エンサイクロメディア空海 21世紀を生きる<空海する>知恵と方法のネット誌

空海を歩く

トップページ > 空海を歩く > 空海の原郷「ヤマ」 > 大峯修験−即身成仏の実修練行

大峯修験−即身成仏の実修練行

岡野忠正(真言宗智山派金剛寺住職)

 
―実は「大峯」という特定の山はないんです。南は熊野から北は吉野までの連峰を総称して
  「大峯」というのです―
―修験道は、「極不二(理智不二)に始まり極不二に到る」修行得験の道なのです。
  その修行と実践は「即身即仏」という理念に貫かれています―
―意外かも知れませんが、修験道の本尊は、不動明王でもなく、蔵王権現でもなく、実は
  大日如来なのです―と、二十五年以上に亙る當山派修験道の修行と研鑽を重ねてきた
  ある真言僧は熱っぽく語る。
 
宗教学者の正木 晃氏は、<二十一世紀型宗教の五条件>として、次のことを挙げている。

参加型の宗教
実践の宗教
心と体の宗教
自然とかかわる宗教
包容力のある宗教
 
 そして正木氏は、この五条件を日本の仏教に期待することでもあるとし、この条件を満たす宗教の筆頭に修験道を挙げているのである。

 さて、修験道には所依の経典というものがない。修験道の入門指導に用いられている『修験道雑記』には、修験道においては、諸経論の何ものにも依らないのを本義とする。
 「何を以って所依と為すかと云うに、嶮嶽に攀じ登り崖洞に寝て実修練行し、吾々行者の肉身が即ち本有本来の仏身なりと観じて、樹頭に吹く風に響き、岸に打ち寄せる波音、一切法界の音声にして、吾々の言語も悉く大日如来の説法であり、森々たる嶺嶽、鬱々たる巖洞は悉く皆曼荼で、山川草木は皆大日の直体なりとの観念に住するが故に、諸経論に依る必要がないのである。諸経論は理論であって、実修は其の実体である。修験は理論はぬきにして実際のみを行わんとするところに、諸宗との異なりがある」(元漢文)と、述べられている。
 本稿の表題は「大峯修験」としてあるが、修験道は、われわれ真言宗の僧侶が想像するよりはるかに膨大な体系を持っている。従って、誌面上にその全貌を述べるのは不可能ではあるが、この機会に真言系の「當山派」の大峯修行の内容を概略的に紹介しておきたい。大徳諸師の修験道理解の一端となれば幸いである。

 
◆その歴史

 明治五年、明治政府が「修験道廃止令」を発布したために、修験道が瀕死の状態に追い込まれたことを知る人は少ない。それから百三十年、先徳先師の懸命の努力によって復興しつつあることを知る人も少ない。

(一)役行者(神変大菩薩)
 修験道の開祖は、神変大菩薩と尊称される役行者(役小角)である。役行者については、『日本霊異記』や『元享釋書』などに伝奇的に記述されているが、生年は諸書を比較すると、舒明天皇六年(六三四)が有力である。出生地は大和国葛城上郡茅原村で諸書が一致している。没年は大宝元年(七〇一)で一致するが、『日本霊異記』などでは飛行、『元享釋書』などでは入唐とし、修験系の諸書では日本(大峯や葛城)としていて、入滅地は一致しない。
 役行者は、十二・三歳から仏道や日本古来の信仰に基づく修行に精励したとされているが、白眉は斎明天皇四年(六五八)七月五日、摂州箕面山上の瀧に臨み、瀧穴において龍樹菩薩に逢い法を授かった、という伝説である。これは真剣に信じられていて、當山修験伝統血脈には「大日―金剛薩?―龍樹―役小角―聖寶―観賢―貞崇―淳祐......」と伝えられている。
 箕面の山上で授かった修行法が「入峯規則」であり、それは釈尊の苦行に倣ったものであったという。これを「峯中法流」として今日に伝えている。

(二)聖宝(理源大師)
 役行者の入滅以後、大峯の入峯修行を修練した集団の記録はない。恐らく僅少であったためと思われる。その理由として『東大寺縁起』では、「弘法、智證などの賢哲に至るまで、この峰に入り抖?(づそう)の行(入峯修行)を行い給いしに大蛇住むことありて数年入る人なかりき」としていて、大峯の盛衰があったらしい。
 奈良朝期の大峯は、奈良・興福寺を本寺としていた。つまり、この時期は興福寺の修験が支配的であったことになる。このことは、若き日の役行者が蔵王権現を感得したと伝える山城・神童寺(現・真言宗智山派)が、興福寺の末寺として大伽藍を誇っていたことと符合する。 役行者滅後百八十八年、寛平元年(八八九)に醍醐寺の聖宝(理源大師)によって、大峯の再開が為される。この時、聖宝は数えて五十八歳である。(當山派修験では聖宝尊師と尊称する)
 聖宝は、天長九年(八三二)に讃岐国に生れているから、幼い頃から山岳修練を好み、役行者以降に途絶えていた山中修行の退廃を嘆き、遂に大峯に分け入って入峯修行の門を開いたのである。
 伝説では「聖宝尊師が五十八歳の時、(宇多天皇の)勅を奉じて金峯山の毒蛇を退治し、入峯の道を開き、退廃していた修行の道を再興し修験道を復興させた。金峯山を踏破しつつ大法螺を吹くと、忽然と役行者が現われた。歓喜の表情の役行者は聖宝を道場に導き、親しく龍樹から直授された秘奥の理智不二の秘密灌頂を受けさせた」とある。別伝では「金峯山中で役行者の霊に導かれ、龍樹の浄土にて恵印の法流を伝承された」としている。
 聖宝の大峯再開は、入峯修行の復興のみならず、修験道に明確な「密教化」をもたらした。例えば、昌泰二年(八九九)四月、大和鳥栖真言院鳳閣寺において「秘密灌頂」の法儀が盛大に行われている。大祇師は聖宝、中祇師は観賢、小祇師は貞崇で、「結縁灌頂」も開壇され、皇族・公家・庶人三百四十余人が受者となったと記録されている。
 そしてまた、昌泰三年(九〇〇)の鳥羽上皇の大峯行幸の際に、聖宝の弟子である助憲が大峯の検校職に任ぜられたことを機に、聖宝の法嫡が代々の検校職を務めるようになり、やがて三宝院門跡となると、代々の門主が検校職を兼ねるようになり、大峯と當山派修験の関係が堅固なものとなっていく。
 平安中期から後期にかけて、大峯には當山派修験の継承者だけでなく、全国から衆徒が入峯し隆盛する。その衆徒の指導にあたった先達は、三十六ケ所に三十六人が定められていたようである。三十六所とは、
大和国金剛山・安部・三輪・釜口・菩提山・鳴川・桃尾・信貴・高天・茅原・松尾・矢田・法隆寺・中ノ川・西小田原・超昇寺・多武峯・吉野桜本・内山・初瀬、摂津国霊山寺・丹生寺、近江国飯道寺、伊勢国世儀寺、紀伊国高野・根来西・寺東・粉河寺、和泉国槇尾・神尾・高蔵・和田・中川牛瀧、山城国伏見・海重山
などである。今日の真言宗総大本山と重なることに注目しておきたい。

(三)鎌倉期~室町期
 源義経が頼朝の邪推と勘気を受け、奥州平泉に落ち行く際に、関所にて役人の査問を受け、弁慶が山伏姿にて勧進帳を読み上げて嫌疑を晴らす「安宅の関」の物語がある。これは、山伏という階級が社会的信用を得ていたことの証左といえるが、この当時、三宝院門主が大峯の入峯修行者に大宿・二ノ宿・三ノ宿・正大先達などの官位を与えていたこととも関係しているようである。
 またこの時代には、大峯に入峯して柴燈護摩供を修して天下泰平を祈念するということが、国主(守)・城主に至るまで行われていた。

(四)江戸時代
 徳川家康という武将は、懐柔によって自らの勢力を拡大伸張し、分裂・分割によって他者の勢力を削いだ名人である。後者の有名なものに、東西本願寺の分割があり、また當山派・本山派の勢力争いでは、袈裟(梵天袈裟と結袈裟)の交換という仲裁によって、二大勢力の伸張を防いでいる。
 江戸期は、修験者が市井で活躍した時代である。順峯(熊野~吉野の奥駈修行)を上求菩提、逆峯(吉野~熊野の奥駈修行)を下化衆生とし、順峯(春)・逆峯(秋)・順峯(夏)を三峯の行とした。これらの行は、大慈大悲の菩薩行を要諦として、菩提心を発して民衆を利益・救済することを教化とした。
 それ故に、加持祈祷を盛んに行った。病気平癒のために、薬師如来・延命地蔵・千手観音・十一面観音などを勧請し、護摩供や供養法を修法した。また息災安穏のために不動明王を本尊として除災招福を祈念した。民衆の求めに応じて施薬し、易・家相・方位などの卜占も行い、荒神供・星供などの神仏混淆の修法も行った。
 さらに修験者の位階も整い、位階に応じた袈裟・法衣も定められた。法具も固定化し、大峯の入峯修行者について、初度を新客、二度以上を度衆、九度を大越家、三十六度を大先達と称して、職掌も定められていた。
 こうして、大峯當山派の修験道は、他の本山派、彦山派、羽黒山派などと共に大きく隆盛し、民衆救済を実践したのである。


◆修行の内容とその階梯

 大峯修験の修行の内容は膨大である。ここでは「奥駈修行」と「恵印七壇法」、そして「柴燈護摩供」の内容について解説するに止めたい。

(一)奥駈修行
 役行者が釈尊の苦行開悟に倣って、熊野から吉野までの峰々を登攀苦行し覚悟を目指し、龍樹に秘密灌頂を受けた。この順路を「順峯」という。聖宝(理源大師)は、役行者に出会わんがために吉野から熊野に向い、果たして役行者の導きで龍樹の授法を受けた。この順路を「逆峯」という。當山派修験では、聖宝に倣って吉野から入り熊野への逆峯を辿る。なお、順峯は本山派修験(天台系)が行っている。
 乱暴な言い方になるが、奥駈修行は、縦軸の階梯である「十界頓超の行」と、横軸である「七十五靡(なびき)の行」の組み合わせになっている。
 ここでは、今日の奥駈修行の説明に使われる『大峯奥駈修行のしおり』が解りやすいので、引用しつつ進めることにする。

(イ)十界頓超の行
 十界とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。そして修行の階梯がこれに当てはめられている。
地獄行(業ノ秤)―険坂を攀じ登り、絶壁を渡り、峯中における苦役雑事に仕え、苦行に入るために、一念発起の菩提心を発す。また業の秤とは、業は罪業、秤とはハカリにして、業の軽重を秤に懸けること。つまり懺悔によって過去の罪業の軽重を顕にし、菩提心を発して仏果正覚を目指す。これを業秤破地獄の法という。大峯では、西の覗き・東の覗きがこれに当たる。
餓鬼行(穀断)―五穀断ちの苦しみに耐えて練行する意である。実際には手一合、つまり片手の掌一杯の米で一日を過ごすこと。食を統制して苦行する。体内の不浄を清めることが目的である。
畜生行(水断)―水断は穀断よりも深刻な苦行難行である。肉身は畜生と同じで水は欠くべからざるものである。その水を断じて菩提心を堅固にする。
修羅行(相撲)―相撲は闘争を意味し、闘争は阿修羅界を象徴する。争いの中に闘争心を制して邁進することで、泰然不動の山に挑み打ち込んで心身を練り、仏果を得ようと苦修を続ける。峯中修行者は深山幽谷でこれを断じて行ずる。巌あれば巌を越え、谷があれば谷を渡り、いかなる障害をも乗り越え前進する。まさに勇猛な抖いである。
人道行(懺悔)―懺悔することができることをもって人界に配する。修験道では水行(禊ぎ)をしてから入峯し、心身の疲労の裡に自分の罪過を反省する。穀断と水断で心中の穢れを除き、清明な心境である。何の畏れもなく、曇りない心は勇猛で、公正な反省がもたれるのである。これによって、力いっぱい前進することができる。(実際には、密室に入り先達と対し三業の罪過を懺悔告白する)
天道行(延年「駈舞」)―これまでの五つの行は相当に苦しい修行であった。心身をこなごなに苦しめた後、そこから心身の一切の不自由やわだかまりを取り除き解消させる。それが「延年の舞」を楽しむ悦びであり、天道快楽の修行である。この歌舞の法は、肘比・小打木を打って舞う。
声聞行(比丘形・摘髪形)―これまでの行は「六凡の修行」である。これからの四つの修行は「聖の修行」である。修験道の声聞行は、単に四諦の声教を聞いて因果を覚えるだけではない。一念諦理の観行である。苦諦即法身、集諦即菩薩、滅諦即涅槃、道諦即自性。この四諦を一念に観じることを声聞行という。
縁覚行(頭襟形)―縁覚とは迷界の因果、すなわち十二因縁の理を観じて煩悩を断じ、生死を覚る意味があり、修験道ではこれを観じるだけでなく、煩悩即菩提、業障即解脱、苦道即安楽を観じて生死を覚るのである。
菩薩行(代受苦形)―菩薩とは、無相六度の行を修して到り得た境地である。地・水・火・風・識、即ち布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六大本具の徳をもって、無相の六度とする。菩薩は衆生を救わんとする化他の慈悲心をもつのであって、衆生に代わってその苦しみを受けるのである。修験道の修行は、この菩薩行を大悲代受苦を以って象徴となす。修験者はここに到って、絶大なる力を得て衆生を救い、国を護るのである。
仏界(菩薩灌頂)―父母所生のこのまま自身で大日如来になる修行であり、柱源神法を修することによって、凡身たる我が身が大日如来そのものとなる。柱源に住する我々の言葉はそのまま仏の明であり、自身の行為はそのまま仏の印である。柱源に住することは、即ち本来具有している自身心の仏の灌頂であり、父母所生のこのままの我が身が五智円満の法身如来である。これ則ち一身本有の十界を示し、入峯修行の実業(実修実証)を顕すものなり。柱源の秘法(柱源灌頂)がこれにあたる。
 
(ロ)七十五靡の行
 大峯は両部不二の山とされ、入峯する者は身を清浄に保ち、両部不二の曼荼羅上を一歩一歩登攀すると観念しなければならない。
 熊野から吉野にかけての峯中には、諸仏・諸菩薩・諸天・諸神併せて七十五ヶ所の礼拝すべき「靡(なびき)」と呼ばれる霊蹟がある。この靡を前述の十種の行を行いながら、順に辿るのである。
當山派修験の場合は、聖宝尊師に倣って、吉野から入り熊野に向かう順路を取るので、七十五靡の「柳の宿(渡し)」から始まる。尚、今日の三宝院門跡(當山派)奥駈修行は、二十九靡の「前鬼」までとなっている。
 
(二)恵印七壇法
 聖宝が大峯山中にて役行者の導きにより龍樹から授与されたとする「恵印法流」には、真言宗の加行・練行・伝法灌頂に似た行位がある。加行の「四度次第」に当たるのが「恵印七壇法」である。
 恵印法流の加行法は、峯中にて行ずべき諸種の作法を一つの壇上にて修法する便宜のために、聖宝が次第として作られた、と云われている。これを以って、役行者が龍樹より相伝せられた法が、聖宝によって大成せられた、とするのである。したがって、この法を修する際は、堂内に在っても峯中に在り、と観念するのである。
 さて、ここに紹介する恵印七壇法は、『恵印三昧耶加行次第 第九巻』に所収のもので、内容は次のようになっている。

○礼拝加行作法〔五十日・百五十座、減縮五十座〕
  附両祖師所作法〔九十一座〕・鎮守法楽〔九十一座〕
○弁財尊天法〔初行七日・二十一座、減縮七座。正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○深砂大王法〔初行七日ハ弁財天法ヲ修ス・二十一座、減縮七座。
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○金剛童子法 〔初行七日・深砂王法ヲ修ス・二十一座、減縮七座。
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○愛染明王法〔初行七日・金剛童子法ヲ修ス・二十一座、減縮七座、
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○不動明王法〔初行七日・愛染王法ヲ修ス・二十一座、減縮七座、
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○龍樹菩薩法〔初行七日・不動法ヲ修ス・二十一座、減縮七座、
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○大日如来法〔初行七日・龍樹法ヲ修ス・二十一座、減縮七座、
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
○護摩供次第〔初行七日・大日法ヲ修ス・二十一座、減縮七座、
  正行二十一日・六十三座、減縮二十一座〕
  神供略作法〔七座〕
▽総座数 八百二十二座
 弁財天は、八大竜王の玄身とされ、この尊に罪障を懺悔し断浄して、無上正等の法を成すとする。
 深砂大王は、別称を大山府君(だいせんぶくん)とし、都率内院の引導の本尊とする。また末世の倶生神(ぐしょうしん)のこととする。この尊を以って罪障を浄除して正法に至らしめるとする。
 金剛童子は、役行者が吉野にて感得した「蔵王権現」のことである。
 愛染明王は、金剛愛菩薩の忿怒尊とする。また勝手大明神は、この尊の化躰とする。
 龍樹菩薩(大士)を大祖と仰ぐ。尊形は地蔵菩薩と同形である。また金剛寿命菩薩と同一不二の尊躰とする。
 大日如来は、金胎不二の恵印大日尊を最上とする。大峯山上の宮殿の中に壇上あり。其の上に蓮華。上に八獅子の座。上に月輪あり。中に大日遍照如来。
 これらの修法の内容は、ほぼ四度次第や諸尊法と同じである。特徴は、「神分」や「礼仏」に龍樹菩薩・愛染明王・金剛童子・深砂大王・弁財天が入っていること。また「環輪圓成」(法輪の連環)や「辟除魔民」「怖魔」など、民衆救済を強く意識した印明が入っていることである。
 護摩供次第は、壇木の積み方に特徴がある。また左脇机に法螺を置いてあることが、聖宝が大峯山中で法螺大声して役行者が現われた故事に倣っていると思われる。

(三)柴燈護摩供
 柴燈護摩供は、入峰修行の際には必ず修するものである。これは、聖宝が勅を奉じて大峯山中の大蛇を降伏した際に、金峯山の阿古谷において護摩供を修法したことに発している。
大祇師と呼ばれる導師の作法は、不動護摩供と大差はない。ただ山中での修法であるので、「獅子座」(堂内の礼盤に同じ)に座すに両膝を地に着けること、また右が蘇油、左が洒水と観念することなどに違いがある。また散杖の作法は円相である。
道場荘厳では、「五大明王」の「幣」を東西南北と中央に配するが、その色は中国の五行思想(東=青、南=赤、西=白、北=黒、中央=黄)に基づいて配当されている。


◆修験道の可能性

 役行者は、修行の初めに「孔雀明王法」を修していたと云われる。その役行者が吉野で感得したのが「蔵王権現」である。この権現、仏菩薩が日本の風土に権(仮り)の姿で現われた、とするのは周知のことであるが、なんと包容力のある宗教観であろうか。
 この神仏習合の豊かさは、どうだろうか。「高野から熊野、そして吉野と、本当にそこここに神さまや仏さまがいるような気がするんですよ」と語っていた青年僧がいた。
 本稿は、冒頭の真言僧の方の話を基底に構成した。書き進むうちに、何度も「五大に皆響き有り」という弘法大師の御言葉が頭をよぎった。
 二十一世紀の宗教として、修験道が大きな可能性をもっている、ということは、取りも直さず「真言宗が大きな可能性をもっている」ということであることを、つくづく思わされた。
 末筆になったが、大峯奥駈修行の写真は、真言宗智山派・高楽寺(東京都八王子市)ご住職の佐藤秀仁師から提供いただいた。紙面を拝借して感謝の意を表する次第である。


concept_shugen2_05.jpg

Copyright © 2009-2024 MIKKYO 21 FORUM all rights reserved.