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大師命がけの渡唐の真意

はじめに

『御遺告』に、和泉の槇尾山寺で剃髪し沙弥になってほどなくの大師が、十方の諸仏に対し「唯一無二の教えを示したまえ」と一心に祈り感得したところ、

夢ニ人アリテ告ゲテ曰ク、此ニ経アリ、名字ハ『大毘盧遮那経』トイフ、
是レ乃(なんじ)ガ要ムルトコロナリト。即チ随喜シテ件ノ経王ヲ尋ネ得タリ。
大日本国高市郡久米ノ道場ノ東塔ノ下ニ在リ。
此ニ於テ一部緘ヲ解イテ普ク覧ルニ、衆情滞リアリテ憚問スル所ナシ。
更ニ発心ヲ作シテ去ンジ延暦二十三年五月十二日ヲ以テ入唐ス。
初メテ学習センガ為ナリ。
とある。

夢告により『大日経』を久米寺の東塔の下で発見し、一部緘を解き閲覧したが、よくわからないので気持ちも進まず、また問い質す所もなかったので、改めて発心し、その学習のため入唐した、というのである。

「夢告」譚は教祖・開祖の伝によくあることで、この夢告説の真偽はわからないのだが、この説が大師渡唐の動機として定説のように永く語られてきたことは周知の通りである。

大師渡唐の動機にはこのほか諸説あり、あるいは最新の華厳思想の受学と言い、あるいは『大日経』よりも新しい密典『金剛頂経』の受学・修習と言い、あるいは「潅頂」受法と言うが、私見によればこれらはみな空海の真意に迫っていない。この稿は、上述の『御遺告』の文をベースに推考していこうと思う。

然るに空海は、『大日経』を初見して何がわからなかったのか。
その答えは、おそらく「住心品」の教理部分も「具縁品」以下の実修部分もすべてがわからなかったというのが正しかろう。それは無理からぬことで、空海は沙弥になってまだ日が浅く(20才そこそこ)、仏教思想の理解も自らの思想的展開もまだまだ未熟なものだったからである。

『大日経』とは言うまでもなく、唐の開元13年(725)にインド僧の善無畏三蔵が中国にもたらし、中国人の弟子一行の協力をえて漢訳をした『大毘盧遮那成仏神変加持経』(七巻)のことである。

西大寺は、他の官大寺が法相・三論・律・倶舎などを修学するのと異なり、大師請来以前の密教仏(孔雀明王像)や吉備由利が書写奉納をした「天平写経」の『大毘盧遮那経』など、密教の尊像や経典類を早くから有していた。吉備由利が奉納したという五千二百八十二巻の仏典(「西大寺資財帳」)はおそらく、由利の父とも兄ともいわれる吉備真備の入唐留学以来の同輩である法相の玄昉が唐から持ち帰った経論の写しであっただろう。そのなかに不空訳以前の雑密経典に混じって『大毘盧遮那経』があったのである。

大師渡唐の真意

先にふれたように、大師渡唐の動機には諸説ある。

  1. (1)「華厳」の最新の思想理解のため、という説。

    その根拠は、渡唐前の大師の内なる思想的関心が大乗の精華といわれる「華厳」にあり、日本に伝わってきた「華厳」思想は受講・読解によってマスターしたのだが、最新の「華厳」思想といわれる澄観(中国華厳宗第四祖)の「四種法界」説は未学だったから、というもの。

    大師は、聖武天皇がこの国を「華厳」の説く仏国土に擬し、諸国に国分寺を置いて釈迦如来や薬師如来を祀らせ、総国分寺の東大寺(大和国分寺)には蓮華蔵世界の主「盧舎那仏」を鎮座させた「華厳国家」を理解していたし、その著作の引用等からもわかるように『八十華厳』・『六十華厳』や法蔵(中国華厳宗第三祖)の『探玄記』や『華厳五教章』に精通していた。「十住心」で「華厳」を第九住心に置き高く評価していたことも周知の通りである。おそらく、「空白の七年」に東大寺などに足しげく通い、然るべき学匠から相当深く「華厳」関係経論の指南を受けていたにちがいない。

    長安では、『四十華厳』を訳出したばかりの般若三蔵(大師のサンスクリットの師)のもとで、『四十華厳』のほかに当時の中国華厳宗を代表する澄観(第四祖)の「四種法界」説(「事事無礙」など)も聞いたはずである。澄観は般若三蔵の『四十華厳』の証定をしている。この『四十華厳』を大師は持ち帰っている。

    こうした大師の事蹟から、「華厳」の最新の思想理解説も尤もであるが、大師は自分の内なる仏教思想史(思想的展開)として「華厳」で満足しなかった。すでに大師は、「盧舎那仏」から「大毘盧舎那如来」へ、「三劫成仏」から「速疾成仏」へ、「海印三昧」から「三密瑜伽」へ、「真如法界」から「曼荼羅」へ等々、「華厳」を超えていた。そのくらいに『大日経』の理解が11年の間に進んでいたと見ていい。しかし、『大日経』の完全理解には、然るべき師の口授が必要だった。

  2. (2)『金剛頂経』を求めて、という説。

    「御請来目録」には、『大日経』関係では『大日経疏』以外には念誦法などの儀軌類・曼荼羅が少々見られるだけで、圧倒的に『金剛頂経』系の経典儀軌類が多かったことから、大師渡唐の目的は当時の日本では全容がわからなかった密典で『大日経』よりも新しい『金剛頂経』への関心だった、というのである。

    しかしこれには、いつどこで『金剛頂経』を大師が知ったか明らかでないし、のちの内なる思想的展開をみても大師は『大日経』に依拠している。

  3. (3)ある研究者らが「従来からある」と言って有力視する「潅頂」受法を求めて、という説。

    根拠は、「潅頂」受法という予めの目的を短期間で達し、目的を達したらすぐ(20年の在唐義務(国禁)を破ってまで)帰ってきたから、というもの。

    しかし、この説は諸説のなかで一番尤もらしく一番的外れである。

    何故なら、渡唐前、「具縁品」に曼荼羅の作壇法や構造、入曼荼羅=「潅頂」の阿闍梨と弟子の資格要件などが説かれ、「息障品」第三以下にも「潅頂」の何種かが説かれているのを仮に知っていたとしても、純密の付法の師もなく修行経験もなかった大師に、「潅頂」受法の資格があるわけがなかった。そもそもが、目的(「潅頂」)を達したからすぐ(20年の在唐義務(国禁)を破って)帰ってきたのではなく、帰国を急いだのは「すぐに東国に帰ってこの法門を広めよ」という恵果和尚の遺言に愚直に従ったからである。

然らばかく言う私は、大師が久米寺の初見でわからなかったのは何かをもとに、大師の密教の特性が言語哲学であること、そして大師の言語の異能ぶり、異種言語の能力、とりわけサンスクリットの語学力から推して、大師渡唐の真意は「具縁品」以下の実修部分に出てくる「真言」の理解、それに不可欠な梵字・悉曇つまりサンスクリットの修得、だと言うに躊躇しない。

『御遺告』の一文に言う「衆情滞リアリテ憚問スル所ナシ」(どんな人が読んだとてそこで止まってしまい、それを問い質す所もない)とは「真言」のことで、すなわちごく短いフレーズに簡略化された漢字表記のサンスクリットである。言語世界に異能をもつ大師にして読んでもわからなかったのは、漢字表記されたこのインド古典語以外にないと断言していい。

それはそうである。槇尾山寺で剃髪してほどなくの頃の大師に虚空蔵菩薩の「真言」を何万遍も続けて唱える能力はあっても、漢字表記された多種多様な「真言」の一つ一つが何たるかはわからなかったにちがいなく、誰に質してもその答えは返ってこなかったであろう。

だから大師は、渡唐するまでの11年間とくに「空白の七年」に、相当に集中してサンスクリットを学んだのである。それが、渡唐後醴泉寺のインド僧般若三蔵のもとで生のサンスクリットを修得できたことや奇跡的な恵果からの密教受法につながっていく。

時に、あの時代渡唐を決意するには相当の覚悟が要る。

留学生たちが乗る遣唐使船が東シナ海で難破し沈没する事例は枚挙にいとまがなく、遣唐大使佐伯今毛人は、一度目は五島列島の沖合まで出たものの恐れをなして那ノ津(博多)に引き返し、二度目は都で仮病を使って辞退し大使代理を副使の小野石根に託したところ、帰路石根は遣唐使船とともに東シナ海の藻クズとなった。従って、渡唐するには「どうしてもそこに行く必要がある」動機・目的がなければならない。

大師にとって、『大日経』は然るべき付法の師に付いて口授を受けなければならない初体験の密典であり、「空白の七年」に相当サンスクリットを学んだが、「具縁品」以下の実修部分に出てくる漢字表記された多種多様な「真言」はどうしてもわからなかった。それがわからなければ『大日経』がわかったことにならず、『大日経』がわからなければ大師の思想的展開はそこで挫折するのである。

それが空海というコトダマの人の言語の異能=自尊心に火をつけた。自分が最も得意とする言語の世界でわからないことが生じた。それもこの国ではその答えが得られない。ならば東シナ海の危険を冒してでも命がけで渡唐し、然るべき師に付いてこれを会得したい、異種言語への自尊心はまっすぐ長安に飛んだのである。

私は、「空白の七年」にヤマでの雑密体験と奈良の官大寺での大乗仏教思想の学解を重ねた大師の内なる思想的展開は、煩悩のままに生きる生き物の心にはじまり、世間のさまざまな心や倫理道徳・宗教心を超え、釈尊の思弁を超え、小乗の「声聞」・「縁覚」道を超え、大乗の「三論」・「唯識」を超え、「天台」・「華厳」を超えて、『大日経』へと発展していたと推考している。

一方また、「住心品」に説かれる「凡夫の心」・「順世の八心」・「出世間の心」の階梯が大師の心に大きな昂ぶりを呼んでいた。それはすなわち、のちの「十住心」として体系化される。

そこまで思想的に高まった大師の心は、あらためて初歩からの本格的な『大日経』の全容理解、すなわち「住心品」の教理の理解と、「具縁品」以下の実修部分の修習、そしてその修習に必要な「真言」の理解、それに不可欠なサンスクリットの修得へとはやっていたと私は見ている。

大師のサンスクリット語学力

大師の密教思想は換言すれば言語哲学である。その言語哲学の根源は、大師特有の言語の異能にある。

その異能を挙げれば、

  1. 幼少の頃から言葉を憶えるのがきわめて早く、「貴物」(とふともの)と呼ばれた。
  2. 生家である讃岐の佐伯氏には、ヤマトコトバでもなく讃岐の方言でもない異種言語(蝦夷あるいはミコトモチ)の血が流れていて、大師は幼少の頃から異種言語を聞く環境のなかで育ったという。
  3. 暗誦力・暗記力がすこぶるよく、奈良の大学寮に入学する前、そして入学後も主要な漢籍の素読による暗誦ができた。
  4. 大学寮で、唐語(おそらくは長安周辺の地域で話されていた中国語)を身につけ、また江南から沿岸部(浙江・福建など)の中国語がわかり話すこともでき、さらに唐の朝廷で使われていた漢音による会話交流もできた。
  5. 漢字の字体(書体)に精通し、書道ものちに書聖と言われるほどの能筆だった。
  6. 虚空蔵求聞持法の行中、虚空蔵菩薩の「真言」を何万遍も続けて唱えられた。
  7. サンスクリットの(アルファベット)の原初母音である「ア」を法身・大日如来(宇宙の原初仏)の表象とし、さらに不生・不滅(すなわち「空」)を表す表象(「阿字本不生」)とした。
  8. 朝鮮半島南部の「伽羅」から渡来した秦氏の人たちと終始親密な関係にあった。おそらく朝鮮語も話し解したであろう。

ところで、大師のサンスクリット語学力が高いレベルだったことは、『吽字義』・『声字実相義』などの著作や『三十帖策子』の赤入注記などを通して明らかである。

推量するに、大師は「空白の七年」の間、月の半分は山林修行、あとの半分は南都官大寺での大乗経論の講筵に参じたり、学匠から指南を受けたりするなか、おそらくは大安寺に止宿していたインド僧からおよそのサンスクリット語法や単語を修得していたはずで、現在大学で教えているクラシカルサンスクリット程度のレベルにあったと思われる。その基礎的素地があったからこそ、長安で醴泉寺の般若三蔵や牟尼室利三蔵の生のサンスクリットについていけたにちがいなく、短期間に読めて書けて漢字と日本語の意味がすぐわかるまで上達していたであろう。

その比類なき言語能力を認めた般若三蔵が、晩年になって然るべき後継者がいない青龍寺の恵果和尚に大師を紹介し、

相待ツコト久シ、必ズ須ク速カニ香花ヲ弁ジテ、潅頂壇ニ入ルベシ
と言わしめたのである。

当時の「潅頂」は厳格なもので、受法する者が「真言」の読みと意味の理解が即座にできることが必須だったと思われ、恵果和尚が多くの弟子を薫育しながら後継者が決まらなかったのは、伝法の阿闍梨になるにはそれだけのサンスクリット語学力が求められたからに相違ない。

余談ながら、大師のサンスクリット修学の友に14才年長の霊仙という法相の僧がいた。霊仙は、大師とともに第十六次遣唐使船で渡唐し、般若三蔵のもとで筆受や訳語に力を発揮した。このことは大師のサンスクリット能力の傍証となる。

霊仙は、道教よりも仏教を保護した皇帝憲宗から庇護を受けたが、憲宗が反仏教徒に暗殺されると五台山に避難した。日本の淳和天皇から黄金が贈られるなどしたが、かえって羨望の的となって迫害を受け五台山の霊鏡寺で非業の客死を遂げたという。これを、最後の遣唐使船で渡唐し五台山に上った円仁が聞き、同行の円行らが遺品を持ち帰った。

大師は、『三十帖策子』の赤入注記のほか、『吽字義』では「吽」(「ウン」「フーム」)の字を字相と字義との二方面から解釈し、『声字実相義』ではサンスクリット翻訳の際難儀な複合語(コンパウンド、「六離合釈」)の正確な理解のもと、その隠喩を駆使して声字即ち実相を明かし、『金剛頂経開題』や『法華経開題』などでもサンスクリットの語句の説明を行い、『般若心経秘鍵』では、冒頭から梵字(=種子)の素養を発揮し、末尾の「ギャーテーギャーテー」には仏教思想史に通じサンスクリットができなければ言えない解釈をしている。また弘仁5年(814)には『梵字悉曇字母幷釈義』(わが国初の梵字辞典)を著わし、並々ならぬサンスクリットの語学力を示した。大師の思考回路のなかには常にサンスクリットがまわっていた。

大師のサンスクリットに学ぶ

密教経典の訳経にあたっては、往古より、「真言」・「陀羅尼」の部分をその国の言語に翻訳せず、梵語の発音をそのまま漢語の音訳にすることが伝統とされてきた。

一方また、漢語表記を用いずに「真言」・「陀羅尼」を梵語の文字(梵字・悉曇)のまま書写・表記したり、梵音で読誦することもよく行われた。今私たちの前に、漢語表記と梵字表記という二種の「真言」・「陀羅尼」があるのはそのためである。

わざわざそんな方法がとられたのは何故か。それは、周知の通り、「真言」・「陀羅尼」が特別な言語だからである。言葉そのものに霊力が宿ると見なされたコトバであり、また人間(俗なるもの)と仏(聖なるもの)とが交信交感するコトバなのである。

この日本にも、「真言八祖」である大師がこのコトダマ言語を中国からもたらした。

そのような大師が立教開宗したわが真言宗では、梵字・悉曇の修学はとくに重んじられた。江戸時代にはあの飲光(慈雲尊者)が『梵学津梁』千巻を著わし、智積院では大寂が『梵漢標目』(「梵漢字典」、智山全書所収)を編纂した。地方寺院の徒弟たちも、「作法次第」を自ら作る際「真言」の部分を当然のように梵書した。子弟の専門教育機関には悉曇の講義があり、若い学侶は苦闘しながらもその修得に励んだ。

しかし、いつの頃からか、真言僧ながら梵字・悉曇などわからなくてもいいことが常態化してしまった。嘆かわしいことに、某宗務庁発行の『勤行法則』の「真言」・「陀羅尼」(梵字で表記)にはカタカナのルビがふられ、『四度次第』の「真言」・「陀羅尼」に至っては梵字がひらがな表記になった。

これでは、コトバのなかに霊力の内在を見る高次のコトバ(マントラ)どころではない。密教が密教たる大事なアイデンティティーを自ら放棄しているに等しい。大師をはじめ三国伝灯の密教の祖師たちが労苦して伝えてきた言語宗教としての伝統が、安易な便法によって崩壊同然となっている。ひらがな表記では、発音や単語のつながりも切りどころもウヤムヤになる。大師がその書法に応用した悉曇の「切り継ぎ」など関心の外になる。真言僧の常識だったはずの悉曇の「切り継ぎ」は今忘却の彼方だ。

大げさのようであるが、日本の真言僧の間でサンスクリットの素養が絶えれば、真言宗の密教たる歴史が終ると私は思っている。インド・中国にもはや密教はない。無論、シルクロードにも朝鮮半島にもない。わずか、この日本のわが真言宗にのみ正統密教が残っている。

「早く東国に帰りこの法門を広めよ」と言って正統密教を大師に託した恵果和尚の遺志に沿い、命がけでそれをこの国にもたらした大師の労苦に報いるために、梵字・悉曇・サンスクリットの修学の火を今一度赫々と燃やすべきである。

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