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空海の仏教総合学 その6

第五章 師もなく独りで究める小乗を問う

一、抜業因種住心

「出世間」・「出世間心」の第二段階のレベルである。

空海はこの住心で、「縁覚」(えんがく、「独覚(どっかく)」)の心のレベルを説く。
 縁覚とは、師を持たず、他の修行者からも教えを聞かず、独りでよく思惟し、それを修行し、解脱をめざす出家修行者のこと。大乗から言うと小乗。そのめざすものは釈尊のサトリであり、依り処は釈尊の教団である。

「抜業因種(ばつごういんしゅ)」とは、人間の意識下にありながら、しばしば人間の思考や行動に影響を与える「宿業(しゅくごう、サンスカーラ)」(思考や概念化や行動の潜在的志向)と、その根源にある本能的な生存欲(「無明(むみょう)」)を取り除くこと。
 声聞はただ「無明」を除くだけであるが、縁覚は「無明」を断って新しい「宿業」が生ずるのを完全に除くという。具には、釈尊が説いた十二の因果律(「十二因縁」)を観じて苦の原因を滅除すること。釈尊は成道のあと、苦からの解脱の過程に齟齬や過ちがないかどうか、この「十二因縁」の観想で確かめたという。

二、十二因縁

「十二因縁」とは、「無明」・「行(ぎょう)」・「識」・「名色(みょうじき)」・「六処(ろくしょ)」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有(う)」・「生(しょう)」・「老死」。

釈尊は、この「十二因縁」を観ずることで人間の苦のもとを究明した。

①人間には生まれながらに生命活動としての本能的な生存欲(「無明」)があり、我執・我欲に溺れて存在や事象の真実の相(すがた)がわからない。
②その「無明」は、人間の潜在意識のなかに虚構の固定観念やパターン化された心の志向(=「宿業」)を残す(「行」)。
③その「行」がもとになって、人間は存在や事象を虚構の固定観念やパターンで識別する(「識」)。
④さらに、存在や事象を精神的なものと物質的なもの(「名色」)に区別する。
⑤「名色」によって眼・耳・鼻・舌・身と意の「六根」がはたらく(「六処」)。
⑥眼・耳・鼻・舌・身と意がその対象(「六境」)と接触する(「触」)。
⑦眼・耳・鼻・舌・身と意がその対象(「六境」)を感受する(「受」)。
⑧そこに、存在や事象への愛着・渇愛が生じる(「愛」)。
⑨それによって、自分中心の我執・我欲が強くなる(「取」)。
⑩また、自分の生存や存在に固執する(「有」)。
⑪このようにして、「無明」の連鎖は「宿業」として人間の潜在意識に残り、次の「生」においても同じようにくり返される。
⑫「生」があればかならず「老死」があり、人間は「宿業」から脱することができない。
 以上、「無明」があるから~「老死」がある、と観じるのを「十二因縁」の「順観」という。

然るに、「逆観」とは、

①「無明」をまず滅する。
②「無明」がなければ、「行」はない。
③「行」がなければ、「識」もない。
④「識」がなければ、「名色」もない。
⑤「名色」がなければ、「六処」もない。
⑥「六処」がなければ、「触」もない。
⑦「触」がなければ、「受」もない。
⑧「受」がなければ、「愛」もない。
⑨「愛」がなければ、「取」もない。
⑩「取」がなければ、「有」もない。
⑪「有」がなければ、「生」もない。
⑫「生」がなければ、「老死」もない。

縁覚は独り静かな園林のなかで「十二因縁」の「順観」・「逆観」を瞑想して「無明」を克服し、新しい「宿業」が生ずるのを完全に断つという。

この「十二因縁」、すべては根本煩悩である「無明」をどう克服するかということに尽きる。では、そもそも「無明」とは何かである。これを、「無知」だとか「ありのままに真実を理解していないこと」などと言い換えるのが既刊の仏教書のほとんどであるが、はたして「無明」の真意を言い当てているだろうか。
 すなわち、「無明」とは意識下で「宿業」(サンスカーラ)を生むものである。なので筆者は、「本能的な生存欲」としばしば言うのだが、仏教の瞑想心理学は人間の生存の原点にまで思いを及ぼしていることからして、当らずとも遠からずの言い換えだと思っている。

「無明」を「無知」とするのは昔からだが、おそらく「無明」の原語「アヴィドゥヤー」を梵和辞典で調べると「無知」とあるのでそれから採ったのであろう。しかし、日本語の「無知」は「知識がない」とか「頭が悪い」、または「物事の道理を知らない」といった意味にとられる。それではということで「「四諦」・「八正道」の理を知らないこと」などと取り繕ったところで、そもそも「無明」は「宿業」を生むものであるから、人間の生の営みの深い部分(脳で言うと、大脳新皮質ではなく脳の進化で言う古い部分の大脳など)に触れてくる問題なのである。釈尊は、現代人がうかつにも「無知」などと言い換える問題ではなく、人間の生の根本問題を問うているのである。
 釈尊が定めた戒律の最初に「不殺生」を挙げるのも、「無明」と同じく人間の生の営みに前世からの「宿業」が深くかかわっていることを問題にしたのである。これは、深い瞑想のなかの洞察から出たことで、釈尊は人間の生命活動のはじまり、何億年も前からはじまった地球上の生命の営みを見ているのである。そういうことをわかっていた訳経僧が「アヴィドゥヤー」を「無明」と訳したのである。字づらで仏教要語をわかろうとするとまちがういい例が「無知」という言い換えである。

三、縁覚の戒・方便・境地・階位・種別

空海は、『華厳経』を引用し縁覚の戒として「十善戒」を挙げる。すなわち、

○「不殺生」:生きものを殺さない。
○「不偸盗」:他のものを盗まない。
○「不邪淫」:異性と淫らな関係をもたない。
○「不妄語」:ウソ・偽りを言わない。
○「不綺語」:お世辞などうわべだけの言葉を使わない。
○「不悪口」:他人の悪口を言わない。
○「不両舌」:二枚舌を使わない。
○「不慳貪」:物惜しみや貪りをしない。
○「不瞋恚」:怒りや憎しみをもたない。
○「不邪見」:独断や偏見をもたない。

次に、縁覚の「方便」(「善巧方便」)である。空海は「十善巧(じゅうぜんぎょう)」を説く。

○「蘊善巧」:身体と心のことがわからない者のために「五蘊」を観念する。
○「処善巧」:感覚・知覚のはたらきとその対象のことがわからない者のために「六根」と「六境」の「十二処」を観念する。
○「界善巧」:感覚作用とその対象と認識作用がわからない者のために「六根」・「六境」・「六識」の「十八界」を観念する。
○「縁起善巧」:苦からの解脱がわからない者のために「十二因縁」を観念する。
○「処非処(しょひしょ)善巧」:道理と道理でないことがわからない者のために「処非処」を観念する。
○「根(こん)善巧」:生命活動や感覚のはたらきがわからない者のために、「六根」のほか、男・女・命の「三根」、苦・楽・憂・喜・捨の「五受」、信・精進・念・定・慧の「五善根」、未知当知(みちとうち)・已知(いち)・具知根(ぐちこん)の「三無漏根(さんむろこん)」を観念する(「二十二根」)。
○「世(せ)善巧」:「三世」が実有だと言う者のために「無常」の理を観念する。
○「諦(たい)善巧」:解脱の理法がわからない者に「四諦」を説く。
○「乗善巧」:仏教の法門がわからない者に「二乗」(声聞・縁覚)・「三乗」(声聞・縁覚・菩薩)を説く。
○「有為無為(ういむい)善巧」:生滅をくり返す存在・事象のことがわからない者に「有為法」・「無為法」を説く。

次に、縁覚の境地として『大乗同性経』に言う「十地(じゅうじ)」を説く。

○「昔行具足地(せきぎょうぐそくじ)」:百劫(ひゃっこう)もの永い時間、苦行をして身につけてきた因縁の理法の境地。
○「自覚甚深十二因縁地(じかくじんじんじゅうにいんねんじ)」:心の深層に及ぶ「十二因縁」の理を自ら覚った境地。
○「覚了四諦地(かくりょうしたいじ)」:「四諦」の理法を覚った境地。
○「甚深利智地(じんじんりちじ)」:「四諦」の智慧を深く洞察する境地。
○「八聖道地(はっしょうどうじ)」:「八聖道」を体得する境地。
○「覚了法界虚空界衆生界地(かくりょうほっかいこくうかいしゅじょうかいじ)」:「法界」・「虚空界」・「衆生界」ともに「無我」であることを覚る境地。
○「証寂滅地(しょうじゃくめつじ)」:煩悩の業火が消えた寂滅の境地。
○「六通地(ろくづうじ)」:「六通」、すなわち「神足通(じんそくづう)」・「天耳通(てんにづう)」・「他心通(たしんづう)」・「宿命通(しゅくみょうづう)」・「天眼通(てんげんづう)」・「漏尽通(ろじんづう)」の境地。
 このうち、
▽「神足通」は、自在に姿を変え、空中飛行したり、水上歩行したり、思うように移動できる神通力。
▽「天耳通」は、この世界のすべての音声を聞き取れる神通力。
▽「他心通」は、他人の心が読み取れる神通力。
▽「宿命通」は、自分の前世の在り様がわかる神通力。
▽「天眼通」は、「六道」までも、この世界のすべてが見える神通力。
▽「漏尽通」は、煩悩がなくなったのを洞察する神通力。
○「徹秘密地(てつひみつじ)」:「因縁生(いんねんしょう)」の秘密に通徹する境地。
○「習気漸薄地(じっけぜんはくじ)」:「習気」(煩悩がなくなっても心に残る残影)がわずかになった境地。

さらに、縁覚のレベルの特性(「縁覚地(えんがくじ)」)を『瑜伽師地論』の「五相」で説く。

○「種姓(しゅしょう)」(縁覚の本性・性格)。
▽縁覚は、煩悩で心が乱れることを嫌い、寂静の境地を願う。
▽縁覚は、利他行を行うことを願わず、寂静の境地を求める。
▽縁覚は、師も求めず、論敵も求めず、独りで解脱を求める。
○「道」(縁覚の修行位)。
▽第一の縁覚道:世尊の近くに仕え、修行し、ずっと独りでサトリを得ようとする。
「十善巧」のうち「五蘊善巧」・「十二処善巧」・「十八界善巧」・「十二因縁善巧」・「処非処善巧」・「四諦善巧」の「六善巧」を行う。
▽第二の縁覚道:世尊や菩薩に仕え、説法を聞いてその通りに正しく思念をし、「加行位」の「四善根」のうちの「煖位」・「頂位」・「忍位」の境地に至る。
しかし、「見道位」に至れるも「修道位」の「預流果」は得られない。だが、「六善巧」で「預流果」・「一来果」・「不還果」を得る。
▽第三の縁覚道:世尊や菩薩に仕え、説法を聞いてその通りに正しく思念をし、「見道位」を体得し「修道位」の「預流果」・「一来果」・「不還果」を得るが「阿羅漢果」は得られない。
だが、「六善巧」で「阿羅漢果」を得る。
○「習」(縁覚の修習・修行)。
▽第一の縁覚道によって、師を持たず、独りで「三十七菩提分法」を修行し「諸法」を具に観じて「阿羅漢果」を得る。
▽第二・第三の縁覚道によって、師を持たず、独りで「三十七菩提分法」を修行し「諸法」を具に観じて「阿羅漢果」を得る。
○「住」(縁覚の住処)。
▽第一の縁覚道の「麟角喩(りんかくゆ)」(キリンのように独りで修行する者)は、静寂な園林を住処とする。
▽第二・第三の縁覚道の「部行喩(ぶぎょうゆ)」(修行仲間と修行する者)は、かならずしも静寂な園林を住処としない。
○「行」(縁覚の実践)。
 縁覚は、衆生利他のために村落に入り、よく身体を守り、感覚器官を調え、正しく思念するが、食は乞うても身をもって済度することもせず、言葉で説法することもしない。無言で仏法に帰依させたいのである。縁覚は本来、サトリを求めて修行する者だからである。

これら縁覚のまとめとして、空海は『菩提心論』を引用して小乗の欠を次のように指摘する。

真言行者、まさに観ずべし。
二乗の人は人執を破すといえども、猶し法執あり。
既に知りぬ。声聞・縁覚は智慧狭劣なり。

二乗、すなわち声聞・縁覚は、「四諦」・「八正道」を観じ、また「十二因縁」を観じて業苦の因果を取り除き、わが身(人)が「五蘊無我」だとわかっても、存在や事象(「諸法」)に執著していて、「諸法」が無常であることまで徹底していないから、智慧が狭く劣っている、と。

四、師もなく独り学び修行する今の真言僧へ

この章の最後に、縁覚とは直接つながらないが、教えを請うべき師僧になかなか人を得ない今の時代、結局は独りで求道心を高め、独りで仏教を学び、独りで修行に励み、独りで真言道を歩まざるを得ない、縁覚同様の若い真言僧はどうすればいいかについて、今様の独覚の道にふれておく。

今の真言僧にとって最高の師(「依止師(えじし)」)は、形式的には総本山の座主(ざす)・化主(けしゅ)である。この大徳を「能化(のうけ)」といい、その他はすべて「所化(しょけ)」という。「能化」とは、「弟子(「所化」)を能く教化し導く」という意味であるから、当然学徳兼備の人でなければならない。すなわち、深く経蔵に入って真言密教教理の奥義を極め、日々修法に励んでいかなる「念誦法」にも習熟し、教学と事相とが一致両立し、その上人格円満にして人みな尊崇帰依してやまない大阿闍梨であるべきである。各宗派の法流の源泉となる最高責任者であるからであり、全国檀信徒の帰依を受ける人だからである。
 この大徳を「依止師」の最高位とし、その大徳から学徳を相承した師僧たちを「依止師」として若い真言僧は教学・事相(「事教二相(じきょうにそう)」)を学ぶのである。

かつて、真言各派の総本山には、右のような大徳がよく輩出し、またすぐれた弟子を育てた。末寺にあっても、大本寺・中本寺クラスでは秀でた師僧のもとで多くの龍象(りゅうぞう)が育った。
 「能化」は宗派の最高管理職(「管長(かんちょう)」)を兼ね、かならずしも「事教二相」に長けた人ではなく、どちらかと言えば宗派行政(「宗政(しゅうせい)」)に長じた人や、時には檀信徒布教で実績を積んだ人が選ばれる時代になった。本当の意味の「依止師」というよりも管長選挙に出る有資格者で選挙で勝てる人ならいいということもアリになった。
 末寺においても、何人もの弟子を養成できたのは戦前までで、今、一部の大寺院を除いて、弟子を訓育できる師僧が見当たらなくなり、息子を弟子とする親子関係の師資(しし)においては、師が法資(ほっし)を甘やかしたり放任したりすることがよく見られる。だから、法資である若い真言僧は、事実上、依るべき師がいないのが現実で、いわば縁覚であり独覚なのである。

然らば、若い真言僧が得度の際に受戒する戒であるが、およそは不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見の「十善戒」である。
 この「十善戒」、江戸時代に慈雲尊者によって「世間戒」にされている。「出家戒」にしてもいいのだろうか。いや、私たちの現実は「出家」はかたちだけで、実態は「在家」であるから、皮肉にも「十善戒」でいいのかもしれない。ちなみに空海は、あの時代「説一切有部」が伝えた「十誦律(じゅうじゅりつ)」を選んだ。

然るに、私たちの「十善戒」の実際と言えば、肉食妻帯し、深酒をして正気を失い、たまに邪淫に及び、また聞きをこの目で見たかのように説教し(妄語)、宗団は「和合衆(わごうしゅう)」だと言いながら異見の人を排除し(綺語)、ひとの悪口を酒の肴にし(悪口)、二枚舌がはばをきかせて正論なく(両舌)、法衣の色の虚栄を重んじ(慳貪)、正義で怒らず私憤で嫉み恨み(瞋恚)、ひとの実体を見ず偏見を好む(邪見)、破戒の日々である。
 然るにいつだったか、ある宗派で「十善戒」を檀信徒教化の年次テーマにしたことがあった。自分たちが日頃守ってもいない戒律(本来は「出家戒」)を世間の倫理に置き換え、「生き物を殺すな」・「ひとの物を盗むな」・「酒を飲むな」・「ウソをつくな」・「ひとの悪口を言うな」などと檀信徒に呼びかけてみたところで、それは偽善であり、問題はブーメランのように自分に帰ってくる。

では、どうするか。真言宗の僧侶は「「金剛薩埵」の威儀に住する」ほかない。実態は在家であっても、破戒の僧であっても、「欲界」に溺れても、本有「菩提心」を自灯明(じとうみょう)とし、「菩提心」を高め、慈悲の心を深くして、ギリギリ最低線、一日に一回の利他即自利の行、ひとのためになる無我・捨私の行の積み重ねを自らの戒めとして持するのである。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の実践でもいい。それができて現実の「三昧耶戒(さんまやかい)」というものである。

次に、若い真言僧にとっての「資糧位」とは何かである。
 まず、宗門大学での勉強は、十八才~二十二才の若年で、わかるかわからないは別としても、大きな「資糧位」となろう。できればすぐ真言教理に入らず、釈尊の仏教、アビダルマの仏教(『俱舎論』)、『般若経』、唯識(『唯識三十頌』『成唯識論』)、中観(『中論』)、『法華経』、『華厳経』、『大乗起信論』など、仏教思想史の流れに沿って勉強するのが望ましいし、できるなら、キリスト教やイスラム教の神の観念や一神教の風土・成り立ち・性格そして信仰の独善などと比較し、世界宗教としての仏教の特性を学び、宗教とは何かを学んでおくとよい。

サンスクリットの修得であるが、インド言語のままの真言・陀羅尼を常用する真言宗の僧侶としては、まったくサンスクリットがわからなくていいか、本当はそうはいかないはずである。宗門大学は四年間を通して是非クラシカル・サンスクリットを必修とし、デーヴァナーガリー文字が読め、転じて梵字が読めてコトバの意味がピンとくるようにすべきである。そうでなかったら、いくら塔婆の梵字が書けてもその梵字が表象するもとの教理がわからないし、陀羅尼のコトバの切れ目もわからないし、そもそも唱えている真言・陀羅尼がどんな意味かも分からない。それでは「口密(くみつ)」として不十分で空念仏に等しい。

ところが、東京のある宗門大学では、真言学科の学生でさえクラシカル・サンスクリットが読んで書けて日本語に訳すことができるまでの必修になっていないという。おそらく、難しくて単位を落とす学生が続出するので、ほんのさわりでやめておくのではないか。これは専門の真言僧を育てる大学として論外である。一般大学の東洋哲学科でさえ、サンスクリットを必修にしていた。中国思想などを主に勉強した学生のなかには、単位を落しそれだけで留年の憂き目に遭った人もいた。

たしかにサンスクリットは難しい語学である。ドイツ語の数倍は難しい。これをたった一年くらいでやろうとするから学生がついていけなくなるのではないか。空海が『三十帖冊子』に残した梵字・悉曇の事蹟は、長安の般若三蔵のもとで習う以前から学んでいたことを示唆している。空海のサンスクリットの語学力は、長安の数ヵ月で修得したものではない。テキストも何もなかった千二百年前でさえ、空海が何年も努力してやっていたことを今どうしてやらないのか、やればできるはずである。

失礼ながら、仏教系大学には意外に語学としてのサンスクリットを教えられる先生がいないのかもしれない。パーニニの文法や、音韻・修辞・各種語法とくに合成語(コンパウンド)の読み取りに長けた先生がどれくらいいるのだろう。仏典の梵本を漢訳やチベット訳を見ながら日本語訳できたからといって、クラシカル・サンスクリットを学生に教えられるというものではない。

話を戻す。

それでは宗門大学以外で学ぶ場合、「専修学院(せんしゅうがくいん)」の環境なら最低限の学びが可能であるが、なるべく声明・法式・作法・梵習字・法要など即実用の「事相(じそう)」にだけ偏しないで、仏教全般の思想史や基本思想も学びたい。その上で、卒業の頃にはせめて『十住心論』の概要でも。
 それをやっておけば、卒業後に自分で勉強する人も出てくる。そうでないと、人前でお経は読めても「真言宗の教えは「密教」と言うそうですが、「顕教」とどうちがうのですか」と聞かれたらお手上げで、ただの経読み稼業だとバカにされることもある。世間の人はこの頃仏教や宗祖の密教思想に関心をもちよく勉強しているからである。

一般大学で仏教を学ばない学科の場合は、自習しかない。それこそ縁覚・独覚の道である。その際、師僧にあたる人が助言を与えられれば良いが、師僧にそれを求めるのは酷だと言っては失礼か。師弟とはいえ、血のつながった師父と息子で、弟子の息子に正面から仏教の勉強の指南ができる人をなかなか見ないのである。

ではどうするか。
 本人が本気で独自に勉強するか、卒業後に仏教系大学に学部編入するかである。そういかない場合は、やはり仏教の勉強に明るい師を探し、その師の指南に従い専門書を読むほかない。一番避けたいのは生半可な仏教書の読みカジリである。仏教書を求める場合は、本の一番最後にある「奥付」で、著者の略歴を確かめるといい。仏教系大学の先生が書いた専門書だったら、少々難しくても読む価値はある。しかし、一般向けの仏教書をよく書いている宗教学者や宗教評論家や著述家の本は週刊誌同様に読み捨てでいい。ガイドにはなるかもしれないが学識にはならない。ネット情報では、ウィキペディアが参考になるが、記事内容がおおむねメモ程度で、内容の信用性にもしばしば問題がある。

余談ながら、宗門大学の専門科目について一言しておく。
 原典講読も大切だが、仏教が人間の問題の何を問うているのか、生の人間にとって学ぶべきどんな意味があるのか、ただ仏教の知識や術語を知るだけでなく、学生自身の生の問題として問いかけるような、そういう生きた学問が望まれる。
 空海は、飛びぬけてすぐれた原典研究家であった。文献批判と文献解読の第一人者だった。『十住心論』に引用される仏典の数と種類を見ただけでも驚嘆に値する。『三教指帰』に至っては、中国の古典典籍のグロッサリーを見ているようだ。その空海がやったことは原典の研究に基づいた「思想の編集」である。宗門大学の学びで必要なのは、「思想の編集」ができる先生と、生身の学生に腑に落ちる授業である。

然らば修行、「加行位」・「見道位」・「修道位」である。
 今の真言宗僧侶に課せられた修行と言えば、主には、初心時に「伝法潅頂」を受法する前の「四度加行(しどけぎょう)」と、「伝法潅頂」の「阿闍梨(「大阿」)」を勤める前に行う「練行(れんぎょう)」である。

まず「加行」であるが、基本的には、今は宗門大学の一年次(通常、十八才~十九才)から行われている。そうでない場合も、多くは専修学院や一般大学に在学中、あるいは余程事情がある人でも若い内に履修する。
 しかしこの時期、初心の行者はおよそ、真言密教の「念誦法」など、泳げない人を水に入れるようなもので、根機がまだまだである。だから、途中で脱落者や不心得者も出る。宗門大学ではとくに、在学している四年の間に「加行」から「入壇(にゅうだん)潅頂」まで履修し、資格と形だけでも一人前の僧侶(「教師」)として師僧のもとに帰してやらねばならないので、修行経験の中身は問わない通過儀礼になりがちになる。わからないながらやったことに意味があり、「念誦法」が身につかなくてもわからなくてもいいのである。しかし、行者を責められない。「加行」を初心の者に課す方に問題がある。

当たり前に言えば、「加行」に入る前にはそれなりの「資糧」となる種々の経験や予習が必要である。『般若心経』・諸真言・諸陀羅尼・『理趣経』等々、経本を見ながらでもスラスラと読めるようにしておくことが望ましい。さらに、「阿字観(あじかん)」や「月輪観(がちりんかん)」、あるいは「滝行」・「沐浴」の経験もあった方がいい。高野山大学には「阿字観」・「月輪観」のほか「上座部」の「ヴィパッサナ」つまり「観」(ヴィパシュヤナー)の選択科目があるという。さすが空海のヤマの大学である。「観」(ヴィパシュヤナー)を総合し「三密行」に集約したのが密教だからである。

また、宗教には祖師の宗教体験を弟子が追体験することがあって当然であるから、真言宗の若い子弟は、空海が入ったヤマや海浜で、あるいは日本の修験のヤマで修験の初歩を経験したらどうか。そして、山頂の神祠の前で、これがもとは薬師や不動や阿弥陀や観音や大日などの仏祠であったこと、そこでヤマの行者が諸尊の雑密法を修していたこと、ならばそこで大きな声で虚空蔵菩薩の真言を唱えてみること、そういうヤマの行体験をしてみたらどうか。まずは宗門大学一年生次に、大峯山の奥駆け修験と山上ヶ岳での参篭を必修でやることを勧める。

大学の教室で「ミョウーオー ビーイールシャナー・・・・」もいいかもしれない、夏休み本山に押し込めて「理趣三昧(りしゅざんまい)」や「二箇法要(にかのほうよう)」の特訓を行うのもいい、しかし、お経が読めるだけの職業僧侶の道を早めるばかりが宗門大学ではない。長い僧侶人生を耐え得る「資糧位」と「加行位」の経験が必要なのだ。

「加行」の行者は、日々次のことを守らなければならない。日頃、都会の片隅で一人暮らししているような学生には、窮屈な禁欲生活である。社会規範そのものがゆるんでいる時代で、これすらも守れない甘やかされた学生がいるのが現実である。

○無益の雑談で時を過さない。
○禁酒、禁煙。
○外出、他泊をしない。
○悪友と交わらない。
○法衣・袈裟を離さない。
○遊行・見物をしない。
○沙弥・童子・女人に交わらない。
○勝負事をしない。
○放逸(節度がないこと)・憶念(妄想にふけること)・臥床(病気で床につくこと)をしない。
○資材(お金や高価な物)を求めない。
○懈怠(行を怠ること)をしない。
○多言をしない。
○世間の学を修めない。

「四度加行」の中身は、
「十八道念誦法(じゅうはちどうねんじゅほう)」(「礼拝行(らいはいぎょう)」を含む)
「胎蔵界念誦法(たいぞうかいねんじゅほう)」
「金剛界念誦法(こんごうかいねんじゅほう)」
「不動護摩念誦法(ふどうごまねんじゅほう)」
である。

「十八道念誦法」は、
高野山真言宗の中院流(ちゅういんりゅう)では、「金剛界」大日如来を本尊とし、 豊山派の伝法院流(でんぼういんりゅう、広沢流)では、両部不二マンダラを本尊とし、 智山派の(醍醐)報恩院流(ほうおんいんりゅう=幸心流(こうしんりゅう)=三宝院流憲深方(けんじんがた)、小野流)では、如意輪観音を本尊とする。

「十八道念誦法」の最初に行うのが「礼拝行」で、行者が坐る座(「礼盤(らいはん)または半畳」)の前で、右膝→左膝→右肘→左肘→額(ひたい)の順に畳に付けて身体を伏せる「五体投地(ごたいとうち)」の礼拝を、その一回ごとに「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい) ―本尊名― 慚愧懺悔(ざんぎざんげ)六根罪障(ろっこんざいしょう)滅除煩悩(めつじょぼんのう)滅除業障(めつじょごっしょう)」と唱え、それを百八返くり返す。
 これを一日三回(初夜(しょや、午後四時あるいは七時頃)・日中(午前九時または十時頃)・後夜(午前四時あるいは五時頃))、行う。「加行」期間が五十六日の場合は一週間、合計二十一座行う。

これが習熟すると、本尊の「念誦法」。いろいろな「念誦法」の基本となる十八の「印(いん)」(「十八契印(じゅうはちげいいん)」)と真言が出てきて、いきなり「三密行」である。行者は、「金剛薩埵」の威儀に住し、心に「吽字(うんじ)」を観じて「金剛薩埵」の身となる。

「十八契印」とは、

○「浄三業(じょうさんごう)」・「仏部三昧耶(ぶつぶさんまや)」・「蓮華部三昧耶」・「金剛部三昧耶」・「被甲護身(ひこうごしん)」、以上「護身法(ごしんぼう、荘厳行者法)」。
○「金剛橛(こんごうけつ、「地結(じけつ)」)」・「金剛牆(こんごうしょう、「四方結(しほうけつ)」)」、以上「結界法(けっかいほう)」
○「道場観(どうじょうかん、「如来拳印(にょらいけんいん)」)」・「大虚空蔵」、以上「荘厳道場法(しょうごんどうじょうほう)」。
○「宝車輅(ほうしゃろ)」・「請車輅(しょうしゃろ)」・「迎請(げいしょう)」、以上「勧請法(かんじょうほう)」。
○「当部明王(とうぶみょうおう)」・「金剛網(こんごうもう、「虚空網(こくうもう)」)」・「金剛炎(こんごうえん、「火院(かいん)」)」、以上「結護法(けつごほう)」。
○「閼伽(あか)」・「蓮華座(れんげざ、「華座(けざ)」)」・「普供養(ふくよう)」、以上「供養法(くようぼう)」。

「護身法」で、まず行者の「身」「口」「意」を清め、「仏部」・「蓮華部」・「金剛部」の諸尊に守られ、智慧の火炎の甲冑を着て身心を堅固にし、「結界法」で道場を結界して諸魔を追い払い、「荘厳道場法」で道場を荘厳し、「勧請法」で本尊を迎え、「結護法」で道場内外の障りを除き、「供養法」で本尊との一体化を修するのである。その後は「結護」・「結界」を解き、「礼懺(れいさん)」を誦し、「護身」を解き、終る。

次の「胎蔵界念誦法」・「金剛界念誦法」も基本はこの「十八道」の方法から成っている。

「胎蔵界念誦法」は、「胎蔵界」大日如来を加持(かじ)し、「ア・ヴァ・ラ・カ・キャ」の「五字」を「満月輪(まんがちりん)」の上に順と逆とで観じ、次いで「アン・ヴァン・ラン・カン・ケン」を順逆に観じ、さらに「五字」の意味(「ア字諸法本不生」など)を観じ、身体の「五処」(腰下・臍輪・心中・眉間・頭上)のそれぞれに「ア・ヴァ・ラ・カ・キャ」の「五字」を充てる「布字観(ふじかん)」を順逆に行い、最後に「アン・ヴァン・ラン・カン・ケン」を「五処」に充てる「無分別観(むふんべつかん)」を行う。これを総じて「字論観(じりんがん)」という。
 「金剛界念誦法」は、『金剛頂経』に説く「五相成身観(ごそうじょうじんかん)」を行い、「字輪観」を行い、そして「金剛界」大日と「入我我入」するのである。

「加行」の最終段階は「不動護摩」である。
 護摩には、災いを除く「息災法(そくさいほう)」・世間利益を倍増させる「増益法(そうやくほう)」・敵や魔障を除く「調伏法(じょうぶくほう)」・円満和平を祈願する「敬愛法(きょうあいほう)」・諸仏諸菩薩を集め招く「鉤召法(こうちょうほう)」があり、「加行」の護摩は「息災法」である。

「護摩壇(ごまだん)」に「火天」・「部主(ぶしゅ、「降三世明王(ごうざんぜみょうおう)」)」・「本尊(不動明王)」・「諸尊(「金剛界」の「五部」の諸尊)」・「世天(せてん、諸天善神)」を招き、「供養法」を行い、「壇」中央の「炉」に護摩木を重ね、諸仏諸尊の智慧の火で煩悩の木を焼き、衆生の煩悩の災いを除くべく祈念する。

「加行」のあとは、時期を選んで「金剛界」・「胎蔵界」の「念誦法」を練磨する。「伝法潅頂」に「阿闍梨」(「大阿」)として臨む条件となる「練行(れんぎょう)」である。

修行らしい修行と言えばこれくらいである。あとは本人の志操の問題で、「阿闍梨」=「已達」になったらもう「念誦法」などやらない人をよく見受けるが、せめて自坊の本尊の「念誦法」・「護摩法」や「引導法」には熟達しておくべきである。行なき僧はどこかわかる。檀信徒からも信を受けないのである。

真言宗の修行は、「阿字観」や「月輪観」の本尊、「金剛界」・「胎蔵界」の本尊と行者とが、「一体無二」となることに尽きる。問題は、その修練を「本尊法」に置き換え、終生どこまで修習するかである。ひとえに一人一人の自覚と志操にかかっている。大学の学長にまでなったある大徳は、亡くなるまで毎朝、持仏堂で「本尊法」を修していたという。「修道位」・「無学位」である。

真言宗、つまり密教の修行で特徴的なのは、釈尊やその後継者たちのように本能的な生存欲の我欲・我執をなくすことに主眼がないことである。おわかりのように、密教は我欲・我執を抑滅するのではなく、それを「菩提心」のなかで質的に転換(=昇華、浄化)させ菩提の種とする。煩悩は修行やサトリの妨げになるのではなく、煩悩を転じて「菩提心」や「利他行」の「大欲」とする。真言宗の修行は、行者自身の心品転昇の鍛錬であるとともに利他の行なのである。自利即利他、利他即自利である。だから当然、おろそかにはできない。

ちなみに、「念誦法」などの流儀作法のちがいによって、真言宗には基本的に十二の法流があり、これを「野沢(やたく)十二流」という。

「野(や)」とは小野流の略称で、真言修験の祖で吉野山金峯山寺の中興となり醍醐寺を創建した理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)を始祖とする。時に、その法統を継ぐ仁海(にんがい、小野僧正、請雨法をよく修したので雨僧正といわれる)を流祖と言う場合もある。「口授(こうじゅ)」・「口伝(くでん)」・「口決(くけつ)」による伝授を重んじる。

○安祥寺流(あんしょうじりゅう、安祥寺―京都山科、勧修寺三流)
○勧修寺流(かじゅじりゅう、勧修寺―京都山科、勧修寺三流)
○随心院流(ずいしんいんりゅう、随心院―京都山科、勧修寺三流)
○三宝院流(さんぼういんりゅう、三宝院―京都伏見、醍醐寺三流)
○理性院流(りしょういんりゅう、理性院―京都伏見、醍醐寺三流)
○金剛王院流(こんごうおういんりゅう、金剛王院―京都伏見、醍醐寺三流)
の六流である。
 「小野」は地名で、仁海が京都山科の小野に曼荼羅寺(今の随心院)を開創して住したことに由来する。

「沢(たく)」とは広沢流の略称で、宇多法皇の受戒・潅頂の師となった益信(やくしん)を始祖とする。「口授(こうじゅ)」よりも「儀軌(ぎき)」による伝授を重んじる。

○仁和御流(にんなごりゅう、仁和三流)
○西院流(にしのいんりゅう、仁和三流)
○保寿院流(ほうじゅいんりゅう、仁和三流)
○華蔵院流(けぞういんりゅう、広沢三流)
○忍辱山流(にんにくせんりゅう、広沢三流)
○伝法院流(でんぼういんりゅう、広沢三流)
の六流である。
 「広沢」は地名で、益信の法統を継ぐ寛朝(かんちょう、宇多法皇の孫)が京都嵯峨の広沢に遍照寺を開創して住したことに由来する。

なお、高野山の中院流は小野流の傍流(小野の随心院で成尊(せいそん)から受法した明算(めいざん)を祖とする)で、この「野沢十二流」には入っていない。
 この十二流もやがて、小野流に二十流、広沢流に四流の分派がおこり、鎌倉時代には「東密三十六流」と言われ、その後七十を超え、今では百を超えるという。

阿字観最後に、参考までに「阿字観」にふれておく。
 この観法は、空海亡きあと高野山では盛んに行われたらしく、多くの儀軌類が残されている。空海の直弟子の實恵は『阿字観用心口決』を、興教大師覚鑁(かくばん)は『阿字観』を残している。

「阿字観」の本尊にあたるものは、丸い月輪のなかに蓮台に乗った「阿字」を画くパネル状のものや掛け軸のもの(「金剛界」法のもの)が一般的で、ほかに蓮台に乗った月輪に「阿字」を画いたもの(「胎蔵界」法用)がある。
 月輪の直径は、古来「一肘(いっちゅう、ヒジから中指の先までの長さ、約四十五cm)」という。
 「阿字」の色は、金色・紅色・黄色・黒・白と諸説あるが、金色が基本である。 蓮華の色は白・金色、月輪はほとんどが白である。
 そのパネル状のものや掛け軸を、四尺(一・二m)ほど先に、高からず低からず置く。

行者が坐る場所に座布団を敷き、その上に直径一尺ほどの丸く厚い円座(禅宗の坐禅に使うのと同じもの)を置く。行者は、円座に、半跏座(はんかざ、右足のみ左の太ももの上に乗せる坐り方)で坐るのがよい。結跏趺坐(けっかふざ)ができれば、それでもよい。女性で和装の場合、正座でもよいが、その時円座は要らない。

当然ながら、お腹の具合も空腹でもなく満腹でもなくしておく。眠気が一番禁物だから。
 坐ったら、背中をまっすぐにし、両の手で「法界定印(ほっかいじょういん)」を結び、眼は閉じず開かず、半眼でまばたきせず、舌は歯ぐきに付け、あごを引き、臍(へそ)の下に気を落ち着ける。

入息・出息の呼吸は、ヨーガでは調息法(ちょうそくほう)があるくらいであるが、仏教には「数息観(すそくかん)」があり、呼吸を数えて次第にゆっくりとした深い呼吸に入っていくのである。息をしていないくらい微弱で静かなものになることが望ましい。

具には、
 軽く口を開き静かに息を吐き出す(吐く息とともに身体が自然のなかに溶け込む「随息観」)。
 次に、口を結び息を吸い込む(清らかな空気とともに自然が体内に入ってくる「随息観」)。
 吸う息がいっぱいになったらそこで呼吸を止め、少し措いて静かに少しずつ吐き出す。
 このやり方で入息・出息をくり返し、それを「イーチ」「ニー」「サーン」と声を出して数えていく。
 次第に声を小さくしていき、口を閉じ、鼻だけの微弱な呼吸にし、心のなかで呼吸を数える。
 時間にして約十分、落ち着いた深い呼吸となり、数えていることを忘れてもいい。

次に、「阿息観(あそくかん)」を行うといい。入息・出息ごとに「阿字」を声にしてそれを観ずる修習法である。
 具には、「数息観」では入息・出息ごとに数を数えたが、代って「阿字」を声にするのである。
 まず、軽く口を開き静かに息を吐き出しながら「アーーー」と声にする。「ア」の声が自然に溶け込むイメージで行う。
 次に、息を吸い込みながら「ア」を声にする。しかし、息を吸いながら声を出すのは同時にできないので「ア」を心に観じればいい。
 これを三回ほどくり返し、口を閉じ、静かな入息・出息のたびに心で「アーーー」を唱え、その「ア」に意識を集中する。
 約十分、「ア」を観じながら、「諸法」のすべて、宇宙のすべてがこの「阿字」に収まっているイメージで続ける。
 最後に、手の「法界定印」を解き、本尊に一礼して座から立つ。

然らば、「阿字観」の作法である。
 まず、「五体投地」三回。「三礼(さんらい)」である。
 次に、「調身」(「坐法」)。
 円座に坐り、足を「半跏座」に組む。重心を決め目を半眼にするなど、前述のとおりである。
 次に、「金剛合掌(こんごうがっしょう)」して「吽字」を十返唱える。
 次に、「護身法」を結ぶ。
 次に、「金剛合掌」して「五大願(ごだいがん)」を唱える。
 次に、「胎蔵界」大日の「五字明(ごじみょう)」(ア・ビ・ラ・ウン・ケン)を唱える。
 次に、「調息」。
 「法界定印」を結んで、前述の「数息観」と同じようにして呼吸を調え、心を落ち着ける。
 次に、深く静かに心が落ち着いたら「阿息観」→「正観(しょうかん)」に入る。
 本尊の「阿字」に意識を集中する。意識の集中がさらに深まったら「阿字本不生(あじほんぷしょう)」を観ずる。

「阿字本不生」とは、
 「阿字」の「ア」は、アルファベットの第一音であり、すべてのコトバの本初である。然るに、「諸法」は因と縁によって生滅転変をくり返すのだから、「諸法」それ自体は「生ずるのでもなく(不生)」「滅するのでもなく(不滅)」、すなわち「不生不滅」(「空」)なのであり、その「諸法」の本源をどこまでたどってもまた「不生不滅」である。その「諸法」がもともと「不生不滅」であることを「本不生」という。
 然るに、コトバの本初である「ア」もまた「不生」の原語「アヌットゥパーダ」の「ア」であり、この「ア」からコトバが生じ、「諸法」が起る。「諸法」はすべて、この「ア」の一字に収まり、「諸法」がすべて収まる「ア」を仏格化したのが大日如来である。 という意味。
 途中、「阿字」が法界に遍く広がるのを観ずる(「広観(こうかん)」)のと、広がった「阿字」を自心に収める(「斂観(れんかん)」)がある。終れば、「定印」を解く。
 次に、「正観」が終れば「護身法」を結んで護身を解く。
 次に、「金剛合掌」して本尊を本座に送る。
 次に、円座から立ち、「五体投地」の「三礼」。

以上が「阿字観」の概要である。

月輪観「月輪観」は、丸い月輪を観法の対象にし、要領は「阿字観」と同じである。

僧侶以外の一般の方で「阿字観」を経験したい方は、まず菩提寺や真言寺院の住職に相談し、経験豊かな指南役のいる、きちんとした道場をたずねることを勧めたい。大都会のカルチャーセンターなどで、手軽にジーパン姿やジャージ姿でやるものではない。身心ともに仏身となるれっきとした仏道修行であるから、できれば高野山の「阿字観」道場が望ましい。


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