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再論:「肥前国松浦郡田浦」は久賀島の「田ノ浦」か? New

 標記の「肥前国松浦郡田浦」とは、延暦23年(804)5月、難波ノ津を出港した第十六次遣唐使船団(「四つの船」、第一船に31歳の若き空海が、第二船には少し年長の最澄が乗船)がこの国の最後の寄港地とした「停(とまり)」(「泊」、「津」「浦」、波静かな風待ち潮待ちの入り江)の地名(=官名)で、それは長崎県五島列島・久賀島の「田ノ浦湾」(現在、田ノ浦港がある)であるという説と、同じく長崎県平戸市の北端にある大きな入り江「田ノ浦」であるという二説があり、久賀島説の方が古く、これを言う地元ゆかりの識者には「これが通説」だと言う人があり、一方の平戸説を説くのは真言宗僧侶で著名な研究者(宮坂宥勝博士(高野山大学・名古屋大学名誉教授・真言宗智山派管長)、宮崎忍勝博士(高野山大学)など)である。
 この二説の背景には、第十六次遣唐使船団が解纜した「肥前国松浦郡田浦」が現在のどこの港湾名か特定できる確かな文献資料がないため、史書や郷土誌などの記述を傍証として推考するほかないということがある。すなわち、傍証による推考のレベルでどちらが有力か、どちらに史実的な信憑性があるか、という問題である。
 地元ゆかりの識者は主に『肥前風土記』『五島編年史』などにある遣唐使船の五島の「浦」への寄泊記録を根拠に、真言宗の碩学は空海の弟子真済が残した『性霊集』や空海伝や確かな史書、あるいは平戸島の真言宗寺院に伝わる言い伝え、あるいは平戸「田ノ浦」を空海の乗った第十六次遣唐使船団の解纜の地とする(九州の真言宗寺院による)顕彰活動をもとに、それぞれの推考を述べているが、どちらも甲乙つけ難く結論には至っていない。

 然るに私は、自著『空海ノート』(平成21年)のなかに「既ニ本涯ヲ辞ス」という一章を設け(第34章)、空海や最澄(後の真言宗と天台宗の祖師)が乗った第十六次遣唐使船団の最終寄港地「肥前国松浦郡田浦」とは、五島列島久賀島の「田ノ浦」ではなく、平戸市北端の「田ノ浦」であると言い、その理由を、船団は当時の遣唐使船団が採っていた航路(「南路」)に従い、おそらく最終寄港地に予定をしていたであろう、五島列島中通島の「合蚕田(あいこだ)ノ浦」(「相子田ノ浦」、現在の長崎県南松浦郡新上五島町「青方港」)や、福江島岐宿の「川原ノ浦」(今の岐宿町川原、白石湾・魚津ヶ崎近くの入り江)や三井楽の「浦」(今の白良浜万葉公園が奥にある湾)をめざして出港したところ、翌日夜八時過ぎ、折からの暴風雨に遭遇し、四船散りぢりになって五島列島の北方沖合を漂流し、五島のどこの「浦」にも寄港することができなかった故、第十六次遣唐使船団の最終寄港地の「肥前国松浦郡田浦」は、今の平戸市北端の空海渡唐像や解纜の記念碑が建っている大きな入り江、すなわち平戸「田ノ浦」だと結論づけた。

 その論述である私の『空海ノート』の当該箇所を、参考までに以下に示しておく。同じものを、ウェブサイト「エンサイクロメディア空海」の「空海の生涯」のなかで公開している。

三十四 既ニ本涯ヲ辞ス

 司馬遼太郎(『空海の風景』)は次のように言う。

 船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、すこしずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。

 列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。
船団はこの瀬戸に入り、久賀島の田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
 この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
 風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。

 やがて、船団は田ノ浦を発した。七月六日のことである。四隻ともどもに発したということは、のちに葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)に出ている。

 久賀島の田浦を出帆したということについては『性霊集』では、
 「本涯ヲ辞ス」
 という表現になっている。かれらは本土の涯を辞した。
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 ここに、第十六次遣唐使船団の最終寄港地はどこか、の問題がある。

 司馬遼太郎は「想像ではなく」久賀島の「田ノ浦」だと言う。しかしその根拠を示していないので真偽のほどがわからない。
 私は、史書の記述と第十六次遣唐使船団の航行日数および遭難海域の推定、さらに当該地の史跡などから、平戸の「田ノ浦」(今の長崎県平戸市大久保町田ノ浦、つまり渡唐する空海像や記念碑が建っている田の浦温泉近くの入江)にちがいないと考える。

 桓武・平城・嵯峨・淳和の時代を録した『日本後紀』に、第十六次遣唐大使藤原葛野麻呂が延暦二十四年(八〇五)六月に対馬に無事帰着し、第一船の海上遭難や唐土上陸の辛苦そして長安への急行の模様を報告上奏した記述があり、そのなかに「肥前国松浦郡田浦従リ発シ」とある。まず、この「肥前国松浦郡田浦」(以下、「肥前田ノ浦」)とはどこか、である。

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。
臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル
七日戌ノ剋、第三第四ノ両船、火信応ゼズ。
死生ノ間ニ出入シ、波濤ノ上ヲ掣曳セラルルコト、都テ卅四箇日。
八月十日、福州長渓縣赤岸鎮已南ノ海口ニ到ル。
時ニ杜寧縣令胡延等相迎ヘ、語テ云ク。
常州刺史柳、病ニ縁リテ任ヲ去ル。新除刺史未ダ来タラズ。
国家大平ナルモ。其レ向州之路、山谷嶮隘ニシテ、擔行穏カナラズ。
因テ船ヲ向州ニ廻ス。十月三日、州ニ到ル。
新除観察使兼刺史閻済美処分シ、且ツ奏シ、且ツ廿三人ヲ放テ入京セシム。
十一月三日、臣等発シ都ニ赴上ス。
此ノ州京ヲ去ルコト七千五百廿里。星ニ発シ、星ニ宿ス。晨昏兼行セリ。
十二月廿一日、都ノ長楽駅ノ宿ニ到上ス。

 司馬は不思議なことに、平戸の「田ノ浦」に一言もふれない。彼の根拠はいったい何か。
 もし史書だとすれば、『続日本紀』『日本後紀』や『肥前風土記』に五島列島の泊への遣唐使船寄港の記述が見えるから久賀島の「田ノ浦」を思ったかもしれない。

遣唐使船、肥前国松浦郡合蚕田浦ニ到リ、
月ヲ積ミ日ヲ余スモ、信風ヲ得ズ。(『続日本紀』)

 これは、宝亀七年(七七六)夏に、佐伯今毛人を大使とする第十四次遣唐使船が五島列島の「合蚕田浦(あいこだのうら)」に進みながら、今毛人が渡海の危険におびえ「那ノ津」(大宰府)に引き返してしまった時の記述である。
 ここにいう「合蚕田浦」とは、今の中通島(新上五島町)の「青方(港)」のことで、「青方」はその頃、「南路」をとるようになった遣唐使船の寄港地として有力な港であった。「相子田浦(あいこだのうら)」ともいわれている。
 有力ではないが、この「相子田浦」を久賀島の「田ノ浦」とする説があるのだそうである。「相子」を中通島の「青方」とし、「田浦」を久賀島の「田ノ浦」とするのだという。
 しかし、『肥前国風土記』には、

西ニ船ヲ泊ツル停二処アリ。
一処ノ名ハ相子田ノ停ト云ヒ、二十余リノ船ヲ泊ツベシ。
一処ノ名ハ川原浦ト云ヒ、一十余リノ船ヲ泊ツベシ。

遣唐ノ使ハ此ノ停ヨリ発チ、美弥良久ノ崎ニ到リ、
即チ川原浦ノ西ノ崎是ナリ。此ヨリ発船シテ西ヲ指シテ度ル。

とあり、当時五島列島では「相子田ノ停」(「相子田浦」)、「川原浦」(今の五島市岐宿町白石湾)、及び「美弥良久(みいらく)」の崎(今の五島市三井楽町柏崎)が、五島列島における遣唐使船のめざす所として知られるのだが、「一処ノ名」という文意からして「相子田浦」を二ヶ所に分けて読むのはおかしいし、「相子田ノ停」に久賀島の「田ノ浦」の名を求めるのは無理である。

 そもそも、第十六次遣唐使船団が久賀島の「田ノ浦」に寄った証拠史料の有無を司馬は明かしていない。私はそのような史料を見聞したことがない。さらに、当時の「肥前国松浦郡」は広く、平戸島も入るし郡の行政の目が届くという意味では平戸の方が中心部に近い。

 史料でなければ司馬は何を根拠にしたのか。全行程の日数計算をして、久賀島の「田ノ浦」を最終寄港地にしたのだろうか。だがすでに触れたように、「那ノ津」では「数旬」(二十日~三十日)滞留した、と彼は言う。そんなにのんびりでは、五島の津浦に何ヶ所か寄って久賀島の「田ノ浦」に入り、そこを七月六日に発するのは到底不可能である。
 また司馬は「水と食糧を積み、船体を修理し」というのだが、船団は西国一の港「那ノ津」で彼が言うように「数旬」停泊したとすれば、水や食糧や生活物資を充分に積み、船体修理も入念に行っているはずであり、仮にもその必要があるなら「相子田浦」(青方)や「川原浦」や「美弥良久」に入ればいいことで、『肥前国風土記』さえも遣唐使船寄港地として挙げないような(小規模の)、しかも回り道になる久賀島の「田ノ浦」をえらぶ必要はない。

 ここに「肥前田ノ浦」を出港した翌七日の四船遭難の様子を録した『性霊集』の文がある。

賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
既ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、戕風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。
北気夕ニ発レバ、胆ヲ留求ノ虎性ニ失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。
驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
但ダ天水ノ碧色ノミヲ見ル。豈ニ山谷ノ白霧ヲ視ンヤ。
波上ニ掣々タルコト、二月有余
水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト爲スニ足ラン哉。
(『性霊集』巻五、「大使、福州の観察使に与ふる為の書」)

 「耽羅」とは済州島のことで、西南の風に煽られそこに流されると蛮民の掠奪に遭う危険性があり、「留求」とは琉球(沖縄諸島)のことで、北東の風に流されそこに漂着すると人喰い族に殺される危険が待っている。そのことを肝を冷やす思いで恐れていたというのである。
 この言いまわしは、当時の東シナ海での海難の恐怖を象徴的に言ったものであろうが、決して誇張や比喩ではなく、よく人の口に上っていた凡例を挙げたものとも考えられる。そうすると、夏の東シナ海では西南の風(逆風)にさえぎられ、南下するどころか西に流されて済州島に漂着することもしばしばあったということが読みとれる。

 とすると、空海らの船団は七月六日平戸の「田ノ浦」を発って生月島の北端を巻き、順風をとらえて東シナ海を西に進み生月島の西方沖で潮に乗って南下した。ところが翌朝逆風に遭い宇久島の西方海域で強風と逆波にさえぎられて終日南下もままならず、強風の不穏な気配にしばしば帆をあげ西南の風を背に五島列島のどこかに避難しようとしたがむしろ済州島の方向に押し流され、夜八時~九時頃五島列島を遠く離れた西の海域で遭難したとの推定が可能である。その海域から福州近くの赤岸鎭に漂着する(八月十日)まで三十四日、東シナ海の潮流になすすべもなく浮かんでいた日数距離としてもまあまあではなかろうか。
 「肥前田ノ浦」を久賀島の「田ノ浦」とすると、遭難の地点がずっと南に下り、漂流日数からして難しくなる。久賀島の「田ノ浦」から発ったとして一日で約三十㎞、出発した七月六日の夜は福江島の「川原浦」か「三井楽」かその沖合。翌七日は朝から逆風で南下がはかどらず、やむなく帆をおろし、櫓をやめ潮の流れにまかせて嵯峨ノ島の西南沖を流され、夜半になって暴風雨となった時にはもう嵯峨ノ島ははるか北東の彼方だったであろう。仮にそう推定すると、遭難の海域はずっと南方で、距離にして宇久島の西方海域からは約百㎞南、仮に一日十㎞漂流するとして十日、十五㎞として一週間の誤差になる。

 私は、第十六次遣唐使船団は「肥前国松浦郡田浦」すなわち平戸の「田ノ浦」を出て、当時遣唐使船の定番航路だった「南路」をとり五島列島の「相子田浦」か「川原浦」か「美弥良久」をめざしたのだが、そこに到る前に福江島のかなり北西の宇久島西方海域で遭難したと推定する。その方が全行程の日数計算上でも妥当だと思われる。
 従って、空海らを乗せた第十六次遣唐使船団は五島列島のどこの港にも寄港をしていない、「肥前田ノ浦」とはやはり平戸の「田ノ浦」以外にない、と考えるのが妥当であろう。

 平戸の「田ノ浦」には古くから空海の「腰かけ石」や大師堂のほかに、遣唐使船をつないだという「舫の木」や水をくんだ「唐井戸」があり、九州の真言宗諸寺院の力で渡唐の空海像や記念碑や礼拝堂も建てられ、平成十六年五月二十六日には九州の真言宗諸大徳のほか、宗派を超えた地元の人々の手により空海渡唐一二〇〇年の記念大法要が行われた。
 ところが久賀島の「田ノ浦」にはそれとわかる史跡や記念碑等もなく、空海の事蹟といえば八十八ヵ所参りの風習が残っているくらいである。もしこの島の人々や九州の真言寺院の方々が「ここが第十六次遣唐使船の最終寄港地である」ことを史実にもとづいて守り伝えていたとしたら、とっくに空海の渡唐解纜の記念碑が建っているはずである。この現実を、司馬はどう受けとめ、いかなる根拠で「想像ではなく」、久賀島の「田ノ浦」を「肥前国松浦郡田浦」だとしたのであろうか。

 空海らの第十六次遣唐使船最終寄港地にはまた別な問題がある。
 三井楽町柏崎の海辺に「辞本涯」(「本涯を辞す」)と刻まれた石碑が建っている。この刻字を揮毫された静慈圓先生(高野山大学)は、この浜が第十六次遣唐使船団の最終寄港地だとしておられる。しかし先生にしては珍しくその根拠を明らかにされていない。私は、延暦二十三年(八〇四)七月七日に、三井楽町柏崎を空海らの第十六次遣唐使船が出港したことを伝える確かな資料を知らない。

 だいたい、当時の遣唐使船(和船)の四船伴走の船足、梅雨時の天候や海上の見通しの悪さ、夏の西南の風(逆風)、風待ち潮待ちの津浦でのしばしばの停泊、「那ノ津」での滞留日数を考えると、「難波ノ津」を五月十二日に出て、七月六日のうちに久賀島の「田ノ浦」から福江島の南端「美弥良久」まで達するのはまず不可能である。
 まさかだが、静先生は、『肥前国風土記』の、

遣唐ノ使ハ此ノ停ヨリ発チ、美弥良久ノ崎ニ到リ、
即チ川原浦ノ西ノ崎是ナリ。此ヨリ発船シテ西ヲ指シテ度ル。

という記述を、第十六次遣唐使船団にも重ね合わせたのであろうか。

 いずれにしても、『日本後紀』に「肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル」とある以上、これを無視して第十六次遣唐使船最終寄港地を「美弥良久」(三井楽)とするには無理がある。
 それ故私は、「辞本涯」の地は当然ながら、延暦二十三年七月六日に船団が出港した「肥前国松浦郡田浦」にほかならず、それはすなわち、平戸の「田ノ浦」であると考える。再度言うが、第十六次遣唐使船団は「美弥良久」(三井楽)に寄る前に五島列島西方の東シナ海海域で遭難し潮の流れに漂うことになったに相違ない。空海らの第十六次遣唐使船団は「美弥良久」(三井楽)にきていないのである。

 余談ながら、司馬(『空海の風景』)がいう(東シナ海遭難の)次の部分は史家の研究を見ていない。僚船がどうなったのかわからない。葛野麻呂の上奏文ではこの間のことを、

第三、第四両船、火信応ゼズ

 と書いている。
 火信とは、松明もしくは火縄をふることによって、たがいに所在をたしかめあうことであった。

第三船はこの時期に海没してしまったらしい。第四船にいたっては海没の証拠すらなく、ついに行方が知れなくなってしまっている
(司馬遼太郎『空海の風景』)

 史家によれば、判官三棟朝臣今嗣が率いる第三船と判官高階真人遠成の指揮する第四船は、ともに遭難海域から辛くも那ノ津(大宰府)に引き返し、船体を修理して翌延暦二十四年七月四日肥前国松浦郡庇良島(現在の平戸島、おそらく平戸の田ノ浦)から出航し遠値賀島(福江島)に向ったが、第三船はまもなく南風の逆風によって孤島に漂着し、判官三棟は上陸をしたものの船は水夫らとともに海上に流され、ついに行方知らずとなってしまったと史暦にあるといい、第四船は無事に東シナ海を渡り空海らを乗せて帰っている。

 然るに、再論:「肥前国松浦郡田浦」は久賀島の「田ノ浦」か?を述べるにあたって、このたびの私の平戸「田ノ浦」説は、『日本後紀』巻13に見える、

①空海(第一船)や最澄(第二船)が乗った第十六次遣唐使船団の内、第三船が海難に遭ったあと「那ノ津」(博多、=大宰府)に引き返し、船体修理して翌年また唐土をめざし平戸(「肥前国松浦郡庇良嶋」=前後の関係から「田ノ浦」の可能性が大)から出港、という大宰府の言、

および『日本後紀』巻12に見える

②「肥前国松浦郡田浦」とは、藤原葛野麻呂(第十六次遣唐大使)が帰国報告をした際に個人的に使った地名、

の2点を新しい論拠としていることを冒頭に前置きしておく。

 これは、第十六次遣唐使船団は「平戸の「田ノ浦」から大海に出たものの、翌日の夜暴風雨に遭って四船散りぢりになり、五島列島の「浦」には四船ともは入れなかったのであり、従って、第十六次遣唐使船団の最終寄港地「肥前国松浦郡田ノ浦」は、五島列島久賀島の「田ノ浦」ではなく、平戸の「田ノ浦」である」という、上記の私の推考に信憑性を与える資料である。
 『日本後紀』巻13に曰く、

癸未、大宰府ノ言フ。遣唐使第三船、今月四日肥前国松浦郡庇良嶋ヨリ発シ、
遠値賀嶋ヲ指ス。忽チ南風ニ遭ヒ、孤島ニ漂著ス。
-略- 纜(ともづな)絶へテ船流レ、何(いずく)ニ去ルカ知ラズ。
(『日本後紀』巻13、延暦24年(805)7月癸未(16日)条、
『新訂増補 国史大系3 日本後紀』吉川弘文館)

 すなわち、前年の延暦23年(804)7月に、海難によって渡唐できず、那ノ津に戻ってきた第十六次遣唐使船団の第三船が、那ノ津での修理改修を終え、1年後の延暦24年(805)7月4日、庇良嶋(平戸島)を出発して遠値賀島(遠値賀島を「おちかじま」と呼び「小値賀島」と同定する例があるが、多くの古文献は遠値賀島「とほちかのしま(等保知駕の島)」「とわちかじま」と言い、五島列島全体とする)をめざしたが、たちまち南風(逆風)に遭い、孤島(生月島か、もっと先なら宇久島、あるいはその周辺の孤島)に漂着し、船はどこかにいってしまった、というのである。

 この記載を、前年の第十六次遣唐使船団「四つの船」の海難との混同ではないかという説も学界にあるようだが、史実にしろ混同の記載にしろ、まぎれもなく遣唐使船第三船が平戸島(当時の大宰府の官人からすれば「田ノ浦」の意味)を出たのであり、これが前年の混同だとするなら「四つの船」も平戸(「田ノ浦」)を出ていることをも暗示する。当時の大宰府の官人にとって言わずもがなのことだったとも想定される。私の推考はこの『日本後紀』の記載を知らない時期のものであるが、再出発したあとの第三船の海難の場所までが私が推定した前年の第十六次遣唐使船団「四つの船」の海難場所と酷似しているのも偶然の一致である。

 然るに、私の平戸の「田ノ浦」説に対し、平成27年(2015)8月、五島新報新聞社名の差し出しメールで永冶克行という人(同新聞社記者?)から、地元の言論人らしい久賀島の「田ノ浦」説が届き、また最近『潮鳴り遥か-五島・久賀島物語-』(内海紀雄、平成26年)の第一章、古代史の光/「肥前国松浦郡田浦」考-空海・最澄の渡唐解纜の港はどこか-という、今までに接した久賀島「田ノ浦」説では最も秀でた論考に接し、永冶氏はたぶんこの本を読んでいるだろうと思い、もう一度参考資料や古文献などを調べ直し、さらにコロナ感染の終息を待ち福江・久賀両島に足を運ぼうと心を決め、ここに平戸「田ノ浦」説を採る立場から、内海氏の「「肥前国松浦郡田浦」考」について私見を呈しておこうと思う。

「「肥前国松浦郡田浦」考」を一読して先ず感じたのは、内海氏が章の最後に「我田引水にならないように努めた」と自戒しておられるが、ジャーナリストであるばかりでなく相当の学識経験者と思われる氏にしても、やはり地元びいき、島民意識、すなわち五島の人の目線、郷土愛とか郷土史を出ない目線が「久賀島・田ノ浦とする方が、無理、矛盾がなく、自然である」という結論につながっていることである。
 これは久賀島生れで五島高校に通われたという氏のルーツからして無理からぬことで、「できるだけ客観的に」という氏の良識とともに責められるものではないが、看過できないのは、ウェブ上における地元びいきのウソ情報である。

 その一つは、五島市公式サイト「まるごとう」の「久賀島田ノ浦湾(令和2年6月掲載)」にある「昔、遣唐使船が寄港したという記録が残っていますが・・」であり、ウィキペディア「久賀島」の「716年(霊亀2年)に遣唐使船が田ノ浦に寄港した記録があり」「これが久賀島が歴史に登場した初出」である。
 五島市公式サイト「まるごとう」が何を根拠に「久賀島に、昔、遣唐使船が寄港したという記録が残っています」などと言っているかは不明であるが、この件に関する私の問い合わせに対する五島市教育委員会の回答は、

『肥前国風土記』に記述がのこる「相子田の浦」、「川原の浦」といった地名を基に、現在の久賀島田の浦や岐宿町川原であると推測し、また柏崎についても同書の「美弥良久崎」が現在の柏崎にあたるものと推測した説に則っています。
『三井楽町郷土誌』(昭和63年発刊)においても同様の推測から遣唐使に関する記述がなされておりますが、『長崎の歴史』や『五島編年史』を引用し、他の説も交えながらの説明となっております。
『肥前国風土記』からは、久賀島田の浦や柏崎に遣唐使が停泊したとする確実な証拠とまではいえないため、地元にのこる史跡や伝説と併せて、あくまで そう推測されるとの記述にとどめております。

と、推測による記述だと言う。
 改めて言うが、五島ゆかりの識者がよく久賀島説の典拠とする『肥前国風土記』の遣唐使船の五島寄泊の記録にその名があるのは、中通島の「合蚕田ノ浦」(相子田ノ浦、現在の「青方港」)と福江島岐宿の「川原ノ浦」の二ヵ所だけであり、三井楽町の柏崎の沖合で東シナ海に入るのである。そこに久賀島の「田ノ浦」は出てこない。

西ニ船ヲ泊ツル停二処アリ。
一処ノ名ハ相子田ノ停ト云ヒ、二十余リノ船ヲ泊ツベシ。
一処ノ名ハ川原浦ト云ヒ、一十余リノ船ヲ泊ツベシ。

遣唐ノ使ハ此ノ停ヨリ発チ、美弥良久ノ崎ニ到リ、
即チ川原浦ノ西ノ崎是ナリ。此ヨリ発船シテ西ヲ指シテ度ル。
(『肥前国風土記』)

 ハッキリさせておくが、確かな史書を調べればわかる通り、久賀島の「田ノ浦」に遣唐使船自体が寄った公式記録はなく、まして第十六次遣唐使船団が寄泊したことを証する証拠もなく、そうした形跡もなく、島民による確かな伝承もなく、遣唐使船が寄泊した記念碑もない。わずかに、空海が彫った仏像とか八十八ヵ所とか後世の大師信仰(隠れキリシタンのカモフラージュか?)による付会があるだけである。五島市公式サイトの「昔、遣唐使船が寄港したという記録が残っていますが・・」は、推測どころかウソ・こじつけと言わなければならない。

 それから、ウィキペディアの「716年(霊亀2年)、久賀島「田ノ浦」に遣唐使船が寄港した記録がある」との記述だが、明らかに事実誤認である。716年(霊亀2年)に遣唐使は派遣されていないのである。
 これに最も近い遣唐使派遣は、716年に多治比縣守(たじひのあがたもり、奈良朝廷の公卿)が押使(おうし、国使の上司)に任命され、翌717年(霊亀3年)に大伴山守(おおとものやまもり)を国使として、留学生の阿倍仲麻呂や吉備真備・玄昉などを伴い渡唐した例があるが、全員無事に帰還したこと以外、どこに寄港したか公式記録はなく、久賀島の「久」も出てこない(ウィキペディア「遣唐使」、『遣唐使全航海』(上田雄、P80))。ウィキペディアの「久賀島」は、事実無根のことを平気で書いている。

 冒頭、地元びいきの「我田引水」論を指摘し、史書の公式記録にも言及したところであるが、ここで改めて強調しておきたいことは、「肥前国松浦郡田浦」という地名は『日本後紀』に見える、第十六次遣唐大使藤原葛野麻呂が延暦24年(805)6月に対馬に無事帰着し、第一船の海難事故や唐土上陸の辛苦そして長安への急行の模様を報告した上奏文の

大使従四位上藤原朝臣葛野麻呂上奏シテ言ス。 臣葛野麻呂等、去年七月六日、肥前国松浦郡田浦従リ発シ、四船海ニ入ル。

を典拠とするもので、つまり朝廷の上級官僚だった藤原葛野麻呂の個人的な地名表現である、ということである。
 すなわち、「肥前国松浦郡田浦」とは藤原葛野麻呂が行政官として普段から口にしている言葉使いで言ったのであり、彼にとって「肥前国松浦郡田浦」はどこであったかがこの件の主要問題であって、史書の公式記録に「肥前国松浦郡田浦」の記載があるか否かといったことは状況証拠や二次的傍証にしかならない。それが「「肥前国松浦郡田浦」は久賀島の「田ノ浦」か、平戸の「田ノ浦」か」の大前提であるということであり、私の見解によれば、朝廷の上級官僚から大宰府の地方官人に至るまで「肥前国松浦郡田浦」と言えば「西の府」(朝廷の出先機関)大宰府に近い平戸の「田ノ浦」のことであり、はるか西海の果ての久賀島「田ノ浦」は遠い、ということである。

 それ以前、松浦郡の「郡衙(郡役所)」は唐津に置かれていたこと(『魏志倭人伝』に見える「末盧(まつろ)国」)も念頭に置けば、古代の官人たちが言う「肥前国松浦郡田浦」とはわざわざ「肥前国松浦郡庇羅島田浦」と「平戸」をわざわざ言う必要もなく、唐津に近い平戸の「田ノ浦」にちがいない。ちなみに、『日本三代実録』の貞観18年3月9日の条(876)に、当時の肥前国のうち松浦郡庇羅郷と同郡値賀郷を分け「値賀島」を設置したとあり、現在の平戸島と五島列島を区域とし島府を平戸に置いたという。「値賀島」の行政府は平戸なのである。すなわち、あの時代の行政府がコロコロ変わるわけがなく、当時の官人たちや空海などの官僧にとり「肥前国松浦郡田浦」とは、常識的に日常的に平戸「田ノ浦」であり、久賀島は遠く行政的な視座の外だったに相違ないのである。

 次に、司馬遼太郎が久賀島「田ノ浦」を「この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ」と言ったり、内海氏が「私は、大宰府が対馬、壱岐の防人用に九州から食糧を送っていたように、遣唐使が出発する際にはあらかじめ主な寄港地に食糧などを送って備蓄していたのではないか、と推測している」は、久賀島「田ノ浦」の過大評価・拡大解釈ではないか。
 司馬が言う「この浦で、水と食糧を積み、船体の修理をしつつ」であるが、フィクションにしても歴史小説としての史実認識が甘い。おそらく、現在もそうであるが、農民・漁民の寒村が点在する西海の小島だったであろうあの時代の久賀島に、国使をはじめ数百人の使節や乗員を乗せた「四つの船」が風を待ち潮を待つ入り江として、ほかの寄泊地のような補給能力や人力があっただろうか。仮に内海氏が言うように、大宰府から食糧等が届いていたとして、風向きや潮流によっては予定通りに到着するかどうかわからない遣唐使船団を待って、それをどこに誰がどのように備蓄・管理し、船団が来れば接岸はせず「浦」内に浮かぶ「四つの船」にどうやって荷役するのか、水や食糧は在庫が船にあったとしても予備だけでも数百人分である。さらに、久賀島で船体の修理をやるものだろうか。よく遣唐使船の造船や修理で知られるのは安芸国倉橋島(広島県倉橋島)であるが、そんなことは那ノ津(博多)か唐津の柏島(今の神集島)で充分時間をかけてやったはずで、補修用の補修材や工具や人夫たちを乗せていたにしても、造船や修理のバックアップ力のない入り江でやることではない。

 ちなみに、第十六次遣唐使船団の「四つの船」は、1船に約150人、総勢にして約600人の使節と乗員を乗せ、船体は最大幅が約8m、全長が約30m、排水量が約300t、V字型船底の航洋型帆船(あじろ帆)と推定され(『遣唐使全航海』上田雄)、当時としては最新の性能をもった木造船である。およその比較であるが、宮島口と宮島を往復するフェリーや石垣港発着の高速定期船の大きさを想像すればいい。
 また、内海氏の言う「大宰府からの前もっての食糧送致」であるが、「四つの船」の600人分の食糧補給があの時代大宰府と久賀島の間で陸送・海運ともに可能だったか、そもそも西海の果ての「防人」もいない寒村の久賀島に中央朝廷や大宰府の官人が遣唐使船の補給を考えるだろうか、船便で那ノ津(博多)から直送するにしても、それなら「四つの船」に乗せればいい話で、今でもフェリーや小型客船が一日数便しか通わず、島内の交通手段も道路も至便ではなく、寒村点在の久賀島の「田ノ浦」に、わざわざ遣唐使船団を寄泊させることを朝廷や大宰府が計画するものだろうか。あらかじめ公式に予定をするのなら、遣唐使船団が寄泊したことのある中通島の「合蚕田ノ浦」(相子田ノ浦)や福江島の「川原ノ浦」にすればいいはずである。

 それから、「既に本涯を辞す」の「本涯」の意味の取り方である。「本涯」の「本」は「本国」「本邦」であり、「涯」は「(遠い)果て」「水際」「岸」という意味。つまり「本国(日本)のさい果て」のことである。問題は、藤原葛野麻呂のような中央官僚にとって、あるいは空海の「既に本涯を辞す」を『性霊集』に書き残した弟子の真済(官僧・都人)にとって「本国」「本邦」とは久賀島だったか。
 あの時代、「西の府」である太宰府は中央官僚にとっては「さい果て」の地だった。菅原道真の左遷例を言うまでもなく、京から大宰府に下る中央官僚は出発前あるいは道中で、みなわが身の行く末を悲観した和歌を残した。太宰府に赴任した中央官僚にとっては「ここが本邦のさい果て」であり、事実上「本涯」だった。彼らの業務感覚や土地勘からすれば平戸の「田ノ浦」を出て大海に浮かべば、まさに「本涯を辞す」なのである。
 平戸「田ノ浦」の高台の崎に立つ「渡唐大師像」を仰ぎ見れば、たとえ今の時代に建立された記念碑だとしても、ここが「本涯」だという実感が湧いてくる。空海の渡唐の深い意味を知る真言僧の私などは感動して涙腺が熱くなる。これは私にしても「我田引水」になるかも知れないが、国使の藤原葛野麻呂をはじめ600人からの使節団と乗員を乗せた「四つの船」が舳先を並べて浮び、大海に向けて出港するにふさわしい入り江である。

 然るに、これと反対のことを、平戸「田ノ浦」を実際に見ていない内海氏は知り合いの長尾瑞嶺(大阪府某市役所の元職)という人の個人的な感慨によって代弁するが、これも「我田引水」に近く、久賀島「田ノ浦」説を裏づけるにしては客観的な証拠性も説得力もない。
 加えて言うが、福江島三井楽町の西のはずれの柏崎の崎に立つ静慈圓先生(高野山大学)揮毫になる「辞本涯」の碑であるが、あの場所が空海や最澄を乗せた第十六次遣唐使船団の最終寄泊地だという意味なのであろうか。先生も地元びいきに乗せられたのかも知れないが、「肥前国松浦郡田ノ浦」でもないところに「辞本涯」の碑を建ててどうしようというのか。要は、遣唐使船の言い伝え(郷土史)を地域おこしや観光振興に利用する人たちに、空海の渡唐事跡や静先生までが利用されたのではないか。この碑も、五島市教育委員会が言うには、史実ではなく推測によって建てられたのだそうである。

 以上、私がこの再論の前提として強調しておきたいことを総じて述べておいた。
 以下『潮鳴り遥か-五島・久賀島物語-』の内容に対し私の立場から感想・論評を述べてみたいとと思う。
 先にも述べたが、「肥前国松浦郡田浦」とは五島列島久賀島の「田ノ浦」か、平戸市北端の「田ノ浦」かについて、これだけ詳しく種々の資料も列挙しながらできるだけ客観的に論じた推考を私は見たことがない。内海氏は久賀島説であり、私は平戸説と立場は異にするが、内海氏のご労作には先ずもって敬意を表しておきたい。

 早速ながら、
 P11に「第一八次遣唐使・・・」とあり、P15には「第一六次遣唐使船・・・」とある。どちらが正しいか順次不明であるが、私は「第十六次」だと考えている。

 それから、P12~13の「久賀島・田ノ浦説」の伊藤常足(江戸時代の儒学・国学者)の比定や、吉田東伍(明治末期の歴史・地理学者、『大日本地名辞書』で有名)の「按ずるに・・・」程度の地名による推定、中島功氏(長崎県史編纂員)・越中勇氏(長崎県立美術博物館学芸員)の記述には、信用に足る確定的な証左の典拠がなく、「按ずるに・・・」といった推考の域を出ない。さらに、同ページに紹介されている司馬遼太郎や瀬戸内寂聴の記述はどこまで資料を調べたのか、久賀島や五島に関する地元通説や遣唐使船関係の参考資料に無批判的に従ったに過ぎないことがありありである。司馬遼太郎の『空海の風景』の遣唐使船に関する叙述は、歴史小説として史実に反する問題記述も多く、私も再三指摘したところだが、遣唐使船に詳しい識者にもそれを言う人がいる。

司馬遼太郎の代表作の一つに『空海の風景』がある。-略-その中で空海が遣唐使船に乗って渡唐する場面に次のような一節がある。
風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。-略-
この第十六次遣唐使船もこの季節に田ノ浦に待機している。
そのような偉大な作家にクレームをつけるのはおこがましいが、-略-
「弘法にも筆の誤り」があるのである。

どう考えても-略-(風向きが)アベコベなのである。

司馬遼太郎の「弘法にも筆の誤り」とでも言うべき間違いは、恐らくは司馬氏がこの部分を執筆するに際して典拠としたはずである日中国交史を専門とする歴史家、森克己の著作『遣唐使』(至文堂、1955年)の叙述をそのまま鵜呑みにしてしまったからであると思われる。
(『遣唐使全航海』上田雄、P11~P15)

 著者の上田雄氏は、司馬の東シナ海の季節風の方向の記述が事実とはアベコベだと言っている。ただ、上田氏のこの本はすぐれた論考の書ではあるが、史書からの引用を紹介しながらその典拠を明示しなかったり、参考図表には五島列島の遣唐使船寄港地の場所がまちがって図示されているものがあり、全体的に信用に足る学術のレベルとは言えないが、司馬遼太郎の『空海の風景』に出てくる遣唐使船の記述には問題があり「弘法にも筆の誤り」と指摘されたのには同感・共感である。
 蛇足ながら瀬戸内寂聴に至っては、天台宗の僧侶として宗祖伝教大師の事跡を書くほどの学識がはたしてあるのか、色恋物語を書くだけのただのモノ書きではないかと私は疑っている。
 司馬遼太郎や瀬戸内寂聴といった名の知られた作家の名を出して、自分の説の補完をするのはジャーナリストのよくする術であるが、司馬の『空海の風景』の信憑性や瀬戸内の天台僧としての学識を知ってのこととは思えない。

 P13の「平戸島・田ノ浦説」だが、内海氏は仏教学・密教学・空海研究の碩学である宮坂宥勝博士や宮崎忍勝博士を知らないのではないか。それから、「肥前国松浦郡田浦」の特定をしない例として、松長有慶博士(高野山大学学長、高野山真言宗管長・総本山金剛峯寺座主)を傍証に挙げているが、これは失礼な言いがかりである。博士には『空海』(高僧伝シリーズ)で「肥前国松浦郡田浦」の特定を書く意図がなかっただけのことである。宮坂博士も松長博士も私はよく存じ上げている仏教学界の碩学であるが、空海の事跡に関する学術的な見識においても人後に落ちない研究者で、恐縮ながら内海氏はそのことを知らないのだろう。
 さらに恐縮ながら、平戸市の『八五市政要覧』『平戸市史』『平戸郷土史』を典拠として平戸「田ノ浦」説が比較的最近の説だと言われるが、内海氏は「最近の説」には信用性がなく、あとからのこじつけで、古い通説は信用性が高く、史実に近いと言いたいのだろうか。いずれにしても、郷土史レベルの諸資料から史実を観取することは安易・安直であり、それはジャーナリストとしてあり得ても、学識者としては通らない無理筋である。

 P15の「遣唐使の航路」であるが、遣唐使船の歴史の後期は那ノ津(博多)から五島列島のいずれかの「浦」に寄泊して東シナ海に入る「南路」を採るようになっていたことを傍証として、当時の遣唐使船の「最終寄港地はほとんどが五島」だと言い、第十六次遣唐使船団も「南路」を採ったことを以て「肥前国松浦郡田浦」=久賀島の「田ノ浦」説の「決め手」であるかのように言いたいのかも知れないが、私の推考によれば、第十六次遣唐使船団は「南路」を採り五島列島のいずれかの「浦」をめざしたものの、その手前北方の海域で暴風雨に遭い、散りぢりになったのである。
 また、五島新報新聞社の記者と思われる永冶克行氏のメールによると、私が推定した「仮に一日10kmの漂流」ではおそく、東シナ海の潮流はもっと早いと言われる。私の推定はいくつかの東シナ海の海洋気象や遣唐使船の機能などに関する資料等から仮定したに過ぎないが、当らずとも遠からずだと思っていて、それを以て海難の場所を五島列島の手前北方の海域としたのである。

 それから、P16の「風土記の世界」で、風土記には平戸が登場しないことを以て「肥前国松浦郡田浦」は平戸「田ノ浦」ではない傍証にしたいようであるが、風土記の「南路」に登場する五島の「停泊」に久賀島の「田ノ浦」も登場しない。久賀島の「田ノ浦」説は、五島列島中通島の「会蚕田ノ浦」や、福江島岐宿の「川原ノ浦」に遣唐使船が寄泊した記録からの付会(悪く言えば、こじつけ)である。

 P19にある「平戸島はあくまで中継港であった」は、司馬遼太郎(『空海の風景』)の「船団は肥前の海岸を用心ぶかくつたい、平戸島に至った」とシンクロする。しかし、私は「あくまで中継港」ではなく、「第十六次遣唐使船団の場合は、本涯であった」という見方である。平戸「田ノ浦」の大きな入り江は「四つの船」が浮ぶにピッタリのスケールである。

 さらに、P19の「平戸島の可能性は?」にある「七月六日に平戸島を出港して、五島に寄港するまでの間に暴風雨に遭って漂流したため、五島に寄港するきっかけを失し、そのまま唐にたどり着いた」「こう仮定すれば、・・・」は私の推考通りである。ところが、その仮定は無理だとし、その理由に、「五島の島を目指して出港した場合」「その旨をきちんと記して」いて、『六国史』には、「庇良嶋(平戸島)」から出港して「遠値賀嶋」をめざした(延暦24年、冒頭に述べた件)事例と、「松浦郡旻楽埼」をめざした(貞和4年)事例があるのに対し、海難に遭遇した第十六次遣唐使船については「五島を目指したとは書かれていない」、「従って、・・・この仮定の妥当性を類推するのは困難」と言われ、上記の仮定(私の推考と同じ)を否定しておられる。
 時に内海氏が言われる『六国史』というのは、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の総称で、数巻でまとめられた一つの史書ではないので通常『』ではなく「」で表記するべきものである。内海氏は『六国史』としておられるが実際は内容からして『日本後紀』と書くべきである。
 然るに、内海氏の上記の「五島を目指したとは書かれていない」だが、それに該当する藤原葛野麻呂の上奏文(『日本後紀』)の主旨は、遣唐使大使として無事帰国し、大任を果たした旨の報告書であり、そのなかで思わざる海難事故に遭い、唐土上陸にも艱難辛苦したことに触れたもので、遣唐使船の航跡や寄港地の報告書ではない。内海氏の「我田引水」が目立つが、『六国史』などと誤記しているところを見ると、『日本後紀』の当該箇所を実際は見ていないのではないか。学識者ではなく地方のジャーナリスト的な印象がつのる。

 P20の「用語上の区別」で言われる『日本後紀』の「松浦郡庇良嶋」(延暦24年)とその前年の記述である「松浦郡田浦」の、同じ場所かちがう場所かである。内海氏はちがう場所とされるが、冒頭に述べたように、「肥前国松浦郡田浦」は藤原葛野麻呂の上奏にある彼自身の個人的言辞であり、「松浦郡庇良嶋」は官人が記載をした『日本後紀』の公式記録であり、同じ地名がちがう表記で記載されても不思議ではない。

 蛇足ながら、私の知るかぎり、同じ史書の公式記録でも記載した者がちがえば表記が異なり、あるいは事故もなく問題もなく遣唐使派遣が済んだ場合は略記が目立つこともありで、史書の表記は傍証にしかならない。

 以下は、それに近い細かな記載と略記の事例である(『入唐五家傳』(『続群書類聚』第8輯))。

①空海の直弟子實慧の門下で、後に平安京で定額寺となった山科安祥寺の開基である真言僧の恵運は、承和9年(842)、大宰府の「博太津(はかたのつ)」(博多=「那ノ津」)から唐の商人李處人の商船に乗り(平戸「田ノ浦」を経た説あり)、「肥前国松浦郡遠値賀島(五島列島)那留浦(今の奈留港)」に入り、さらに北東の風に乗り六日で温州楽城県付近に到着し、滞在すること五年にして、承和14年(847)6月、明州から西南の風を利用して三日で遠値賀島那留浦に帰着したという。
②空海の弟子真如法親王とともに渡唐した宗叡(のちに東大寺別当・東寺長者となる真言僧)は、貞觀4年(862)、那ノ津の鴻臚館を出て遠値賀島(五島列島)に向い、8月遠値賀島から北東の風に乗って渡海し、四日間は順風であったが最後の一日は強風高波に翻弄されやっと明州付近に着いた。そして貞觀8年(866)の6月(夏)、福州から西南の風に乗り五日で遠値賀島に戻ったという。

 ①は、『入唐五家傳』の「安祥寺惠運傳」で、遣唐使船団の事例ではないが、承和9年(842)、恵運ら入唐留学僧を乗せた唐の商船が大宰府の「博太津」(博多、=那ノ津)を出港して「遠値賀島(五島列島)那留浦(今の奈留島の奈留港)」に入り、また「遠値賀島那留浦」に帰っていることを伝えるものである。
 注目すべきは「肥前国松浦郡遠値賀島那留浦」という地名の表記である。「肥前国松浦郡那留浦」ではなく「遠値賀島(五島列島)」を明記している。これに倣えば、久賀島の「田ノ浦」にも「肥前国松浦郡遠値賀島田浦」という表記が史書にあってもいいのではないかと思うのだが、それがない。
 ②は、『入唐五家傳』の「頭陀親王入唐略記」で、頭陀親王とは真如法親王(空海の弟子)の異名で、高岳親王(平城天皇の第三皇子)のことであるが、「難波ノ津」から大宰府の「鴻臚館」(那ノ津(博多)にあった迎賓館)に入り、そこから「肥前国松浦郡柏島」(唐津沖の神集島)に移り、恵運たちを同船させて来日し「鴻臚館」にいた大唐通事(唐語と日本語の通訳)張支信に命じて船を造らせ、翌年「鴻臚館」から留学僧宗叡らを引率して「遠値賀島(五島列島)」のいずれかの「浦」に向い、そこから東北の風に乗ること四日だったが、一日高波に襲われて難儀したが、やっと明州にたどり着き、4年後の貞観8年(866)6月、西南の順風に乗って「遠値賀島」に戻ったことを伝えている。
 この記述には、「鴻臚館」(那ノ津)⇒「遠値賀島」しか明らかにされていないが、航行性能のいい商船にしても、途中停泊なしに「鴻臚館」(那ノ津)⇒「遠値賀島」といくわけがなく、寄港地は省略されているが、実際は平戸の「田ノ浦」も福江島の「川原ノ浦」か中通島の「合蚕田ノ浦」(相子田ノ浦)か、あるいは19年前に名のある「那留浦」もありであろう。
 この①②の例から、史書の記述には「肥前国松浦郡遠値賀島那留浦」と「遠値賀島」を明記する場合と、「遠値賀島」とだけ書いて具体的な「浦」名を省略する(明記しなくても官人たちにはわかっていた)場合があることがわかる。「遠値賀島」だけの場合は、史書の記載者(官人)にとって「浦」の名は言わずもがなのことだったのだろう。
 遣唐使船の事跡や航跡を一例一例古文献によって確認してみたところ、海難事故や人為事故がなく、往復とも順調に推移した場合は、せいぜい「難波ノ津」から出たとか「筑紫」「鴻臚館」(博多、=「那ノ津」)から出たくらいの記述で、どこに寄港したかは省略されている。

 同じページの「遣唐使以後の歴史」で、「平戸島・田ノ浦に関しては、遣唐使の大陸との交通に残した足跡を見つけ出せない」「(平戸島の)北端に位置する田ノ浦は全く歴史に登場してこない」というのも問題で、「肥前国松浦郡田浦」は久賀島の「田ノ浦」だという積極的な傍証にはならない。
 平戸島の交易の歴史を調べてみると、古い時代から新羅や唐との船の往来が盛んで、大陸との交易の拠点であった「那ノ津」(「博太津」、今の博多)に近いことも重ね合わせると、同じ九州北部(日本海側)の平戸「田ノ浦」は遣唐使船が出入りする公式記録が史書に載らないまでも、入唐する官人や留学生を乗せた新羅や唐の商船(民間の船)の出入りがしばしばあったことは想像に難くない。

 以上、「肥前国松浦郡田浦」について再論してみたが、久賀島か平戸島かの特定は、史書などからの傍証・推考による限り最終決着はしない。然らば、どちらが有力か、あるいは信憑性が高いか、という程度の差をさらに求めるとするならば、「四つの船」が遭難をした海域の推定もあるいは物理的・数値的でいいかも知れない。
 私は先に紹介した自著で「四つの船」遭難の海域を推定してみたが、もっと専門的で具体的で説得力のある篤学士の推考を待ちたいと思っている。ただし、久賀島説を採ると赤岸鎭に漂着するまでの漂流日数が問題になることを提起しておきたい。

 加えて、久賀島説の場合、久賀島「田ノ浦」を第一船・第二船とともに出た第三船・第四船が、海難に遭いなぜ「那ノ津」(博多)に引き返したのか、なぜ出発した久賀島「田ノ浦」に緊急避難し、船体が痛み食糧を失くしたとしたら「田ノ浦」で船体修理・食糧補充をし、すぐに再出発しなかったのか、という視点もあっていいだろう。

 すなわち、久賀島「田ノ浦」を最後に福江島の沖合を進んで大海に入ったとしたら、暴風雨に遭った海域は半ば東シナ海にさしかかっていたことが推定され、仮に船体が痛み食糧などをほとんど失ったとしても「那ノ津」には引き返さず、そのまま漂流してでも唐土をめざすことが遣唐使船の常道であり、東シナ海にさしかかった海域から「那ノ津」に引き返すことは通常ありえないのだが、第三船・第四船は「那ノ津」に引き返している。
 私の推定では、第三船・第四船を含む「四つの船」が暴風雨に遭ったのは東シナ海にさしかかった海域ではなく、平戸の「田ノ浦」を出てまもない「生月島」や「宇久島」の付近であり、そこから痛んだ船体・食糧不足のまま遠い唐土をめざすのは危険で、やむなく船体修理・食糧補充などのために「那ノ津」に引き返したのである。

 これを要すれば、第三船・第四船の動向からして「四つの船」が海難に遭遇したのは平戸の「田ノ浦」に近い海域であり、従って「四つの船」は五島列島の久賀島までは行っておらず、最終寄港地はやはり平戸の「田ノ浦」だったということである。第三船が翌年(延暦24年)「庇良嶋」(平戸島(「田ノ浦」))から再出発していることは、前年(延暦23年)の第十六次遣唐使船団の「四つの船」の最終寄港地も平戸(「田ノ浦」)であったことを暗示している。

<久賀島の田ノ浦>

久賀島 田ノ浦湾(友人提供)
久賀島 田ノ浦湾(友人提供)
久賀島 田ノ浦町(Wikipedia)
久賀島 田ノ浦町
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久賀島 五輪集落(Wikipedia)
久賀島 五輪集落
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久賀島 大開集落(Wikipedia)
久賀島 大開集落
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久賀島 蕨集落(Wikipedia)
久賀島 蕨集落
Photo by Indiana jo via Wikipedia
久賀島 浜脇集落(Wikipedia)
久賀島 浜脇集落
Photo by Indiana jo via Wikipedia

<平戸の田ノ浦>

平戸 田ノ浦の入江(筆者撮影)
平戸 田ノ浦の入江(筆者撮影)
平戸 田ノ浦の入り江、左が渡唐大師像が立つ高台(筆者撮影)
平戸 田ノ浦の入り江、左が渡唐大師像が立つ高台(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 高台の渡唐大師像(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 高台の渡唐大師像(筆者撮影)
平戸 田ノ浦、高台の崎に立つ渡唐大師像(筆者撮影)
平戸 田ノ浦、高台の崎に立つ渡唐大師像(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 解纜の地記念碑前礼拝堂(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 解纜の地記念碑前礼拝堂(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 解纜の地記念碑(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 解纜の地記念碑(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 空海腰掛石(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 空海腰掛石(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 舫の木(筆者撮影)
平戸 田ノ浦 舫の木(筆者撮影)

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