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「臨床宗教師」に寄せて

「臨床宗教」や「臨床宗教師」が私たち仏教僧にとって新しい課題になる日が近づいていることが予感される。とくに次代を担う若い青年僧にとって必須の要件になるかもしれない。
 というのも、「臨床宗教」「臨床宗教師」の本家本元である東北大学の「実践宗教学寄附講座」を中心に、真言宗系大学では高野山大学に「スピリチュアルコース」があり、種智院大学に「臨床宗教師養成講座」が、大正大学には「臨床宗教師養成課程」が開設され、すでに資格を取得した子弟もいる。今後このプログラムはさらに本格化し、仏教系大学の子弟養成課程に学ぶ学生僧侶の必修科目となり、「臨床宗教師」資格はこれからの青年僧にとって必須の要件になっていくのではないか。

◇東北にはじまった「臨床宗教」―「傾聴」と「寄り添い」

「臨床宗教師」とは、大震災の被災地や末期患者の病床などで被災者や患者の苦悩や悲嘆に対し精神的なケアをする、宗教宗派を超えた宗教者のことで、被災地での活動は無償のボランティアであるが病院での活動は無報酬とはかぎらない。
 「臨床宗教」の取り組みは、東日本大震災の直後、東北・仙台市の周辺で、その提唱・主導者である故岡部健医師(名取市、岡部医院院長)の名言「避けることのできない死の現実と向き合い苦しむ人がいる場に、何故、宗教者が出てこない!」にはじまった。
 その端緒となったのは、被災者のための「心の相談室」や仏教僧による移動傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」で、家族も住いも家財も失った人たちの失意・失望・絶望・喪失・嘆き・悲しみ・苦しみの声に耳を傾け、説教がましいことは言わず、手をにぎり肩に手をやり、胸の内の悲痛に耳を傾け(「傾聴」)、お地蔵さんの「代受苦」のように苦しみを分け合い、親身に「寄り添う」ことで被災者を励ました。
 「心の相談室」は、震災後東北大学文学部の宗教学科が事務局となり、宗教・医療・福祉・学者等の関係者が集って開設された。これを提唱・主導したのが岡部医師で、静岡県立総合病院・宮城県立がんセンターの呼吸器外科医長を経て名取市に岡部医院を開設し、地域医療に従事しながら永年がん患者のための在宅緩和ケアを続け、患者から「看取り先生」と敬慕された。ホスピス病棟の牧師「チャプレン」を「臨床宗教師」と言い換えたのは同医師である。自らもがんを患い、「臨床宗教師」の養成講座が東北大学に実現する直前(平成24年、震災の翌年)、告知からたった2年で亡くなられてしまった。
 この「心の相談室」は、犠牲者の弔いごとから遺族の悲嘆ケアに至るまで一貫した支援を行った。これに連携をしたのが金田諦應師(栗原市、曹洞宗通大寺住職)が主宰する「カフェ・デ・モンク」であった。金田師ら仏教僧は避難所になった寺々で移動傾聴喫茶による弔いごとや悲嘆の「傾聴」と「寄り添い」の活動を行った。
 金田師は言う。「人間には大きな命の輪の中にアクセスする能力(スピリチュアリティ)が元々備わっていると感じます。宗教者はそれをひたすら信じ、時間と空間が凍り付き未来への物語が見えなくなってしまった方々の心を解きほぐす。上手に聴きながら気づいてもらう。行きつ戻りつ長い時間がかかるかもしれません。その人が自分自身で受容するのをじっと待つことが必要なのかもしれません。教えを上手に説くというのではない。宗教者として寄り添うということはこういうことなのかという「気づき」は、むしろ活動を通して教えていただいたように思います」。
 「カフェ・デ・モンク」では、位牌や数珠やお地蔵さん(人々の精神風土に溶け込んだ既成仏教のアイテム)が被災者の傷ついた心をケアしていく現場を多く経験したという。それは「宗教の文脈で語られる「救い」ではなく、その人の精神風土の文脈のなかで語られる「救い」」であるとも。(仏教企画ウェブサイト/「臨床宗教師養成にあたって思うこと」)。

◇被災者の「心のケア」になった青年僧の読経

他方、若い仏教僧たちも宗派を越えてがんばった。仙台市などの火葬場で読経ボランティアを行い、次ぎ次ぎと運ばれてくる異常な姿の遺体と対面し、せめて自分たちの読経によって(「非業死」「横死」ではなく)「成仏」(「=宗教死」)してくださいとばかり切なる思いを込め懸命に読経した。
 彼らの読経は、進歩的文化人らから「葬式仏教」だと揶揄される「死者儀礼」の方法であったが、家族からは「これで、死んだ人も浮ばれる」と感謝された。東北の被災者にとって、読経も精神風土に溶け込んだ「救い」のアイテムだった。犠牲者の弔いごとや遺族の悲嘆ケアに役立ったのである。
 「心の相談室」でも「カフェ・デ・モンク」でも家族を亡くした人から、家族の死の痛恨・悲嘆を何度も聴いたであろう。生々しい死の悲痛に直面して心を揺さぶられ、応答に非力を感じたかもしれない。しかし、多くの家族は日頃聞きなれた読経と見慣れた作法の「死者儀礼」に「救い」の納得をしたにちがいなく、それは位牌・お数珠・お地蔵さんと同じく、傷ついた心のケアや「寄り添い」の方法として説得力をもった。

◇東北ならではの「協働」

思うに、「心の相談室」といい、「カフェ・デ・モンク」といい、青年僧の読経ボランティアといい、これらの「協働」は「結(ゆい)」(農作業の互助)や「講」(伝統文化や祭事の実施)や「組」(隣人や同業者間の互助)と同様、東北の地ならではの人と人のつながりの濃さによる共助・互助の活動ではないか。
 東日本大震災復興構想会議の委員をつとめた作家の玄侑宗久師(福島県三春町、臨済宗・福聚寺住職)は言う。「この国の主流が経済原理に基づく競争原理で都市を形成しているとすれば、東北にはまだ別な世界が色濃く残っている。「絆」だとか「共生」などと敢えて呼ぶまでもなく、「協働」の想いが彼らのなかには当然のこととして今なお息づいているのである」と。
 ふり返れば、阪神淡路大震災後の神戸市周辺でも、中越地震後の中越地方でも、熊本地震後の熊本市周辺でも、今年の北海道地震後の道東でも、被災者の「心のケア」のために、宗教者と医療・福祉・学者・国立大学などが組織立って救援活動を行った例を聞かない。玄侑師が言うように、緊急事態のなかでの「協働」活動は東北にして可能だったのかもしれない。
 思えば、東北は永く中央への服属や同化という屈辱と忍従の歴史だった。古代、ヤマトタケル(日本武尊)の日高見国(ひたかみこく=蝦夷地・陸奥国)平定にはじまり、アテルイ(阿弖流爲)・藤原氏・会津藩と奥州越列藩、そして戦後の高度経済成長期に「集団就職」「出稼ぎ労働」で中央に服属した。
 東北の気候は厳しく、「やませ」(偏東風)による冷害・凶作はたびたび東北の農民に極貧の生活を強いた。NHKテレビ朝の連続ドラマ「おしん」は、貧しさ故にまだ幼い子供を丁稚奉公(男児)・女中奉公(女児)に出し、年頃の娘を身売りし、赤子を間引きする東北農民の悲哀を伝え、石川啄木は「一握の砂」で、
  はたらけど はたらけど 
    猶(なお)我が生活(くらし) 楽にならざり
  ぢっと手を見る
と詠んだ。
 中学卒の15の春は、井沢八郎の「あヽ上野駅」(「集団就職」)で、安い賃金で文句も言わず長い時間働く労働力を、大挙して首都圏に供給する中央服属の春であった。しかし、彼らは大都会のなかで「若い根っこの会」などを通じて互いに励まし合い辛抱強く生きた。ふるさと東北の「結」「講」「組」などを思わせる「協働」の共同体だった。都会に出た息子を追うように父も首都圏の「出稼ぎ」に出た。盆と正月にしか帰らない大黒柱に代り田んぼや畑に出たのは、ジイちゃん・バアちゃん・カアちゃんだった(「三ちゃん」農業)。
 東北の人たちが屈辱と忍従の歴史や厳しい気候や貧しい暮らしから学び身につけたものは、いざという時に血縁・地縁が連帯して助け合う「協働」と、忍耐力や再生力などの危機対応力だった。

◇仏教僧は「臨床宗教」に適性か

時に、東北での被災者の「心のケア」にはじまった「臨床宗教」の試みは、まもなく東北大学の実践宗教学寄附講座で本格化し、そこで育った「臨床宗教師」の趣く先は末期患者などに対する精神ケアを担当する医療現場になった。
 然るに、病気の苦しみと死別の悲しみという人間にとっては最も深刻な問題と直接向き合うことは宗教者にとり大変有意義なことにちがいないのだが、場が場であり、仮に「臨床宗教師」の有資格者であっても誰にでもできる職務ではない。はたして仏教僧はこの任に適任・適材・適性か、そこがまず問われる。
 わが国では、人が死に直面した時に、宗教とか宗教者を支えとするパーセンテージはゼロに近い。とくに仏教僧の場合、岡部医師に「避けることのできない死の現実と向き合い苦しむ人がいる場に、何故、宗教者が出てこない!」と叱責されても、そもそも「病床に出てこい」という声もかからず、仏教僧から押しかける筋のものでもない。
 若い頃、栃木県益子町の西明寺(坂東三十三ヵ所観音霊場第二十番、豊山派)で、ご住職でありがんの専門医でもあった故田中博雅師が開設した「普門院診療所」の末期病床や老健施設「看清坊」の慰問ボランティアをしていた時、田中先生から「患者の菩提寺の住職に「傾聴」や「寄り添い」をお願いしたいのだが、連絡をしても誰も来てくれない」とこぼされたが、現実には不可能であった。
 仏教僧はそもそも、そのような場に臨むことを想定していない。ホームグラウンドはお寺であり、本分は自分自身の修学(自利)と檀信徒を対象にした布教(利他)である。元を質せば、釈尊だとて病床に伏し死を前にした人のために解脱への法を説いたのではない。
 昔、奈良の寺々には「施薬院」「悲田院」があり、傷病者を収容して僧侶もかかわって施療をした歴史があるが、医師・薬師と僧侶が分業専門化するにつれ仏教僧は医療行為から離れた。薬師如来という医薬の仏尊も医療現場ではなく国家鎮護の本尊として諸国の国分寺に祀られた。医王寺・薬王寺といった名のお寺も医事・薬事を担当しなかったし、大寺院のほとんども昔の奈良の寺々のように医療施設を営まなかった。医療は仏教の本分ではないのである。
 さらに言えば、仏教僧には死を前にした末期患者に適切な助言や対応を行う能力はない。末期患者の「死の恐怖」や「命の消費期限」や「家族と別れる辛さ」や「なぜ私がこんな目に」などについて、あるいは「家族のケア」について、適切な助言や対応を期待されても、自分さえ考えたこともなく答えもおぼつかないような人生の最重要命題に責任をもって答える能力などないのである。
 しかも、「臨床宗教師」は宗教者にかぎり認められているのだが、病院・施設・在宅などでの公共の福祉に従事する立場から、所属する宗教宗派の教義宣布とか特定の信仰への誘導によって精神ケアを行うものではないという。今まで学び身につけた教理・教学や信仰心情が基本的に使いものにならないのである。これでは、宗教者として、両手を縛られ目隠しされた状態で医療現場に臨めと言われているに等しい。

◇若い仏教僧への懸念

だから、改めて「臨床宗教師」養成講座での研鑚なのであろう。
 然らば、仮に「臨床宗教師」の資格を得たとする。しかし、現実の医療現場はそう簡単ではなく、誰でも対応可能なところではない。とくに若い仏教僧には荷が重いのではないか。若い仏教僧が「臨床宗教師」として育つことに賛意と期待をもちつつも、適任・適材・適性の意味で懸念なしとしない。
 例えば「お化け」や「死神」や「花畑からの手招き」や「三途の川の橋」や「あの世から親や兄弟がお迎えにきた」という話がよく出るという。そんな超常現象や深層心理を経験したこともない若い仏教僧が、どう「傾聴」し、どう「寄り添う」のか。「その人の精神風土の文脈のなかで語られる「救い」」にどう導くのか。
 私の懸念は、過日「臨床宗教師」の問題をオンエアしたBSフジ「プライムニュース」で、出演した金田諦晃師の話から確信に変わった。死を前にして人生と生命をかけている末期の患者と比べ、いかにも人間的には未熟に見えてしまう若い仏教僧の「傾聴」「寄り添い」に明らかなミスマッチを感じた。
 私には苦い経験がある。若い頃に栃木女子刑務所の教誨師をやっていた時、宗教教誨の法話でも個人面談でも自分の言葉が受刑者の心に響いていない未熟さを痛感し、7年で教誨師を辞退した。安易なヒューマニズムが災いした。同期の師はずっと続けられすでに叙勲を受けたが、たとえ受刑者でも、自分より人生経験が長く罪を充分悔いている人に対し、未熟のまま向い合う無責任と失礼を自分自身許せなかったのである。
 適性をさらに言えば、「一仏一経主義」の偏狭な教理や信仰で凝り固まっている仏教僧も無理であろう。そもそもが「傾聴」や「寄り添い」などおぼつかない。
 また、学究系の仏教僧もどうだろう。このタイプの人は、学問的思考に偏しがちで得てして理屈を口にしたがる。「臨床宗教」は理屈よりも「心のケア」である。
 かと言って、一定の学識もなく浅薄な世間話くらいしかできない人も無理であろう。言葉に宗教者らしい重みがなければ信頼はされまい。
 また、寡黙にして無口で会話が苦手な人も無理であろう。無口な人は他人とコミュニケーションが苦手で、性格が暗い場合が多く、これも「臨床宗教師」には不向きである。
 「臨床宗教師」として一番大事な要件は、「この人は今、何を言いたいのか、何を訴えているのか」「この人は今、何が聞きたいのか、何を求めているのか」「共に泣き、うなずき、ただ聴けばいいのか」「具体的な答えや対応を望んでいるのか」などを察知する能力である。安易なヒューマニズムや無邪気なボランティア精神でできるものではない。報酬を受ける場合はなおさらで、プロの能力が求められる。
 「臨床宗教師」を提唱・主導した岡部医師は、この「臨床宗教師」の適性に合致する人だったに相違ない。高校時代キェルケゴールの『死に至る病』を愛読し、理系と文系両立の人だったといわれる。病気治療と精神ケアの両方とも、臨機応変にできたであろう。
 患者は、同医師の適切な診療を受けて信頼感をおぼえ、だんだん心の不安や、治癒可能かどうかや、自分の余命期限や、家族との別れのつらさや、身辺と心の整理や、死の受容や、死後の心配や、また「お迎え現象」という超常心理に至るまで、同医師に聞いただろう。それに充分答えられたからこそ、患者から「看取り先生」と慕われたのである。

◇若い仏教僧の可能性

以上、「臨床宗教」「臨床宗教師」のはじまりと仏教僧のそもそもの適性など初歩的な問題について述べてみたが、今後真言系大学で「臨床宗教師」の資格取得が必修になる可能性を想定してみると、宗門大学を出て「臨床宗教師」となった青年僧の活躍の場や宗派における位置づけについて、宗派としてはガイドラインなどを用意しておく必要がある。
 実際に「臨床宗教師」の稼働となると、宗派当局が「臨床宗教師」の派遣業務にあたり、医療機関や在宅ケア家族との連絡調整を行うことになるだろう。これを「臨床宗教師」個人が行うのは、仏教僧の場合避けるべきで、宗派からの派遣方式の方が身分証明等々何かにつけて望ましい。仮にそうなると、当然宗務庁に担当課を用意し、専門的な知識と現場経験をもつ職員を配置しなければならない。そこに若い「臨床宗教師」の活躍の場が生れる。
 一方また目を転じれば、一般の檀家寺・信者寺の日常において、例えば、葬儀を通じて家族の死で悲しむ檀家遺族の「心のケア」や、当病平癒の護摩祈願にきた信者の「心のケア」も「臨床宗教」と同じではないか。既成仏教は「葬式仏教」とか「死の現実と向き合い苦しむ人がいる場に出てこない」とか何かと揶揄・批判の対象になるが、住職たる者は通常「臨床宗教師」と同等のことをしていると言って過言ではない。もし後継者が皆「臨床宗教師」になるとすれば、檀信徒の「心のケア」や悩みごと相談も増え、お寺が「傾聴」「寄り添い」の場になるかもしれない。「臨床宗教」は、医療現場や在宅ケアにかぎらず、寺院が担うことになる時代は夢想だろうか。「葬式仏教」が「心のケア仏教」として再評価される日がくるかもしれない。

◇「臨床宗教」の先駆者

余談ながら、今から四十余年前、大阪の淀川キリスト教病院にわが国最初のホスピス病床が設けられ、実質的なホスピスケアがはじめられた。同病院の理事長・大阪大学教授などをつとめたクリスチャン医師の柏木哲夫氏の努力によるものだった。氏は、日野原重明先生(前出)とともに日本のホスピスの先駆者であった。
 時を同じくして、浜松市の聖隷三方原病院に日本最初の緩和ケア専門病棟がつくられ、ホスピスケアが開始された。衆議院議員などをつとめた長谷川保氏によるものだった。
 続いて、新潟県長岡市の長岡西病院に仏教系ホスピスケアがはじめて開設された。ビハーラ医療団を率いる田代俊孝師や佛教大学の田宮仁氏の尽力によるものである。このお二人は日本における仏教系ホスピスの草分けである。
 さらに近年、日本財団の支援を受けて設立された神奈川県中井町のピースハウス病院が、日本初の独立単体ホスピス病院として開設され、一時休止したが二〇一六年(平成二十八年)四月から再開されている(現、日野原記念ピースハウス病院)。淀川キリスト教病院や聖隷三方原病院や長岡西病院のホスピスケアが日本において行われはじまった頃、その必要性を強く説いていたのが日野原重明先生だった。
 スイス系アメリカ人精神科医のエリザベス・キューブラー=ロス女史の『死ぬ瞬間』をはじめとする死をテーマにした本が脚光を浴び、死の受容の議論や学習が盛んになったり、ドイツ生れの司祭・哲学者で、上智大学の教壇に永く立ったアルフォンス・デーケンの死生学や死の準備教育(Death Education)が注目をされたのはその頃だった。
 阿倍野龍正猊下(高野山真言宗元宗務総長・同管長)をリーダーとする「仏教いのちを考える会」が、宗教者と医療者とが同じ場で生命倫理の問題を勉強する活動をしていたのもその頃だった。私はこの会に大いに啓発された。
 多くの方がすでに故人となられた。先駆者の各位に改めて敬意を表しておきたい。

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