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即身成仏に寄せて

 還暦の頃になってやっと『即身成仏義』の「二頌八句」の前四句が私なりに見えてきた。この名句をこそ語れるようになるのが真言僧の最低レベルだと思ってきた。しかも、伝統教学上の解釈を離れ、祖師の言われたことを自分のことばで(日常用語と思想用語の中間あたりのことばで)語れてはじめて、「空海」を「ものにできた」ものと思うのだが、はたしてどうだろうか。
 日常の寺の法務で角塔婆にこの四句を墨書したり、導師歎徳文にこの四句を垂示したりするであろうご同輩や後輩の諸師が、祖師の「即身成仏」を「この身このままで成仏すること」などと安直にかたづけないでいただきたいものと思うことしばしば。老婆心ながら参考案を書き残しておこうと思う。不備は承知である。

  六大無礙常瑜伽  六大無礙にして常に瑜伽なり
  四種曼荼各不離  四種曼荼は各々離れず
  三密加持速疾顕  三密加持すれば速疾に顕わる
  重重帝網名即身  重重帝網なるを即身と名づく

 空海密教は、銀河系を含むこの広大無辺な天体宇宙を、森羅万象、モノにはそうあるべくしてある存在真理、コトにはそうなるべくしてなっている現象真理がはたらき合っていて、すべてが融通無碍にかかわり合っている「法如」の世界、つまり「法界」に見立てた。そして、その「法界」を人格化して「法身大日如来」とした。
 この見立てには、この現実の世界にこそ真理のはたらき(法性=空性)がひそんでいる、山も川も草も木も悉く「法如」の故にそうあるのであり、人格化して言えば「法如」の故に皆仏に変わりないのだ(山川草木悉皆成仏)、と見なした大乗「空」の価値転換(「諸法実相」)がそのまま生きている。
 さらにまた、その現実の世界は目を転ずれば広大無辺な宇宙法界なのであり、すべてがまるで「真如ネットワーク」で、大乗の菩薩はその「真如ネットワーク」の結び目の宝珠である仏たちをたずね歩き、教えを乞いながら三大阿僧祇劫という途方もなく長い永遠の時間をかけて利他行を行わなければ成仏はできない、という華厳のコスモスもそこに見える。

 さて宇宙では、その構成要素である「地」と「水」と「火」と「風」と「空(スペース)」の五大(物質的存在の五原素)と「識」(人間の認識作用)と(の六大)が、お互いに妨げ合うことなく常にかかわり合っている。仏身は六大から成り、世間凡夫の人間もまた本来六大から成っている。凡聖不二・生仏一如、世間凡夫の人間は、生命の海によく溺れるが故に、ただそれに気づかないのである。

 さて、「法界」の融通無礙の様子をビジュアルなものにして示すと、宇宙に遍在するあらゆる物質と精神が、仏の尊像が集合した宇宙図(大曼荼羅)となったり、仏尊の所持する物(シンボル)が集合した宇宙図(三昧耶曼荼羅)となったり、仏尊を表わす梵字(種子)が集合した宇宙図(法曼荼羅)となったり、木造・鋳造・塑造といった仏の実像が集合した宇宙壇(羯磨曼荼羅)となったりするのだが、その四種類の曼荼羅はもともと同じ本質のものだから、各々離れてあるわけではなく互換性に富んだインターフェースなのである。今流に言えば、そこから仏のパンテオンに入って自分が本来は仏であるという価値転換の自覚に至るポータルサイトである。

 その四種曼荼羅はそれぞれにそうなのだが、密教行者がある仏尊を表す「印」(サイン)を手に結び(身密)、その仏尊と交信する「真言」(「法界」の交信言語)を唱え(口密)、その仏尊の相形を心のスクリーンに映し出す(意密)と、瞬時に行者の脳裏に顕わになり仏尊が自分と一体になるのである。

 その曼荼羅をよく観察してみると、あのヒンドゥーの英雄インドラ天のジャーラ(網)のように、宇宙に遍在する六大所成の物質と精神がまるで宝珠が縦横に連結された飾りもののように、互いに照らし合い映し合い重なり合っているのがわかる。宝珠に照射されるものはみな六大所成の仏たちなのであり、宇宙の生命史のすべてのいのちの連鎖でもある。「その」幾重にも重なり合っている宇宙の全生命史のなかに「この」自己を(三密)まるごと投帰している(チャネリングの)状態、それを「即身(成仏)」というのだ。

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