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空と海と風と 夫婦で愉しむ道草遍路  第四十四回

★空海と鎮護国家-司馬遼太郎の国家観と空海の生涯ー

 私たちはこれより空海の墓に向かう。道すがら空海の後半生を概観してみよう。
 帰国後の空海に、突如京の高雄山寺に居を移すよう朝命が下ったのは大同4年(809)のことである。空海36歳、ついに入京する。空海が歴史の表舞台に躍り出るのは実にこの時からであった。

 大同4年は嵯峨天皇が即位した年でもあったが、翌弘仁元年(810)薬子の乱勃発。政情は一時不安定となる。薬子の乱(実際は平城上皇の乱)はすぐに鎮静するが、このあたりから嵯峨天皇は空海を盛んに呼び寄せている。天皇の空海への信任は厚く、この関係は生涯変わることがなかった。これが戦後のインテリによって空海が天皇におもねたという空海俗物説が流布されるところであろう。

 司馬遼太郎ですらそう見えたようである。小説では、薬子の乱のあと、空海は高雄山寺で国家鎮護を祈ったことになっている。事実祈ったのではあるが、これは空海によほど詳しくなければわからない事歴である。司馬はこの事実をクローズアップして、権力を利用する空海像を執拗に描いている。そこでのテーマは鎮護国家を説く空海の政治力と人間性である。

 しかし、一般に密教と鎮護国家を連想させるのは教王護国寺のほうである。京都の最大の官寺を空海が教王護国寺と命名して、都における活動拠点にしたことは空海の事歴には必ず載せられている特筆すべきものである。だが司馬は、長安を陥落させた安禄山ノ乱を鎮める不空三蔵(密教第六祖)に着目し、安禄山ノ乱と薬子の乱、不空と自分を重ねる空海を描き出している。つまり、薬子の乱を奇貨として、権力に食い込む空海を描きたいがために高雄山寺の空海の事歴を紹介しているのである。『空海の風景』をのぞいてみよう。

―高雄山寺にいる空海は、この薬子の事件を大きく評価した。大きく評価することで、空海はこの国において密教勢力を飛躍せしめる契機にしようとした。―略―「安禄山ノ乱に似ている」と、空海は、爾後かれがとった大がかりな行動から遡ればそう思ったことは、どうやらまぎれもない―

 玄宗皇帝と楊貴妃を追放した中国の大戦乱と天皇家の内輪もめとを、空海の頭の中でダブらせる歴史作家もどうかと思うが、「しかしながら空海はこれを安禄山ノ乱と見、不空とおなじことをやった」(『空海の風景』)となるのである。

 事件の結末は嵯峨天皇の穏便な処置で死罪もなく、連座した役人が左遷された程度である。日本人同士の争いはもともと大陸とは規模も残酷さも違う。小説の中で、ほとんど空海と関係のない中国の権力闘争の歴史を延々と書きつらねる彼の精力から、司馬の鎮護国家に対する嫌悪感が感じられる。あとで触れるが、これは司馬が(そして我々も)空海を知らなすぎるからである。

 さて、空海は37歳の若さで東大寺の別当に任じられている。異例の抜擢である。最澄によって封じ込められていた旧奈良勢力が、一時的にせよ奈良仏教の最大の拠点である東大寺の長官に密教の空海を配すという尋常ならざる人事は、守旧派の政治的な思惑だけではない。奈良の長老たちと宥和する空海の政治性もうかがわれる。また、彼の卓抜した情勢判断や処世手腕も確かに感じられる。司馬の眼はこのあたりの空海の人間像に鋭く迫っている。

 だが私は、それだけが空海とは思えない。例えば梅原猛氏が「選別の最澄に対して和合の空海」と比すとき、空海の精神は煩瑣な世事を突き抜けたところで働いていたように思われる。彼の包容力は浮世の清濁を合わせ飲む「仏の世界」の包容力であり、そこに空海の不動心が座っていたように思う。若年空海が東大寺の別当に配されたのは、時代の要請よりも、むしろある種のカリスマ性ではなかったか。

 奈良勢力が空海の傘下に収まったもう一つの要因は、密教が奈良六宗と教義の上からも矛盾がなかったからである。ほとんど多神教ともいえる正密の包容力が奈良六宗を十分に包摂できたからである。むろん、豪族や貴族に密教の現世利益が歓迎されたという側面も見逃せないだろう。いずれにしろ、天、地、人の好機が待ちかまえていたかのようにこの時期の空海に集中している。

 歴史上に空海を立たせて見れば、中央政界に渦巻く権謀術数と、それに身をかわしつつ登りつめていく空海の風景が遠望できる。そのあたりの空海については、司馬遼太郎の筆は冴えわたっている。まるで政局の裏事情をリアルタイムでスクープ報道する政治部の記者さながらである。

 38歳、山城国乙訓寺別当。39歳、高雄山寺で最澄ほか3名に灌頂を授ける。このことが空海が日本密教の最高権威であることを天下に知らしめることになる。43歳、宿願の高野山の開創に着手する。この頃『弁顕密二教論』『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』などを著し、精力的な執筆活動をする。

 44歳、高野山開創が本格化。46歳、高野の大塔の心柱の切り出し。金剛峯寺と名付ける。『文鏡秘府論』高野にて著す。47歳『文筆眼心抄』執筆。翌年満濃池の改修工事。一方『真言付法伝』の執筆。49歳、東大寺に真言院建立。50歳、嵯峨天皇より「東寺」を賜り「教王護国寺」と命名する。

 さて、ここにもう一つ後世の空海の受難がある。この寺号からもうかがわれるように、空海には護国思想があった。これは釈迦の原始仏教にはないだけに非仏教的でもあり権力の臭いさえ感じらる。これがまた左派インテリの受け入れがたいところであり、進歩的知識人が空海を嫌う最大の理由であろう。

 司馬はどう書いているか。

―空海は、本来原始仏教が積極的に触れることをしなかった『国家』というものを、教説の面でも前面に出し、むしろ高唱した。かれのいうところの正密は宇宙の理をあらわし人間を即身成仏せしめるだけでなく、ひどく次元のちがう主題だが、鎮護国家をも目的としている。(略)王ヲ教ヘ国ヲ護ル、などといういかかがわしさは釈迦がきけばどう思うであろう。そのことは、しばらく措く―

として空海の精神世界に入っていく。彼は当たっているところもあれば、外れているところもあるように思われる。

 司馬は「空海はすでに人間とか人類に共通する原理を知った」と言う(これは当たっている)。また「空海だけが民族社会的な存在ではなく、人類的な存在であった」と言う(これは間違っている)。
 司馬にそう見えるのは、次のような考えにもとづいている。

―仏教というものが万人にとっての普遍的思想である以上、これを体得すれば精神も肉体も普遍的思想そのものに化り、日本にいようがアフリカ大陸にいようが、あるいはいついかなる時代に存在しても通用してゆくはずのものであるのに、しかし日本という環境のなかでの思想習慣がそうさせるのか、容易に人類的人間というものを成立させない。このことは、例を仏教にとらずに、いっそ近世や近代の思想家の何人かを例として思い浮かべれば、わかるかも知れない。山鹿素行も本居宣長も平田篤胤も西郷隆盛もやはり日本の何某であり、かれらをアフリカ社会に住まわせて通用させることはできず、内村鑑三も吉野作造も、その時代における日本的条件のなかでかまけざるを得ず、人類的人間に飛躍できなかっただけでなく、あるいは飛躍しようとも思わなかった。このように考えてくると、空海の存在は、この国の社会と歴史のなかで、よほど珍奇なものであったことがわかる―

 はたして空海は民族社会的な存在ではなく、ただ人類的な存在であったのだろうか? もしそうであれば空海はインターナショナル(社会主義者)でありアナーキスト(無政府主義者)に近い唯一の日本人となってくる。空海に感じるこの人類的存在こそ司馬が空海に魅かれた理由であったようにも思われるが、とすれば「教王護国」や「国家鎮護」という民族国家的な宗教行為を司馬はどのように考えるのだろうか。

―たとえば空海はのちの嵯峨天皇との交友においても嗅ぎとれるように、自分と天皇との関係を対等というより、内心は相手を手でころがして土でもまるめるようなつもりでいたらしい気配がある。しかし露骨にそれをあらわせば地上の権力というものは何を仕出かすかわからないために、自分の密教をもって鎮護国家を説き、あるいは教王護国などといって恩を売りつけ、地上の権力を自分の道具として思想の宣布(傍点筆者)をはかろうとした。このことは、唐の玄宗皇帝に対する西域僧不空のやり方とそっくりであるといっていい―

と、このように整合させるのである。司馬の筆は冴えわたる。

 玄肪(~746)、道鏡(~772)など、権力と政争に狂った悪名高き僧を他山の石とする空海や、玄宗皇帝にとり入って安禄山の乱を鎮圧する不空に、自らをなぞらえて薬子の乱を鎮める空海の姿を、その豊富な歴史知識を駆使して、ある意味では見事な(歴史上)の空海を浮き彫りにする。

 だが、ここに描かれる空海は深慮遠謀に丈た野心家のようである。桓武、平城、嵯峨天皇も同様に生身の人間として見ている。むろん天皇も一人の人間には相違ないが、日本文化としての天皇と、神仏習合を推進する空海の問題意識が「教王護国」に全く反映されていなければ、天皇も空海もただ個人的権力欲のために国家を利用したことになる。

 はたしてこれが平安時代の日本人であったのか。350年間という戦乱のない平和な時代を築いた日本の文化なのだろうか。平安時代350年、江戸時代250年という長きにわたる平和な状態は世界史に類例のないことである。

 百歩譲って「教王護国」が宗教権力を得る自己目的としよう。ならば、次に何のために? という疑問がわくはずであろう。普通の日本人なら誰でも「布教のために」という答えが浮かび上がる。その先には「衆生済度のために」という仏教目的を思い浮かべるはずである。「思想の宣布のため」ではあるまい。空海は僧である。だが、いみじくも山鹿素行や本居宣長や平田篤胤や吉野作造などと比較するあたり、司馬は空海をどこかしら「思想家」と見なしていることがわかる。

 繰り返すが、空海は生涯仏道に生きた僧である。ならば宗教が国家行政と交わる一点は、済生利民という大乗仏教の使命を果たそうとするときであろう。空海を描こうとするほどの作家ならば、そこからスタートすべきではあるまいか。それが仏陀を求めた人間空海を描くことになるのではないだろうか。

 いうまでもなく宗教とは「自己の問題」である。例えば遠藤周作が『イエス』を書くのは、クリスチャンである彼の心の葛藤が、イエスに切実に問いかけるところに彼の作品『イエス』が生まれた。苦悩のない人間には宗教は必要ない。何がしか自己の悩みと関わるところに、あるいはイエスに接近し、親鸞に涙し、法然の心を自分のものとして描き出すのではないだろうか。宗教小説とは本来そういうものではないだろうか。

 司馬は空海を黙殺した左派インテリよりもよほどましではあるが、空海が人類的人間だとしても、空海が民族性から乖離しているとは私には思えない。もしそうなら、どうして1200年もの間日本の庶民に親しまれてきたのか。最初に語ったように、私は大師信者ではない。だが一人の日本人空海を追い続けた結果、彼に最も強く感じてきたものは、まさに濃厚なる「民族性」であった。

 ルース・ベネディクトは日本人の「珍奇さ」を「菊と刀」という言葉で分析したが、日本人は本来菊の耽美と刀の野蛮を矛盾なく同居させ、しかも一つの思想に統一する天才的なところがある。原始仏教の非現実性を一気に超現実につなぐこともする。空海密教はまさにそれをやった。理想としての仏陀と、現実としての人間が本質的に同一であるとする空海密教からすれば、鎮護国家という世俗も何ら矛盾しなかった。空海は国家を安泰させなければ、社会秩序も、そして何より戦乱から民衆を守ることができぬという明確な意識をもっていたのであろう。

 司馬も我々も安易に鎮護国家という言葉を使い、平安仏教イコール鎮護国家だと思う。五木氏さえ仏教は民草のものだと言う。しかし、空海の鎮護国家とは「民草のための鎮護国家」であるといってよい。これは宮坂宥勝博士が明らかにされていることであるが、空海の護国思想とは、
「ただ国家を鎮押し黎元(人民)を利済するにあり」『秘蔵宝鑰』
「国を鎮め民を安ず」『金剛峯寺を建立する最初に鎮守を啓白の文』
「国を鎮め人を利するの宝」『請来目録』等々である。
 すなわち、空海が国家という場合には、必ず人民を含んでいるのである。そもそも鎮護国家なる用語は空海のいかなる著述にもない。人民を抑圧する権力装置としての国家観は階級闘争史観である。司馬は近代国家が頭にあったのだろうが、それと古代日本の国家概念を重ねては日本人を描いたことにはならないだろう。

 さて、平安京を代表する宗教者になった空海はさまざまな宗教行事や社会事業に出仕する。「教王護国」の管理運営をする一方で、私寺「金剛峯寺」における真言密教の確立とで、当時は京都と高野山を往復する最も忙しい頃であった。
 51歳で少僧都に任ぜられ、54歳で官僧の最高位である大僧都に任じられる。翌年庶民の学校「綜芸種智院」創設。57歳、『秘密曼荼羅十住心論』十巻、『秘蔵宝鑰』三巻などを著す。空海の著作はその他『般若心経秘鍵』など、各経典の開題(解説書)や『執筆法使筆法』等、字の書き方に関する著作、文章の書き方に関するもの、辞書、内典、外典、詩文集や口述書まで含めると、実に莫大で、まさに超人的である。

 59歳、全ての官職を辞退し、一切を天皇に返上した空海は京都を離れ高野山に隠栖する。
「吾れ、去んじ天長九年十一月十二日より、深く穀味を厭ひ、専ら座禅を好む。皆これ、令法久住の勝計ならびに末世後生の弟子門徒等の為なり。まさに今、諸々の弟子等、諦かに聴け。吾れ生期、今、いくばくならず。仁等、好く住して慎んで教法を守れ。吾れ永く山に帰らん」『御遺告』

 承和二年(835)62歳、空海は弟子たちの懇願を諭して独り石室に入り、食を絶って静かに入定されたと伝えられている。弘法大師の諡号(しごう)が醍醐天皇よりおくられたのは、延喜三年(921)十月のことであった。

 ごく主な事歴を追ってみても、空海の後半生はまるで怒涛のように時代を駈け抜けた観がある。その間、各地の巡錫伝承を加えると、まさに弘法大師は神出鬼没であり、一体空海は一人であったのか、それとも複数いたのか、その多彩な才能と行動力はとても一代の人間の生涯とは思えないほどである。この高野山は、そういう空海が国家安泰と済世利民を祈って、その意志を受け継ぐ弟子たちのために開いた修行の道場である。
 空海の墓に近いづいてきた。向こうに一の橋が見える。


★一の橋

 ゴールデンウィークのためか高野山はどこもかしこも多くの参詣客で賑わっている。お遍路さんの姿も混じっている。さすが真言宗3600ヶ寺の総本山金剛峰寺のある門前町である。私と妻はパリッと洗い立てた笈摺を着ている。何しろこれから奥の院の空海に対面するのである。妻は千羽鶴を携えている。「弘法大師御廟」に奉納するために毎晩折っていたのだ。

 笈摺の下の妻の色が消えている。今日は見事な白装束である。私もそうである。別に申し合わせたわけではないが、二人は今朝の勤行から白無垢姿になっていた。四国を回っているうちに色が消えてしまったようである。晴々とした春の陽気を浴びながら一の橋口へと向かって歩いた。

 愛媛県の作家早坂暁氏が、昨年末、NHKの「四国八十八か所」
の最終放送で、四国遍路はかつてのように苦しみの救済や願掛けの旅から、現代は自己発見の新しい型の旅に変わってきたと言っていた。自分とは何か、日本人とは何かが1000年を経て現れてきたと言う。2000年期に入って新しい遍路が生れてきた。日本人を知りたければ四国にくればわかる。四国を歩けば喜びも悲しみもわかると語っていた。

 私たちも新しい型の遍路だったのかもしれない。当初はそのようなつもりは全くなかったが、結局私の遍路も自分に還る旅であり、日本人を再発見する旅になったようだ。私も日本人を知りたければ一度四国を回るのがいいと思う。そこは空海の故郷、即ち神仏習合が息づく日本人の古里の島である。

 明治の廃仏毀釈は日本人から宗教を奪い、戦後は道徳を取り去ったといわれる。空海の興した真言宗は神仏習合を推進した主役でもあったが、廃仏毀釈によってこの国の仏はことごとく排斥された。各宗派を通してもっとも打撃を受けたのは真言宗であったといわれている。

 西欧を擬した天皇一神教が近代国家形成の急務であったにせよ、この国の壮大な仏教哲学は、先祖供養と葬式仏教に矮小化され、同時に仏教と融合したおおらかな古神道は国家神道に変質変形された。廃仏毀釈が日本人の心から宗教を奪ったと言われるゆえんである。

 そして戦後は日本人の心から道徳心を消し去った。第二の廃仏毀釈の嵐、それが占領軍による「神道指令」であった。国家神道を解体することによって、国民の精神的支柱を破壊し、教育勅語を廃止することによって道徳の拠り所を奪い去った。これらの国体破壊政策を勝戦国は「文明の裁き」(東京軍事裁判)であるという。文明国に刃向かう未開の国はプルトニウムの実験国とされてもしかたがなかったという理屈である。

 日本は「平和に対する罪」を犯した国際上否定されるべき犯罪国家であるからだ。そんな国に礼節を守る国民などまともに育たないだろう。罪悪史観のみ教えられてきて五十余年、ついに日本人の道徳心は薄れていった。トップから末端まで、日々新聞紙上を賑わす「あきれた事件」を見るたびに、とうとう人格崩壊が始まったとしみじみ思う。

 戦後の拠り所は反戦平和主義とヒューマニズムと個人主義である。結局今日日本人が抱く倫理価値とは生活者の心情のことである。それは国籍不明のピープル(人民)の心情でもある。故国の歴史や伝統や規範をもたぬ根なし草のピープルにとって「旅の恥はかき捨て」でよいのかもしれぬが、放浪者にもただ一つ欠かせないものがある。それが金銭である。もし我々がそのためだけに生きるのならば、私たちはカネの奴隷ではないだろうか。きっとこれが極東の野蛮な国を文明国?に仕立て上げた世界戦略なのであろう。

 我々の精神文化が屈したものの正体が、国際金融資本と欲望の原理だったとすればあまりにも淋しいことである。そしてこの先日本が失うものは経済大国の地位であろう。破壊の中から健気に立ち上がって築いてきた平和と経済の国も、すでに650兆円をも超える累積赤字を抱ている。近い将来には国家経済がクラッシュすると騒がれている。最後の支えであるカネを失ったとき、
日本人は何にすがって生きていけばよいのだろうか。

一の橋に着いた。
 この橋を渡れば弘法大師御廟のある奥の院へと参道が続いている。
多くの参詣客で賑わっている参道の入り口を眺めながら妻が言う。

「漠とした不安ね。芥川龍之介のいう漠とした不安が今の日本人の
心を覆っているのね。経済不況は底を突いたって政府は言うけど、
経済評論家は景気が回復しないのは個人消費が伸びないからだって言っているわ。将来に不安を感じてみんな貯蓄に回しているんだって」
「不安の原因をただ経済不安にだけ見るか」
「本当の原因は人間不信なのよ」
「その通りだ。それが漠然とした社会不安なのさ」
「本当はお金じゃないのよ。昔は今よりも遥かに貧しかったのに、漠とした不安はなかったと思うわ。ハッキリとした不安はあったけどね」
「明日食う米が買えないとか...」
「そう、その代り人間のきずなが強かったから今の日本人の感じるような不安はなかったと思うの。途上国の人たちは貧しくても目は輝いている人が多いじゃない。きっと家族のきずなが強いからだと思うの」
「モノ、カネは豊かになったのに皮肉だね。今の日本では生きていくことぐらいできるのに、失業だけで自殺しちゃうんだ。今年の中高年の自殺は戦後最高だってよ」
「今のお年寄りは最終的な支えは妻であり夫だと言う人がまだ多いそうよ。もう子どもだとは言わないけどね。私たちの世代は妻や夫とも言わないのじゃないかしら」
「だからカネしかないか」
「だから貯蓄するしかないのよ。日本人は本当の不安を見据える勇気と、それを克服する方法を見失っているんじゃないのかしら」
「それがわかっていないから子どもにも伝えることができない。家庭崩壊の原因はそこにもあるんだがなあ。今漠とした不安を抱えているのは、本当は若者や子どもなんだ」
「モノやお金を与えても、子どもの不安に真剣に向き合う親が少ないのね」
「この間、僕らの世代に近いある流行作家が、子どもにどう生きたらよいかと質問されたとき、僕はそれに対して答えるべき言葉をもっていないなんて妙なことを言ってたよ。看護婦さんになるにはどうすればいいかというような質問には答えられるが、生きる目的には答えられないんだって。これが戦後教育で育った作家なんだなあと思ったよ」
「それじゃ知識や情報をもたない祖父母は、孫に人の生き方について何も教えられないことになるわよ」
「大人が生きる価値を信じてみせなければ、子どもは何も信じられなくなるじゃないか。僕は答えるべき言葉をもたないなんて、生身の人間として子どもと向き合っているようでいて、それはどこか大人としての責任を放棄した物言いに聞こえる。生きる意味を必死でさがすのが文学じゃなかったのか。昔の親たちもきっと一人の人間としてはゆらいでいただろうが、子どもの前では懸命にやせ我慢をして、父親として、母親として、つまり大人としての役割を演じていたんじゃないのかなあ」
「そういう大人に囲まれていれば子どもは安心するものよ」
「友達家族だなんて嫌な言葉だね」
「家族が友達になれば、それは他人の関係よ。だから今の子どもは親の前でいい子を必死で演じるのよ。きっとどこかで仮面をつけて。可哀想に...」
「五木さんも人生に目的はないなんて言うがね。それが人生論として若者に語るべきメッセージだろうかね。共感共苦は社会に訴えるよりも先に、家族の中で築くべきで、まず家族愛を育てることだと教えるべきじゃないか」
「その大黒柱は夫婦のきずなね。夫婦の信頼が家族の信頼となって、共感共苦の連帯に広がっていくのよ。不安や困難を乗り切る力になるのよ。逞しい和魂、それはそうやって築かれた日本人同士の信頼だと思うわよ。私、高野山に来た目的はただひとつ。空海を起こしに来たの。日本が大変な時に、アンタいつまで奥の院で眠っているのって」
「オオッすげえな。オレも空海のパワーを引き出しに来たんだぞ。バブル以降あらゆるものが崩壊したが、最も恐ろしいのは信頼社会の崩壊だよ。五木さんは、作家は憑代、シャーマンとして時代の声なき声に揺り動かされて仕事をするものだと言うがね。シャーマンの本当の役目は未来の予知と未来を拓く智恵の預言だと思う」
「そのためには不安を真正面から見据えることよ。前方に伸びている自分の黒い影を勇気をもって見ることなの。向きを変えて太陽を背にすることよ。漠とした不安は輪郭をもった等身大の不安に変わるもの」
「司馬さんの歴史小説が日本の政治家や企業家に受けたのは、ジャパン・アズ・ナンバーワンの頃だった。下瀬火薬を発明した日本帝国海軍が大国ロシアのバルチック艦隊を破る物語に、日本の経営者はみんな元気づけられて坂の上の雲を目指したものなあ。でも今は外に出るときじゃない。日本は今後十年ぐらいは足元を見詰め直すべきだ。それから討って出ていっても遅くないと思う」
「そうね。明治も戦後も、足元を固める間もなく外向きの生き方をしてきたけど、同じ失敗を三度繰り返しちゃだめよ。日本の歴史は頂点を極めたときにいつも崩壊するもの」
「それには知識や情報ばかりじゃなく、それを活かす智恵のある日本人を育てることだな」
「お遍路さんは大日如来を背負って、きっと等身大の自分の影を見つめながら歩いているのね」
「まだこういう日本人がいるうちに、日本を再生させてくれって空海に頼んでくるんだ。この国のリーダーたちがいつまでもアホなことをやり続けていると、今に火の国が怒って本当の火を吹き上げてしまうぞ」

一の橋を渡るとすぐに欝蒼とした杉木立の参道に入った。ここから約2キロ、何百年も経た老杉の立ち並ぶ中、石畳の参道が延々と続く。これより高野山の最大の霊域に入る。

 まず日本海軍の戦没者供養塔があったのでお参りをした。歩いて行くほどに参道の両側には続々と石塔が現れ、もの凄い数の墓が立ち並んでいる。その数20万基以上といわれるここ高野山の菩堤所は日本最大の死者の霊場である。
苔むした巨大な大名供養塔の五輪塔婆は百十基。曾我兄弟のもある。平敦盛を討ち取った熊谷直実の供養塔は若き敦盛と共に身を寄せ合って立っている。武田信玄も上杉謙信も、織田信長も明知光秀も、かつて敵味方に分かれて争った武士たちがことごとく同じ墓所に祀られている。

中の橋を過ぎるとまもなく「高麗陣敵味方供養碑」が左手にあった。秀吉の令によって高麗国(朝鮮)に軍を進めた薩摩の島津義弘によって、敵味方の戦死将兵供養のために建立されたものである。

「高野山って素晴らしわね」
「ほんとうだね。死ねば敵も味方もない。この日本人の精神は空海の墓所に来て実感するね。宗派を越え、民族を越えて一つに祀るなんて、やっぱり高野山は空海の魂が生きているんだなあ。真言宗っていう一宗派の問題じゃなくて、日本人の心を汲み取った空海の精神なんだなあ。この参道を歩くとイデオロギーなんていうものがいかに小さいものかってことがわかるなあ」
「以前沖縄の摩文仁の丘に行ったでしょう」
「ああ平和の石礎があるところだね」
「あそこは沖縄戦で犠牲になった県民も、敵味方に分かれて戦った日米の将兵も、在日朝鮮人も東南アジアの人もわけへだてなく祀られていたでしょう。筑紫哲也さんは、ニュース23でことあるごとに平和の石礎を取り上げて、反戦平和を世界にアピールするけど、その精神のルーツは高野山にあるじゃないの。摩文仁の丘は沖縄の高野山なのね」
「だけど彼はこれまで一度も弘法大師の高野山には目を向けようとはしないね。きっと空海が天皇と結び付いた一点で否定するんだ。沖縄の摩文仁の丘ばかり称賛するのは、やっぱりイデオロギーの色眼鏡で見ているんだなあ」
「あれはイデオロギーじゃなく沖縄人の心なのよ。敵味方が祀られているこの奥の院を見ればわかるわ。これは日本人の心なのよ」
「靖国神社の問題も同じだね。A級戦犯が現世で犯した罪は、現世で処刑という責任をとったことで償ったんだ。日本人はもともと死後の世界まで追いかけるようなしつこさはない。死ねばみんな仏として手厚く祀る文化なんだ。処刑してもなお罪を追及するという精神は、懲役200年なんていうどこかの国みたいだね」
「過去を忘れてはいけないけど、一歩間違えると次の争いの因を育てることになるのよ。でもこれは日本以外の原理主義的な考えよ。だから西洋は戦争が絶えなかったじゃないの。知識人はA級戦犯へ恨みを忘れないことが平和への道だと勘違いしてるのよ。日本は勝者が敗者を祀ることで解決してきたわ。もし蘇我氏と物部氏の宗教戦争や戦国時代の敵味方が怨念の尾を引けば、世界に類のない国内的な平和があったかどうか」
「そうだ。空海はそういう日本人の心がわかったから神仏習合をやったんだろうね。それに不戦の決意は自分自身の信念の問題で、死者を鞭打つことによって確認し合う問題じゃない」
「あなたは右翼だか左翼だかわからないわね」
「それはね。イデオロギーの左翼と、実存の左翼との違いなんだ。宿命を背負って発言するか。自分と直接かかわりのないところでものを言うかの違いなんだ。オレは右翼に見えるかもしれないが、冗談じゃない。オレは究極の左翼だ。なぜなら15歳から働いてきたんだ。複雑な家庭にいるのも嫌で、貧しかったし、母親に苦労をかけるのが辛くて、一人で生きていく道を探したとき、給料もくれて学校も出してくれる自衛隊しかなかった。だから四国を捨てて好きな海に飛び出したんだ。大学も自力で出て、今日まで這いつくばって生きてきたオレは実存の左翼だと思っている」
「同時に究極の右翼ね」
「そうさ。進歩的文化人は国家主義者を右翼だというが、あれはオレから見れば右翼じゃない。陸大出身のエリート軍人は右翼モドキだ。戦前はファシストが日本を破滅させたというのなら、戦後はマルキシズムを歓迎したインテリ左翼たちがこの国を滅ぼすんだ。ガイドライン問題が浮上したときなど軍事大国化を牽制して必ずいつか来た道を言い出すが、歴史が全く同じ形で再現するものか。歴史は姿を変えて繰り返すのだ」
「55年前は右翼モドキによる国の破滅。戦後は左翼モドキによる精神の破壊だと言いたいのね」
「そうだ。僕たち庶民はここのところを腹に収めて、なまじリーダーなんかに頼らずに独立独歩で生きるしかないんだ。いいやそうすべきなんだ」
「実存の右翼も実存の左翼も、現実において必要上そうしているから自己破滅には至らない。つまりバーチャル化しないってことなのね」
「その通りだ。政治は幻想化したときに自己破滅するんだ。神州不滅を信じて空しい万歳突撃を繰り返した戦争末期の陸軍がそうだろう。宗教もバーチャル化したときに破滅するんだ。狂信的なオウムも全共闘運動もそうだ。教義やイデオロギーに吸い取られたとき、人間は自己を見失うんだ」
「そして幻想化したモドキ集団は破滅するまで突き進むのよね」
「だからお釈迦さんは自己を法とせよ。空海は仏は自己の中にあると教えるんだよ。イエスもみんなリアリストなんだよ」
「超現実主義者は超理想主義者になるから宗教的になるのよね」

 空海は密教とともに思想界で黙殺されてきた。その理由は空海が実存のスーパー右翼であり、同時にスーパー左翼であったから、左右のモドキのインテリには理解できなかったのであろう。空海は体制的であり同時に反体制的である。前者は京の官寺「教王護国寺」の別当を勤める空海である。後者は高野の山奥で独座する空海である。空海密教は非庶民性と庶民性、律令性と反律令性が明確に二分され、かつ同居している。そして高野山は庶民信仰の対象となって隆盛してきた。

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