかわりが見えないところから、勤操は虚空蔵求聞持法を含め仏教というインド的価値世界を総合的に空海に教えた人であるが、求聞持法を空海に直接伝授した人ではないと見るのが正しいだろう。
 その点護命は、元興寺(法相・倶舎)にありながら比曽(山)寺の「自然智宗」(神叡の法流)に連なり、月のうち上半は吉野の比曽(山)寺を中心に虚空蔵求聞持法を修練し、下半は元興寺で法相・倶舎の論学につとめた人で、空海はその時期、この護命の行学法を仏道修学の範としていたと思われるふしがある。おそらく空海の求聞持法と法相の実際的な指南役はこの護命であったにちがいない。『性霊集』には、84才まで生きた護命の長寿を寿ぐ二編の詩が収められている。


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                     吉野、比曽(山)寺跡、世尊寺

               大安寺



 ときに、護命が行じていた比曽(山)寺の「自然智宗」といい、虚空蔵求聞持法といい、空海が成就した室戸崎の洞窟での虚空蔵求聞持法といい、「秦王国」の山岳信仰や宇佐地方のシャーマン法蓮の虚空蔵信仰と酷似している。
 吉野比曽(山)寺の「自然智宗」も、実は秦氏ではなかったか。吉野や宇陀方面には紀伊に入った秦氏が勢力を伸ばしている。「秦王国」から吉野に虚空蔵菩薩の信仰がもたらされても不思議はない。「自然智宗」の祖神叡は、道慈とともに高徳を賞された法相の学僧であるが、渡来系の人といわれている。空海がのめりこんだ虚空蔵求聞持法は秦氏系の僧や修行者が主導していたのではないか。

 ついでながら、空海が私費留学生として入唐留学する際にも、勤操と護命などの秦氏系の人が陰で支えた可能性について付記しておきたい。

 空海の入唐留学はあわただしかった。
 周知のように、空海は延暦23年(804)5月12日、一年遅れの第十六次遣唐使船の第一船に乗り難波ノ津から船出した。
 遣唐使団という国家的な大デリゲーションに加わるには、僧侶の場合国家認定の官僧でなければならない。官僧になるには東大寺で具足戒を受戒し、国家仏教の役所である僧綱所から度牒(身分証)を受けなければならない。空海はまだ沙弥(私度僧)の身分であった。
 空海が東大寺で具足戒を受けた時期には諸説あるが、一般によく言われている延暦23年4月7日説が、遣唐使船乗船まであと1ヵ月というあわただしさこそ空海の入唐風景に似合っているという理由でも有力でかつ妥当と言っていい。
 具足戒の受戒、度牒の拝受、留学生(るがくしょう)の資格取得、在唐20年の資金・持参品準備、そして乗船・船出。これを1ヶ月で行ったとすれば、否仮にそうでなくても、空海の入唐留学には相当の協力者が周囲にいたと考えるのが至当である。


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肥前田ノ浦旧地、空海渡唐碑                        東大寺戒壇院  



 私見だが、留学生の資格取得と在唐20年の資金・持参品準備には、勤操のはたらきかけによる秦氏要人の援助があったと考えられる。
 勤操が秦氏の要人とともに、留学生資格取得の許可を、性急に朝廷にはたらきかけたことは想定に価する。あるいは秦氏の要人が、相当な金品を内密に使ったかもしれない。とにかく空海という逸材への期待に花が咲くかどうか、急を要することだった。
 ある説によれば、当時南都仏教界では法相宗勢力の増大に比べて三論宗の宗勢が衰えていたため、三論の有力者であった勤操が三論宗の人材補充の目的で空海を抜擢したという。仮にそうだったとしても、それはあくまで表向きの理由であって、当時の空海には三論の「空」の論理学よりも法相の精神分析学や華厳教学や『大日経』や梵字・悉曇に関心が集っていたことは想像に難くない。
 秦氏の要人らは同族系の勤操から要請を受け、在唐20年に必要な金品を用意したにちがいない。空海はたった2年足らずで在唐20年の留学義務を破り帰国するのだが、帰国に際して、新訳の密典・儀軌・梵字真言讃をはじめ詩文・書の書籍や絵図や法具のほか筆や墨に至るまで、多大な出費をして用意した。密教の秘奥を特例の抜擢で伝授してくれた師恵果和尚にも、青龍寺の住院にも、在唐の恩師般若三蔵にも、寄宿先だった西明寺にも、篤志の金品を特段に納めたことであろう。出国にあたって、その担当の役所・役人にも相当な賂を用意したに相違ない。交友を重ねた文人・友人らと盛大な別れの宴も催した。空海の周辺でそうした莫大な金品を短期間で準備できるのは、秦氏系の人たち以外には考えられない。
 ちなみに空海のような私費留学生の場合、朝廷から餞別として絁(あしぎぬ、紬に似た絹の織物)40疋(=80反(1反は幅約1尺(30㎝)×長さ約3丈(9m)×80)、綿100屯(1屯=150gの100倍、15㎏)、布が80端(80反)下賜されるのであるが、それらは彼の地で外交儀礼的交換の品として使うためのもので、長期間滞留する留学生はそれだけではとても足りず、自分の努力で相当な金品を調達しなければならなかった。

 また、急を要した東大寺での具足戒の受戒と度牒の拝受には、僧綱所に護命が根回しをしていた可能性がある。
 護命は、承和元年(834)84才で示寂するまで、僧綱所にも長くかかわった。大同元年(806)律師に任じられ、最澄の大乗菩薩戒による戒壇独立の動きには僧綱所の上席として反対したことが知られている。晩年、僧綱所では最高官の僧正に上りつめた。国家仏教の監理庁たる僧綱所で上首をつとめることは、学徳兼備である上にある種発言力や政治力も持ち合わせていなければならない。おそらく護命は律師に任じられる前から僧綱所の幹部候補生として僧綱所にかかわっていたと考えられる。役所的にはそういう気配が濃厚の人である。

 空海が東大寺で具足戒を受戒したのは延暦23年(804)。護命が律師になる約2年前である。護命が僧綱所の上席に対し、空海の具足戒受戒の申請裁可と同時に、度牒の申請と至急決裁をも要請したであろうことは想定可能である。上席は、護命や勤操の推薦の上、秦氏系要人の協力体制を見て、すぐに案件処理をしたにちがいない。

 蛇足になるが、空海の梵字・悉曇(今でいうサンスクリット)の語学力は抜群であった。長安で醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵から学んだことは史料などにも明らかであるが、実質的に1年程度の学習であれほどのレベルに達するはずがない。まちがいなく渡唐以前にサンスクリットの語学(文法・修辞・字体・発音・漢訳・和訳)を学んでいたにちがいない。
 では一体、どこの誰について学んだか、空海はこれを明かさなかった。察するに、天平8年(736)に大安寺にきて、東大寺の大仏殿の落慶導師をつとめたインド僧菩提僊那(ボ-ディセ-ナ)のサンスクリットを身近に大安寺で学びとった渡来僧の誰かであったろう。
 その時、霊仙もいっしょだったかもしれない。あるいは年齢的に霊仙の方が先に学んでいた可能性もある。この二人は、同じ第十六次遣唐使船で唐に渡り、霊仙は醴泉寺の般若三蔵のもとに留まり訳語の助手をつとめた。霊仙のかの地における栄進と悲劇的な最期については拙著『空海ノート』をご覧いただきたい。

◇秦氏の稲荷信仰と東寺と空海
 松尾大社の開基である秦忌寸都理(はたのいみき、とり)の弟、秦伊呂具(はたのいろぐ)が、和銅4年(711)、深草の地なる伊奈利山(稲荷山)三ヶ峯に、宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神(さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)を祀ったのが今の伏見稲荷大社のはじまりである。
 宇迦之御魂大神は稲荷山のある深草の地の守り神で、稲に宿る農耕の神。深草も太秦や(嵯峨の)葛野とともに、5世紀半ばには秦氏の居住するところとなっていた。この秦氏の稲荷山に立つ伏見稲荷大社と空海が密教化に努めた東寺の間に、秦氏と空海の親和関係を物語るエピソードがあった。


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            東寺五重塔               伏見稲荷大社



 天長3年(826)11月、空海は高野山造営の多忙をぬって前年成った講堂の建立につづき、東寺にわが国初の自らの設計監理になる密教様式の五重塔(「法界体性塔」)を造るべく建設に着手した。
 南都の官大寺にはいくつも立派な五重塔が建ち並んでいるが、一層部分の四角の芯柱を本尊(金剛界大日如来)にみたて、それを中心に柱の四面を背に金剛界四仏が四方を向いて坐る配置は、東寺の五重塔にしてはじめてであった。塔そのものが大日如来(金剛界)、つまり「法界体性塔」である。
 この五重塔の用材を、空海は伏見の稲荷山から調達したのである。一説では、この稲荷山の聖域から木材を切り出したため、それがたたって淳和天皇が病気になり、朝廷は官寺である東寺の造営にかかわることであったので、その罪滅ぼしとして従五位の下の官位を伏見稲荷大社に与え、天慶5年(942)に正一位を、応和3年(963)に京の東南の鎮護の神と定めた。

 この秦氏の祖霊や稲荷社を祀る伏見稲荷山は、奈良時代から鞍馬山や愛宕山とともに山中修験の聖地でもあった。空海の頃、東寺の密教僧の山林修行の場として使われていた。
 空海はすでに故郷の讃岐や大安寺の勤操や元興寺の護命や吉野の比曽(山)寺の「自然智宗」の修行者を通じ、秦氏との縁を深めていた。そしてこの頃には、嵯峨・淳和両天皇を通じあるいは朝廷の役務を通じ、官寺である東寺の造営別当として、秦氏の人と交わりが充分にあったにちがいない。
 さらに東寺の密教僧の山中修験の場として、秦氏系の神職・社家の理解と協力も得ていたであろう。秦氏の側も、嵯峨帝と空海の関係を知っていて、空海には格別に好意的であったと思われる。
 伏見稲荷山は、東寺五重塔の造営別当として空海にとって必要不可欠の山であった。空海と秦氏を触媒に東寺と伏見稲荷大社はジョイントされたのである。

 東寺と伏見稲荷大社を結ぶ祭礼が今もつづいている。毎年4月下旬の最初の日曜日から5月3日まで行われる伏見稲荷大社の「稲荷祭」である。この祭礼は貞観年間(859~876)にはじめられ、天暦年間(947~957)以後恒例の大祭になった。


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御旅所、東寺の東(油小路通角)       伏見稲荷、稲荷祭(神幸祭)



 この祭はもともと、5世紀頃朝鮮半島の加羅(伽耶)から渡りきてこの山背の地に定住した秦氏の怨霊を鎮め、タタリを除く「御霊会」として行われたという。おそらく秦氏がこの地に根ざすには、人種差別や階級差別や迫害や搾取の悲哀を味あわない時はなかったであろう。かれらは、未開拓であった山背の盆地を高度な農業技術によって開墾し、潅漑・農業・養蚕などを行い、氏神を祀り寺を建てた。しかし桓武の平安遷都にともない、艱難辛苦をして開拓した土地を没収されたり、朝廷貴族からは妬まれ、時には失脚・敗着・抹殺の憂目にあった。それでも秦氏は政権の表舞台に立つことなく自重・忍従の身に堪えたのである。
 「御霊会」は、平安京の民衆の間に起った魂鎮めの祭礼である。伏見稲荷山に祀られている秦氏の祖霊のうち「御霊」といわれる怨霊は、しばしば宮中や市中に疫病というタタリをもたらした。民衆は、自分たちにもふりかかる災いを避けるため、秦氏一族のための「御霊会」を「稲荷祭」に代替してはじめたのである。

 弘仁14年(823)正月19日、空海は嵯峨天皇の勅により、東寺を鎮護国家の密教道場にすることを任された。その年の4月13日、紀伊で出会った神の化身の老人が稲をかつぎ、椙の葉を持って婦人二人と子供二人をともない東寺の南門にやってきた。空海は大喜びして一行をもてなし、心から敬いながら、神の化身に飯食を供え、菓子を献じた。その後しばらくの間、神の一行は八条二階堂の柴守の家に止宿した。
 その間、空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日間祈りをささげて稲荷神にご鎮座いただいた。これが現在の稲荷社(伏見稲荷大社)であり、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿をつくって伏見稲荷、東寺、御旅所を回らせたのである。
 この伝説が、空海と東寺(の五重塔の用材)と伏見稲荷(山)と御旅所をつなぐエピソードである。伏見稲荷大社には明治期の廃仏毀釈まで神仏習合がつづき、荼吉尼天法を修する真言寺院の愛染寺があった。

◇秦氏の製銅・冶金・潅漑・土木技術
 天平15年10月辛巳の詔に、

ここに、天平十五年歳次癸未十月十五日を以て、菩薩の大願を発し、廬舎那仏の金銅像一躰を造り奉る。国銅を尽して象を溶し、大山を削りて以て堂を構へ、広く法界に及ぼして朕が知識と為し、遂に同じく利益を蒙らしめ、共に菩提を致さしめむ。それ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る。事や成り易き、心や至り難き。
・・人情に一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らむと願ふ者有らば、恣に聴せ。

とある。聖武天皇が発した東大寺大仏建立の詔である。
 天平17年(745)にはじめられた東大寺の廬舎那仏の鋳造には、73万7560斤(442536kg)の塾銅(にぎあかがね、精錬銅)が使われた。この大量の塾銅を供出したのは秦氏の勢力下の(先に触れた)豊前国「秦王国」の香春山と長門国の榧ヶ葉山(採鉱)と大切谷(精錬)(後の長登銅山)の技術者集団だった。
 豊前・豊後に展開した渡来系辛嶋氏・大神氏の技術者たちは宇佐八幡の鎮座する宇佐の地に住していたが、銅をはじめとする金属の鉱床を求めて、親和の間柄であった筑前の海洋氏族宗像氏に導かれ、長門・周防の地へ、さらには日本海沿岸へと移動していた。

 宇佐の秦氏は銅の供出で大仏造顕に協力したばかりでなく、「我、天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身を草木に交えて障ることなくさん」との宇佐八幡の神託を発し、莫大な資金と資材と人夫を要するためこの国家事業を聖武天皇のわがままだと反発する朝廷貴族を押さえ込んだ。
 この褒美として、大仏開眼供養会の際には聖武上皇や孝謙天皇などとともに宇佐の八幡神が輿に乗って大仏殿に入御し、八幡神には封戸(ふこ)800と位田(いでん)60町が贈られ、後には東大寺のすぐ東の手向山に八幡神を分社して祀り、東大寺の守護神としたのである。

 ときに、空海が指導監督を行ったとされる潅漑用水や港湾水利の修築にも、秦氏の技術者が関与していた可能性がある。
 まず、讃岐の満濃池であるが、空海の実家佐伯氏が領する真野の水田は、東方の中讃に展開する秦氏一族の潅漑技術の影響を受けて、早くから条里制を取り入れていたくらいで、満濃池の水利開発に秦氏の技術者がかかわらないはずがない。
 故郷の現地に赴いた空海は早速、人夫・馬・馬車・資材を大量にしかもすみやかに集め、たった2ヶ月の工事で日本最初のアーチ式ダムを完成させたという。それまで、朝廷から派遣された築池使の路真人浜継が3年かかって完成を見なかったことを考えれば、異常な早さである。この工事に、讃岐の秦氏の技術者たちを空海が動員したであろうことは容易に想像がつく。おそらく、讃岐平野に展開する溜め池群も秦氏の知恵と技術の所産であろう。

 次に、空海がその完成にあたって碑銘を書いた大和益田池である。ここも満濃池と同様に一気に人夫・馬・馬車・船・資材が大量に集められ、大規模な潅漑用水池が完成した。満濃池や和泉国の狭山池と同じ「樋管」(桧の巨木をくりぬいた木製の配水管)が使われていた。これこそ、秦氏の土木技術を物語る証左で、秦氏が展開した地の溜め池や河川の水利にしばしば「樋管」が発見されている。
 この大和益田池がある大和国高市の地は、先にもふれたが、古代における渡来人の集団居住地域であった。東漢氏(やまとのあや)の一番多い地域だが、秦氏を出自とする大安寺の勤操がここの出身である。秦氏も多く住んでいた。にわかに動員され、難工事に当った技術者は先進的な土木技術の持ち主で、それは秦氏系の人たち以外には考えられない。

 もう一件、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり)の港湾修築である。
 天長5年(828)、嵯峨と同様に空海と親交をもっていた淳和天皇は、空海を摂津国の大輪田泊の造船瀬所別当に任じ港湾修築の指導監督にあたらせる。朝廷は讃岐の満濃池や大和益田池の治水工事を短期間でやり遂げた空海の高い手腕を買い、着手以来15年を経ても埒があかないこの国営の港湾修築を空海に託した。
 この大輪田泊を最初に築いたのは、百済系渡来人西文(かわちのふみ)氏を出自とする仏教僧行基であった。行基は入唐留学僧道昭に法相を学ぶとともに、道昭が晩年に行った遊行と社会救済の土木事業に範をとった。全国各地を遊行し民衆のために潅漑用水や港湾開発を行ったディベロッパーであったが、そのバックにはいつも渡来系の技術者集団があった。空海にはどうもこの行基の「方法」に範をとっていたふしがある。
 大輪田泊が所在する摂津や西隣の播磨には、古くから秦氏が入植していた。播磨の平野部では水田開発を行い、赤穂などの沿岸では塩田や港湾の開発や海運を行った。空海の実家の讃岐の佐伯直氏は播磨の佐伯直氏の分家といわれる。空海は、大輪田泊の場合もそうした人脈を活用して別当の職を全うしたはずである。


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神戸、「大輪田」の名が残る橋        大和、益田池          讃岐、満濃池   



 以上、秦氏と空海のかかわりの概略だが、ついでに秦氏とも混血している藤原氏と空海の親和関係を述べておきたい。空海の破天荒な人生の行く先々で、秦氏と藤原氏とのかかわりが運を開いた。

◇藤原氏のルーツ
 朝廷氏族の雄である藤原氏は複雑な系譜をもつ氏族である。
 そのルーツは、大化の改新の功によって中臣鎌足が天智天皇(中大兄皇子)から四姓(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)のうちの名門藤原姓を与えられて藤原鎌足と名乗り、その姓を次男不比等が継承したことにはじまる。
 鎌足の氏族だった中臣氏は、古くから宮中の神事や祭祀にかかわってきた朝廷氏族で、神話の神天児屋命(天児屋根命、あめのこやねのみこと)を祖とする。この神はそのまま藤原氏の氏神となり、春日大社などに祀られている。ちなみに、鎌足のことを百済王子の豊璋(ほうしょう)と同一視する説があり、藤原氏は百済系の渡来氏族だというのだが、根拠がはっきりしない。

 藤原の嫡流となった不比等ははじめ、「壬申の乱」後の天武朝期に、天智に近かったとして中臣(藤原)氏が朝廷の中枢からはずされたため、しばらくは不遇の身であったが、文武天皇を擁立した功により天皇の後見として朝廷の中枢に返り咲いた。以後、第三夫人との間にもうけた長女宮子を文武天皇の皇后に送り、文武の乳母として後宮で名を成した県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ、橘三千代)を後妻に迎え、授かった三女光明子を聖武天皇の皇后(光明皇后)にするなど、着々と朝廷氏族の雄への道を歩んだ。
 不比等はまた、一族の権勢を誇るかのように壮麗な興福寺を建立している。もともと興福寺は、天智天皇の妃だった鏡王女(かがみのおおきみ)が藤原鎌足の正妻となった後、鎌足の病気平癒を祈って鎌足発願の釈迦三尊像を、山背(山城)の山階(山科)の私邸に祀って建てた山階寺(やましなでら)がはじまりで、その後飛鳥の廐坂(うまやさか)に移されて廐坂寺といわれていたものを、遷都とともに平城京の左京三条七坊に移し、中金堂ほかの堂塔伽藍を建立して興福寺と改名したものである。以来、興福寺は藤原氏の氏寺(私寺)ながら国家仏教の中枢を担うとともに、西の京の薬師寺と並んで南都法相の法城として君臨した。

 不比等には四人の男子がいた。正妻蘇我娼子との間に生れた長男武智麻呂(むちまろ)、次男房前(ふささき)・三男宇合(うまかい、馬養)と、第二夫人の大原大刀自(おおはらのおおとじ、五百重娘)との間にできた麻呂(まろ)である。この四人兄弟はいくたびかの権力争いを乗り越え、太政官の要職について朝廷の実権を握り、藤原四子政権などといわれた。こののち、武智麻呂の一門は南家、房前の一門は北家、宇合一門は式家、麻呂一門は京家といわれた。
 しかし栄華は長く続かず、四人の兄弟は折から流行の天然痘にかかって世を去り、四家ともに後継の子弟が未成人だったこともあって、しばらく衰微の時期があった。しかし、やがて聖武天皇と光明皇后の娘である女帝孝謙天皇の時代になると、南家の次男の仲麻呂(恵美押勝)が参議・大納言さらに天皇側近の中務卿や中衛大将に栄進し、政治と軍事両面の実権をにぎるなど、再び藤原氏の勢力が息を吹き返す。

◇藤原氏と空海の親和関係
 仲麻呂の南家は、その後代々、朝廷の中枢の地位にあったが、北家に押され気味となり、歴史に名を残す人はとくに出なかった。空海との縁で見ると、仲麻呂の十一男で南都法相の碩学だった徳一と、桓武天皇の第二夫人で伊予親王の母であった吉子(仲麻呂の弟の乙麻呂の子是公(これきみ)の娘)が目立つ。
 徳一は、壮年の頃平城京を離れて会津磐梯山麓に篭り、山岳信仰によって東国・東北の民衆教化に努めた人であるが、比叡山の最澄(天台宗)にはきびしく「三一権実諍論」をしかけ、最澄が亡くなるまでの五年間宗論を闘わせたが、空海には終始好意的で、空海が創案した密教への疑問を『真言宗未決文』にまとめて書き送ったが、通説が言うように、空海密教を批判したものではなかった。事実徳一は、空海から依頼された密典の書写を拒まなかった。
 また、吉子が桓武との間にもうけた伊予親王だが、空海の叔父の阿刀大足がその侍講(位の高い人の専任講師)をつとめた。吉子は「伊予親王の変」によって親王とともに飛鳥の川原寺に幽閉され、そこで自害したのだが、のちに二人の怨霊は「御霊」として祀られ、神泉苑や空海亡き後の東寺と西寺において御霊会が修された。

 北家と空海の縁は、まず空海に興福寺南円堂の設計監督を頼んだ藤原内麻呂(うちまろ)がはじまりである。内麻呂の妻百済永継(くだらのながつぐ)は河内国の百済系渡来氏族を出自とする飛鳥部奈止麻呂(あすかべのなとまろ)という。


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興福寺南円堂



 その次男冬嗣(ふゆつぐ)には百済系の血が流れている。南円堂は内麻呂の死後、弘仁4年(813)に完成し、冬嗣が父内麻呂の追善供養のために建立したかっこうになった。堂内には、内麻呂が用意した本尊不空羂策観音像のほか、四天王や真言八祖が祀られた。南円堂完成のあと、北家の権勢は益々さかんになり、内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺のなかでも特殊な位置を占めるようになった。
 冬嗣は、空海と同じように、嵯峨天皇の信頼が厚く、嵯峨が創設したブレーンスタッフ「蔵人所」(くろうどどころ)の事実上のトップである蔵人頭(くろうどのとう)となり、坂上田村麻呂(渡来系東漢氏の出自)とともに「薬子の乱」を鎮圧した。空海とは、この時期、最も親しかったと思われる。冬嗣は当然、父の内麻呂から空海の情報を縷々聞いていたであろう。渡来系の秦氏との親和関係も聞いていたはずである。百済系渡来人の血を引く冬嗣には、自ら進んで交わるに足る人物だと思ったにちがいない。

 また冬嗣は、空海が会津の徳一に密典の書写を依頼した時期、南西部の会津を含む陸奥国の国守に任じられている。徳一は冬嗣と同じ藤原氏直系の人である。密典書写の協力依頼は冬嗣を介してもきていたのではないか。それは同時に、同時期に東国・東北地方への進出をもくろんでいた最澄への政治的な牽制でもある。空海は空海で、東国の藤原系国守を動かして密典書写をたのんでいる。冬嗣は、最澄の天台宗に反発する興福寺(藤原氏の氏寺)をはじめ南都の仏教界をサポートする立場にあった。その南都の仏教界が反天台の切り札として頼む空海と組まないはずはない。お互いに嵯峨の側近でもあった。この状況を察して、徳一が不用意に空海批判などを行うはずはない。最澄天台宗の東北への進出を阻止するために切り札が欲しい冬嗣と、最澄と長い論争を繰り返す徳一と、最澄に「下僧最澄」と言わせた空海と、この絶妙なトライアングルを見逃してはなるまい。

 後代10世紀後半から11世紀にかけて、北家から藤原道長・頼道親子が出て摂関政治を行い、栄誉栄華を誇った。この親子はともに、興廃した高野山に登り弘法大師の御廟に参拝している。その後高野山はふたたび盛んになったという。

 ときに、藤原葛野麻呂(かどのまろ)である。空海と藤原氏の親和関係を語るのにこの人を落とすわけにはいかない。
 葛野麻呂の父は北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)で、母は秦氏系の(太)秦嶋麻呂(はたのしままろ)。小黒麻呂は、桓武天皇の信認厚く、側近として桓武政権を支え、大納言の地位まで上った人で、かれの妻の出自の秦氏が根拠地として展開する山背国葛野郡にほど近い乙訓郡長岡への遷都(長岡京)を強く推進した。

 ついでながら、小黒麻呂とともに長岡京造営に奔走したのが式家一門の藤原種継(たねつぐ)であった。彼の母も、秦忌寸朝元(はたのいみきあさもと)の娘で、秦氏である。種継は、桓武から長岡京造営長官に任じられ、山背国葛野郡の秦足長(はたのたりなが)や大秦宅守(おおはたのたくもり)ら秦氏一族の協力をえて着々と遷都を進めていたが、延暦四年(七八五)、造営の監督中に矢で射られて殉死した。
 首謀者として、すでに死亡していた大伴家持が官籍から除名され、大伴氏・佐伯氏をはじめとする官人が多数斬首・配流された。しかし、それでは終わらず、南都の国家仏教勢力の力に嫌気した桓武が南都の仏教勢力から離れようと遷都を企てたのに対し、東大寺や大安寺などの仏教勢力や宮中の祭祀を司る大伴・佐伯といった遷都反対勢力に、桓武の実弟で皇太子である早良親王がそそのかされ謀反を画策したとして濡れ衣を着せられ、長岡の乙訓寺に幽閉されたのである。その乙訓寺こそ、後に空海が別当に任じられ、早良親王の怨霊が漂うまま荒廃していたのを復興した寺で、そこに比叡山の最澄がたずねてきて、(伝法)潅頂の受法を乞うた舞台である。


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長岡京、乙訓寺               長岡京俯瞰図



 話を葛野麻呂に戻す。妹の上子(かみこ)が桓武の後宮に入っている。そのおかげでか栄進の道を進み、延暦23年には遣唐大使を命じられ、空海も乗った第十六次遣唐使船で唐に渡った。途中、東シナ海での遭難から長安に到着するまでの道中、かれは何度も空海に苦境をたすけてもらった。翌年無事帰国すると、参議・式部卿に任じられて天皇の近くで重用され、さらに中納言にもなった。

 ときに、彼の妻は、最澄の兼務住寺である高雄山寺を氏寺にもつ朝廷氏族和気清麻呂(わけのきよまろ)の娘である。和気清麻呂が道鏡の宇佐八幡神託事件で配流の憂き目に会ったことは先に述べたが、その後は桓武朝に復活し、とくに平安京遷都を桓武に強く進言し、遷都にあたっては造営大夫として活躍した。配流の身から天皇の側近にまで栄進したのである。しかし、桓武に取り入り平城京廃都を押し進める清麻呂に対し、南都の仏教勢力はおもしろくなかった。
 空海が、大宰府観世音寺での滞留義務を解かれて、和泉の槇尾山寺を経て高雄山寺に入る時、住持だった最澄は空海の高雄山寺入山を快く認めて引き下がった。最澄を説得したのは、最澄の天台に反対する南都仏教勢力の勤操らだったというのだが、陰の主役は葛野麻呂ではなかったか。
 たぶん勤操が、空海の異能をよく知り清麻呂の娘を妻にもつ葛野麻呂を動かした。葛野麻呂はこの時期、中納言になり、正三位にも上り、天皇の近臣の地位にあった実力者である。空海が正統密教の第八祖となり短時日で帰国したことに驚きながらも、無事に帰ったことを誰よりも喜んだのはかれだったにちがいない。唐土の福州に上陸する際に、かれの窮地を救ったのは空海であった。かれは、真綱(まづな)など和気氏の義弟たちに空海の文章と唐語の異能を熱く語って聞かせ、最澄に代って高雄山寺に迎えるべきであり、空海を外護することで和気氏一門が南都の仏教勢力とも融和できるであろうことを説いたと思われる。

 ついでながら、高雄山寺と和気氏と秦氏の間にまた深い縁がある。
 和気氏は、河内国内に展開した秦氏の鍛冶・鋳造の神鐸石別命(ぬてしわけのみこと、垂仁天皇の皇子)を祖とする。鐸石別命は死後、信貴生駒山地最南端の鷹巣山(高尾山)に葬られ、河内の秦氏はこれを高尾社として祀った。後に、備前国の磐梨(いわなし)郡石生(いわなし)郷を本拠とする磐梨(いわなし)氏(通称、和気氏)が、これをその地に遷座し氏神とした。

 和気清麻呂は本名を磐梨別公(いわなしわけのきみ)[といい、磐梨(いわなし)氏が本姓、和気清麻呂とは通称である。「わけ」とは「分別する」の意味で、石と鉱石を分けること。その「わけ(和気)」氏の本拠地が石生郷で、石生(いわなし)とは石成とも書き、鉱石が金属に成る(変化する)ことである。通称和気氏は古くからこの地で鍛冶・鋳造(金属の精錬)を得意として栄えていた。明らかに秦氏の技術者集団とのかかわりがそこに見える。秦氏は備前国のこの地域に早くから展開していた。
 ちなみに、清麻呂が、道鏡にからむ宇佐八幡の神託事件で、称徳天皇の勘気に触れて配流された大隈国といい、称徳の死後名誉回復して国司を命ぜられた豊前国といい、いずれもこの国に渡来してほどない秦氏の一族が一番早く勢力を伸ばした九州の拠点地である。しかも清麻呂は、山背国の秦氏がかかわる「高尾山」寺(高雄山寺)を復興している。

 「高尾山」寺(高雄山寺)はもと、愛宕山・鞍馬山などとともに、山背国の山岳信仰や修験の寺であった。ここに、清麻呂の子の真綱と仲世が、河内国の高尾山(神鐸石別命を祀る高尾社近く)に、清麻呂が八幡神の託宣によって建立した神願寺を移したものである。「高尾山」寺(高雄山寺)にも、山背秦氏がかかわる山岳信仰が関与していた。
 清麻呂は、平安京遷都を前に愛宕権現(愛宕山)で祭祀が行なわれた際に、祭祀奉行をつとめたりした。桓武の平安京遷都は、山背の地に一大勢力をきづいた秦氏の協力なしにはできなかったのである。


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神護寺境内の和気氏御廟            高雄山寺(神護寺)



◆阿刀氏
 次に、空海の母方の氏族である阿刀氏について記しておく。阿刀氏も渡来系氏族にほぼまちがいない。

 阿刀氏の阿刀(あと)は、安斗・安都・安刀・阿斗・迹ともいう。物部氏の一族で、本拠地を河内国渋川郡跡部(あとべ)郷(今の八尾市の一帯)とした。姓に、宿禰・連・造がある。神護景雲3年(769)、阿刀造子老(あとのみやつここおゆ)ら5人が、宿禰の姓を賜っている。
 本拠地の河内国渋川郡跡部郷には阿都、大和国城下郡には阿刀の地名があった。いずれも渡来系氏族居住地であり、船運で渡来人がよく往来するメインルートの大和川の要所に位置することから、阿刀氏の高句麗・百済系渡来人出自説がある。
 古代から朝鮮半島や中国大陸から畿内に渡来する外国人は、ほとんどが九州の那ノ津(今の博多)や坊ノ津(薩摩半島)に船で渡り、そこから瀬戸内海に出て東に横切り、住吉ノ津や難波ノ津にきた。内陸部の河内・飛鳥・平城京に行くには難波ノ津から淀川へ、淀川から大和川を進み、山背・平安京に行くには淀川から桂川をたどった。大和川の流域や桂川の上流には秦氏など渡来系の民が古くから居住していた。かれらは、すぐれた船と航行術をもっていた。
 当時、海を渡るには新羅船がもっともすぐれていた。船底の平らな日本の和船は外海の大波や風雨に弱く、日本の外交使節は大陸との往来の際しばしば新羅船の世話になった。住吉ノ津や難波ノ津から内陸部に入る際に淀川や大和川や桂川に浮んだのは、おそらく新羅系渡来人が造った舟だったであろう。阿刀氏は、河内国渋川郡跡部郷を本拠としつつ、これらの水運をフル利用して大和や和泉・摂津・山背に展開をしたに相違ない。

 阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子(実子だという説もある)で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足(おおたり)や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主(あとのすくねかさぬし)や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)や、大学助(だいがくのすけ、大学寮の教授)をつとめた阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)らがいる。
 また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳(あとのむらじちとこ)と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)らが名を残している。

 秦氏の根拠地となった太秦を含む山背国葛野の地に、阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る阿刀神社がある。平安京遷都にともない本拠地河内国渋川郡跡部郷から遷されたものである。秦氏と阿刀氏、同じ渡来系の氏族が、山背国葛野の地で共存することになったのである。


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   秦氏が築いた葛野大堰、嵐山渡月橋の上流部(大堰川)       嵯峨の住宅地、阿刀神社



 ときに、空海の生地讃岐に母方阿刀氏の痕跡がないという説がある。研究者が言う歴史上の痕跡や事蹟とは公式の史書に残された記録。すなわち朝廷の動向にかかわる記録によるのであって、朝廷の動向にかかわりのないことは痕跡や事蹟として後世には残らない。阿刀氏の痕跡が讃岐にないというのは、史書や地方の史料(風土記など)でそうであっても、空海の母方の阿刀氏が讃岐国多度郡に住んでいなかったという証左にはならない。まして、空海の生地は讃岐の屏風ヶ浦ではないという最近の某(学)説の根拠にはならない。
 少なくも、空海の実家の佐伯直氏が領する地の東方の中讃地方には秦氏が古くから入植していた。そこに、同じ渡来系の阿刀氏の一部が河内からきていたとしても何の不思議はない。空海の母阿古屋とその妹の一家が、そのなかにいたとしてもおかしくはない。河内国渋川郡→(大和川)(淀川)→難波ノ津→讃岐国多度郡は、渡来系氏族の船運ではぞうさない旅である。

 通説では、空海の母阿古屋は中央の漢学者阿刀大足の娘か妹だというが、ではあの時代、阿刀氏居住地の河内国か阿刀大足のいる平城京にいたであろうはずの阿古屋と、讃岐の俘囚系氏族である佐伯氏の善通との遠距離縁談が、どのようにすれば成立するのか。当時は婿の側の通い婚だったという話も加えれば、讃岐の善通が河内までしばしば船運で通ったのであろうか。それとも善通は領地にいないで河内か平城京の阿古屋のところにいて、空海などの子を成したのだろうか。
 そんな不可能に近い話で空海の母を阿刀大足の娘か妹にするよりも、阿古屋姉妹の一家をふくむ阿刀氏の一部が河内から秦氏の住む中讃の地に入ってきていて、中央で官人や学者や歌人を多く輩出しているすぐれた家系だという話が讃岐の多度郡一帯に聞こえ、それに佐伯氏の善通が敏感に反応したとみる見方の方が信憑性に富む。善通は東隣にきた阿刀氏の二人の娘に目をつけたのである。

 私見だが、佐伯善通は讃岐に封じられた俘囚(蝦夷)の一族佐伯氏を率いる身ながら、地方の国造クラスの氏族長としては識見の高い人で、中讃地域に居住する秦氏一族の農耕技術を取り入れ、真野の地から豊かな実りをえて富を築くとともに、朝廷祭祀を司る中央の佐伯氏(佐伯今毛人)にあやかって一族から中央官人を送り、一族の栄達を心がけたのではないかと思われる。善通はそのルートづくりを、秦氏の知恵を借りたか、現実に移そうとした。それが、讃岐にきた阿刀氏との婚姻戦略ではないか。
 善通はまず阿古屋を迎えた。さらに、阿古屋の妹に実弟を婿入りさせ、阿刀大足と改名させた。大足は、時期をえらんで阿古屋の妹とともに河内に移り、そこから平城京に出た。中央官人を志すには漢籍を諳んじ経学に通じなければならないが、大足は若くしてその才に恵まれ、官僚にはならず漢学者の道をえらんだ。桓武天皇の皇子伊予親王の侍講になって栄進したが、「伊予親王の変」によって不遇の身となるも陰に陽に空海の外護につとめた。

◆丹生一族
 渡来系の一族ともいわれ、「丹生」すなわち水銀の鉱床の発見と採掘や精錬術に長けた氏族に丹生一族があり、とくに西日本地域で、「丹生」という名前のつく土地や川や山や神社のある地方には丹生一族が展開していた。
 丹生一族は地域によって氏族名が異なる。伊勢の丹生一族は伊勢丹生氏であり、近江では息長丹生氏である。空海が高野山開創の折に多大なサポートを受けたことで有名な一族で、今もなお和歌山県かつらぎ町天野の丹生都比売神社に存続している丹生氏はその総称または象徴といえる。


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丹生都比売神(丹生明神)と丹生都比売神社



 私見だが、丹生一族はおそらく秦氏と同系の一族ではなかったか。朝鮮半島の南端からきて、最初おそらくの那ノ津に上陸し、やがて豊前(「秦王国」)に丹生の鉱床を見つけてそこに移住し、そこから豊後水道を横切って四国に渡った。さらに、四国を真横に横切り(その線上には四国霊場が並んでいる)、淡路島を経て紀伊の国に上陸し、紀ノ川沿いに高野山山麓の天野に向い、そこを本拠地として吉野や宇多へ、さらに東の伊勢などに進出したと思われる。その移動ラインはほぼ中央構造線上、つまり水銀鉱脈に沿っていて、銅の採鉱と精錬の技術集団をもつ秦氏の展開と類似している。

 丹生一族のルーツは定かではないが、伝説では中国春秋時代の5~4世紀に滅びた呉・越の民が呉の王女姉妹を戴いて南九州に渡り、姉の王女大日女姫(おおひるめのみこと)はそこにとどまって天照大神の原型となり、妹の稚日女姫(わかひるめのみこと)はミズガネ(=水鉄)の女神として敬われ、丹生都比売神の原型となったといい、越の民は金属採集に長じていた、という。これも秦氏の渡来伝説と酷似している。

 「丹生」とは丹生明神・丹生都比売神社の丹生。「丹」は今の化学でいう水銀(とくに硫化水銀)のことで、丹砂・朱砂・辰砂ともいう。空海の時代、すでに鎮静・催眠の薬剤として用いられ、道術の要素を採りいれた古代山岳修行者(そこにまた秦氏の名がまた見え隠れする)の間では不老不死の丹薬として重宝がられた。また古墳内部・石棺や神社仏閣の彩色塗装の顔料や、天皇家や貴族の朱漆器などの原料となった。
 さらに注目すべきことは、あの当時すでに合金の技術が実用化されていて、丹生すなわち水銀がメッキ剤として使われていた。その顕著な事例が、東大寺の大仏造顕にあたって73万7560斤(442536kg)の塾銅に1万436両(386kg)の金と5万8620両(2169kg)の水銀が金メッキ剤として使用されたという。
 塾銅を供出したのは宇佐と長門の秦氏だった。この大量の水銀を当時供出できたのは、丹生の一族を措いてほかにないと考えるのは不自然なことではない。

 ときに、空海の高野山開創をサポートした丹生一族のことであるが、具さには紀伊丹生氏、つまり丹生都比売神社の天野祝(あまののはふり)の家系をいう。この紀伊丹生氏は、4世紀頃には紀伊国伊都郡の地にきていたといわれ、先住の大伴氏から土地を譲られ、今の伊都郡かつらぎ町三谷に丹生酒殿神社を祀った。以後、紀伊丹生氏は大伴氏や土豪の紀氏と血縁の関係をもち紀伊丹生総神主家として代々続く。
 高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、

古人の説によると、私の先祖太遣馬宿禰は、あなたの国(紀伊国)の祖である大名草彦の分かれであります。一度訪ねたいと久しく考えていますが、あれこれ妨げがあってなかなか志を遂げられず、申し訳なく思っています。今、密教の教えに基づいて修禅の一院を建立したいと考えてきました。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えます。そのようなわけで上表文をしたため、天皇に高野の地の下賜をお願い致しましたところ、早速慈悲の心をもって裁可の太政官符を下されました。そこでまず一・二の草庵を造立するため弟子の泰範・実恵らを高野に派遣いたします。ついては仏法の護持のために僧俗相共に高野山の開創に助力賜りたく存じます。私は来年の秋には必ず高野に参りたく考えています。
(『高野雑筆集』)

 ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神(高野明神・高野御子大神)だったという伝えもよく知られているところであるが、その狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。


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束帯姿と狩人姿の狩場明神



 「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。

 丹生家信は、宣化天皇(467~539)を祖とする丹治氏から、延暦12年(793)丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(和銅開珎、708)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。

 狩場明神については従来この地一帯の土豪の首領だという説があった。興味深いのは、その土豪とは坂上(さかのうえ)氏、首領とは犬甘(いぬかいの)蔵吉人のことで、犬甘蔵吉人を犬飼蔵人と読み、坂上氏の先祖である阿智使主(あちのおみ)のあとに蔵人の名が見えるところから、坂上氏の人だという推定である。『紀伊続風土記』には「犬甘蔵吉は阿智使主の後蔵人と見ゆえたる人にて応神天皇廿年阿智使主と共に帰化せしむを同廿二年の事当社へ寄せるたまへるなるへし」という。
 坂上氏といえば、桓武・平城・嵯峨の三天皇政権の軍人のトップとして蝦夷を征伐し「薬子の乱」を鎮圧した征夷大将軍坂上田村麻呂を思い出すが、坂上氏は紀伊国伊都郡から紀ノ川北方の今の橋本市一帯を本拠とし、丹生都比売神社には(氏子長者として)財政や神馬の管理などで信助を惜しまなかったといわれている。ちなみに、空海と坂上田村麻呂は同じく嵯峨天皇のブレーンであった。

 ところで、先の空海の手紙に出てきた大名草彦とは紀伊国第五代国造の大名草比古(おおなぐさひこ)とみられ、紀氏の祖先になる。紀氏と紀伊丹生氏の関係は古く、丹生氏の庵田刀自(阿牟田刀自、あむたのとじ)と紀氏の豊耳(とよみみ)が結婚して、その子孫が紀伊丹生氏の嫡流となったという。紀伊丹生氏は、紀氏が奉祀する日前宮(名草宮)のなかの草宮(紀氏の先祖が祭られているという)に、毎年丹生都比売神の神輿を渡御し(浜降り神事)、紀氏は、国造に任じられ宮中参内のために京に上った帰途、丹生酒殿神社に参詣して白犬を供えるのが恒例となった。
 後年、紀伊丹生氏から紀氏に養子を出したり、紀伊丹生氏が大伴氏から養子を迎えたりして、紀伊の有力氏族の間に血族関係が生まれるとともに、神事に関しても氏族間で神事の融合がみられるようになった。

 さて、空海が高野山に入山する途中出合った南山の犬飼が、丹生総神主家当主の丹生家信だったとすると、「丹生」すなわち水銀の守護神である丹生都比売と、その丹生都比売の祭祀を行なう神職が、空海によって銅(カラ)の守護神(狩場明神)としてシンクロされた(水銀と銅が合体した)ことになる。
 ともかく、東大寺大仏の造顕に使われた水銀と銅のことを考えれば、当時いかにこの鉱物が貴重かつ重要な先端資源であったかがわかる。空海の高野山入山に関する丹生都比売大神の託宣と狩場明神との出合いの話は、先端文化としての空海とその密教が当時の先端技術を背景に新登場したことを物語っている。

 また、紀伊丹生氏すなわち天野祝氏は丹生都比売命の祭祀を司る神職であって、実際に水銀の鉱床を探して採掘したり、水銀を精錬して鍍金剤にしたり、薬品加工して丹薬にしたり、朱色の顔料にしたりする技術をもたなかったという。それを天野祝氏にもたらしたのはおそらく秦氏であろう。死体に朱(丹生)を施して再生を願い死霊(怨霊)を封じる古代からの呪術的な習俗もおそらく秦氏がもたらし、それを天野祝氏の神職が司祭したことも考えられる。

 丹生一族と秦氏は、表裏一体の関係にあったのではないだろうか。やがて、水銀の鉱床が次第に掘り尽くされ、水銀の需要も減少するにつれて、秦氏は技術力・経済力を背景にさまざまな産業を興し、朝廷の氏族を支える有力なサポーターとなり、山背国太秦に本拠を構えるようになる。

 以上、空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺について略記した。

 空海の超人的な偉業は自身の異能によるところが大きいことは言うをまたないが、古代日本の産業技術や権力構造を実際に動かしていた渡来人氏族、とくに秦氏との親和関係なしには成しえなかったともいえる。
 空海のすごさは、そのルーツに由来するのか、異国の人や言葉や文化や技術を苦もなく受け容れ、理解し、それを自分のものにしてフル活用するところである。この並外れた能力、つまりマルチタレント(多才)性に偉業の秘密があるといっていい。

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