エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海論遊

トップページ > 空海論遊 > 長澤弘隆のページ > 空海の仏教総合学 その2

空海の仏教総合学 その2

第一章 人間の業欲を問う

一、異生羝羊住心

空海が『十住心論』で第一に取り上げた「異生羝羊住心(いしょうていようじゅうしん)」。
 空海の仏教総合学はまず、人間の業欲、すなわち動物と同じ本能むき出しの我欲を問う。

異生とは、道徳もわきまえず、宗教心もなく、ただ本能的我欲に左右されて生きている人間(「凡夫」)の心のレベルで、「異生羝羊心」とは「凡夫の善悪を知らざるの迷心」、「愚者の因果を信ぜざるの妄執」だと空海は言う。
 空海は、「十住心」を、我欲・我執(煩悩)という人間の生命活動の根源から説きはじめる。これは実は仏教思想史の根本問題でもある。

この心のレベルは、羝羊(雄羊)が本能のままに食欲や性欲を満たそうとするのと同じで、我欲・我執におぼれて因果の道理をわきまえず、水辺や陸地に美味を探し歩き、天地に女色を求め歩くことの繰り返し。そして、その行いといえばみな悪業(「十悪業」=殺・盗・淫・妄語・麤悪(そあく)・離間(りけん)・無義(むぎ)・貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち))で、報いとして「三悪趣」(地獄・餓鬼・畜生)をさまようのである。

「三悪趣」とは、「凡夫」・「衆生」がさまよう「六道」のうちの三つであるが、空海は「五道」(地獄・餓鬼・畜生・人間・天)を挙げ、「凡夫」・「衆生」の住むところである「器界(きかい)」(「器世界」「器世間」)のこと、すなわち「須弥山」世界(=「三千大千世界」)のこともかなり字数を費やして詳述している。

○<地獄趣>は、「欲界」の最下層の心のレベルで、八つの地獄(「八大地獄」・「八熱地獄」)がある。
その最低が「無間(むけん)地獄」(=「阿鼻(あび)地獄」)。
その上に「極熱(ごくねつ)地獄」。
その上に「炎熱(えんねつ)地獄」。
その上に「大叫(だいきょう)地獄」。
その上に「号叫(ごうきゅう)地獄」。
その上に「衆合(しゅうごう)地獄」。
その上に「黒縄(こくじょう)地獄」。
最上部に「等活(とうかつ)地獄」。

また、この「八大地獄」にはそれぞれ「寒地獄」があって、賢者(けんじゃ、仏道修行者で「加行位」にある者)や聖者(しょうじゃ、「加行位」を超え「見道位」にある者)を誹謗した者が堕ちる。

▽「無間地獄」は、仏法を誹謗中傷し非道の教義を吹聴したり(「讒法(ざんぽう)」)、殺生・偸盗・邪淫・妄語を犯したり(「四重」)、父母を殺し、阿羅漢を殺し、仏身を傷つけ、教団(サンガ)の和合を壊したりする者(「五逆罪」)が堕ちる最下底の地獄。
 この地獄に真っ逆さまに堕ちること二千年かかるという。堕ちれば、先の尖った剣の木々、刀の山、熱湯、奇怪な鬼が待ち受けていて絶え間なく責められ、舌を抜かれて百本の釘を打たれ、毒虫や火を吐く大蛇に攻撃され、熱した鉄の山を昇り降りさせられる。
▽「極熱地獄」は、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・持戒浄行の童女や比丘尼を犯すこと(「七悪」)を犯した者が堕ちる。
 この地獄では上位の六つの地獄の十倍の苦しみを受ける。この地獄のどこからも火焔が吹き出ていて一つ上の「炎熱地獄」よりさらに焼かれて焦げる。その炎の高さは三五○○km、苦しむ罪人の叫び声は二万一千km離れたところにも届くという。
▽「炎熱地獄」は、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見を犯したり、他に施しもせず喜捨もせず、因果応報などないと言う者が堕ちる。
 この地獄では、一つ上の「大叫地獄」の十倍の苦を受ける。真っ赤に焼けた鉄板の上で焼かれ、鉄の串に刺されて焼かれ、時には目・口・鼻・手足などに分解されて焼かれる。
▽「大叫地獄」は、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語を犯したり、互いに言い争って正しいことを言わず、財産を失くし、命を断つような者が堕ちる。
 この地獄では、一つ上の「号叫地獄」の十倍の苦を受ける。「号叫地獄」のものよりさらに大きな鍋や釜で熱湯責めにあったりする。
▽「号叫地獄」は、殺生・偸盗・邪見・飲酒を犯したり、多くの出家僧や持戒の人や禅定を行っている者に酒を飲ませるような者が堕ちる。
 この地獄では、一つ上の「衆合地獄」の十倍の苦を受ける。鍋や釜で熱湯責めにあったり、猛火で熱せられた鉄の部屋で火焔責めにあう。罪人は泣きわめくが、かえって異形の獄卒(ごくそつ=鬼)を怒らせ、弓矢で責められたり、焼けた鉄の上を歩かされたり、鉄の棒で打たれたりする。
▽「衆合地獄」は、殺生・偸盗・邪淫を犯したり、尊者の妻と邪淫するような者が堕ちる。
 この地獄では、一つ上の「黒縄地獄」の十倍の苦を受ける。二つの対面している鉄の山が同時に崩れ、埋もれて死んだり、美人に惑わされて先の尖った剣の葉をもつ木に登り、登ると今度は木の下で美人が誘惑し、上下するたびに身体が剣で傷つき血が流れ出たり、鉄の巨象に踏まれてつぶされたりする。
▽「黒縄地獄」は、善人の財物を盗んだり、受戒の人や善行の人を殺した上に、その人の物を盗んだりし、その場を離れても後悔反省しない者が堕ちる。
 この地獄では、一つ上の「等活地獄」の十倍の苦を受ける。焼けた鉄の地面にうつ伏せにされ、焼けた縄で縛られ、焼けた鉄の斧やのこぎりで縄にそって切られたり、裂かれたり、削られたりする。また、大きな鉄の山が左右にあり、二つの山の上にそれぞれ鉄の幢(はた)を立て、それを鉄の縄でつなぎ、縄の上を鉄の山を背負わせて罪人に渡らせる。罪人は鉄縄から落ちて圧死するか、あるいは鉄の鼎に落ちて煮られるかとなる。
▽「等活地獄」は、善人・受戒の人・善行の人を殺して、後悔反省しない者が堕ちる。
 この地獄では、罪人たちが鉄の爪や刀剣などで互いを傷つけ殺し合う。他の者も獄卒に切られたり砕かれて死ぬ。しかし、獄卒は罪人を生き返らせてまた責めるので「等活」といわれる。この罪人が生き返って何度も責められることは、どの地獄でも同じである。
○<餓鬼趣>は、貪りや物惜しみの者が堕ちる心のレベル。要するに、他の物を欲しがり、得た物は他に施さず、独り占めしてやまない心のレベル。
 空海は、三十六種の餓鬼のうちの「針口鬼(しんくき)」・「食吐鬼(じきどき)」・「食糞鬼(じっぷんき)」・「無食鬼(むじきき)」・「食水鬼(じきすいき)」・「熾然鬼(しねんき)」・「欲色鬼(よくじきき)」・「魔身鬼(ましんき)」の八種を述べる。
▽「針口鬼」は、財物で人を雇い、貪りと嫉みにより人を殺したり、夫が妻に修行僧たちに施しをするよう言ったのに、妻はそれを惜しんで施し物があるのに、ないと言うような者が、この身に堕ちる。口は針の穴のように細く、腹は山のようにふくれ、常に飢渇の火にさいなまれている。
▽「食吐鬼」は、夫が妻をだまし、妻が夫をだまして、美食をすればこの身に堕ちる。常に飢渇の火で身を焼かれる。
▽「食糞鬼」は、貪り、惜しみから、不浄のものを僧たちに施したところ、それを知らずに食べてしまったような場合、この身に堕ちる。常に飢渇の火で身を焼かれる。
▽「無食鬼」は、貪り、惜しみから、善人を力ずくで罪にし、牢獄に入れて食を断てばこの身に堕ちる。飢渇の火が燃え盛り、腹にも火が燃え身体を焼き尽くす。
▽「食水鬼」は、酒に水と灰を混ぜ、それを売って愚かな人を惑わし、施しもせず、福徳も為さず、戒律も保たない者は、この身に堕ちる。飢渇の火で身体を焼かれ、水を求めて河べりをさまようが、「守水餓鬼」などの妨害を受けてなかなか得ることができない。
▽「熾然鬼」は、貪り惜しみから、他人の財産を奪い、他の城郭を破壊し、人民を殺害し、財を略奪し、王や大臣におもねってますます凶暴さを増大させる者は、この身に堕ちる。
▽「欲色鬼」は、男でも女でも、淫女と同じことをして財を得、不浄の心で仏教教団以外のところに布施をすれば、この身に堕ちる。
▽「魔身鬼」は、邪道を行い邪見を説いて、それが真理だと言い張れば、この身に堕ちる。熱く焼けた鉄の球が口のなかに入ったり、熱い鉄を飲んで身体を焼かれる。命終のあと、地獄に堕ちほぼ永遠に苦を受ける。
○<畜生趣>は、もとはといえば愚痴多い人間。善悪をわきまえず、情にまかせ身にまかせ、賢者や聖者の教誡を信じない人の心のレベル。
 類が多いなかで、「怨対(おんたい)畜生」・「相随(そうずい)畜生」・「怖畏(ふい)畜生」・「化生(けしょう)畜生」・「湿生(しっしょう)畜生」・「卵生(らんしょう)畜生」・「胎生(たいしょう)畜生」の七種の畜生趣と、「善龍」・「悪龍」の「龍趣(りゅうしゅ)」が説かれる。
▽「怨対畜生」は、邪見をもち邪道を行えばこの趣に堕ち、マムシや蛇や烏やトンビになって殺し合う。
▽「相随畜生」は、愛し合う心で施し、契りを結べばこの趣に生じ、オシドリや鳩になる。
▽「怖畏畜生」は、強盗をはたらいて、集落を破壊すればこの趣に堕ち、ノロジカや鹿になっていつも恐怖している。
▽「化生畜生」は、蚕の繭を蒸し煮て水につけると出てくる虫(火髻虫)を、外道が火中に入れて天神に福徳を祈ったところ地獄に堕ち、その後この趣に生じた。この類は多い。
▽「湿生畜生」は、亀や魚やカニやハマグリや、小さな池の細虫や酢のなかの細虫を殺し、邪見によって虫を殺して天神の祭を行えば、この趣に堕ちる。この類は多い。
▽「卵生畜生」は、貪・瞋・痴の三毒にとらわれたまま世俗の真理に通じても、瞋を起して国土を破壊すれば、この趣に堕ち、飛ぶ鳥やワシになる。
▽「胎生畜生」は、愛欲によって牛馬を交わらせて喜び、他に邪見をもたせ非礼をさせれば、この趣に堕ちる。この類は多い。
「龍趣」は、
▽「善龍」が、仏法にかなった行いをする「龍王」。雨を降らせ、五穀を実らせ、豊作の安楽を与え、アラレの災いをなさず、篤く「三宝」を敬い、甘露の法雨(ほうう)を降らせる。「七頭(しちづ)龍王」・「象面(ぞうめん)龍王」・「和修吉(わしゅきち)龍王」・「徳叉(とくしゃ)龍王」・「跋難陀(ばつなんだ)龍王」。
▽「悪龍」は、仏法にかなった行いをしない(「非法(ひぼう)」の)「龍王」。衆生が「善法(ぜんぼう)」を行わず、父母に孝養せず僧を敬わなければ、この「悪龍」が勢いを増し、悪雲や悪雨を起し、五穀をだめにし、世間を破壊する。「悩乱(のうらん)龍王」・「奮迅(ふんじん)龍王」・「黒色(こくしょく)龍王」・「多声(たじょう)龍王」。
○<阿修羅趣>は、四つのレベルを空海は説く。
▽その一は、「羅睺阿修羅(らごあしゅら)」。ヒンドゥーのアスラ神の一、ラーフ。
 前世でバラモンだった時に、非常に聡明で、人通りの多い四つ角では病人に施しをし、悪人が仏塔を焼くのを見て如来の塔を救ったのであるが、信仰がなく常に戦闘をくり返したため、この趣に堕ちた。天と戦う時、日・月を飲み込んで光をさえぎり、日食・月食を起す。
▽その二は、「陀摩睺阿修羅(たまごあしゅら)」。ラーフの兄弟。
 前世で他の物を盗み、大施会(だいせえ)を行って外道を供養し、浄い布施を行わず、破戒雑行の人に種々の食を施したりして、心に「正思(しょうし)」がないため、この趣に堕ちた。帝釈天と戦って破れたという。
▽その三は、「華鬘阿修羅(けまんあしゅら)」。
 前世で節会の日に相撲や博奕を行って財を手に入れ、不浄の施しをしたり破戒の病人に食を施したりして、心に「正思」がないため、この趣に堕ちた。
▽その四は、「鉢呵婆阿修羅(はかばあしゅら)」。
 前世で邪見をもって因果果報を知らず、精進・持戒が第一の人が来て乞食するのを見て一食を施し、「お前は下賤(げせん)の者で、福徳などあるものか」と言ったためにこの趣に堕ちた。
○<人間趣>については、「器界」=「須弥山」世界が説かれる。

「須弥山」世界は、ヒンドゥーの世界観を採り入れた仏教の世界観で、とてつもなく広大でとてつもなく深い円形の「風輪」が最下層をなし、その上に「風輪」よりずっと小さい円形の「水輪」が乗っていて、またその上に「水輪」と同じ大きさの「金輪」が乗り重なっている。「地輪」と「火輪」はこのなかにあるという。
 「金輪」の中心に、直方体で高さ五十六万kmの「須弥山」がそびえ、そのまわりを四角形の形状で七つの山脈(持双山・持輪山・宝樹山・善見山・馬耳山・象鼻山・魚山)が囲み、「金輪」の外円周(=「金輪際(こんりんざい)」)には鉄囲山(てっちざん)という山脈が立ち並んでいる。そしてその山脈と山脈との間にはそれぞれ海が八つあって(「八海」)、一番外側の海には四つの島=「四大洲」(瞻部洲(せんぶしゅう)・勝身州(しょうしんしゅう)・瞿慮洲(くるしゅう)・牛貨洲(ごけしゅう))が浮んでいる。そのうち三角形をした瞻部洲(「閻浮提(えんぶしゅう)」=インド)が人間の住む大陸である。

「須弥山」の中腹には「四大王衆天」(「六欲天」(「欲界」)の第一天)があって四天王が住み、頂上には「忉利天」(「六欲天」(「欲界」)の第二天)があって、その中央に帝釈天のいる善見城(ぜんけんじょう)がある。
 「忉利天」の上には「欲界」の「夜摩天」・「兜率天」・「化楽天」・「他化自在天」が重なり、その上には「色界」の「初禅」~「四禅天」(梵衆天~色究竟天の十八天)が、またその上には「無色界」の「空無辺処」~「非想非非想処(有頂天)」がある。(「まえがき」に前述)

須弥山世界

以上、この住心となる「凡夫」・「衆生」の心のレベルに顕れる「五悪趣」である。

空海は、この上に、「我」(ブラフマン・アートマン・プラクリティ・シャブダなど)や神の実在を認めるヒンドゥーの諸思想(「三十種外道」)も、自我の本性(=「無我」)を知らず我欲・我執にとらわれるという意味においてこの「異生羝羊」のレベルで説いている。

二、悪業がまかり通る日本

空海が千年以上も前に指摘したこの「異生羝羊住心」、とくに「凡夫の善悪を知らざるの迷心」「愚者の因果を信ぜざるの妄執」がもたらす人間の悪業は、今日の日本においてひどく悪質になっている。

まず。空海の言う「殺」である。
 親が無抵抗のわが子を邪魔ものにして殺す。

食欲と性欲で生きている「羝羊」と同じような若い男女が、性欲の満足にふけっている間に「子供ができちゃった」になり、親になるには未熟すぎるこうした男女が、時に生活に困り、時に男女関係をもつれさせ、その果てに罪もないわが子を邪魔ものにして殺してしまう。性欲も自制できず、生活力もない若いカップルにとって、できちゃった子は招かれざる客であり、全く不幸な星のもとに生れたいたいけない命というほかない。
 昔は、子供をさずかった夫婦やその家族はどんなに苦しくても幼な子を自分の手で殺したりはしなかった。親も家族も、自分の食べる物を減らしてでも子供に与えたものである。貧しい寒村の一部で間引きといわれる嬰児の川流しはあったが、飢饉や極貧さえなければ起らなかった。日本の家族主義は、民法の力を借りなくても「子を育て守る」ことを、当然の義務としていた。それができない夫婦や家族は世間に恥ずかしい存在だった。今の日本のわが子殺しは、恥を越えている。

次に、他や社会から認められず世間に復讐してわが身の存在を誇示しようと、見知らぬ人を殺める。別れた妻や交際相手にしつこくまとわりつき、思いが通じないとすぐに殺す。その他、怨恨・強盗・虐待による殺人。

日本のもともとのモラリティーでは、ひとの命を奪うことは公序良俗に著しく反し、つまり一人前の社会人として最も恥ずべき反社会的行為であり、ひと殺しを出したような家族はそのコミュニティーにいられなくなるほどの恥だった。恥をかく、恥をさらすということは、日本人のモラリティーからして最もあってはならないことだったが、戦後そうした「恥の文化」がなくなった。
 その上、この頃の「誰でもよかった」通り魔殺人・ストーカー殺人は、人間の関係がうすくなった今の無縁社会の象徴でもあり、未熟な自己愛による「社会が悪い」「向うが悪い」という自慰行為で、他者への配慮とか自己責任といった社会規範意識がまったく欠落している。

時に、ひと殺しのついでにこの頃日本で目立ついじめ・幼児虐待・老人虐待・体罰といった暴力(バイオレンス)のことも触れておこう。「愚者の因果を信ぜざるの妄執」だからである。つまり、暴力の背景にある戦後日本の「オレが、オレが」の風潮、アメリカンデモクラシーのはきちがえによる「自分優先・他者無視」の利己主義、「自分さえよければいい」独善の問題。

世の中は他者との関係で成り立っている、人は誰も独りでは生きていけない、他者がいて私がある、私がいて他者がある、こんな簡単な世の中の相互関係(因果の関係)すら我欲でわからなくなっている。
 昔の日本人は「弱い者いじめ」を恥とした。だから、子供の時から男子は女子に手を出すな、と教えられた。まして、幼児やおとしよりに暴力をふるうなどあってはならないモラリティーだった。だいたい、自分の意志や考えを通すのに弱い者に暴力を使うことは卑怯であり、そこまでして我を張ること自体恥ずかしいことだった。

三、自我の主張が人間らしさだと勘ちがいした日本人

悪業の話に戻って「盗」と「淫」である。これは「殺」と同様、今の日本では日常茶飯事になっている。

盗みといえば、昔は泥棒・空き巣程度だったものが、今やひったくり・窃盗・強盗・横領・着服・詐欺・略奪・不倫・盗聴・スパイ・ハッキング等、ひとの金品や財産を盗んだりだまし取ったり、ひとの妻や夫を奪ったり、企業秘密や国家機密をスパイやハッカーが盗み取ったり。今の日本で最大の盗みと言えば「オレオレ詐欺」。これらの常態化・日常化、これが近代(法治)国家ニッポン、先進国ニッポン、豊かな国ニッポンの実情である。
 さらに目を外に転ずれば、善良な国民が北朝鮮に拉致されたり、国際法よりも国家の核心的利益を優先させる無法国家が日本の領土・領海・領空にわがもの顔で侵入したり、西欧列強によるかつての植民地政策も盗みの範囲に入るだろう。
 昔の泥棒といえば貧しい生活者で同情の余地もあったが、今の日本で起きている盗みは悪質かつ反社会的で、そして国際的である。昔は東アジア全体が儒教文化圏で、とくに国や社会の指導者層に儒教道徳が徹底され、その影響でどの国も人々一人一人が道徳的だった。

次に淫行は、戦後の日本に一番増幅した問題。昔は、『源氏物語』に出てくるように、夜陰に乗じて男性が好む女性の部屋に忍び入り思いを遂げる夜這いや、祭の夜だけに特別に許された通じ合いといった「秘め事」で、世間にあらわにするものではなかった。儒教道徳が長く支配していた日本では、男女の仲、とくに淫行はご法度だった。

戦後、性の開放を促したのは恋愛映画(洋画)のキスシーンや、ベッドシーンを大胆に取り入れたヌーベルバーグ作品、そして文学ではローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』だったが、やがて性の開放は次第にエスカレートし、アメリカの大学キャンパスでは白昼身体を寄せ合うカップルが登場し、パリのセーヌ川河畔やブローニュの森のベンチでも、東京の日比谷公園でも京都の鴨川べりでも、若い男女の愛の交歓が市民権を得るようになった。

飽くなき性欲はまた良からぬ方向にも発展し、ポルノ映画やポルノ小説を生み、高速道路のインターチェンジ付近にラブホテルを林立させ、団塊の世代にできちゃった結婚を許すことになった。結婚するまでは純潔でいたはずの日本の女性が、婚前の妊娠を全く恥ずかしがらなくなった。日本女性が永く保持していた貞操観念が崩壊したのである。外人がやっていることはマネをして当然。純潔や貞操なんて古くさい。それが戦後の新しいモードだ。文句はあるか、といった勢いだった。
 そして最近はAVやネット画像の氾濫。男女の夜の「秘め事」だった淫は、今白日のもとにおける人間性の解放という屁理屈になった。本能むき出しになることこそ人間の自由であり、すなわち人間が「異生羝羊」のレベルであることが最も人間らしいという理屈である。

時に、淫に加え、羝羊が水辺や陸地に美味を求めて歩きまわること、つまり人間のあくなき食欲の問題。今の日本の飽食・グルメの問題である。

何が問題か? 単純なセルフコントロールの問題で、しかも食べ過ぎは万病の元。食べ過ぎて病気になるのは人間として自制心に欠けるということである。
 昔の日本人は粗衣粗食。むしろ栄養不足で短命だったが頑健で心根もじょうぶだった。禅は精進料理を発明し、飽食にならないことを私たちに教えた。今はその逆で、節食を忘れ、食べ物が身の周りにあふれ、この飽食状態を豊かさの証しだとか、先進国に住む国民のステイタスであると勘違いし、食べ物がどのような過程を経て自分の口に入るのかの因果には全く無関心である。食べ物そのものやその生産者や流通にたずさわる人の労苦に感謝をする人もいない。

仏教は、「五戒」や「十善戒」のトップに「不殺生戒」をあげ、動物であれ植物であれ命あるものの命を奪うことを戒めている。釈尊は、ヘビがカエルを呑みこむことに激しいショックを受け苦の娑婆を自覚したという。「食べる」という生命の営みが、同時に「他の命を奪う」ことだと思い知るにはかっこうのエピソードである。

私たちは毎日三回「食べる」たびに殺生している。食卓に並ぶ肉も魚も野菜も果物も命あるものだが、人間に食べられるごとに「命を奪われる」のである。だから、私たちは食事の際に「いただきます」と言って、合掌し心のなかで「私の生命保存のために、傲慢ながら、あなたの命をいただかせていただきます」と懺悔する。「いただきます」は「今から食事をはじめます」の合図ではなく、他の命をいただかなければ生きていけない、生きものとしての人間の宿命・宿業を懺悔する言葉である。

戦後、アメリカンデモクラシーのはきちがえにより、日本人が「オレが、オレが」のエゴイズムに走るようになり、食卓にならぶ食べ物もまるで獲物同様で、「これはオレがオレのお金で買ってきたモノ」つまり「オレのモノ(所有物)」である。これで「おかげさまで」や「させていただきます」といった日本語と慎み深い行動様式がどこかに消え、そこにあった深い意味が忘却のかなたにいってしまった。
 これは明らかに、戦後の日本人が欧米人をマネて自己主張をする(自我を開放する)ことを人間らしさだと勘ちがいし、我欲(とくにモノ・カネ・グルメ・セックス)の満足こそが私のアイデンティティーであるかのように錯覚したからにほかならない。

なぜ日本人はそんなに我執の満足を求めるようになったのか。おそらく、太平洋戦争敗戦のショックでそれまでの「日本の方法」や「日本人であること」に自信を失い、欧米からもたらされた舶来品の個人尊重・自由尊重の風潮がまぶしく輝いて見えたにちがいない。今日の日本人のライフスタイルや生活信条は、みな舶来品のコピー。その典型がいわゆる団塊の世代で、うわべだけのアメリカンデモクラシーに身を任せ、日本の風土や日本人としての魂が抜けてしまっている。

自己にめざめ、自我の開放を「人間らしさ」だとしたのはデカルトにはじまる西洋近代思想である。自己主張が強く、自己表現を文化・芸術に昇華したり、我執の満足を物質文明や科学の発達に結びつけたりして、豊かなモノ・豊かな生活・豊かな人生・豊かな社会・豊かな国を西欧は世界に見せてきた。太平洋戦争で日本はアメリカのこの豊かさに負けた。戦後の日本人はアメリカの豊かさがよほどまぶしく見えたのであろう。アメリカは善で、古き日本はみんな悪になった。戦後もすでに七十年になろうというのに、日本人はまだこのまぶしさのマインドコントロールにかかったままである。

「十住心」では最低レベルの「異生羝羊住心」が西欧の人間観や人権意識では高く評価されるこのギャップ。これこそ、これからの日本を考える大きなポイントである。私たちは西欧人ではなく東アジア文化圏の島国に生きる東洋人で、人間の精神は生きている地域の風土に根ざしている。戦後の日本人は日本の風土、すなわちネイティブの問題をずいぶん無視してきた。

四、『理趣経』はセックスを説くお経か

性の開放の問題のついでに、真言宗の僧侶が日頃読誦している『理趣経(りしゅきょう)』について触れておこうと思う。それも、世間でよく言われるように『理趣経』はセックスを説くお経かという問題。

答えは、真の意味で「ノー」。喩として性愛的な言葉を使い、慈悲行によって衆生を救済してやまない菩薩の心位が説かれるが、「凡夫」・「衆生」レベルの性愛も、本来「空(くう)」(個体的な本性がない)の故に清浄なもので、異性への執著も菩薩の心位では慈悲利他の意志に質的な転換をするという意味である。

従って、『理趣経』は、ヒンドゥーの性典『カーマスートラ』のように、セックスそのものを説く経典ではなく、「性愛こそが菩薩の位」などと単純に受けとるのはまちがいである。
 空海は、浅略釈(せんりゃくしゃく、密教の勉強をしていない人のための世俗的な解釈)と深秘釈(じんぴしゃく、観法(かんぼう)も行い、密教をよく理解している人のための解釈)の二つの受けとめ方をよく使うが、密教は世俗のコトバや概念では真意がわからない。
 最澄が空海に『理趣釈(りしゅしゃく)』(『理趣経』の注釈)の借覧を再三申し出て断られたのもこの理由からである。天台山からの帰途、浙江省紹興の峰山道場で順暁(じゅんぎょう)から密法を授かったはずの最澄に空海の真意がわからなかったとしたら、最澄は密教にかなりうかつだったと言わねばならない。

然らば、『理趣経』とはどんなお経か。セックスを説くと言われる部分(初段、「十七清浄句(じゅうしちしょうじょうく)」)と、密教の菩薩(「金剛薩埵(こんごうさった)」)とは何なのかを説いた有名な「百字偈(ひゃくじのげ)」の梵文私訳を、『理趣釈』の釈文も添えて紹介しておこうと思う。なお経文は漢訳の『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』(不空訳)のものである。

◆十七清浄句

(一)妙適清淨句是菩薩位
<和訳>性的快楽(妙適)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>妙適というのは、即ち梵音(サンスクリットの音)の蘇囉多(スラタ)である。蘇囉多(スラタ)とは、世間の男女の悦楽の如し。金剛薩埵もまた是れ蘇囉多(スラタ)である。縁(へり)無き大悲を以てあまねく無盡の衆生界を縁(へり)とす。闇に安楽の利益を得るを願う。心はかつて休息することなく、自他平等(じたびょうどう)無二の故に蘇囉多(スラタ)と名づけるのである。金剛薩埵の瑜伽(ゆが)三摩地を修するにより、妙適は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に普賢(ふげん)菩薩の位を獲得する。

(二)欲箭清淨句是菩薩位
<和訳>愛欲の矢(慾箭、よくせん)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>慾金剛(よくこんごう)の瑜伽三摩地を修するにより、慾箭は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に慾金剛菩薩の位を獲得する。

(三)触清淨句是菩薩位
<和訳>異性が肌を合わせ触れ合うこと(触、しょく)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>金剛髻離吉羅(こんごうけいりきら)の瑜伽三摩地を修するにより、触は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に金剛髻離吉羅菩薩の位を獲得する。
※髻離吉羅―愛戯(の歓び)。

(四)愛縛清淨句是菩薩位
<和訳>性愛によって縛られること(愛縛、あいばく)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>愛縛金剛の瑜伽三摩地を修するにより、愛縛は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に愛金剛(あいこんごう)菩薩の位を獲得する。

(五)一切自在主清淨句是菩薩位
<和訳>異性のすべてを自由に独り占めすること(一切自在主、いっさいじざいしゅ)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>金剛傲(こんごうごう)の瑜伽三摩地を修するにより、一切自在主は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に金剛傲菩薩の位を獲得する。
※傲―異性のすべてを自由に独り占めする傲慢。

(六)見清淨句是菩薩位
<和訳>愛欲の目で相手に触れること(見、けん)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>意生(いしょう)金剛の瑜伽三摩地を修するにより、見は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に意生金剛菩薩の位を獲得する。
※意生―サンスクリット「manoja」の直訳。心から生じる愛欲。

(七)適悦清淨句是菩薩位
<和訳>抱擁の悦楽(適悦、てきえつ)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>適悦金剛の瑜伽三摩地を修するにより、適悦は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に適悦金剛菩薩の位を獲得する。

(八)愛清淨句是菩薩位
<和訳>渇愛(愛、あい)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>貪金剛(とんこんごう)の瑜伽三摩地を修するにより、愛は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に貪金剛菩薩の位を獲得する。
※貪―貪愛、貪るような性愛。

(九)慢清淨句是菩薩位
<和訳>異性を自由に独占しようとする慢心(慢、まん)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>金剛慢の瑜伽三摩地を修するにより、慢は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に金剛慢菩薩の位を獲得する。

(十)荘厳清淨句是菩薩位
<和訳>身を飾ること(荘厳、しょうごん)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>春金剛の瑜伽三摩地を修するにより、荘厳は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に春金剛菩薩の位を獲得する。
※春金剛―金剛嬉(こんごうき)菩薩の異名。

(十一)意滋澤清淨句是菩薩位
<和訳>思いにまかせて歓喜すること(意滋澤、いじたく)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>雲金剛の瑜伽三摩地を修するにより、意滋澤あるいは喜悦は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に雲金剛菩薩の位を獲得する。
※雲金剛―金剛鬘(こんごうまん)菩薩の異名。

(十二)光明清淨句是菩薩位
<和訳>性愛の歓びに満ち顔が輝くこと(光明、こうみょう)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>秋金剛の瑜伽三摩地を修するにより、光明は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に秋金剛菩薩の位を獲得する。
※秋金剛―金剛歌(こんごうか)菩薩の異名。

(十三)身楽清淨句是菩薩位
<和訳>身体の心地よさ(身楽、しんらく)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>冬金剛の瑜伽三摩地を修するにより、身楽は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に冬金剛菩薩の位を獲得する。
※冬金剛―金剛舞(こんごうぶ)菩薩の異名。

(十四)色清淨句是菩薩位
<和訳>目に見えるあらゆる異性の姿・かたち(色、しき)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>色金剛の瑜伽三摩地を修するにより、色は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に色金剛菩薩の位を獲得する。

(十五)聲清淨句是菩薩位
<和訳>耳に聞こえる悦楽の声(聲、しょう)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>聲金剛の瑜伽三摩地を修するにより、聲は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に聲金剛菩薩の位を獲得する。

(十六)香清淨句是菩薩位
<和訳>香りくる異性の匂い(香、こう)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>香金剛の瑜伽三摩地を修するにより、香は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に香金剛菩薩の位を獲得する。

(十七)味清淨句是菩薩位
<和訳>異性の舌や肌の味わい(味、み)が(本来)清浄であるという句は、これ菩薩の心位である。
<理趣釈>味金剛の瑜伽三摩地を修するにより、味は(本来)清淨なりの句を得る。是の故に味金剛菩薩の位を獲得する。

◆百字偈

<和訳>
 最も勝れた賢者(「勝慧者(しょうえしゃ)」=「金剛薩埵」)は、この世で生ある者(「衆生」)を加護することにある間は、その間は「衆生」に比類なき利行を行うことができ、「涅槃」には入らないものである。
 (賢者たちは)「般若波羅蜜多(はんにゃはらみた)」(般若の智慧)と「方便」(衆生済度)を知る加持によって成就されたものであり、かつ一切の事物が清浄であることによって、生ある者(「衆生」)は浄められたものとなるのである。
 貪欲等の調伏(ちょうぶく)は、「有頂天(うちょうてん)」から生ある者(「諸有(しょう)」=「衆生」)まで、同時に常に世間を調伏し、かつそれらの浄化によって、生ある者を浄化されたものにするのである。
 蓮華が(もともと)深紅であり、かつ貪欲の罪過によって染められないように、生ある者において、常に、世間の利益(りやく)は住処の罪過によって染められはしない。
 大いなる欲(「大慾(たいよく)」)が浄められたものであり、大きな安らぎ(「大安楽」)をもつものであり、豊かな富をもつものであり、「三界」に自在であることを得た者(「勝慧者」)は、利益(「饒益(にょうやく)」)を堅固に為すべし。

<理趣釈>
 「勝れた智慧をもつ菩薩(「金剛薩埵」)は、(「衆生」の)生死(のくり返し)が尽きるまで、恒に衆生救済の利他行を行い、しかも「涅槃」に趣かないものである」とは、此れ「金剛薩埵菩薩」の三摩地における「行願(ぎょうがん)」の義で、上の如き文をまさに知るべきである。
 「般若と及び方便、つまり智慧と救済をもってことごとく加持し、「諸法」(あらゆる事物)及び諸有(「衆生」)一切をみな清浄にするのである」とは、此れ「慾金剛明妃菩薩」の三摩地で、「般若波羅蜜」を行ずる義を摂する。
 「慾等をもって世間を調(伏)し、浄除(じょうじょ)を得せしめるが故に、「有頂天」から「悪趣」に及ぶまで、ことごとく生ある者を調伏するものである」とは、此れ「金剛髻梨吉羅明妃」の三摩地にて、大静慮(だいじょうりょ)を行ずる義を摂する。
 「蓮がもともと浄らかであるように、垢れによって染められることはない。諸慾の本性もまた然りで、生ある者(「群生(ぐんじょう)」=「衆生」)から離れ染めることはない」とは、此れ「愛金剛明妃」の三摩地にて、「大悲(だいひ)」を行ずる所を摂する。
 「(菩薩の衆生を救わんとする)大いなる欲(「大慾」)は清浄を得て、大きな安らぎは豊かに富み、三界に自在であることを得て、よく堅固な利行を行う」とは、此れ「金剛慢明妃」の三摩地にて、大精進(だいしょうじん)を行ずる所を摂す。

<要訳>
 すぐれたサトリの智慧(仏智)をすでにもつ(「菩薩」の代表たる)「金剛薩埵」は、常に「衆生」の救済のために、「衆生」の生死のくり返しが尽きるまで娑婆世間にとどまり、慈悲の行(利他行)を行っていて「涅槃」には入らない(サトリの境地に安住しない)のである。
 「金剛薩埵」は、「般若」(サトリの智慧・仏智)と「方便」(慈悲行・利他行)をもって「衆生」を仏道に導き、「菩提心」を起させて煩悩の垢を取り除くから、世間の一切の事物は「衆生」の執著するところでなくなり、すべての「衆生」の心もまた清浄な「菩提心」のレベルになるのである。
  「金剛薩埵」はまた、貪欲などの我欲を昇華して清浄な欲にすることで世間(「衆生」)の煩悩を制圧し、(世間の「衆生」を)浄めて(煩悩を)取り除く。すなわち「無色界」の「非想非非想天」から「欲界」の地獄・餓鬼・畜生の悪趣に至るまで、「三界」にさまよう「衆生」の煩悩をことごとく制圧するのである。
 蓮の花がもともと深紅に染まっていて、泥などの汚れで染められることがないように、「衆生」の諸欲もこれと同じで、染められずにすべての「衆生」(「群生」)を利益するのである。
  「金剛薩埵」の昇華された絶対的でゆるぎない欲(「大欲」)は清浄なものであり、「大欲」の大きな安らぎ(「大楽(たいらく)」)は豊かに富み、「三界」(の衆生の煩悩を制圧すること)に自在であるから、(この娑婆世間において)堅固な利他行をよく行うことができるのである。

密教は、人間の諸欲は本来清浄だと達観し、その欲を衆生を救済しなければいられない清浄な欲(「大欲」)に昇華して「凡夫」・「衆生」を利益していくのが菩薩行だとする。人間の諸欲を否定するのではなく、清浄な欲に昇華するのである。

五、コトバの暴力

先年、東京都議会の議場で女性の人格を否定するような品のないセクハラヤジが飛び問題になった。コトバは人の人格・人間性や知識のレベル・教養の程度を如実に表すもので、人間の心と頭のレベルがあらわに出る。仏教はこのコトバの問題を早くから取り上げていた。人間のコトバは「虚妄(こもう)」(真実ではないこと)であり「仮名(けみょう)」(仮の表示)だとする。

空海はこの「異生羝羊心」で言う悪業のなかに、「妄語」(ウソ・詭弁)、「麤悪」(悪口・侮辱)、「離間」(二枚舌・中傷)・「無義語」(口先だけの言葉・つくり話)を説く。これらはみな自我の主張、すなわち我欲・我執の発露であり、自分も含め相手を「悪趣」に堕としめる。それ故仏教では、人間世界で使われるコトバを「虚妄」とした。聖徳太子が言ったといわれる「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」もこのレベルの意味である。

まず「妄語」。
 ウソ・いつわり・だまし・虚言・詭弁、事実でないことを平気で口にすること。今の日本のオレオレ詐欺がまさにこれで、我欲のかたまり、カネへの執着丸出しである。
 次には政治家の政治資金問題の際の釈明。自己弁護、政治生命を失いたくないあまりの虚言・詭弁。また閣僚の国会答弁。これもうかつなことを口にできない立場を思うあまり、言葉巧みで意味不明の虚言・詭弁が相当。国権の最高機関の国会論議がこれではまさに「世間虚仮」である。
 さらに言うまでもなく、犯罪者の自己弁護、いじめる側の自己弁護、体罰教師の自己弁護、汚職・横領犯人の自己弁護、営業不振の自己弁護、事業失敗の自己弁護、夫婦不和の自己弁護、みな自分に甘い我執の然らしむるもの。先日再逮捕された、パソコン遠隔操作なりすまし脅迫メール送付事件の犯人は、状況・物的証拠がたくさんあったにもかかわらず、シラを切り通してずっとウソを言い続け弁護人までだまされていた。罪を犯しているのにやっていないと言い通す、これも我執、ゆがんだ自己保身。こうした、どうせわかるウソ・虚言が今の日本に充満している。

次に「麤悪」。悪口・ののしり・侮辱・罵倒・ケンカ。
 悪口は人間の性(サガ)で、自己愛の裏返しにひとの弱みや欠点を強調し、ねたみやそねみも加えてひとをことさら非難する口害。ののしり・侮辱・罵倒は、きたないコトバで怒鳴ったりけなしたりすること。ひとの言動に腹が立ち許せなくなって声を荒げ、相手を口撃するのも自我の発露である。
 ケンカは、この「麤悪」の果てで暴力に発展する。それこそ我と我のぶつかり合いで、命がなくなることさえある。コトバは、世間のコミュニケーション手段として善良な面もたくさんあるが、一つまちがえると命取りにもなりかねない。我執の一番危険な部分である。

次に「離間」。
 自分の立場を悪くしないためにあっちにもこっちにも都合のいいことを言う二枚舌。ひとの人格を傷つけるような中傷。自分を優位にするために関係者を仲たがいさせる告げ口など。どこかの国の大統領の告げ口外交はこの典型である。自分さえよければいいという自己保身で、国際協調の時代では子供の所業である。
 この「離間」、あるいは八方美人・風見鶏とも言える。八方美人は、誰にでもコトバを合わせて敵をつくらないのだが、いざという時にひとから信用されない。

最後に「無義語」。
 おべんちゃら・うわすべりの言葉・口先だけの弁・つくろいの言葉・つくり話など。
 中身に欠け真実味のないコトバは、ひとの心に響かないしそのひとの信用を落とす。人間のコトバの背景にはそのひとの心根や経験や知識や教養があり、苦労をしていない人のコトバは軽く、苦労した人のコトバは重く、勉強している人のコトバには説得力があり、教養のない人のコトバは説得力がない。
 しかし、世間には「無義語」がいかに多いか。みな自分本位に、自己保身をしながら、自己目的のために、自己主張して生きている。そのように生きている私たちを仏教は「凡夫」と言い、「三界」を住処とする。『理趣経』はこの「凡夫」が生死を繰り返している「三界」を世間とも言い、「金剛薩埵」が我執に染まっている「凡夫」を救済して世間を清浄無垢なものにすることを説いた。

このコトバの問題。空海は、従来の仏教では「虚妄」とされた人間のコトバを空海は「声字実相(しょうじじっそう)」・「法身説法(ほっしんせっぽう)」・「果分可説(かぶんかせつ)」という言語哲学によって「実相」(真実が顕れた姿)だとした。
 「法身」大日如来はいつでもどこでも説法していて、人間の世界では人の声・川のせせらぎ・谷の風・鳥のさえずりなどさまざまな音・声・響として聞こえるが、これは「法身」のコトバ。すなわち「実相」である。
 それを、空海は『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』で「五大(ごだい)にみな響きあり、十界(じっかい)に言語を具す、六塵(ろくじん=六境(色・声・香・味・触・法))悉く文字なり、法身は是れ実相」と言った。

六、エコノミックアニマルという汚名

「異生羝羊住心」の悪業に入れておくべき今日的な問題に、戦後の日本人がこよなく求め、今もこだわり続けているモノ・カネ・エコノミックアニマルの問題がある。

昭和四十年(一九六五)、パキスタンのブット外相が日本人をエコノミックアニマルと評し、国際社会で日本人が利己主義に走り経済的利益ばかりを追いかけるのを皮肉ったものと言われているが、それ以後はお金のために残業をいとわない日本人の仕事中毒と、それで得たお金にものを言わせる日本人の拝金主義・成金主義を意味するようになった。
 時代は東京オリンピック特需にはじまり、池田内閣の所得倍増計画・高度経済成長、それを引き継いだ佐藤内閣の時代。やがて田中内閣の日本列島改造計画と金権政治へと続く、日本が最も経済成長を遂げた時代。モノ・カネに飢えた時代からモノ・カネのあふれる時代へ。狂乱物価など、「狂」の字が使われるほどモノ・カネ狂騒の時代だった。
 この狂騒ぶりを外国の首脳から皮肉られたのである。しかしこの皮肉は、あの慎ましかった日本人が戦争で負けたら無節操にも自我をさらけ出し、恥ずかしげもなくモノ・カネに狂奔する醜態を言い当てて妙だった。外国の首脳に皮肉られてはじめて物質文明や拝金主義におどることのあさましさを日本人はやっと知ったのである。

しかし、このモノ・カネ狂騒の時代に、日本は伝統的なものや日本的なものを多く失くした。つまり、日本人が永く守ってきた社会規範や公衆道徳、あるいは「日本の方法」ともいうべき習慣や習俗、それらの背景にあった高い精神性。それがみなモノ・カネの尺度に置き換えられ、モノ・カネによってとって代られ姿を消したのである。人間関係までが無機的になり、家族にはすきま風が吹くようになった。長期ローンで建てたジジ抜きババ抜き車つきのマイホームで、核家族が「積木くずし」に遭遇した。家出した中高生は深夜徘徊した。今でも同じだ。彼らは家庭難民であると同時にモノ・カネ依存症の患者たちで、ほとんど「異生羝羊心」のレベルである。西欧人のマネをして自我の主張をうかつにおぼえ、慎ましさを捨てた彼らの親たち世代の罪と言っては言い過ぎだろうか。

モノの豊かさの象徴は、マイホームであり、一家に二台の車であり、便利になった電化製品だった。これらはみな、家庭の主婦の家事労働の助けとなり、モノの豊かさと利便性はたしかに生活の場で人間を楽にしたが、反面それが古くなったり、まだまだ使えるのに新しいものが出てくると捨てられ、もったいないどころか消費は美徳だと言われるようになった。
 昔は、時計が故障すれば時計屋さんに行き、自転車が壊れれば自転車屋さんに行き、ラジオが鳴らなくなると電気屋さんに行き、服が破ければ母が繕い、屋根から雨が漏れば大工さんやブリキ屋さんにきてもらった。今は修理するより新しいものに取り換える方が安かったりして、故障した身の回り品はまだ使えても捨てられる運命である。
 このモノがあふれ、まだ使えるモノを捨てる浪費経済を担ったのは、地方都市の郊外に進出した大型スーパー(とくにディスカウント型ショップ)がその代表だった。そのあおりで地域社会で永く続いてきた市街地の小売店は次々と廃業に追い込まれ、古い市街地コミュニティーはおかげでズタズタになった。
 地方都市では、市街地商店街の活性化などといって、当事者や行政による町おこしの試みが行われているが、そうした取り組みのなかでやっとアメリカ式の浪費経済のマネゴトではいかに成功しないか、地域の歴史と風土に根ざしそこでしか買えない地域ブランドや、和風のテイスト・古き良きものの再開発などといったことに気づき、若い商店主や事業者が「日本という方法」に関心を向けるようになった。
 モノ・カネ狂騒(自我の主張)の宴のあとで、「失われた十五年」のあとで、会社倒産・商店廃業・失業・就職難・円高株安・資産目減り・預貯金目減り・年金減少・安売り競争のはてに、やっと日本人の伝統的なマナーやモードが見直されるようになったのである。

以下に、宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」を紹介する。『法華経』をよく学び『法華経』の行者を自認した宮沢賢治が日本人の無欲・知足の心を叫んだものである。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稻ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
南無無邊行菩薩 南無上行菩薩 南無多寳如來
南無妙法蓮華經
南無釋迦牟尼佛 南無淨行菩薩 南無安立行菩薩

七、施餓鬼(せがき)供養と飽食の餓鬼

(一)施餓鬼のはじまり
 「餓鬼趣」では、生前貪りをしてやまなかった人が、骨と皮にやせ細り、髪は茫々に伸び、腹は山のようにふくれ、口から飢渇の火を吹き、食べる物がみな焦げてしまう、そういう苦を受けているという。

江戸時代に何度かの飢饉があった。ある時の飢饉で、町にも村にも山にも海にも餓死横死の死骸が無惨にころがっている。身寄りの者が死体をお寺の境内に運び込み、非業の死を遂げた身内の者の供養を住職に頼み込んだ。
 住職は哀れんで境内に横たわる死体に浄水をそそいで清め、飲食と香華を手向け、読経供養した。その数は繁多(はんた)にして翰墨(かんぼく)にいとまがないほどであったが、住職は丁寧に一人一人の名を身内の者から聞きそれを紙を綴じた帳簿に記録した。
 亡くなった人たちがあまりに多かったので、とても葬儀どころではない。折から身分の高い者には戒名がつけられていたが、餓死横死の者はそれどころではなく、亡魂・幽魂だった。

飢饉によって多くの餓死横死者が出たほか、やっと生き延びた人々が食べるものがない状況で苦しんでいる。食べものの貯えが底をついてしまった人々は、路頭に迷いながら次から次へお寺の境内にやってくる。
 それを哀れんだ住職は寺領の田畑でとれた米やいもや野菜を境内に運び、大きな鍋に芋粥や野菜汁をつくり、飢えた人たちに食べさせてあげた。

飢饉の翌年になりお盆の時期となった。死者を出した家では粗末ながら「盆棚」を用意し、寺からいただいた白木の位牌を出し、香や花や灯明や心づくしの食べものを供えて新盆の精霊を供養した。寺では引き取り手のなかった死者のために、本堂に「施餓鬼」壇を設け、みそ萩の花を供え、浄器に飲食を盛り、餓鬼幢を立て、過去帳に記録した名をいちいち呼び、住職の修法と読経のうちに無縁の精霊を供養した。終って、境内に集まってきた今もなお飢餓に苦しむ人々に住職は去年と同様飲食をふるまった。
 寺の「施餓鬼」供養のことを聞きつけて、ある家の主が住職に頼んだ。「実はうちのバァさん、さんざん苦労してその挙げ句が餓死だ。葬式も出せなかった。お寺で何か餓死者の供養があるって聞いたんで、せめてうちのバァさんもついでにおがんでもらえないかと思って、付け施餓鬼っていうんですかい、何にもお寺に持ってこられないんだが頼まれてくれませんか」。
 住職は快く引き受け、板の塔婆に名前を書き込み、読経の後過去帳の読み上げの最後にこのバァさんの名を読み上げた。

江戸時代、飢饉の時、「餓鬼趣」で苦しむ餓鬼と同じような餓死者がこの現世で出た。寺ではこの気の毒な死者を餓鬼になぞらえ「施餓鬼」供養を行うようになった。現在、全国の寺院で行われている「施餓鬼会」あるいは「施食会」は、この「施餓鬼」供養に便じて「付け施餓鬼」という先祖供養を加え、むしろそれが今は主旨になっている。

(二)「施餓鬼」の由来
「施餓鬼」の由来にあたるのは『佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(不空訳)である。以下はその概要である。

●経 名 佛説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつぐばつえんくがきだらにきょう)

●説法処 迦毘羅城(カピラ城)の尼倶律那(ニグローダ)という僧伽藍(寺院)

●導入部【焔口餓鬼による阿難の死の宣告と延命方法としての施餓鬼の指示】
 焔口餓鬼が現れ、阿難に三日後の死と死後餓鬼中への生を宣告する。それから免れるのにはどうすべきかとの阿難の問いに「あす、百千「那由他(なゆた)」(百那由他が十の六十二乗、千那由他が十の六十三乗、数え切れないほど多い数)と「恒河沙(ごうがしゃ)」(十の五十二乗)の数の餓鬼及び百千の婆羅門仙(バラモン仙)等に、摩伽陀国(マガダ国)所用の斛(ます)で、おのおの一斛づつ飲食を施すこと、そして私のために「三宝」を供養すれば、汝は増寿し、私は餓鬼の苦を離れ、天上界の生を得られる」と焔口餓鬼が答える。

●本論【世尊による施食の方便=陀羅尼の誦持(じゅじ)の説示】

どうしたらよいかとの阿難の問いに「「方便」がある。「無量威徳自在光明殊勝妙力」という陀羅尼がある。もしこの陀羅尼を誦すれば、「倶胝(くてい)」(十の七乗)「那由他」と百千「恒河沙」の数の餓鬼と婆羅門仙等に上妙の飲食を充足し、一一にみな摩伽陀国所用の斛で七七斛の食を得ることができる」。
―中略―
 「阿難よ、(この陀羅尼を)受持しなさい。「ノウマク サラバタタギャタバロキテー オン サンバラサンバラ ウン(世間を観察することが自在(観自在)な一切如来に頂礼します。オーン、(飲食を)集めたまえ、(あまねく)集めたまえ、フーム)」と。
 もし、長寿福徳の増栄を望むなら速やかに「檀波羅蜜(だんばらみつ)」を満足しなさい、毎朝及びいつでも浄水・餅食を浄器に盛り、それを加持してこの陀羅尼を誦えなさい」。

●同【四如来の名号を称える加持の説示】

「その後、四如来の名号を称えなさい」と世尊が説示する。

「ノウボウ バギャバテー ハラボタラタンノウヤ タタギャタヤ(世に尊き、宝多き如来(多宝如来)に頂礼します)」。多宝(宝勝)如来の名号を称える加持により慳悋悪業を除き福徳円満を得る。

「ノウボウ バギャバテー ソロハヤ タタギャタヤ(世に尊き、姿美しい如来(妙色身如来)に頂礼します)」。妙色身(みょうしきしん)如来の名号を称える加持によって醜陋悪形(しゅろあくぎょう)を破り色相具足(しきそうぐそく)を得る。

「ノウボウ バギャバテー ビホラギャタラヤ タタギャタヤ(世に尊き、身体が広博の如来(広博身如来)に頂礼します)」。広博身(こうはくしん)如来の名号を称える加持によって餓鬼の咽喉を広大にしほしいままに施食を充飽(じゅうほう)できる。

「ノウボウ バギャバテー アバエンキャラヤ タタギャタヤ(世に尊き、畏れなからしめる如来(離怖畏如来)に頂礼します)」。離怖畏(りふい)如来の名号を称える加持によって一切の恐怖を皆滅除し餓鬼趣から離れさせる。

●結【密言(陀羅尼)と四如来名号誦持による餓鬼・如来・婆羅門仙・三宝の供養、「檀波羅蜜」の満足】

この密言と四如来の名号を称える加持にて餓鬼に施食すれば、無量の福徳を具足し、同じく如来を供養すれば、無量の福徳寿命を得る。浄器に盛った飲食をこの密言の加持二十七遍行い浄水に投げ入れれば、すべての婆羅門仙を供養することになり、寿命延長し色力安楽となる。香華と飲食を密言二十一遍加持して「三宝」に奉ずれば、「檀波羅蜜」を満足する。

●同【施餓鬼を如法に修行する説諭】

「阿難よ、私の言葉に従い、如法に修行しなさい」

(三)餓鬼とは何か
 ところで「餓鬼趣」の餓鬼とは、あらためてどんなものなのか。
 サンスクリット原語の「プレータ」は、「先に行った者」・「死者」・「死霊」といった意味だが、仏教ではとくに、「生前の身の悪業・口の悪業・意の悪業・多貪・悪貪・嫉妬・邪見・愛著資生の命終・飢えによる死・枯渇の死の因果応報として、死後の世界でそれらがすべて封じられる責め苦に遭っている死霊」とされた。仏教は、自我が強く、他に施しもせず、常に利己主義に走る人には、死後にも厳しい責め苦を用意したのである。

しかし世の中の現実はそればかりでなく、江戸時代の餓飢飢饉の餓死者のような死霊もあり、また東日本大震災の犠牲者でまだ発見されず、海の底やガレキのなかで朽ちてしまった死者の霊もあり、この死霊は「餓鬼趣」の餓鬼とはちがい、貪らず自己中心でなくても現世において「飢餓」の苦を受けている。まさに、気の毒な死霊であり、誰からも供養してもらえない死霊であり、施主の供養が届かないでいる死霊であり、そういう死霊をむしろ積極的に救済することこそ「施餓鬼」の意義ではなかろうか。「施餓鬼」会法要の際、「施餓鬼」壇に「三界萬霊」のほか「太平洋戦争物故者之霊」や「東日本大震災物故者之霊」の大位牌がかざられるようになったのは、そういう思いが寺院の住職に自覚されているからであろう。

今、日本は飽食の時代。食欲を満たせる時代になった。一部に格差貧困があるが、北朝鮮やアフリカの飢餓からすれば次元がちがう。誰も食べることに不自由をしない。そういう時代に、餓鬼に施すと書く「施餓鬼」にいかなる意味があるか。「施餓鬼」を差別語だと言って「施食(せじき)」に代えたところで、事の本質は変わらない、飽食の時代に餓鬼はいるのか。

目を転ずれば、あっちにもこっちに飢えた餓鬼がいる。食べることに飢えた餓鬼ではない、心が渇いてカラカラの餓鬼、魂の枯渇した餓鬼である。この餓鬼の醜いところは、心が渇き、魂が枯渇しているのに、食を満たし金品を満たせば心が満たされ魂がみずみずしくなると錯覚しているところである。
 就学前からお受験続きで遊べない子もいれば、夜おそくまで働いている親の目を盗み遊興・徘徊をくり返す子もいる。ケイタイやゲーム機に埋もれゲームに夢中の子もいれば、パソコン操作で関係のない人を犯罪に巻き込む愚者もいる。主要官庁や一流企業で仕事に疲れている人もいれば、オレオレ詐欺の手先になっている若者もいる。二人で一台ずつ高級車に乗る夫婦もあれば、長期住宅ローン返済のためコンビニ弁当をいとわない夫婦もいる。
 グルメを楽しみ、高級品で身のまわりを飾ることで忙しい人もいれば、年金では足りないと愚痴をこぼしながら老後をちびちびと生きる人もいる。老いをカモフラージュし厚化粧をしてダンスに興じる人もいれば、スーパーでわずかばかりの金額を惜しんで万引きし警察のご厄介になっている老人もいる。高級マンションを終の棲家にする人もいれば、老朽の公営アパートで人知れず孤独死する人もいる。

飽食の時代の「施餓鬼」とは、富む人も貧する人も、心を養い心をみがき、自己の満足だけ追いかけるのではなく、他に施し他につくし、ともに心が満たされ魂がみずみずしくなることである。そのヒントは、この住心で言えばまず「少欲知足」、「吾、唯、足ることを知る」。引き算のライフスタイルである。その引き算のなかには、自分を引いてみること、自分をあとにして他を先にする、そういう大乗の「利他」もある。負けて勝つ、引いてプラスにするのである。

人生、お受験からはじまって勝ち戦しか経験してこなかったエリートとか勝ち組は、逆境に弱いとよく言われる。ひとの何倍・何十倍も自己の満足を手に入れても、ひとたび苦戦や負け戦になると自分を失う。モノゴトがうまくいかない悪循環や悪運を経験したことがないからだ。この人たちは、茫然自失になった時でもなお勝ちにいく。自尊心にこだわり自己の満足に頭がいく。足し算ばかりで引き算がない。

八、性欲を菩薩の「大欲」に

空海は、「十住心」の第一に、人間の食欲と性欲の問題を雄牛のメタファーを使って掲げた。空海が仏道に本気で精進するようになって一番の難題だったのが、おそらくこの二つの本能的な生存欲との葛藤だったろう。釈尊以来の出家修行者もみなこの課題が初歩であり窮極だった。釈尊が説き、弟子たちが守り、空海も東大寺で受戒した、二百五十戒はそれを物語っている。

空海は並はずれてストイックな気質だったにちがいない。食欲を極度まで抑える、あるいは断食しても一週間や十日へこたれない、女っ気などまったくない、そういう人だったであろう。『三教指帰(さんごうしいき)』に酒色におぼれる放蕩男「蛭牙公子(しつがこうし)」を登場させ、儒家の道徳でたしなめるのは、二十四才で世俗を捨て仏道に入る決心をした空海の本音だったにちがいない。この段階でおそらく、大学寮出奔の後の山岳修行により、空海は食欲と性欲を自制する術を身につけていたのである。

空海は当然、男女の性愛を意味する単語が出てくる『理趣経』(不空訳)の「十七清浄句」を知っていた。最澄との間で問題になった『理趣釈』を参照しながら『理趣経』は解読することも知っていた。帰国後、注釈書『理趣経開題(りしゅきょうかいだい)』も書いた。

然るに、漢訳にしろサンスクリット原典にしろ、『理趣経』を解読する際にかならず妙適・欲箭・触・愛縛・一切自在主・見・適悦・愛・慢・荘厳・意滋沢・光明・身楽・色・声・香・味といった性愛を言う語の意味を吟味し、何を意味するのか正確にとらえなければならない。
 その際、語の概念と性愛の実際のイメージが一致し合点されなければならない。要するに、経典のコトバが自己の体験知でわかるということで、男女の性愛の経験のない人にはコトバの概念はわかっても性愛の感覚はわからないのだ。空海は当然、語の吟味をしながら一語一語の概念と性愛の実際に合点したはずである。
 空海はおそらく女性を知っていて、超えたのである。仏道修行者として当然の如く、女犯や邪淫の戒めをかたくなまでに守りつつ、男と女の異なった二つの原理、そして「二つで一つ」の「二而不二(ににふに)」の原理を空海得意の「方法」とした。

この性欲の問題、空海は超えたが、人間のほとんどは「異生羝羊」と同じである。

この「異生羝羊」のレベルの性欲で思いあたるのが、軍隊における男性兵士の性欲解消問題。明日の命すらもわからない戦地で、あるいは厳しい軍事訓練の続く訓練地で、あるいは軍律の厳しい基地で、兵士が生きる歓び(生存欲)を満たせるのはセックスくらいしかない。ひと昔前、日本の港町にはおおかた、久しぶりに海から岡にあがる漁師を待つ「岡場所」があった。戦時の軍港も軍人のためにそうだった。敗戦の色濃くなった時、出征する未婚の兵士や学徒兵が初筆をおろし男になる場所もあった。きれいごとではなく、それが一人前の男子として散る覚悟の場所でもあった。男にはそれしかないのである。

然るに、戦地や駐留地で、その土地のその筋の女性と交われば性病をうつされる確率が高く、ひとたび性病が部隊内に流行すれば兵士はもちろん部隊全体の秩序や士気に影響が出る。戦闘能力も当然落ちる。そうかと言って、長く我慢をさせれば欲求不満が高じて、ケンカや衝突が絶えず、その果てに部隊の外での強姦や婦女暴行の事案まで起りかねない。
 橋本大阪市長が本音を言ってバッシングを受けたが、世界中どこの国の軍隊でも兵士の性欲の問題は共通で、沖縄では基地から街に出たアメリカ兵によるレイプや女性暴行事件があとを絶たない。どの軍隊でも若く盛んな兵士の性欲の問題に苦労し暗黙の措置をとっている。

従軍慰安婦問題はそうした背景から生じた。 旧日本軍のことを擁護するつもりはないが、兵士の性欲解消の問題におそらく相当悩んだし、あるいは懲りたのだ。その軍の悩みに応えようとしたのが、戦地などに慰安所を設け慰安婦を募集して売春をさせた斡旋業者である。軍はそれを容認し、性病と強姦・暴行の防止策とした。

慰安婦の募集にあたって、人の家屋に押し入り嫌がる婦女子を無理やり拉致し、リヤカーに縛りつけて連行するような「人権」無視の「強制連行」に軍(=国)が直接関与したかどうか、これについて朝日新聞が軍の関与をスクープ報道し、その報道の根拠となった「吉田証言」についてのちに史家などから疑義が表明されたにもかかわらず、その報道は例の「河野談話」につながり、今の韓国のかたくなな反日歴史問題に発展した。
 その朝日新聞の報道について、つい最近(平成二十六年八月)、朝日は自ら、「吉田証言」は虚偽だったとして、三十余年前の報道の誤りを認めたが、日本の国際社会における信用や国のイメージを大きくおとしめた意味において、その罪は大きい。一方政府は、軍による強制連行を裏づける資料は見つからなかったとしつつも、まだ「河野談話」を継承する矛盾をかかえている。
 アメリカは、クリントン・ブッシュ両政権の八年をかけてドイツと日本の戦争犯罪について再調査を行い、日本については十四万余ページの書類を精査した結果、慰安婦制度の犯罪性や強制性や奴隷性を証拠づける資料や証拠は何一つ見つからず、「報告」(「ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)米国議会あて最終報告」)は、従軍慰安婦制度は当事の日本国内で合法だった売春制度を国外の駐留部隊に適用したものであり、兵士らが駐留地で一般女性を暴行したり部隊内に性病が広がることを防止するための方策だったとし、アメリカはそこに犯罪性を認めていなかったことを明らかにした。これで、「二十万人の女性を日本軍が強制連行して性的奴隷にした」という国際的なデマは、根拠のない作り話であることが証明されたも同然である。

人間の性欲の問題が、時代を超えて国際社会で日本たたきに悪用され、国家の信用や国民の品性が問われることにまでなっている。

空海は、兜率天から見ていて、「性欲は自制するものである。また自制できる。自制すること、それが人間としての高い品性である。性欲は開放をしたら狂気にもなる。性欲の開放は、それを人間らしさだと言う人がいるが、それは逆でケモノらしさである。理性をもつ人間としては、下品(げぼん)の言いぐさである。欲望を自制できる人は世俗を超えた価値に気づき、人間の幸福は欲望の追求ではないと覚れるが、欲望を自制できない人は、死ぬまでそれがわからない。仏教は、この性欲の問題と当初から葛藤してきた。瞑想修行の一番のさまたげになるから正面から格闘してきた。釈尊の時代から密教以前まではただ抑制・否定するだけだったが、密教は、男が女を求める愛欲を空じてそれにこだわらず、むしろ無垢清浄なモチベーション(利他)に転換することが可能だとした。『理趣経』の「百字偈」は菩薩の慈悲心(「大欲」)にまで昇華している」と言うにちがいない。

Copyright(c)2009-2019 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.