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西田幾多郎:「剽窃」「受け売り」の「疑」 New

 鈴木大拙師の「序」でも述べたことであるが、西田幾多郎氏(以下、氏、西田(敬称略))は自らの思索や思想を創造するために、古文献や古資料や定説や先行の論考をつまむ「方法」の人であった。つまむ際、古文献や古資料の客観的かつ厳密な原典の読み込みも必要なく、自己解釈でよく、創造的「誤読」も許される。あるいは自説の主観性を客観化・普遍化するために定説や先行の論考を「援用」するのに、典拠や原文を明かさず、しかも典拠の自己解釈でいい。加えて、定説や先行する哲理や思弁や概念の一部分をつまんできて論述のなかに潜ませ、自説の如くに言うのである。

 然るに、西田には、冒頭から不遜なことを言うようであるが、専門家筋から「剽窃」(「いいとこ取り」、今で言うパクリと言っては失礼か)の批判・疑念が出ている。
 また、草学道の私にも身に覚えがあって、氏の「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」は鈴木大拙師の「即非の論理」そのままの「受け売り」だとかつて指摘したことがある。その際「剽窃」とまでは言わなかったが、氏の「親鸞」(浄土真宗)も大拙師の「親鸞」傾斜と同じだった。

 氏と大拙師は人も知る四高同窓の親友で、終生切磋琢磨し合った仲であった。しかし、どちらかと言えば(氏には失礼だが)大拙師の方がいつも先んじていて、禅(「看話禅」)も華厳も『大乗起信論』もアメリカの思想界のことも、みんな大拙師が勧め、あるいは教えたものであった。そういう事情から、氏には大拙師から違和感なく「受け売り」ができたため、「剽窃」(「いいとこ取り」)などという自覚がなかったのではないかとも憶測される。

 識者が「剽窃」(「いいとこ取り」)だと指摘する一例を挙げると、

『善の研究』は、独創的どころかゲーテやシュタイナー(『ゲーテ的世界観の認識要綱』)やヘルマン・ジーベック(『ゲーテの世界観』)やT・H・グリーン(『グリーンの倫理学』)のいいとこ取りだという指摘もある。
(『西田幾多郎の真実』河西善治)

 また、『善の研究』の冒頭に出てくる「純粋経験」は「西田哲学」の代名詞のように言われているが、これはアメリカを代表する哲学者で心理学者だったウィリアム・ジェームズの『根本的経験論』に説かれる「純粋経験の世界」の「剽窃」(「いいとこ取り」)であり、『善の研究』の最終章「宗教」はジェームズの『宗教的経験の諸相』の「いいとこ取り」だと言われている。

 ジェームズのことは、当時アメリカにいた大拙師が西田に教えたもので、大拙師の妻ベアトリス・アースキン・レイン(神智学、オカルト・サイエンス=隠秘学、ヨーガ・禅)はジェームズの弟子であった。禅が可能にする「主客同一」の境地を「純粋経験」として捉えることは、大拙がはじめたのでもなく西田がはじめたわけでもなく、アメリカという近代そのものを体現する混在の場所で、哲学プラグマティズムによってはじめて可能だったと言われている。

 私が「疑」を感じるのは、西田は自説を述べるのに先行の思想家の哲理や思弁や概念をつまんできて(引用ではない)、それを自分の考えのように言うことである。「純粋経験」はジェームズほかアメリカの哲学プラグマティズムに負うているにもかかわらず、それについての正直な言及や説明がなく、あたかもジェームズが西田と同じ考えのように言う。

 西田は、『善の研究』では
 ヴント・ジェームズ・スタウト・ゲーテ・ショーペンハウエル・ロック・デューイ・ヘーゲル・スピノザ・シラー・(ヘンリー)スタート・モーツァルト・シェリング・プラトン・ソクラテス・ベーコン・デカルト・エレア学派・カント・バークレー・フィヒテ・ハイネ・ヘラクレイトス・ハルトマン・ライプニッツ・ベーメ・クザーヌス・パスカル・スコトゥス・ホッブス・キルヒマン・クラーク・ディオゲネス・ストア学派・エピクテトス・キレネ学派・アリスティッポス・エピクロス・ベンザム・ミル・アウグスチヌス・ヘフディング・アリストテレス・ャフツベリ・スペンサー・イプセン・ヴァイニンガー・テーヌ・ルソー・ラファエル・ジオットー・スミス・コンディヤック・ウェストスコット・ニュートン・ケプラー・ロイス・アースキン・イリングウォルス・エックハルト・トマス(アクィナス)・テニスン・シモンズ・ディオニシウス派・(オスカー)ワイルド・新プラトン派
を持ち出し、『場所的論理と宗教的世界観』では、
 フォイエルバッハ・マルクス・カント・ゲーテ・ヘーゲル・ライプニッツ・パスカル・新カント学派・リッケルト・アリストテレス・ソクラテス・プラトン・ロッチェ・ヴント・フッサール・スピノザ・シラー・シュッペ・カウフマン・ダンテ・デカルト・バルト・ヘーゲル左派・キルケゴール・ドストエフスキー・オットー・アウグスチヌス・フィヒテ・ティリッヒ・アルキメデス・モンテーニュ・ランジュヴァン・デュルケーム・ランケ・ケプラー・シュペングラー・ドウソン・ベルジャーエフ
を持ち出しているが、彼らに自説が依拠している場合でも、彼らが自分に似ているような言い方もする。

 前にもふれたが、思想家や哲学者はオーソライズされた定説や先行する哲理や思弁や概念を「援用」する。自説を主張する際に、先行する哲理や思弁や概念を引用したり例示したりして傍証や批判に使う。西田の場合も、西田哲学の研究者や愛好者は「援用」だと言うだろう。
 しかし、私の目には「援用」には見えないことしばしばなのである。西田は他の哲理や思弁や概念をつまみながら、それを自分の考えのように言う。それは「剽窃」(「いいとこ取り」)や「受け売り」と言われても仕方がない。
 一例を挙げれば、大拙師の「即非の論理」や「親鸞」の丸呑みはどう見ても「受け売り」である。西田の『書簡』には「即非の論理」への全面賛意が見える。大拙師からの「受け売り」は明らかで、それをしばしば「般若即非」などとラベルを張り替えて自説のように言う。また西洋哲学の哲理や思弁や概念をつまんできて自分のもののように言うのも、今は「剽窃」(「いいとこ取り」)「受け売り」で、「非」である。

第一節 西田哲学の「純粋経験」考

 まず、西田哲学の基本概念ながら、他の思想家・哲学者の「剽窃」(「いいとこ取り」)と言われる「純粋経験」、である。

 西田は、デビュー作で代表作である『善の研究』の冒頭で次のように言っている。

経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、まだ主も客もない、知識とその対象が全く合一している。これが経験の最醇なるものである。
(略)他人の意識は自己に経験できず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時はすでに純粋の経験ではない。真の純粋経験はなんらの意味もない、事実そのままの現在意識あるのみである。右にいったような意味において、いかなる精神現象が純粋経験の事実であるか。感覚や知覚がこれに属することは誰も異論はあるまい。しかし、余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる
(略)純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間においては、いつも単純なる一事実である。(略)意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ。すなわち、意識の焦点がいつでも現在となるのである。
(『善の研究』第一編純粋経験、第一章純粋経験)

 西田自身が
  「思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態」
  「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」
  「まだ主も客もない、知識とその対象が全く合一している」
  「事実そのままの現在意識
  「余はすべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる」
  「意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬ」
という「純粋意識」を、「一生懸命に断崖を攀ずる場合」とか「音楽家が熟練した曲を演奏する時」などと西田は補足しているが、我を忘れて何かに集中している事実だけの状態、自分と崖や曲の区別がない状態(「主客未分」)のことである。西田はこれを「もっとも具体的な実在と考え、現実にある一切のものを、この「純粋経験」の発展の諸形態として説明しようとした」(『西田幾多郎の思想』小坂国継)のである。

 この「純粋経験」は西田にしてみれば「すべての精神現象がこの形において現れる」「実在」なのであるが、これはのちに田辺元や高橋里美に批判されるように、「宗教」(禅)の「無」の境地(「主客同一」)の言い換えで、禅の経験のない人にはわからない「観念」だとされたが、西田はヨーロッパのフッサールやヘーゲルやハイデガーが問うた「精神現象」を、アメリカのプラグマティズムの「直接的経験」を実在とみなす心理主義、とくにウィリアム・ジェームズの「純粋経験」を「受け売り」して自分の説にしたのである。引用文に出てくる「現在意識」「時間的継続」は、ジェームズの「意識の流れ」やベルグソンの「(純粋)持続」の「受け売り」と言われる。過去の反省的な思惟などで中断されない意識の「持続的現在形」といった意味である。

 私は高校時代、卓球(これでも栃木県でベスト4のシード選手だった)の練習中、あるいは大会の試合中、この「純粋経験」を何度も経験している。
 まず、卓球用語で「乱打」というのだが、肩ならしの打球交換から練習も試合もはじまる。何度か「乱打」をくり返しているうちに「無心」になる。「一生懸命に断崖を攀ずる場合」とか「音楽家が熟練した曲を演奏する時」のように、打球に対する集中が高まると我を忘れ、ただラケットにボールがあたる感触(触覚)やリズミカルなボールの音(聴覚)や目がボールを追う(視覚)だけの状態になり、頭で何か考えるわけでもなく、身体は勝手に飛んでくるボールに反応している。目や耳や手足の感覚は同時にまた瞬時に働いていてバラバラではなく、打球に集中して統一されている。これが西田の言う「主客未分」「思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態」、すなわち「直接経験」の最初の段階にちがいない。

 次いで、試合形式の練習や、もしくは大会での試合で、ゲームに入ると、ワンポイントごとに、自分のプレーやゲーム運びの反省や、相手の打球の種類や作戦の分析・整理・判断があり、そして次のプレーを選択する。この間集中が低下したり途切れたりして雑念が入ることがある。決勝戦の勝負どころやあとワンポイントで優勝となれば、余計である。ともあれ、ゲーム中は集中と反省・分析・判断のくり返しである。集中はしばしば統一的でなくなるし、また統一的になる。この状態でもほぼ雑念のない「無念無想」、「無感覚の感覚」「無意識の意識」「無心の心」のなか。意識の分散・分化はあるものの、すぐに統一されたレベルに戻るのである。これが無意識が中断して反省・分析・判断などの思惟が働く、厳密な意味での「純粋経験」でない段階。

 そして「無念無想」「無感覚の感覚」「無意識の意識」「無心の心」の集中がうまく「持続」して「ゾーン」に入ると、無意識のうちに身体が自分勝手に動き、相手の返球のコースとボールの回転の度合いに応じて瞬間瞬間に身体が反応し、瞬間瞬間にゲームの次の展開を判断し、ただただボールの音とリズムだけがかすかに耳に聞こえている状態になる。スポーツでよく言われる「ゾーン」に入った状態である。
 「ゾーン」に入ると、自分(主体・主観)は完全に無意識で、ただ相手(客体・客観)に集中し、相手の内に入って全体を見ている。そして相手が動く前に相手の動きが察知でき、同時に身体が反応している。フィヒテが言う「知的直観」であるが、私の経験は「直観」も超えた0コンマ何秒の無時間的ひらめきの世界。時間と空間が同時に動いている。その一瞬一瞬だけが事実的「現在」で、その「現在」がゲーム終了まで続く。「現在」は「持続」(ベルグソン?)的であり、「時間・空間的に自己自身を形成する世界」「自己表現的」(西田)でもある。これが究極的な「純粋経験」で、西田はのちにこれを「絶対無の自覚」「絶対無の場所」「行為的直観」に発展させていく。
 加えて言えば、弥陀の「本願」を信じてひたすら念仏するのは「純粋経験」であり、弥陀の「本願」にすべてを委ねる(自己を否定して弥陀の本願に救われる=肯定)ことが「絶対無の自覚」であり、弥陀はその時「絶対無の場所」であり、弥陀に救われる「主客同一」は「行為的直観」なのだろう。

 こういう「ゾーン」経験は禅でなくてもできる。私は高校時代の卓球で何度も経験したが、加えて、加行中に、道場の出流山満願寺(栃木県栃木市)の奥の院の洞窟(ご本仏・鍾乳石の千手観音を祀る窟)で、千手観音のご真言を千八十回唱えていた時、高校時代以来久しぶりに「ゾーン」に入った。この時は、『般若心経』の「色即是空 空即是色」「無・・・」「無・・・」がよくわかった。「空」とは「ゾーン」に入ることだ、これだと思った。坐禅でもこの「ゾーン」に入るのだろうと思った。参禅経験者はよく「落ちる」と言う。
 「空」は「無感覚の感覚」であり、「無意識の意識」であり、「無心の心」であり、その「無」のなかでの「感覚」「意識」「心」(=有)が唯識で言う「アーラヤ識」(「蔵識」)であり、私の言う「ゾーン」である。「アーラヤ(ālaya)」とは「場所」「住居」のことで、「場所」という概念では西田の「場所」はこの「アーラヤ識」のことではないか。一切法の種子を内蔵しながら瞬時に生滅をくり返し持続する、という意味では西田の言う「現在意識」である。

 ついでに言うと、西田が言うところの「逆対応」「一即多 多即一」もこの「ゾーン」でわかる。「一即多 多即一」とは華厳思想で言うのだが、空海も言い換えて「重々帝網」と言った。すなわち、「空」(「ゾーン」)の境地(=「法界」)では、あらゆる存在・事象は「インドラ網」(結び目に宝玉がつけられた網)の宝玉が互いにそれぞれを障害なく映しているように、存在・事象全体には一つ一つの存在・事象が内在し(一即多)、一つ一つの存在・事象には存在・事象全体が内在している(多即一)という意味。海水にはすべての生命体が溶け合っている、海水は一つ一つの生命体に内在し(一即多)、一つ一つの生命体は海水に内在している(多即一)、と言えば「海印三昧」(華厳)である。

 私が卓球で経験した「ゾーン」では、練習場や大会会場「全体」が自分「一人」のためにある。つまり他の台で練習している友だちや試合をしている選手が私の目にはいないのだ。練習場や大会会場には自分だけ(全体=私)。自分とその場は「主客一体」。これを敢えて言えば「一即多 多即一」である。
 空海の「十住心」も、「九顕十密」で見るとまさに「一即多 多即一」の「逆対応」である。西田の言う「一即多 多即一」「逆対応」「絶対矛盾的自己同一」を空海は平安時代にとうにやっていた。西田は、空海を調べておくべきだった。

 西田はまちがいなく、禅の修行中に私の言う「ゾーン」に何度も入ったのである。その境地をありのままにわかりやすく「無」の論理と日本語で語ればいいものを、哲学的な「一元的」「実在」にするためにわざわざジェームズの「純粋経験」を「受け売り」したと見える。

第二節 西田哲学の「自覚」考

 西田は、ジェームズの「意識の流れ」やベルグソンの「(純粋)持続」を借りて「純粋経験」から哲学をスタートしたのだったが、それは禅の「無」の境地から着想したためか一種の深層心理であり、田辺や高橋から批判されたように「宗教」のレベルとされた。

 そこで西田は、ドイツの数学者リヒャルト・デーデキントの「デデキント無限」やアメリカの哲学者ジョサイア・ロイスの「自己表現的体系」(『世界と個人』第一巻)、あるいはフィヒテの「事行」やリッケルトの「価値哲学」、あるいはベルグソンの「エラン・ヴィタール(生の飛躍)」やドイツの新カント学派ヘルマン・コーヘンの極限の概念を使って、「自覚」という概念に至ったと言われている。それが西田の代表作の一つ『自覚に於ける直観と反省』である。

この書は余の思索における悪戦苦闘のドッキュメントである。幾多の紆余曲折の後、余はついに何らの新しい思想も解決も得なかったといわなければならない。
刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うたという譏を免れないかもしれない。
(『自覚に於ける直観と反省』)

 では、この「自覚」とは何ぞや。西田自身が言うには、

直観(『善の研究』で言う「純粋経験」)というのは、主客の未だ分れない、知るものと知られるものと一つである、現実そのままな、不断進行の意識である。
反省というのは、この進行の外に立って、翻って之を見た意識である。
(略)余は我々にこの二つのものの内面的関係を明らかにするものは、われわれの自覚であると思う。自覚においては、自己が自己の作用を対象として、之を反省するとともに、かく反省するということが直ちに自己発展の作用である。
かくして無限に進むのである。反省ということは、自覚に意識においては、外より加えられた偶然の出来事ではなく、実に意識そのものの必然的性質である。
(『自覚に於ける直観と反省』)

 私の卓球での「ゾーン」経験で言うと、「無感覚の感覚」「無意識の意識」「無心の心」の状態で自在に相手の返球が読め、自然に身体が反応し、ボールの音だけが聞こえている、それが「純粋経験」であり、一つのプレーが終ると集中状態から外れ、次のプレーまでに瞬時に、次のプレーの選択をする。この選択は瞬時ながら、相手の心理状態や戦術・作戦やゲームの流れなどの冷静な分析・反省に基づく。この分析・反省が自己発展して判断となり次のプレーの選択になる。
 これはゲームの終了まで持続的に続く。また、その判断・選択はプレーをしている自分のほかに「もう一人の自分」がいて、客観的に自覚的に進行するのである。スポーツでよくいわれる「緊張して実力が出せなかった」「アガッテしまった」というのは、この「もう一人の自分」=「自覚的な自己」が機能しないことを言う。
 アスリートたちは練習や試合が終ると、精神集中の反省(自己分析)、「ゾーン」の反省をし、次の練習や試合に自覚的に役立てる。そしてまた集中・「ゾーン」に入る。反省と「自覚」の反復である。ただの無我夢中で好成績を残せる場合もあるが、オリンピックなどで勝つ選手はみな「ゾーン」の自覚に長けた人たちである。そういう意味で、今のアスリートたちは専門的なメンタルトレーニングをしている。

 西田は私の言う「自覚的な自己」を「自己の内に自己を映す」と禅の「公案」のような概念で言い、それを「自覚」と言った。「自分が自分を見ている」「当為が当為自身を承認すること」「知るものと知られるものとの一致」である。

存在と当為とは一つの事行Tathandlung(タートハントルング)の両面であって、自覚はその具体的な真相を表わしたもの

自我は働くものであると同時に活動の所産である。(略)活動(ハントルング)とそこから生まれた事(タート)とは絶対的に同一である。

フィヒテに新しき意味を与ふることによって、現今のカント学派とベルグソンとを深き根柢から結合することができると思うた。
(前掲書)

 この「自覚」はのちに、西田哲学の中期になって「絶対無の自覚」に発展し、禅の「無」の境地や浄土信仰の弥陀への絶対帰依・本願確信(「空」)に至った自己と「絶対無の場所」とを媒介する交差点になる。

  私が加行中に行った「滝行」は、静かに坐る禅ではないが、一心不乱に真言を唱える念誦法と同じく「禅定」である。この「滝行」で一定の経験を積むと、行中に滝の水の冷たさも落ちてくる水の重さも感じず水の音も聞こえず、自分の身体が浮いている空中浮遊現象を経験した。これも「無感覚の感覚」「無意識の意識」「無心の心」で、その「ゾーン」のなかで浮遊している私を「別な私」が見ている(「自己の内に自己自身を映す」)のである。
 空海が言った「三密加持速疾顕」(三密加持すれば速疾に顕わる)の「加持」とは、(「公案」の「鏡の喩え」に同じく)行者の「心水」に仏日の影が顕われ(加)、それを「心水」が感じること(持)と言われるが、それは「自己の内に自己自身を映す」であり、その「加持」によって瞬時(速疾)に、仏と一体になった「仏身としての自己」がそこに顕われるのである。

第三節 「哲学」と「宗教」の「いっしょくた(「一即多」)」

 「哲学」は、知覚とか認識とか、意識とか無意識とか、意志とか直観とか、感情とか衝動とか、思惟とか論理とか、推理とか定理とか、あるいは本能とか深層心理で、人間が精神作用として認識したモノ・コトをすべて「実在」(「有」・存在)とする。神も超越者も、聖霊も悪霊も、コトの本質もモノの属性も、心理現象も心霊現象も、花も鳥も、風も水も、愛も怒りも、希望も不安も、条理も不条理も、詩も小説も、過去も未来も、夢も思い出も歴史も、「我思う、故に我有り cogito, ergo sum」。「思う」即「有る」なのである。
 これを西田は「事物の論理」と言ったが、「哲学」は従って、禅の深い境地(心の深層の自覚)であっても、念仏による弥陀への信仰であっても、これをモノ・コトの次元(=「実在」の次元)において、理性すなわち言葉の論理(弁証法)によって普遍の領域まで止揚して語るのである。
 従って哲学者は通常、「哲学」と「宗教」を混同しない。「哲学」は合理であり、言葉による論理であり、実在論であり、事物の論理であり、他方「宗教」は非合理であり、言葉や論理を超えた瞑想直観の知であり、唯心論であり、心の論理であって、お互いに次元を反対にするからである。

 ところが西田は、「禅の見方は実に独特なもので西洋にはない。これをもととして日本の哲学は立てられるべきものであり、そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう」と言って、(日本の)仏教の一部に過ぎない禅の瞑想体験をもとに「哲学」と「宗教」を「いっしょくた(「一即多」)」にした。西田にとってはそれこそが「絶対矛盾的自己同地卯」「逆対応」の東洋的「一元論」であろうが、田辺元は宗教的体験をもとにすることは哲学的な議論の次元とはちがうと批判し、高橋里美も禅を「哲学」に無批判的に導入することに批判的だった。西田の後継者になる田辺と高橋の批判は時に厳しく、西田の哲学に影響を与えた。
 死を目前にした西田は、

私の論理というのは学界からは理解せられない。否未だ一顧も与えられていないといってよいのである。批評はないではない。併しそれは異なった立場からの私のいうところを曲解して、これを対象としての批評に過ぎない。

と嘆いたが、「私のいうところを曲解」とは田辺のことだろう。田辺や高橋の真摯な批判は西田には曲解にもとづく「批評」に過ぎなかったのである。
 学問の府においては、そういう言い方は同じ哲学者である田辺や高橋に失礼ではないか。なおかつ西田は意趣返しのように「あの人(田辺)のザンゲというのはザンゲではなくして後悔なのだ。唯自力で進んで行こうとするのだ。単に道徳だ」(「務台理作宛の書簡」)と、皮肉っている。
 西田は田辺をわざわざ京大に招いた人ではなかったか。学問の上の批判と人格攻撃が紙一重で、学人として西田は倫理的ではない。私の恩師である福井康順先生(元早稲田大学名誉教授、元大正大学学長)は「学人同士、学問の上での批判は大いにけっこう。学問に妥協は不要だ。だが学問を離れた人間同士としては妥協も必要で、たまには飲んで杯を交わすことだ」と常々言っていた。

 然るに西田は、哲学者としては異例というか、異常というか通常ではない方法、つまり哲学者が言う「宗教」(臨済禅・親鸞・華厳・少々の道元)から得た「無」の体験あるいは宗教的自覚を、西洋哲学的な論理で独自の日本的な「哲学」(一元論)にした、それも身内のような田辺や高橋に批判されながら。普通の哲学者はやらない西田の「宗教」と「哲学」をアウフヘーベンする哲学の着想はいったいどこからきたのか。
 別な言い方をすると、禅(看話禅(臨済禅系))の「見性・無分別智」「無の文化」「心の論理」→哲学の「絶対矛盾的自己同一・分別知」「有の文化」「事物の論理」に生涯をかける西田の哲学者としてのモチベーションとは何なのか。

 考えられること-

①西田の『日記』に哲学への思いがある(明治三十六年六月十一日)。ただし、功名心からだと言う。
出校 雨ふる 起信論一巻読了。余は時に仏教の歴史的研究をもなさんと欲す。
余はあまりに多欲あまりに功名心に強し一大真理を悟得して之を今日の学理にて人に説けは可なり。此の外の余計な望を起すへからす。多く望む者は一事をなし得ず。
 この功名心とは、世間で言う「名誉欲」とか「出世欲」といったものではなく、おそらく西田の独創的な哲学(東洋的な「一元論」)を早く構築したい、焦りにも似たモチベーションのことではないか。
②先述の「禅の見方は実に独特なもので西洋にはない。これをもととして日本の哲学は立てられるべきものであり、そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう」でわかるように西田は、西洋哲学の日本への紹介程度ではなく、禅者として「不立文字」を守るではなく、哲学者として「哲学」と「宗教」の峻別に配慮するでもなく、ただただ「日本独自の宗教文化が世界に寄与できる」ことを明らかにしたいがために、「哲学」と「宗教」をアウフヘーベンしたのではないか。
③それは、西田独特の時代へのコミットで、彼は「西洋化のようで西洋化ではない日本の論理」で、盲目的・無批判的に西洋追従(近代化)に傾斜する明治期の「文明開化」のあり方に時代思潮を以て異議を唱えたかったのではないか。
④その際、西洋近代哲学の伝統(有)の「二元論」を日本文化の禅(無)の「一元論」で超えることが西田の命題だった(西洋近代哲学へのコミット)。彼は「私はカント哲学を私の場所的論理の中に包摂し得ると思う」と自負した(『場所的論理と宗教的世界観』第一章場所的論理と宗教)。
⑤「日本独自の宗教文化が世界に寄与できる」だけでなく、インド哲学の「二元即一元論」も西田の脳裡にはあった? 西田曰く、
哲学と宗教と最も能く一致したのは印度の哲学、宗教である。印度の哲学、宗教では知即善で迷即悪である。宇宙の本体はブラㇵマンBrahmanでブラㇵマンは吾人の心即アートマンĀtmanである。このブラㇵマン即アートマンなることを知るのが、哲学および宗教の奥義であった。
(略)シナの道徳には哲学的方面の発達が甚だ乏しいが、宋代以後の思想は頗るこの傾向がある(禅のことか?)。(略)欧州の思想の発達について見ても、古代の哲学でソクラテス、プラトーを始とし教訓の目的が主となって居る。
(『善の研究』第二編、第一章考究の出発点)
⑥あるいはまた、西田は「哲学」と「宗教」を同じ次元で考えていた。西田曰く、
第四編(宗教)は余が、かねて哲学の終極と考えている宗教について余の考を述べたものである。
(『善の研究』序)
「西田博士は、「哲学者であるよりも宗教家である」」という皮肉もある(『西田哲学批判』、野辺地東洋)。
「哲学」と「宗教」をアウフヘーベンした「一元論」こそが西田の西洋の「近代哲学」(とくにカント)と日本文化への答案だった?
⑦しかし、西田の「哲学」と「宗教」のアウフヘーベンは論理矛盾との悪戦苦闘の連続で、「場所」に至るまで紆余曲折を繰り返した。その「場所」でさえ論理的な矛盾をかかえているとの批判がある。
 言えることは、西田の「哲学」には不備もあったが、しかしそれは「禅の見方は実に独特なもので西洋にはない。これをもととして日本の哲学は立てられるべきものであり、そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう」という彼独特の時代自覚のなかで許容されるべきものではないか。
 それをもっと言えば、現実世界の構造原理を明らかにし、かつその現実世界を根底から変革してしまう普遍的原理の呈示、それも「東洋の論理」によって。そのために悪戦苦闘した。
⑧あれやこれや、度々の詰り、西田の「哲学」と「宗教」をアウフへーベンするモチベーションは『場所的論理と宗教的世界観』の第四章「宗教の本質」に遺言のような意味で明かされた。
⑨ゲスの勘繰りだが、あるいは、同年親友の鈴木大拙が、自分より先に参禅をはじめ、さっさと金沢を出て東京専門学校(現、早稲田大学)・東大に行き、東京で学習院などの教壇に立つ傍ら、東京専門学校時代から鎌倉の円覚寺の今北洪川・釈宗演に参じて禅境を深めていたのに対し、西田といえば鈴木に先んじて東大に行ったものの選科であり、故郷の金沢に帰って中学・高校の教師の日々に甘んじ、鈴木に勧められておくれて禅にいそしみ、金沢洗心庵の雪門玄松のもとで参禅するもいつも鈴木の方が先んじでいて、教えられることが多く、そのような境遇から禅と仏教研究の鈴木とはちがい「哲学」で身を立てる道を選んだのではないか。その意味で、西田は鈴木への知的ライバル意識として「哲学」と「宗教」を同事的に両立しなければならなかったのではないか。

第四節 西田の「宗教」―看話禅(禅宗)と親鸞(浄土真宗)―

 高橋里美(哲学者、東北大学名誉教授、西田哲学の批判で著名)曰く、

先生(西田)は在るとき、何のはずみであったか、禅について話されたことがある。禅の見方は実に独特なもので西洋にはない。これをもととして日本の哲学は立てられるべきものであり、そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう。「禅に対する先生の哲学的確信は極めて強いものがあったと思われる。
・・・西洋の哲学者のうちでは特にヘーゲルを重視されたことは当然である。ただし先生によればヘーゲルの弁証法は有の弁証法である。これに反して先生の禅に基づく弁証法は無の弁証法でなければならなかった。
(月刊『心』一九五九年、『高橋里美全集』7)

とは言いながら高橋は、次のようにも言っている。

ヘーゲルの弁証法は有の弁証法、自分のとる弁証法は無の弁証法、そして両者の統合は東西文化の総合に寄与するという西田の文化論に対しては、禅の哲学への無批判的導入に反対し、禅そのものについても過大な評価を警戒して、
「私もまた日本文化に禅を受け容れ易い素地のあることを否定するものではないが、果たして禅的な見方で日本文化の本質と日本人の心の奥底を把握しうるかという点になると、私は大いに懐疑的であり、むしろ否定的でさえある」(月刊『心』一九五九、『高橋里美全集』7)と述べている。
(野辺地東洋『西田哲学批判』―高橋里美の体系―)

 野辺地の言う「禅の、哲学への無批判的導入」、高橋の言う「禅的な見方で日本文化の本質と日本人の心の奥底を把握しうるか」に私は同意で、私の西田への不信は以前からこうした西田の後継者たちの西田批判に淵源がある。

 このような「宗教」を「哲学」にすることに、別な批判もあった。
「不立文字」を建前とする禅門(「看話禅」、臨済禅系)にありながら、臨済禅の究極の境地(「見性」、無、無分別智)をコトバで論理化することは、いくら在家の「居士」であっても禅者としては禁じ手であろうし、そもそも自己矛盾でもある。
 師の雪門玄松老師からは、大徳寺広州宗澤老師のもとで「無門関」の第一「趙州無字」を「知解」によって透過した後、

今回の現境は大徳寺和尚の不可是にあらず、君の妄想なればそんなものは捨ててしまひ本参の活路を拈提して隻手に何の声あると間断なく参得するがよろしく候

と諭されている。
 にもかかわらず西田は、師の助言にも従わず、禅門の「不立文字」からも逸脱し、愚直と言っても過言ではないほどまっしぐらに「コトバによる論理」を通した。これも「禅の見方は実に独特なもので西洋にはない。これをもととして日本の哲学は立てられるべきものであり、そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう」からか。

 西田曰く、

現世利益の為に神に祈る如きはいうに及ばず、いたずらに往生を目的として念仏するのも真の宗教心ではない。・・・またキリスト教においてもかの単に神助を頼み、神罰を恐れるという如きは真のキリスト教ではない。
(『善の研究』第四編宗教、第二章宗教の本質)
宗教とは神と人との関係である。神とは種々の考え方もあるであろうが、これを宇宙の根本と見ておくのが最も適当であろうと思う、而して人とは我々の個人的意識をさすのである。(略)もし神と我とはその根柢において本質を異にし神は単に人間以上の偉大なる力という如き者とするならば、我々はこれに向って毫も宗教的動機を見出すことはできぬ
(『善の研究』第四編宗教、第二章宗教の本質)

 西田にとってその宗教観に叶うのは親鸞(「他力本願」「悪人正機」)であり、何の「はからい」もない(「義なきをもって義とす」)念仏(自己否定)によって阿弥陀如来に救われること、つまり自己が「自己否定」(=念仏、弥陀の名号を唱え一身を弥陀に預ける決意表明)して即「肯定」される(弥陀に救われ極楽に往生する)、すなわちあらゆるはからい(「義」・私心)を棄てて弥陀の名号を唱え、その本願に一身をゆだね帰依する、「自己否定即肯定」による「絶対者への即入」なのである。
 西田が「宗教」を語るのに言及した人はみな西欧(つまりは大半がキリスト教世界)の哲学者・思想家・神学者・神秘主義思想家であり、『善の研究』の最終第四章「宗教」はまるで欧米の神学史のトレースといった感じで、ヒンドゥーの吟味も、道教の考究も、釈尊に発する仏教思想史もない。日本文化をしきりに述べるのに、日本の宗教に対する論述もない日本仏教への言及もない。

 西田の「宗教」はただただ親鸞・浄土真宗・「念仏」・「絶対他力」・「悪人正機」であり、現世利益も安心立命もない。国家鎮護も祈祷祈願も死者儀礼もなく、神奈備も神仏習合も民間信仰も土着信仰もない。だから、真言密教・空海どころではない。福沢諭吉や中江兆民のように、空海の真言宗は「淫祠邪教の類」なのであろう。『大乗起信論』の「如来蔵」「真如」「法身」まで行きながら空海を見ないのだ。まして真宗王国の加賀である。「他宗無学」の禅の法城もそこここにある。西田にとっては鎌倉仏教の末法ペシミズムが「近代」であり、それ以前の空海の真言宗は「前近代」なのであろう。

 以下は、西田の「親鸞」(浄土真宗)に対する私の批判である(拙著『空海ノート』最終章、『空海の総合仏教学』第九章、八)。

●その西洋哲学者である西田は、インドに発した仏教は出離的(世俗を離れた、世捨て人的な、非現実的な)だと言い、他力(弥陀の本願)にすがる親鸞の念仏往生の方が現実即絶対的だと言う。
その源泉を印度に発した仏教は、宗教的真理としては、深遠なるものがあるが、出離的たるを免れない大乗仏教と云へども、真に現実的には至らなかった
日本仏教においては、親鸞聖人の義なきを義とすとか、自然法爾とか云ふ所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思ふが、従来はそれが積極的に把握されていない。
(『場所的論理と宗教的世界観』)
西田は、親鸞が言う「(他力と申すことは)義なきを義とす」(私たちの計らい(自力)を捨てたところに仏の計らい(如来の誓願・他力)がある)とか、「自然法爾」(如来の誓願・他力のまま、そのままにある)が「否定即肯定」という西田の哲学に沿うもので、仏教はたしかに深い宗教的真理であるが出離的で(現実離れしていて)、「大乗」仏教(おそらく華厳のこと)もそうであり、弥陀の本願(救済)に自己のすべてをゆだねる親鸞の「絶対他力」の方が現実的であると言いたいらしい。
●はたして大乗仏教は出離的で非現実的か。親鸞はほんとうに現実的か。龍樹は、「空」をまた「仮」と言った。「仮」とは、すべての事物・事象が縁起の理によって生滅していて実体がない故、コトバで仮に名づけられた「仮名」・「仮設」のものという意味。「空」の原語である「シューニヤ」の「それ自体でもとから存在しているのではない」・「さまざまな因と縁が集まって起っている」という原意をよく表している。
この「仮」を「仮有」という学者もいるが、「仮」とは「空」つまり「ゼロ」であって、プラス(「有」)でもマイナス(「無」)でもなく「非有非無」である。
「絶対」ではなく「相依相待」の「相対」。その極まりが「重々帝網」、ホロニックな「相即相入」である。大乗の「空」を「絶対」「無」などと言うのは誤解のもとである。
「ゼロ」はプラスとマイナスの中間基点であるが、その「ゼロ」のなかにプラス(「有」)に向うベクトル(否定即肯定)とマイナス(「無」)に向うベクトル(否定即否定)が同時に内在していると大乗は観た。中観はマイナスに向うベクトルに立ち、唯識はプラスに向うベクトルに立った。華厳もそのあとの『大乗起信論』もプラスに向うベクトルに立ち「真如」・「如来蔵」を説いた。そして、密教は「菩提心」を選んだ。プラスに向うベクトルは、現実世界を「法界」に重ね「諸法」は「実相」にほかならず、「即事而真」・「現実即真実」の論理を可能にした。仏教哲学の基本ではこのことを「諸法実相」を「現実的」という。西田にはそれがわかっていないらしい。
●逆に親鸞の「絶対他力」こそ「大乗」の「空」の肯定的側面を拒否し、現実逃避的で出離的ではないのか。西田は自己を全否定して弥陀の「絶対」にすがる「他力」の論理を「否定即肯定」だと言いたいようだが、自己が弥陀の「絶対」のなかにかぎりなく「自己否定」をくり返すのは「空」ではなく「虚無」であり、すなわち「否定即否定」つまり「無」の論理である。
自己と弥陀は二律であって「一如」ではない。自己を否定し続け「他力」(肯定)にすがっても自己は否定されたままの自己で「肯定」されたわけではない。だから「往生」によって自己は「他力」のなかに救われなければならない。だが「往生」は自己と弥陀との相入ではない。「他力」によって自己が摂受されるだけである。
「念仏」とはそのためにひたすら「他力」にすがる「自己放棄」の「コトバ」であり、「真言」のような「生仏一如」の「コトバ」ではない。自力を捨てた自棄のコトバに自己肯定の力などありえない。だから親鸞は、「仏性」も「菩提心」も自力のすべてを捨てた「虚無」のはてで、煩悩の闇底に沈む「悪人」に往生権を与えた。その「悪人」を、「本覚」の故に、真実の自己だと「逆対応」させたとしても、それはあなたまかせの現実逃避に過ぎず、むしろ老荘の「無為自然」というべきで出離的である。

第五節 西田哲学の「場所」考

 西田の哲学は一言で言えば、「そこからそこへ」あらゆるものが出て帰る根源的な「実在」の探究である。仏教の唯識思想を学んだ人なら「アーラヤ識」を思い浮かべればいい。空海的に言うと「ア字の子が ア字のふるさと発ち出て また立ち帰る ア字のふるさと」の「ア字のふるさと」である。西田はこれを「純粋経験」と言い、「もっとも具体的な実在」だと考えた。

 しかし、その「純粋経験」は直観的で一つに統一された「現在意識」なのであるが、そこに内外からの刺激を受けて統一に分裂が起き、「現在意識」が「持続」せず、「現在意識」に分裂状態や反省が生れる、いわば更新される「現在意識」をどう説明するか、が問題になった。
 そこに考え出されたのが「自覚」であった。「自覚」とは、普通に言う自覚ではなく、意志によって「純粋経験」を自覚すること、「純粋経験」を自己反省すること、「自己の内に自己を映す」こと。自己自身を直観すること、自己を反省的に観ることである。すなわち、「主客未分」の状態の「純粋経験」を自分の意志で「どこかに」映し出し、「純粋経験」の「持続」や更新状態を直観的・反省的にみるのである。これを仏教学的に言うと、「空」の境地を自己の内の「どこかで」観る、すなわち「アーラヤ識」の作用・働きであり、今触れた「どこかに」「どこかで」が「アーラヤ識」で、西田の言う「場所」である。「一切の作用や存在を自己の内において成立させ、またそれらを自己自身の内の映してみるもの」(小坂国継『西田幾多郎の思想』第十一回「場所」とは何か)である。

こうして純粋経験は純粋経験の自覚へと深められたが、純粋経験にしろ、自覚にしろ、根本的実在を(意志の)作用や働きにもとめているという点では一致している。
(略)純粋経験の根本を意志作用にもとめ、自覚の根源を絶対自由意志にもとめたのは、そのような考えのあらわれであるといえる。
このように純粋経験から自覚へ、自覚から絶対自由意志へと根本的実在を掘りさげていく過程で、今度は、西田は経験や自覚や意志の働きが(そこに於いて)生ずる「場所」という思想に行きつく。ここでいう場所とは、一切に作用や存在を自己の内において成立させ、またそれらを自己自身の内に映して見るもののことである。ここでは、西田はいままでの作用主義や主意主義から一転して直観主義に転じたということができる。すなわち、いままでの作用するもの、「働くもの」を実在と考える立場から、そのような「働くもの」を、自己の内に映して、これを「見るもの」を実在と考える立場に転じたということができる。
(前掲書)

 これを先ほどの「アーラヤ識」で言うと、「純粋経験」という意味の「主客未分」の意識としての「アーラヤ識」からその「純粋経験」を自己の内に映し出す意志的作用=「自覚」としての「アーラヤ識」へ。それがその「自覚」を見る「場所」としての「アーラヤ識」へ、ということになる。西田は唯識を言わないので、「アーラヤ識」ではなく「如来蔵」を念頭に置いていたかもしれない。
 西田はこれを、仏教学ではなく禅の深い境地で覚知したのだろう。「純粋経験」は無念無想の「無」の境地、「自覚」はその「無」の境地を観ている働き、「場所」は「無」の境地を観ている「無意識の意識」の在り処(「働くものから見るものへ」「無の場所」)だと言えよう。

 西田は、

私の「場所」というのは、単に一般概念というごときものではなくして、特殊がおいてある場所である、対象を内に映している鏡の如きものである。

と言った。この「鏡の喩え」は、神秀(弘忍の弟子、中国禅宗第六祖、北宗の祖、「漸悟系」)と慧能(弘忍の弟子、中国禅宗第六祖、南宗の祖、「頓悟系」)のこと(後述)を言っているのだろう。

場所の立場に至って、西田は彼のもとめる根源的立場を、それまでの主体や意識の側からではなく、反対にそれを包む場所すなわち普遍の側から明らかにしようとしている。たしかに、自覚も、ある意味では普遍的なものであるが、しかしそれはなお主体的な普遍であって、真の普遍者ではなかった。この意味で、場所の思想は西田哲学の転換点であるといっていいであろう。
(前掲書)

 西田が至ったこの「無の場所」の果てに、「一切のものを自己自身の影として自己の内に映す「真の無の場所」すなわち「絶対無の場所」が見られる」(前掲書)。そして、アリストテレスを借りながら「主語的なもの」と「述語的なもの」の包摂関係を逆転させ、「主語的なもの」(「特殊」)は「述語的なもの」(「一般」)に包摂される、という「場所の論理」にした。

もともと場所の論理は、新カント学派の認識論の批判を通して形成された一種の認識理論である。もっとも、西田の主張は単なる認識論にとどまらず形而上学にまでおよんでいるが、もともとそれは新カント学派の認識論に対抗する意図をもったものであったことに留意する必要がある。
(前掲書)

 ただしかし、西田が「一つの哲学体系が組織せられるには、論理がなければならない。私はこの問題に苦しんだ」と苦悶苦闘の末に到達した「場所」の論理にも批判がある。

西田が「場所の論理」ということを唱えて、「真にすべてのものを包む一般的なるものは、すべてのものを成立せしめる場所でなければならぬ」という考えにいたり、場所において場所が自己限定を行うことによって、絶対矛盾的自己同一的に一が多となり、個の世界が現出されるというのである。西田の弁証法的論理を忠実に追っていくならば、一般者としての場所とこれの自己限定による個とはまた矛盾対立をひきおこし、それを包むさらに高次の場所がなければならないことになる、と高橋は反論する。
ともかくいずれにしても西田哲学の「場所の論理」には、このように「論理の無限後退」があるという。「論理の無限後退」とはどういうことかといえば、おなじ論法がどこまでいっても尽きないで、理論的解決が無限に引き伸ばされてくるこというが、同時に「理論的ナンセンス」の代名詞でもある。
(野辺地東洋『西田哲学批判』)

第六節 「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」の「疑」

 以下は、かつて私が、西田の「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」は大拙師の「即非の論理」の「受け売り」であり成立しない、と指摘した拙著の当該本文である。

――空海は、今度は西田への疑念を明かす。
▼話を少し戻しますが、西田さんにおいては『金剛般若経』の経説とは似て非なる「〈即非〉の論理」が独り歩きをし、客体であるA自体が「即非」すなわち自己否定して即自己肯定をする自己否定の論理になっています。これは主客顛倒です。
青原老師は、「山を見るに是れ山、水を見るに是れ水」、「山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず」、「山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水」と言いましたが、これを、あなたなら「山は山にあらず故に山である、水は水にあらず故に水である」と言うでしょう。
主客が顛倒するあなたの「否定即肯定」の論理では「山」や「水」自体が「即非」して自己肯定することになる。しかし「山は山」・「水は水」で変らない。
変るのは見る人の「心位」であって、「美しい山」・「大きな山」・「清らかな水」・「おいしい水」から「美しい」・「大きな」・「清らかな」・「おいしい」が脱落するだけです。
あなたは禅の内観によって「私」(主体)が「私」(客体)を見る、そして「私」(主体)が脱落して「私」(客体)だけの境になったかもしれません。でも、それも「私は私にあらず、故に私である」にはならない。「私」(客体)が変位したわけではありませんから。
あなたのおっしゃる「〈即非〉の論理」は、「私」(客体)に自己否定と自己肯定とが撞着する「矛盾的自己同一」じゃないとだめなわけです。だからあなたの「矛盾的自己同一」は、「私」(主体)が「自己否定即自己肯定」する論理としては成立しません。「山は山にあらず、故に山である」の「山」と同様に「私は私にあらず、故に私である」の「私」は「ただ」の「私」です。その「ただ」の「私」が見える「私」は、「私は私にあらず」の「私」ではなく、それを「見性」している「私」です。

※《夢註》
西田はその著『場所的論理と宗教的世界観』で次のように言っている。仏教では、金剛経にかかる背理を即非の論理を以て表現して居る(鈴木大拙)。

所言一切法者即非一切法是故名一切法と云ふ、仏仏にあらず故に仏である、衆生衆生にあらず故に衆生であるのである。私は此にも大燈国師の億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対といふ語を思ひ起すのである。我々の自己(個)は、どこまでも自己の底に自己を超えたもの(超個)において自己をもつ。自己否定において自己自身を肯定するのである。かかる矛盾的自己同一(即非)の根底に徹することを見性という。禅宗にて公案というものはこれを会得せしめる手段にほかならぬ。

西田はおそらく「公案禅」の「見性」(主客同一、「超個」)において「矛盾的自己同一(即非)」を観じたのであろう。そして、それを「〈即非〉の論理」の同語反復の定式に重ねて論理化した。その際、「私は私にあらず、故に私である」の「私」を主客顛倒させた。
「見性」とは思弁工夫ではあるものの、究極「コトバ」が脱落した自心本覚徹見の「観」であるはずで、「コトバ」の論理による弁証法ではない。心地よい哲学用語を駆使しいかにぎこちなく論理化しても、「公案」の「見性」を世俗世間の言葉で言い換えることこそ禅門の最も警戒するところであるはずだ。真意をとりちがえるからである。

▼ところでお二人ならご存じだと思いますが、臨済禅の栄西さんは最初総合学習の人でした。二度目の入宋まではすぐれた密教(台密)僧でしたね。入宋するまでに『胎口決』や『法華経入真言門決』や『菩提心別記』や『菩提心論口決』といった密教研究書を書かれて、それらに「遍照金剛栄西」や「金剛仏子栄西」と署名されています。「遍照金剛」は私の潅頂名なのですがね・・・。
 栄西さんは宋からインドへ渡り仏跡参拝をしようとしましたが許可が出なくて、結局天台山の虚庵懐敞(こあんえじよう)師のもとで五年間修行し、臨済禅の印可をもらって帰ってこられました。栄西さんが開創した建仁寺は最初天台・真言・禅の総合学習でしたし、弟子で鎌倉寿福寺の行勇さんは高野山に上り金剛三昧院の初代になった人です。行勇さん門下で東福寺の円爾さんは東福寺に潅頂道場を置きました。あなた方の法門は実は「密禅双修(みつぜんそうしゅう)」、「兼修禅(けんしゅうぜん)」と言われました。密教を黙視しては、本当は「喝」なんです。
(拙著『空海ノート』最終章、『空海の総合仏教学』第九章、八)

第七節 哲学者・禅者であって学者ではなかった、大学教授「西田幾多郎」

 以下は、西田の『善の研究』と『場所的論理と宗教的世界観』を再読しての愚考である。

①西田は、当然と言えば当然だが時代の人で、明治人がおよそそうであるように、「文明開化の論理」(西洋の文物>東洋(日本)の文物、西洋に追いつけ追い越せ)にコミットした。彼の発言には「東洋の孤島から世界秩序へ」「日本の世界史への参入」「西洋に追いつけ追い越せ」といった「文明開化」時代の気概を感じる。第三節の冒頭に引用した「そうしてこそ日本独自のものを世界の哲学に寄与することができよう」で察しがつく。しかし西田が考えたのは「文明開化」のような単なる西洋化(近代化)の「論理」ではなく、「西洋化のようで西洋化ではない日本の論理」だった。
②明治人らしく進取の気風にあふれつつも「居敬窮理」の人(書斎派、静慮タイプ)で、細やかな神経の持ち主なのか、置かれた時代や時局や環境や立場や風土あるいは周囲の声などに敏感で、少々付和雷同的なところがある。
 思索の面では、時代の思潮だったヨーロッパの近代哲学や思想・文学・芸術等をよく学んだ。北陸の精神風土にコミットして臨済禅(禅宗)や親鸞(浄土真宗)を深めた。そして「文明開化」以来の日本の「西洋化」「近代化」が行き詰る時勢にコミットするかのように、「東洋」の「一元論」で「西洋」近代の「二元論」に対して優位に立つような哲学論理を構築した。
 それを田辺元や高橋里美に批判されるとムキになって反論したり、思索を転換したりした。晩年は戦争の時局にもコミットした。
③西田の戦争コミットは、知識人としては時代への迎合、学人としては無節操で、批判されても仕方がない。戦争を欧米「近代」からの「東洋」の開放だという詭弁に同調するかのように、戦時期に時勢にコミットして「絶対矛盾的自己同一」の論理で「皇道」「八紘一宇」「決死」を説いた(『日本文化の問題』)。
 とくに「決死」への言及は、戦争協力と批判されてもやむを得まい。そう言う西田は、戦争中、あるいはリウマチの病床で、学徒(教え子)までが自分の説いた「即非」「決死」の現場へ出陣するのを見送ったはずである。
 教え子たちの「決死」の覚悟は「自己否定即肯定」の論理に叶い西田は満足だったか。「天皇陛下万歳」「父上様、母上様、親孝行もできず申し訳ありません。お先に失礼します。弟・妹をよろしくお願いします」(知覧基地から発進した特攻隊員)は、西田の言う「決死」の「論理」の地平だったか。西田は教え子たち英霊に懺悔の一つもしただろうか。戦死した教え子の数の涙を流しただろうか。時代的に戦争に少しでも責任を感じた人は切腹・自決も辞さなかったが、西田は「般若即非」「自己否定即肯定」の自決もせず、生き延びて戦後も懲りずに「国家論」をぶった。国立帝大の指導的な学人としての立場的忖度だったかもしれないが、哲学的な「論理」がどんなに優れたものでも政治の現実には通用しないことに無邪気・無頓着過ぎた。

 『場所的論理と宗教的世界観』の最後の最後、第5章「平常底と終末論」第14最終行にもバカなことを書いている。曰く「国家とは、此土において浄土を映すものでなければならない」。結局「現世利益」ではないか。
 そんなことはとっくにやられている。聖武天皇が華厳思想をもとにやっている。諸国(東は東国まで)に国分寺を置いて地方統治の出先機関とし、そこに釈迦如来や薬師如来を祀り、国家と国家仏教の中心である総国分寺・東大寺(大和の国分寺)には蓮華蔵世界の教主「ビルシャナ」仏の巨像を祀った。「此土即仏国土」である。これをモチーフに空海は、平安京の迎賓館だった東寺に「立体マンダラ」を造顕し、鎮護国家を「此土即マンダラ海会」でビジュアル化した。西田は「仏教」について不勉強である。西洋哲学の知識と比べると「仏教」の知識は狭い。

 花山信勝先生のあとを受けて巣鴨拘置所の戦犯教誨師になった田嶋隆純(私の伯父、母の姉の夫、当山曽祖父の弟子)は、BC級戦犯との初対面の場で「あなたたちばかりに罪を負わせて本当に申し訳ない、戦争の責任は私たち国民全体にある」と言って深く頭を垂れて号泣した。田嶋は上から目線の説教(教誨活動)を一切せず、「いのち果てるまで」GHQを相手に戦犯の減刑運動に奔走し多くのBC級戦犯のいのちを死刑台から救った。「巣鴨の父」と仰がれ、その本葬には戦後釈放された著名な元軍人・政治家が列をなし瞑目して焼香合掌した。田嶋は西田と同じく、同時代を生きた仏教研究の学究であり大学の教授であり、戦前ソルボンヌに学んでヨーロッパの「近代」を知る人だった。パリでは滞在中の林芙美子らとともにフランスの英知と交わった。西田が巣鴨に招かれたら死刑囚たちにも「自己否定即肯定」の「論理」による死を説いただろうか。田嶋は一途に戦犯の減刑運動に専念した。田嶋の捨て身の利他行とフランス語はGHQの将校から畏敬された。学究ながら宗教者(地蔵信仰の人)だった田嶋は、60才の誕生日を巣鴨拘置所内で戦犯たちから祝われた。学究ながら哲学者の西田は懲りずに「国家論」の非現実を語っていた。(参照:『ある「BC級戦犯」の手記』冬至堅太郎)
④時期は少し戻るが、昭和18年の3月、やっとリウマチが癒えた西田は当局関係者の求めに応じ大東亜共栄圏の理念「世界新秩序の原理」を書いた。難しい内容と表現だったので田辺が要約して書き直した。これを元にして当時の東条首相が国会演説をしたが、西田の真意とはちがっていた。彼は「私は根本の理念の確立を重んじたのに、少しも理解されていない」と嘆いた。にもかかわらず、後日また求めに応じて「国体」を書いた。「民族的主体が歴史的世界形成力として、絶対現在の自己限定の形をとったものが国体」と自論を展開したが、時局はそんな観念論で動いていかなかった。

 件の「世界新秩序の原理」は終戦後、西田の戦争協力という論点で物議の的になった。朝日新聞をはじめ各種言論誌も「世界新秩序の原理」を取り上げ、西田の論述の真意と是非を論じた。大宅壮一は昭和二十九年六月の『文藝春秋』臨時増刊号に「西田幾多郎の敗北」を寄せ、戦時中の不穏な情勢下で軍部に「魂を売って肉体の保証を求めた」と酷評した。
 これに対し、西田と親しかった金井章次(上記の当局関係者、医師、元蒙古連合自治政府最高顧問)がすぐ反論を信濃毎日新聞に書いた。学習院でドイツ語を西田から学んだという長与善郎は、毎日新聞におどろきと暗然とともに大宅を疑えない旨の心情を寄せた。話はこれで終わらず、この長与の心情に対し西田門下の鈴木成高から早速不満が呈され、西田の門下生を代表するかたちで高坂正顕が『中央公論』に反論を発表するに至った。
 この「世界新秩序の原理」の件は、西田自身の手になる「草案」と金井や田辺壽利二氏が手を入れた「別紙」があることが後年明らかになった(『西田幾多郎の真実』河西善治)。田辺元が要約して書き直したものは「草案」の方だったことになる。
⑤「文明開化」の論理は、西洋が「近代」「普遍」「世界秩序」「インターナショナル」で、日本は「前近代」「特殊」「東洋の孤島」「ナショナル」だった。西田の「哲学」は、その負い目からの「追いつけ追い越せ」、そして「西洋を追い越す」優越感のためだったか、「日本独自のものが世界の哲学に寄与する」歓びのためだったか。
⑥「文明開化」=日本の近代化とは、ヨーロッパの文化の受容であり、明治の人にとっては高度な文化・偉く大きく見えるモンスターだった。それは同時にヨーロッパへの文化的屈服でもあった。戦争を西洋「近代」からの「東洋」の開放だと考えた知識人はその屈服からの開放、すなわち「文明開化の論理」を終わらせたい人たちだったか。西田はその一人だっただろうか。
⑦西田は、「主観」の媒介を前提とする「イデアリスム」(観念論、唯心論、近代哲学)を超え、「主観」(主体・見るもの)が否定されて「客観」(客体・見られるもの)だけになる「一元論」に立ち、それでデカルト以来の西洋の「二元論」(とくにカント=近代哲学)を超えたか。
⑧人間の「理性」が神を排除し、神は死んだ(ニーチェ)が、逆に神々から人間が追放されたヨーロッパの「近代」。神を見失い、専門化(分業化)が人間の全人性を失わせた(亀井勝一郎)日本の「近代」。西田も神のいない「公案」をもとにし、無味乾燥の神のいない観念操作・概念工事(理性・理知)。カントを「論理」で越えても、神のいない弁証法。これが「近代」?
⑨萩原朔太郎曰く、
かつて『西洋の図』を心に描き、海の向うに蜃気楼のユートピアを夢見て居た時、僕等の胸は希望に充ち、青春の熱意に充ち溢れて居た。だが蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し廻って、結局やはり祖国の日本より外にはない。しかもその家郷には幻滅した西洋の図が、その拙劣な模写の形で、汽車を走らし、至る所に俗悪なビルディングを建立しているのである。僕等は一切の物を喪失した。
(「日本への回帰」)
 西田はカントを包摂したようだが、日本のこの「近代」を超えただろうか。
⑩松本健一曰く、
日本近代の行き詰まりとは、明治維新以後、西欧近代に倣って急速におしすすめられてきたわが国の近代化(資本主義化・中央集権化・工業化・合理主義化・都市化などをふくむ)が、日露戦争終結ののち大正なかごろに至って、ほぼ限界に達し、さまざまな局面で破綻をみせはじめた、ということである。たとえばそれは、資本家対労働者の対立の激化であり、地方の疲弊であり、農業の衰退であり、民衆の伝統的エートスの圧殺であった。
(『近代の超克』(冨山房百科文庫))
 時流に敏い西田は、その「論理」でこの日本「近代」の行き詰まりに真にコミットできたか。
⑪昭和十七年七月に、二日間開催された『文学界』主催の座談会「近代の超克」(*)で、西谷啓治が小林秀雄にチクられている。
 二日目の席で、初日に主導した鈴木に代って小林が話を主導し、「文明開化」にはじまった「近代」日本の文壇ではドストエフスキーを「近代」だと「誤読」していて、よく読めばドストエフスキーは十九世紀のロシア社会(「近代」)と戦って勝った人だと言い、暗に「近代」日本の知識人には西洋「近代」の誤解があることを指摘した。
 すると西谷が、西洋の文学には感じるものがあるが日本の古典にはピンとくるものがないと言い、敢えて言えば京都学派の人には日本の古典(過去の先学)に目を向ける、関心を持つ、読む、学ぶ姿勢が希薄なのかという疑念が生じた。

 西谷曰く、
高等学校や大学生の時代に、日本の過去の文学、古典を読んで見ようかという気が起ったが、さういふ場合自分に本当にピンと来るものは殆どない。芭蕉とか万葉を除いては殆ど訴へるものがない。古事記などでもさうだった。それに反して西洋文学のものは、自分の為に書かれたものといったやうな感じを持って読んだ。
 小林曰く、
文学とか思想といふようなものを頭では考えないで、段々肉体で感ずるようになってくる。(略)結局さういふ風な所に来ないと、日本の古典といふものがどうしても分らない。絶対的な命といふものは一つであって、それに触れることが一番大事なことである。さういふものに触れるのだ、肉体で触れるのだ、頭で理解するのではない。さういふ風な所まで僕等が成熟して来ないと古典といふものは分らない。
(略)古典には頭がよくなければ理解が出来ない様なものは書かれて居ない。
青年の智識慾批評慾を満足させる様なものは何も書かれてゐない。
(略)だから、古典といふものをどんなに広告しようと現代の青年を直ぐ其処に連れていく事は不可能ですよ。国文学者などが時世に乗っていくら喚いてみた処で駄目な事です。
 続いて西谷が、西洋の小説を読むと生きた人間に触れる感じがする、それに対して、例えば源氏物語のような日本の古典は、自分の写しを見るような、そういう人間を書いていない、外国文学の方が生々しく感じる、と言うと、小林が西洋の文学に飛びついたと言っても、西洋の「近代」の詩や小説に飛びついたのでギリシャ悲劇に飛びついたわけではない、と(『近代の超克』)。

 この部分を評して菅原潤曰く、
先ほど鈴木は「政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克であり、思想においては自由主義の超克である」というスローガンを掲げたが、小林からすればこうした発言はヨーロッパの近代を十分に理解してからにすべきであって、ヨーロッパの近代と格闘したドストエフスキーを誤解する程度の日本の文壇には、そういう発言をする資格がないとされるのである。
こうした小林の仮借のない批判は、京大四天王の代表である西谷啓治にも向けられる。第一節で示唆したことだが、ここで西谷のある種の世俗的な側面が暴露される。

西谷啓治に限らず多くの京都学派の哲学者たちが想定している「日本文化」とは、おおむね応仁の乱以後に建てられた門跡寺院の育んだ一六世紀以降の文化に限定されている。京都府最古の木造建築が平安中期に建立された醍醐寺五重塔だということは、大いに注目されるべき事実である。一六世紀以前に建立された寺社ならば、京都以外の日本の各地にいくらでもあるが、そうした津々浦々に展開した近世以前の日本文化に関心を持たずに、禅仏教を中心にした非常に狭い範囲の文化を「日本文化」と強弁する傾向が彼らには見られる。他方で西谷の主張に引きつけて言い換えれば、京都学派の哲学者たちは地元の京都文化を西洋文化のコンテクストに引き寄せて解釈するのに性急なあまり、日本国内における京都文化の位置を相対化する視点に欠けている。日本文化の愛好者のすべてが平安王朝の貴族文化を好むとは限らず、例えば九鬼周造のように江戸の町民文化を「いき(粋)」に関心のある人たちも少なからずいると思えるのだが、そういうなかであえて源氏物語を取り上げ、しかもその源氏物語よりも西洋近代の小説に親しみを感じるという西谷の意見表明は、西洋近代を批判するほどの東洋的識見を有していないことを示すものとして、はなはだ興味深いものがある。
(『京都学派』)
 同感・同意である。
(*)この座談会「近代の超克」は、のちに「戦争イデオロギーの形成に大きな役割を果たした」と言われている。(『日本的霊性』「解説」末木文美士)
出席者:西谷啓治、諸井三郎(作曲家・音楽家)、鈴木成高、菊池正士(原子物理学者)、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、亀井勝一郎、林 房雄、三好達治、津村秀夫(映画評論家)、中村光夫、河上徹太郎(司会)。
『文学界』昭和17年10月号掲載。単行本『近代の超克』(冨山房百科文庫)。
⑫西田の禅(「看話禅」、臨済禅系)は洪州禅系(北宋系)で「漸悟」と言われる。彼は、大徳寺の広州宗澤のもとで『無門関』の第一「趙州無字」を「知解」で透過したのだが、師の雪門玄松老師からは「君の妄想なればそんなものは捨ててしまひ」と諭され、自らも「無字をゆるさるる、されど余甚だ喜ばず」と日記に書いた。

 何故「甚だ喜ばず」か。「漸悟」の「公案」では彼の「論理」構築上不具合が生じたのだろうか。西田は『善の研究』(『全集』巻4、「左右田博士に答ふ」)で、氏の哲学の重要概念になった「場所」について、
私の「場所」というのは、単に一般概念というごときものではなくして、特殊がおいてある場所である、対象を内に映している鏡の如きものである。(後述)
と言った。
 この「鏡」の喩えは、神秀(弘忍の弟子、中国禅宗第六祖、北宗の祖)が、
身は是れ菩提樹、心は明鏡の台の如し、時時に勤めて払拭して、塵埃を有らしむること莫れ。
と言い(「漸悟」、知解)、慧能(弘忍の弟子、中国禅宗第六祖、南宗の祖)が、
菩提は本より樹なし、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何の処にか塵埃有らん。
と言った(「頓悟」)ことで、禅門ではよく知られている。

 西田の言う「鏡の如きもの」とは「無の場所」のことで、西田的に言えば、「一般(鏡)が特殊(対象)を自己自身の限定として自己の内に映している(あらしめている)もの」、「鏡」は対象を映すことで存在し、対象がなければ存在しないといった意味である。

 西田はこの「鏡のごときもの」「無の場所」の頃に「漸悟」から「頓悟」に立場を換えたのではないかという説がある。すべての現実界の事象を意志的「直観」界の(主語的)自己展開という考えを離れ、「働くものから見るものへ」で意志的な立場とは別の「場所」を考え「動くものの根柢に動かざるものがあると云うことができる、動いて而も動かざるものがあると云うことができる」(働くものをそうあらしめている動かざる地平)とも言った。田辺はこの「場所」を宗教的体験の次元であって哲学的な議論の対象にはならないと批判した。しかし、西田にとっては大きな思想的展開で、もし「甚だ喜ばず」で「漸悟」に見切りをつけ、「鏡」の「頓悟」に立って「無の場所」に至ったのだとすれば、いい転機だったのではないか。
⑬余談ながら、「頓悟」と言えば、密教には「五相成身観」(金剛身(対象)への相入)があり、空海には「三密加持」(対象との相応)があり、「発心すれば即ち到る」があり、「即身成仏」がある。しかし、大拙師と同様、というか大拙師の受け売りか、西田には「宗教」=「親鸞」(浄土真宗)しかなく、『金剛頂経』や空海は埒外である。くどく言うこともないが、大学の学人としては「過去」を参照せず、先人に学ばず、広く日本文化・日本の宗教を精査しないことは、「喝!」である。
⑭「公案」は、「法(dharma)」について、問者:アビダルマ(有)、答者:大乗(無(空))、の「頓知」問答集である。
『俱舎論』の五位七十五法、svalakṣaṇa(「自相」、形相・特徴・属性)とsvabhāva(「自性」、実体・本質、実在)、「法(dharma)」の「自相任持」、「保たれるもの」と「保つもの」、「イデア」と「エイドス」、「超越者」と「存在者」等々が頭をよぎる。
 それにしても「法(dharma)」を正確に言い表す日本語は何か? 哲学用語では何と言うか。よく言われる「構成要素」でもあるまいし「存在者」「現存在」でもあるまい。「事物」でもなく「現象体」でもなく、ショウペンハウエルを借りて「表象」か、それとも「存在事象」か。『俱舎論』の「自相任持」「svalakṣaṇadhāraṇāt dharmaḥ」も考慮しなければと思うが適当な日本語がない。なのでサンスクリット原典からの和訳も漢訳を「日本語」に偽装して「法」とする以外ないのか。「法」は、わかったようでよくわかってない人も多い。いっそ「認識対象」とでも言おうか。

 話を戻す。西田が透過したという「趙州無字」の「公案」。「透過」とは禅悟で、祖師方が設けた関門(「無門の関」)を通過すること。しかし普通に言う通過ではなく、修禅で体得した「無」(無分別智・空観)が本物かどうかが試され、師からOKが出なければダメである。
 「趙州無字」とは『無門関』の第一則「趙州狗子」で「公案」の代表的なもの。「趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環って仏性有りや也(また)無しや」。「州曰く、無」。」というのであるが、「犬に仏性があるか否か」という問いに対し「無し」と答える。普通(大乗)仏教では「一切衆生悉有仏性」「山川草木必有仏性」だが、ここで「犬にも仏性有り」は「喝!」。ここでは「無(空)」=「無(空)の実践(慈悲)」=「無(空)の人間性(仏性)」も世間では欲に染まって虚妄・妄執になりがち。修禅でそこを落さなければ(身心脱落)「無(空)」がホンモノにならない。禅の師は弟子のそこを見て「関門」透過の合否を判断する。西田はこれを「知解」で許されたという。出家の参禅者ではなく学者の参禅見習いなので、大徳寺で大目に見てもらったのか。大徳寺では西田は弟子ではなく客分居士だったはず。
⑮哲学書や哲学者の文章・言葉は非常に難解である。西田も御多分に漏れない。ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語・フランス語の翻訳あるいは翻訳者のせいもあろう。西洋の哲学概念を的確に表現できる単語・熟語が日本語にはないことも大きいだろう。だから原語のカタカナ表記が多く使われる。ともかく、日本語とは思えないぎこちない日本語が哲学書や哲学者の論考に多い。哲学者はそれでいいことにしているようだが、その点文学とはだいぶちがう。

 小林秀雄曰く、
(西谷啓治に向って)例えばあなたの論文でも、吉満君の論文でも非常にむづかしい。極端にいふと、日本人の言葉としての肉感を持って居ない。国語で物を書かねばならんと云ふ宿命に対して、哲学者達は実に無関心であるといふ風に僕等には感じられているのです。如何に誠実に、如何に論理的に表現しても、言葉が伝統的な日本の言葉である以上、文章のスタイルの中に、日本人でなければ出て来ない味ひが現れて来なければならんと思ふ。さういふ風なことを文学者は職業上常に心懸けて居る。それが文学のリアリティといふものに関係して人を動かしたり、或ひは動かさなかったりする。その中に思想が含まれる。その点で哲学者は非常に呑気である。さういふことを征服しないと、僕は日本の哲学は本当の日本の哲学として再生をしないだろうと思ふ。
(『近代の超克』(冨山房百科文庫))
 野辺地曰く、
西田博士は実践論を扱う領域のなかで、自己がより高い自己へと向上することの説明として、自己が自己自身を作るといって、そこにポイエシス(制作)という言葉をもちこんでいる。これを形成ともいっている。しかし、このポイエシスはもはやアリストテレスがはじめにプラクシスから区別したポイエシスではまったくない。
博士がアリストテレスから自己流に変えて流用したポイエシスなのである。アリストテレスのいうポイエシスとは、客観的な物を作る制作としてのポイエシスであって、自己の形成のことではないのである。
このようなプラクシスとポイエシスとは、人間の働きとしての、二つの区別されたものとして考えられるべきものであって、プラクシスのなかの人間の自己形成の問題に、ポイエシスを勝手に密輸入させるべきではない。話がいたずらに混乱するばかりである。だから西田哲学は難解だとか、文章は悪文だとかいわれ、余計なトラブルもおこるわけである。
(野辺地東洋『西田哲学批判』)

むすび

①「西田哲学」とは、西洋哲学が伝統とする「二元論」(主客対立、対立二項)に対抗する、メイドインジャパンの「一元論」である。
②西田は「東洋の叡智」のなかの日本文化である禅(「看話禅」、臨済禅系)の「主客同一」をもとに「絶対矛盾的自己同一」を、華厳の「一即多 多即一」と「親鸞」の「絶対他力」をもとに「逆対応」の論理を立てた。
③しかし、西田の思索と論理は、着想は「日本」にあるものの、その基礎作業の段階から、鈴木大拙師やジェームズやシュタイナーをはじめ、洋の東西の思索家や哲学者や各種の学者や作家・芸術家からの「剽窃」(「いいとこ取り」)「受け売り」がしばしばあり、とくに『善の研究』は他の思索家や哲学者や各種の学者や作家・芸術家の借用ファイリングのようである。
④「絶対矛盾的自己同一」は大拙師の「即非の論理」そのままであり、「逆対応」は「即非の論理」と華厳思想の「一即多 多即一」そのままのであり、「純粋経験」はジェームズなどからのものであり、「自覚」や「場所」は「アーラヤ識」「如来蔵」を言い換えであり、「宗教」は「親鸞」そのものである。しかも、西田はそれらをオリジナルの自説のように難解な悪文ですり替えてしてしまう。西田の時代はそれで通ったが、今はこれを「パクリ」と言う。今、パクリは学識者の致命傷になる。
⑤創造的思想家・哲学者には、古文献や古資料の自己解釈的な「誤読」があってもいいらしい。しかし、西田の後継者と言われた井筒俊彦は、西田を創造的思索家・哲学者と見ていなかった。西田の「誤読」は創造的な「誤読」ではなく「剽窃」(「いいとこ取り」)「受け売り」だった。
⑥西田の仏教知識は生半可だった。釈尊にはじまる「無執著」「無我」「空」の思想史を学んでいない。『大乗起信論』を読み「如来蔵」を知りながら、華厳の「一即多 多即一」を知りながら、その先にいる空海の「密教」に一言もなく、禅と浄土信仰の「大乗」で満足し、それを「仏教、仏教」と言う。空海を知らずに仏教を語るということは、カント・ヘーゲル・ハイデガー・ベルグソンを知らずに近代西洋哲学を語っているようなものである。
⑦西田が晩年に言った「逆対応」は、「一即多 多即一」の言い換えだが、要すれば「弥陀」(聖、絶対者、救済者)と民衆(俗、一般者、救済を求める凡夫)という対立的・逆方向の立場の二者が、対立・逆方向の関係ながら、お互いに自己否定して逆説的に相応することである。この対立する二律の相応関係が西田が晩年に傾斜した「宗教」の核心である。しかし、それとて空海の「一元論」(「二而不二」)を知っていれば、「啐啄同時」などと無邪気に言うこともなかった。
⑧戦争協力の批判がある戦争中及び戦後の西田の発言は、学識者としてはうかつ過ぎる。大拙師の「受け売り」の「即非」は「自己否定即肯定」として西田の哲学にもなったが、それが独り歩きし戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」=「即非」の自刃・自決=特攻隊・人間魚雷にならなかったか。氏が自信をもって構築した「一元論」の哲学が「天皇陛下万歳」の「一元論」に変質し、教え子が戦陣に散っていったことに涙の一つも落しただろうか。
⑨前述の宗教哲学者鎌田東二氏は、オウム真理教事件について平成十六年(二〇〇四)二月下旬の新聞各紙に掲載された山折哲雄氏との対談「最終解脱者の犯罪 日本人の心の針路を問う」で、「この事件は宗教研究者としての自分にも何らかの責任はある。責任をどう果たせばいいかと悩みました」と述懐している。私は宗教者のはしくれとして密教21フォーラムをやった。
 いつも外野席から宗教を論じている山折氏にはそうしたフィールド現場感覚はなく、宗教学者としての責任に言及することはなかった。考えたこともないのだろう。それと同じように、西田も自らの発言に戦争責任を感じたことはなさそうである。

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