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脳死移植、8ヶ月間事例ゼロの現実

 この7月、改悪「臓器移植法」が国民的コンセンサスもないまま衆議院解散直前の国会で駆け込み可決され、「脳死」は臓器提供をする場合にかぎり人の死であったものが、臓器提供をしようがしまいが一律に人の死ということになり、さらに子供は「脳死」状態から蘇生する可能性があるとして「脳死」からの臓器提供が禁止されていた15才未満の子供にも臓器の提供が可能となり、しかも子供も含め本人の意思確認ができない場合は家族の同意でいいということになったにもかかわらず、どうしたことか悪法の可決以後今日まで「脳死」移植の事例はなく、2月8日に名古屋で行われた81例目を最後に8ヶ月もの間事例ゼロの状態が続いている。
 折りしも10月は「移植推進月間」であり、ドナーカードを持つ人はすでに1000万に達しているというにもかかわらず、臓器提供者が現れないのである。日本移植学会は、「臓器移植法」の改悪により、年に10件程度のペースだった「脳死」移植が年70件のレベルまで増えると見込んでいたが、まったく荒唐無稽の想定値だった。これが「脳死」移植に対する国民の正直な反応である。事実は小説より奇なものである。
 関係者は「改正法の国会上程を機に国民感情や世論が慎重の方に流れたのだろう」などと安直な感想を洩らし、移植ネットワークに至っては啓発活動が足りないからだとして、臓器移植に関心をもってもらうためのコンサートを行うなどと、まだ寝言を言っている。改悪「臓器移植法」が「脳死」移植オタクにとっては改正であっても国民一般にとっては改悪だったことや、彼らは「臓器移植でしか助からない命を救う」という美談に酔えても、国民一般は「その代りに、まだ心臓も動き、体温もあり、ヒゲも伸び、お産もできるのに、半ば強制的に身体を切り裂かれ、生きた臓器を切り取られ、その生存を止められてしまう」おぞましさに冷めていることを、彼らはこれからも無視し、懲りずに寝言を言い続けるにちがいない。

 改悪「臓器移植」法が可決された参議院本会議の傍聴席で、感涙にむせんでいた人たちに敢えて問う。本人の意思確認が必要なくなった「脳死」移植によって、はからずも命を奪われることになる人の人権(生存権)はどうなるのか。人の命は、たとえ家族であっても、「お前はもう生きている意味がない」とばかり決めつけていいのか。皆さんが救おうとしている命と奪われる命と、「生きている意味」においてどんな違いがあるのか。皆さんの心のどこかに、もしかして「「脳死」者は、生命維持装置をはずせば生きられないのだから、生きる見込みのない人は生きる見込みのある人に臓器を提供してもいいのでは」といった優生学的な優劣感情や、もっと言えば命の選別意識はないか。さらに言えば、母性本能・父性本能あるいは「生への執着」(仏教のいう「無明」、我欲・我執の根源)を満たしたいあまり、「脳死」移植医療の闇(命の選別と合法的殺人)から目をそらしていないか。いかがか。

 このページにアクセスしてくださった皆さんにも問いたい。もし皆さんのお子さんが、例えば交通事故などによって頭部を強打し「脳死」状態になった場合、主治医の先生から「お子さんはもう蘇生する見込みがありません、よければ臓器提供をお願いできませんか」と言われて、ICUのベッドに横たわり必至に生きようと頑張っているわが子を見ながら「わかりました、どうぞわが子の身体から動いている心臓でもほかの臓器でも切り取ってけっこうです」と言えるだろうか。
 親であるなら誰でも、蘇生しないであろう現実を認めつつも奇跡的な生還を思い描かずにはいられない。そして生存の可能性ギリギリまで救命措置を行い、それでもダメだった時にはじめて「やれることはやったのだから仕方がない、寿命だとあきらめよう」という心境になり、家族の皆がそれに納得することで大切なお子さんの死の受容がはじまるのである。これが日本人の普通のメンタリティーである。
 お子さんが生死の境をさまよっている時に、まだ生きているお子さんの身体を切り刻むようなむごいことを考えること自体、親として不謹慎でありあるまじき行為である。仮に「脳死」移植の話に乗ったとして、臓器を切り取られた遺体を荼毘に付す時、臓器を切り取られることを知らずに逝ったわが子が不憫にならないか。親としてわが子の命に最善を尽くしたことになるだろうか。この手でわが子の死期を早めるような薄情な親は、一生、浮ばれないお子さんの(怨)霊を背負い、自分を責めて生きることになるだろう。やがて業病にとりつかれ、その罪業によって死後は地獄に堕ちるかもしれない。いかがか。

 かくも「脳死」移植は、まだ救命装置によって生きている「脳死」者の身体から生きている臓器を切り取り、その「脳死」者をあたかも死刑執行の如くあの世に強制送致するという点において、日本人のメンタリティーに合わない。この文明社会がタブーとしてきたおぞましい「カニバリズム」(人肉漁り)の行為を、日本人は決して容認しないのである。「脳死」移植オタクはそれを、「脳死」移植医療の闇がわかっていない国会議員を動員して法律で糊塗し、いかにも文明的な医療行為であるように偽装した。
 「移植でしか助からない命を救う」という美談の影に潜む殺人医療正当化の傲慢さには、科学オタクとか切りたがり屋の示威趣味とかの次元を超えた、もっと深い移植医療の闇が見える。

 その闇とは、移植医療先進国といわれるドイツの医学にかつて暗い影を落とした優生学や人体実験であり、そしてその優生学の信奉者ヒットラーが行ったあのユダヤ人の迫害と大量虐殺(ホロコースト)であり、ドイツに並ぶ移植医療先進国のアメリカも優生学的な政策で長いこと人種差別を行ってきた、ということである。
 とくに、ヒットラー時代のドイツの強制収容所で、回復の見込みのない収容者(ユダヤ人)の臨床実験が行われていたことはニュルンベルグ裁判が明らかにしたところである。生きる見込みのない人の身体を、ある意図のもとに、強制的に切り刻むことは、この強制収容所の人体実験に由来すると言っても過言ではなかろう。身体の自由を奪われ、意思の表明もできない、まったくの弱者を、無慈悲に死刑台に送るこのような医療行為の亡霊が、移植外科医には自覚されないまま今の「脳死」移植に影を落としてはいないか。胸に手を当ててよく考えてみるがいい。

 世界で初の心臓移植手術を行った南アフリカの心臓外科医クリスチャン・バーナードは、アメリカのミネソタ大学で心臓移植を学び、交通事故で「脳死」状態になった黒人女性の心臓を白人男性に移植し、「この移植には人にいちばん近い形をしたもの(黒人)を使った」とうそぶいた。世界初の心臓移植は、黒人の人権を認めなかった人種差別国南アフリカで行われたのである。かのドクターは黒人女性のドナーを人間ではなくモノと見ていた。
 「脳死」移植は、このような優生学的人種差別、非人道の医療からはじまった。そして生命の選別という悪しき本質は今もなお変っていない。もともと人体実験の犠牲になってきたのは、奴隷や犯罪者や死刑囚や貧困層や被差別民や知的障害者たちであった。日本の臓器売買の闇ルートで買われる臓器はフィリピンほか東南アジアの貧困層のものだといわれ、中国における臓器提供者はほとんどが死刑囚である。

 「脳死」移植に携わる人は、一度立ち止まって考えたらどうか。自分が信じてやまないヒューマニズムや医療が、人として立ち入ってはならない優生学的人種差別の歴史の闇を引きずっていること、現に生きる見込みのない人を強制的に死刑台に送る生命選別の殺人医療に手を染めていること、そして何よりこの日本では国民のコンセンサスを得られない、日本人のメンタリティーが受けつけない医療の偽善に埋没していること、そしてそういう自分をはずかしいと思わないこと、良心の呵責の有りや無しや、について。

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