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チベット問題に寄せて-チベット人と仏教

ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ(チベット仏教普及協会会長)

チベットとチベット仏教について、簡単に紹介したいと思います。
チベットの歴史によれば、チベット人の祖先は、猿と羅刹です。その猿というのは観音菩薩の化身であり、羅刹はターラー菩薩の化身です。つまりチベット人は、観音菩薩とターラー菩薩の子孫だと言われています。ですから、チベットは観音様の世界、つまり観音様が人びとを教化する国です。という意味でチベットは、仏教の世界だと言われています。チベット人は観音様の弟子、つまり観音様の所化だと言われていて、チベット人の性質は慈悲深くて賢いと言われています。
7、8世紀に仏教が広まって以来、チベットの王様は観音様の化身だと言われています。たとえば、ソンチェン・ガムポ法王やその子孫、サキャ時代の法王や歴代のダライ・ラマ法王は、みな観音様の化身だと言われています。
チベットの国について少し考えれば、チベットというのは雪国で雪山に囲まれ、それは世界の屋根であり、空気が大変きれいで、アジアの大河の源流です。多くの河川の源流は、チベットの雪山となります。そして、慈悲深い人びとがそこに住み、一般論として世界全体と、特に中国やインドの国々に幸せの太陽を昇らせました。そのチベットの住人を追い出して、中国の人々がチベットを占有すれば、一般論として世界全体と、特に中国やインドに苦難をもたらし、幸せの太陽は沈んでしまいます。なぜなら、中国は今、チベットで地下資源を際限なく掘り出し、自然を破壊して野生動物などが住めないような環境にしているからです。今現在、世界中で問題となっている環境問題についていえば、中国に侵略される前のチベット人は、昔から仏教の教えにより、地下資源をむやみに堀り出すことをせず、野生動物などを殺さずに大事にしてきました。それは、昔から、そのような自然を破壊するようなことを行なえば、土地のエネルギーが減少し、人間や家畜に害を及ぼすと考えられてきたので、自分たちの土地を大事にしてきたのです。

次に、チベット仏教がどのように発展していったかということについて、簡単に述べたいと思います。
7世紀頃チベットで仏教が広まり、ソンツェン・ガムポ法王がチベットの賢い青年たちをインドに送り、その中の一人の青年であるトゥンミ・サムボータが、現在使っているチベット文字や文法などをインドのサンスクリットを手本として制定しました。このチベット語というのは、わざわざ仏教のために作られたようであり、仏教用語としては他の言語よりも優れています。そして、恩ある法王たちによってたくさんの翻訳者がインドに送られ、インドから招来した経典や論書を翻訳し、チッベトでは仏教が大いに広まりました。その時、翻訳者たちがインドにある小乗仏教、大乗仏教、密教を学んで、翻訳してチベットで広めました。そういうことからも、チベットの法王たちは普通の人間ではなく、観音様の化身だと考えられています。とにかく、法王たちやチベットの翻訳者たちの勇気や努力のおかげで、今チベットにある世界でも有名な「カンギュル」、「テンギュル」ができました。それは、世界の仏教学者たちが研究し、チベット語というのは、漢訳よりも厳密な内容であると言われています。それは、他の世界にないチベットの特別な宝です。ということはつまり、世界の文化財というだけではなく、特に一般の仏教徒、その中で私たち修行者にとって、聞思修を通じた実践のために大変重要だと思っております。

次に、チベットの生活状況や、チベット人のものの考え方について述べます。
英語にすれば、「Simple life high thinking」、つまり「質素な暮らしで高いレベルの思想」を持っています。ということは、衣食住に対してあまり執着を持ちません。今ある暮らしで満足し、仏教の教えを純粋に受け入れ、精神面での高さを重視しているのです。つまりチベット人は、仏教で説いている出離、菩提心、正見などの価値観を素直に受け入れ、大切に尊重しています。たとえば、大変立派な学僧や修行者でなくても、一般の普通のチベット人でさえ、一番小さな虫の命までも衆生として大切にし、口でも「ニンジェー」、つまり「かわいそう」と言ったり、観音様の真言である「オーム・マニ・ペーメ・フーム」を唱えています。一般の人々も、欲望やイライラすること、競争心や自慢が少なく、心は安らかで平和に暮らすことができています。このようなことは、大乗仏教の教えのおかげだと思います。また僧侶や修行者たちは、それぞれの僧院や、あるいは隠遁生活のための洞窟などで一生暮らし、修行を続けています。一般の家庭を持つ人々が、お寺や修行者たちを世話し、生活を支えています。一方、僧侶や修行者たちは、一般の家庭に赴いて儀式を行ない、お経をあげています。ですから、一般の家庭とお寺や修行者たちは、お互いに財施と法施によって支えあう深い縁があります。そのようなわけで、僧侶たちが一般の家庭の人々に仏教の教えを説いたり、助言を与えたり、指導します。一般の家庭の人々は、仏教の深い内容を知らなくても、三宝に信仰を生じ、衆生に対して慈悲を起こし、因果関係の法則を信じて尊重します。ですから、前世と来世、六道輪廻、解脱と一切智が存在することなどは、至極当たり前だと考えています。それらに対して、妄分別や邪見を起こさず、揺るぎない仏教の根本思想や基礎知識を、しっかりと身につけています。

次に、チベット仏教の特色についてお話ししたいと思います。
いま申し上げたように、チベットに有縁の本尊は、諸仏の慈悲を体現した観音様であり、一般にチベット人の性格は、慈悲深いだけではなく、その慈悲を価値のあるものとして非常に大切にしています。チベット人が口で唱えている観音様の真言「オーム・マニ・ペーメ・フーム」は、チベットの子供なら教えられなくても知っています。仏教の教えで最大の眼目は、慈悲です。このことは、『大日経』に「秘密主よ、その一切智智は、悲の根本より生じ、菩提心の因より生じ、方便をもって究竟した」と説かれているとおりです。仏教の実践は非暴力であり、その思想的見解は縁起です。非暴力という意味は、他者の命を害さないし、他者の物を奪わないということです。広く考えれば、「十善戒」などを守ることとも言えます。自分の命に危害が加えられれば、自分がとても苦しむように、他者の命に危害を加えれば、他者がとても苦しみます。こう考えて、たとえ他者の命を助けることができなくても、他者の命を害さないことなどは、一般の人々でも皆が守っています。波羅提木叉などの戒律の面からも、不殺生は固く守る必要があります。これは、仏教の根本が悲であることと、その悲によって他者に対して非暴力であるということです。
他者に害を与えないという立場は、全ての仏教に共通するという意味で、小乗です。それだけに留まる狭義の小乗には、声聞と縁覚があります。一方、他者に害を与えないのみならず、積極的に利他行を実践していく立場が大乗です。大乗には、顕教と密教があります。密教には四段階のタントラがあります。チベット仏教では、四段階のタントラを全て学び実践します。それを学ぶために、『真言道次第広論(ガクリム・チェンモ)』などの論書がたくさんあります。このように無上瑜伽タントラを含む四段階のタントラが揃っているのは、チベット仏教の特長のひとつです。一般の大乗仏教と密教では、ただの悲だけではなく、大悲によって菩提心を起こさなくてはなりません。ですから、菩薩には菩提心が必要であり、その大悲に基づく真の利他行となるならば、貪欲も許しています。ご存知のとおり、煩悩には種類がたくさんありますが、主には三毒であり、それは貪欲、慎恚、愚痴です。小乗仏教では、主に煩悩を断滅することが修行ですから、煩悩を許すことはありません。しかし、大乗仏教の顕教は、今お話ししたとおり、貪欲というのは自分に対して大変害がありますが、他者にはそれほど害にならない場合もあるので、必要に応じて貪欲を許しています。しかし顕教では、怒りは他者に対して直接害を与えるため、許していません。密教は、顕教より何倍もの大悲が必要です。最上の大悲を起こしたことによって、衆生の苦しみを除きたい気持ちが強まり、「顕教のように、成仏するために無数劫、つまり無限の時間をかけて修行していたら、その間にも無数の衆生が大変な苦しみに喘ぎ、それでは耐えられない」という真剣な思いから、早く成仏できる道を探します。それが密教です。だから密教の修行者には、最も強い大悲が必要なのです。そのように強い大悲に基づく行ないなら、たとえそれが自分に害があるとしても、本当に他者の役に立つならば、貪欲とともに怒りさえも許しています。という意味で、密教ではご存知のとおり、仏画や仏像などで父母尊や忿怒尊の姿が見られます。それは、今お話したように、強い大悲によって自分の心や衆生を教化する、巧みな方便だと思います。喩えるなら、両親が子供に大変愛情を持っていて、とても危ないことを子供がしようとしている時、本当は子供に対する愛情でいっぱいなのですが、子供を怒るふりをするように、密教の実践者も強い大慈悲の動機によって、そのときの態度としては様々な様相で衆生を利益します。それらのもととなるのは、動機であり、主には心です。例えば、ある人が動機として相手を害したいという気持ちで、一時的に良い態度、平和的な態度をとっても、それは暴力です。なぜなら、究極的には、他者に害を与えるからです。それと反対に、動機としての慈悲により、一時的な態度として暴力的であったり害を与えても、それは究極的には害にはならず、非暴力の平和的な行動だと言えます。なぜなら、究極的には、他者に利益や幸せを与えるからです。
慈悲に基づく実践について今まで説明してきましたので、次は、仏教の見解について述べます。それは、縁起です。縁起とは、主には因果関係の法則です。ご存知のとおり、お釈迦様がお説きになった『般若経』の究極的な思想は、空性と縁起です。それも、哲学的に整理すれば、中観帰謬論証派の見解になります。チベット仏教では、その究極的な見解を知るために、諸外道の思想と比較して仏教思想の特長を知り、さらにインド仏教の四学派(説一切有部、経量部、唯識派、中観派)の思想を順に学ぶことが、大変に重視されています。なぜなら、四学派の見解は全て、究極的に中観帰謬論証派の見解を知る手がかりとなるからです。
そして、『般若経』の隠れた内容としての五道十地をわかりやすく実践するために、「菩提道次第(ラムリム)」という有名な教えがチベット仏教にあります。この「ラムリム」は、インド仏教に基づきながらも、直接にはチベットで確立されたものです。それゆえ、インド仏教には無い、チベット仏教の特長だと言われています。
もうひとつのチベット仏教の特色は、心の訓練「ロジョン」です。今のような堕落の時代は、人々の心に煩悩しかなく、行なうことは悪業しかありません。「自己の身口意の行ないは、他者に害を与えることばかり」というこの濁世に、こうした心の訓練ができなければ、修行は成り立ちません。この心の訓練というのは、逆境を順境に変える方法です。そのような正しい訓練を重ねて、逆境を順境に変えることができる人は、賢い人だと言えます。逆境を順境に変えることができる人は、力のある人だと言えます。
その教えは、苦しみを修行の道として考えます。自分に危害を加える敵について、考えてみましょう。その人は、煩悩によって心が狂い、自殺さえするかもしれません。自分自身を殺すようなことがあるならば、他人に危害を加えるのは当然のことです。ですから、この私を殺そうとする人に対してさえも、煩悩で心が狂っている人だと思い、慈悲をおこすべだと考えます。また、自分の身体に危害が加えられた時には、自分がこのような肉体を持っているからだと、自分自身の過失を考えるべきです。例えば、他人が自分の体を刃物で切ったら、自分の体から血が出て痛みます。その痛みは、自分がこのような肉体を持っているせいです。もし、その刃物で石を切ろうとしたなら、その刃はぼろぼろになってしまい、血などは出ず痛みもありません。また、自分が苦しむのは、過去世に他者へ苦しみを与えた報いであり、輪廻の在り方そのものです。この苦しみは、輪廻の過失を示してくれる師のようなものです。この苦しみは、忍辱を修行したり慈悲の心を起こす直接の原因となるものです。シャーンティデーヴァが、「苦しみがなければ出離はない。出離がなければ、慈悲は起こせない。幸せになれば、慢心を起こし、問題が生じる」とおっしゃっています。ですので、この苦しみは、本当の仏教徒であるか否かを判断するものです。「この苦しみによってたくさんの罪や罪障を浄化するのだから良かったと」というふうに、苦しみをあたかも装身具の荘厳のように考えることです。そういう意味で、自分が苦しむ時は、「すべての苦しみが自分に結実しますように」と考えることです。自分が幸せや豊かになった時には、「その幸せをはじめとして、自分と他者の幸せを、一切衆生が仏の境地を得る原因となりますように」と廻向します。また、「過去世に積んだ福徳のおかげであり、仏のおかげである」と信仰をおこすことや、「これからも幸せになりたいのなら、福徳を積まなければならない」と考えます。要約すれば、幸せの時でも苦しみの時でも、逆境の時でも順境の時でも、そのようなどんなときでも、幸不幸などそれぞれは実体のない空性であり、幻のようなものであることを知り、少しの幸せで慢心をおこしたり、些細なる苦しみで落胆したりせずに、どんな状況であっても常に心は安らかで、平常心でいられるように心を訓練するのが、「ロジョン」の修行です。
まとめれば、チベット仏教には、小乗、大乗、密教、中でも無上瑜伽タントラなど、全ての教えが揃っていて、今までお話ししてきたようなたくさんの特色があります。

次に、こうしたチベット仏教の特色に基づいて、チベット人がどのように仏教を実践しているかということをお話ししたいと思います。
大乗仏教で考えている慈悲というのは、大変深くて広いです。慈悲の対象は、一切衆生です。ということは、無差別に六道輪廻すべてです。それらのすべてを、苦しみから離れさせたい、離れるように、という考えです。それと比べると、他の宗教には「慈悲」という同じ言葉があっても、彼らの考えている慈悲というのは部分的であり、ただ人間に対してのみであったりします。動物などは、人間の利用するものだと考えています。苦しみに関しても、仏教で考えている深い意味の苦しみではなく、三苦の中で苦苦のだけしか想定していないか、深く考えたとしても壊苦までです。
大乗仏教では、自分の敵に対してさえ、慈悲をおこすべきだと考えます。もし「敵」という一人の衆生を捨てることになれば、その瞬間に大慈悲は消えてしまうことになります。ですから、自分に危害を加える相手に対して慈悲心を起こし、忍辱の修行に努めるべきだと考えます。たとえば、チベット人を虐待する中国の治安当局者に対してさえも、忍辱波羅蜜の修行の機会を与えてくれる師のようだと考えます。というのは、忍辱の修行を実際に行なうには、加害者の存在が不可欠だからです。師や仏たちは、忍辱波羅蜜の教えを与えることはできますが、実際に修行をさせることはできません。なぜなら、師や諸仏は、自分に害を加えないからです。『入菩薩行論』にも、忍辱の修行が大切であることや、実際に害を与える者がいなければ忍辱の修行ができないと説かれています。このような理由で、加害者といえども大切で恩深い存在だと理解できれば、自分に対して害を与えない衆生や、自分に直接利益を与える衆生は、大きな恩があることは言うまでもありません。そのように考えれば、恩がない人は一人もいなくなりますので、すべてのあらゆる衆生は恩が深いと理解できます。
加害者に対して怒らず、加害者の煩悩に対して怒るべきです。というのはお釈迦様が、「煩悩に対して怒るべきであり、煩悩を持つ人に怒るべきではない」とおっしゃったとおり、中国の権力者に怒りをおこすかわりに、特に強い慈悲心を起こし、忍辱の修行をすべきです。このように仏教で教えているとおりに、チベット人たちは、少しではあっても実践できています。例えば、チベット本土から最近逃げてきたナムギェル寺のある長老の僧侶とダライ・ラマ法王がお話ししている時、彼が「中国の牢獄に入れられていた時に、危険なことがありました」と言いました。「危険というのは何ですか?」と法王様がお尋ねになり、その返事は、「中国人に対して、慈悲をなくす危険性がありました」と答えました。あるいは、大勢の人が同じように「中国の牢獄にいた時は、一番仏教の実践がよくできました」というように言ったという話が、ここではいろいろ述べませんが、たくさんあります。とにかく、「チベットの人たちは、慈悲深く忍耐強いし、心安らかで穏やかです。どのような苦労があっても、忍耐ができて、のんきな人々です」と外国人たちに言われています。体に苦労があっても、心には悩みが少ないということができます。
大乗仏教の慈悲や菩提心を理解するには、まず自分自身について考えなければなりません。我執、すなわち十二縁起の無明がある限り、輪廻があります。その輪廻転生ということも、亡くなった人が再び人間として生まれるとは限らず、自分自身の積んだ業によって、六道の様々な境遇に生まれなければなりません。しかし、我執などの煩悩は、仏教の修行によって断滅することができます。煩悩を断滅できたら、輪廻から解脱できます。仏やその一切智智は、確かに存在します。単に存在するということだけでなく、「自分自身も、大乗仏教の修行を積めば仏の境地を得られる」という点を、必ず知るべきです。そうした教えをよく理解して確信するまでには至らなくても、「そのようなこともあるだろう」と分かるぐらいでも、自他の利益となり、幸せな生活を送るために大変役立ちます。
他の宗教では、仏教で説いている解脱や一切智という存在を理解することは不可能です。なぜなら、空性や縁起の教えが、仏教にしか説かれていないからです。究極的な真理である空性や無我というのは、実体として存在していないということです。そのような真理を、五感によって知ることはできません。それを説いた教えがなければ、ただ言葉として言うことさえもできません。しかし仏教徒は、お釈迦様が『般若経』などに空性と縁起をお説きになっているので、それをよく考えることができます。
仏教の思想である空性や縁起を学び、慈悲の教えを非暴力という形で実践することにより、人びとの思考や行動が大きく変化していくのを実感できます。こうした仏教の教えは、自他双方に様々な幸せをもたらし、究極的には解脱や一切智へ導くものです。この点が分かれば、自らの人生の中で苦しみや悩みが生じても、「これが輪廻の本来の姿であると」考えることができます。例えば、多くの老人たちは、「チベットがこのような状況になったのは、自分たちの共業の報いである」と考えています。自業自得ということです。
チベット人は、仏教が大好きです。チベット人と仏教は、離れさせることができません。なぜなら、いま申し上げたたように、仏教が自他すべての衆生に無限の幸せを与えることを、心底から体験しているからです。仏教は、自分にも他者にも、そして誰に対しても、幸せの反対である苦しみや害は全く与えません。一般のチベット人の習慣として、心底から仏教が好きですから、仏教を教える師や、仏教を実践している僧侶、修行者たちに対し、自然に沸きおこる信心で尊敬しています。ですから、チベット人の家庭にとっては、自分たちの子供を僧侶にすることは大変重要であり、そのようにすることが好きですし、誇りをもっています。ですから、出家者が多いし、お寺や僧院もたくさんあります。僧院は勉強をするところであり、出家者たちは主にそこで仏教の実践のためによく勉強しています。勉強するということも、ただ信仰だけではなく、現実に関係づけて深く研究し分析するために、問答が以前から盛んです。仏教論理学や仏教哲学によって深く分析して設定した見解が、それぞれの体験に合っているかどうか、修行者たちは注意深く吟味します。そのようにして、実際に体験者となり、高いレベルの思想を持つことになります。お釈迦様の経典や弟子たちの論書をただお寺に安置するだけでなく、経典や論書を正しく学んで実践することが肝要です。そのように実践した結果で仏の境地を得た人は、ミラレパが有名ですが、もちろんそれだけではありません。チベットの歴史を通じて、多くの成就者が輩出しました。彼らの足跡として、尊像、全集、宝塔などが多く見られました。しかし、中国がチベットに来てから、お寺や仏像、経典、仏塔などは焼かれてしまいました。その中で、亡命した人が持ち出して難を逃れたものもあります
19、20世紀まで、チベット人はダライ・ラマ法王や高僧たちに対して多大な信仰や尊敬を持ち、親しく教えを聞き、大乗仏教の教えに則して大変幸せに円満に暮らしました。しかも、西洋の国と交わらず、チベットは鎖国状態でした。仏教が広まってから今までに、チベットの歴史では、ランタルマ王のときに仏教が堕落し衰退したことや、その後にも少し堕落した時機がありました。しかし、今日のように外国に長期間占領され続け、チベット人の個人個人にまで仏教を修行する自由がない状況というのは、前代未聞の法難です。チベット仏教が生き残るか滅亡するかという、危機的な状況です。
一般の人権問題として考えれば、チベットの人びとは、人間世界で地獄の苦しみを直接体験しているような苦難に喘いでいます。このことは、ご承知のとおり、20世紀に中国が共産主義となり、チベットを侵略したことにすべて起因しています。中国の軍隊は、最初は静かに巧みにチベット人と接触し、中国のお金を政治家や人びとに多く渡し、チベットの良い家を借りて、家賃をたくさん払ったり、子供たちには飴をやるなどのいろいろな方法で、十年間駐留していました。その後、ダライ・ラマ法王を捕まえるために多くの軍隊がやってきました。法王を狙って狙撃をしたので、それを防ぐために大勢のチベット人がポタラ宮に集まりました。それを抑えるために、軍隊がチベットの民衆に向かって発砲したのです。1959年のことです。その結果、ダライラマ法王をはじめ多くのチベット人が、チベットから逃げて難民となりました。

では、今後どのようにしたら良いかという点を、これから述べたいと思います。
チベット人が平和に暮らすためなは、チベットと中国の問題を対話で解決しなければなりません。中国がチベットに入った時、1949年から1959年まで、チベットは中国と対話をしました。十年間対話を続け、ダライ・ラマ十四世法王が中国に対し、「あなた方がチベットへ来た目的は何ですか? それに合わせて、私たちはできるだけのことをやります。チベットを民主主義にすることや、人々に近代教育を与えることも行ないます。ダライ・ラマの地位を無くすことさえもやりましょう」とおっしゃいました。その時のチベット人の考えでは、中国がお寺や僧侶や文化を破壊することや、たくさんのチベット人を殺すなどということは、ほとんど考えていませんでした。ですから、その時の対話は失敗に終わりました。
1959年にダライ・ラマ法王をはじめとして、チベット人85、000人がインドに亡命しました。このように亡命する目的も、チベットの問題を解決するためです。ということは、将来にチベットを立て直し、チベットの仏教や文化を絶やさないようにしようと願い、それを主な目的として亡命しました。
1959年からインドに亡命し、その間に仏教や文化や習慣、言語やアイデンティティーを守るために、チベット人がばらばらにならないよう、難民キャンプを作りました。僧侶のために、僧院を作りました。子供や若者のために、学校を作りました。さまざまな組織を有する亡命政府を作りました。インド以外の外国にも、チベット仏教の寺院やセンターがたくさんできました。

チベットのこのような問題を解決するために、私たちチベット人が取り組むべき方法は、1959年から今までのやり方の延長線となりますが、五つのテーマから考えてみたいと思います。
1 先ほど話しましたように、仏教や文化、チベット語や民族のアイデンティティーをなくさないために、亡命チベット人社会で、子供や若者には学校、僧侶には僧院、大人には難民キャンプ、あるいは文化センターなどを作り、仏教や、文化、言葉、善い習慣、チベットのアイデンティティ−を堕落させず発展させる施策を行なうことです。しかし、亡命というのは一時的なものであり、何百年も外国に住み続け、文化などを守ることは難しいと思います。
2 亡命してからは、西洋の国をはじめとして外国の人々に対し、チベットの問題や、以前のチベットが独立国であったことや、チベットの仏教や文化が貴重なものであることなどを訴え、それにより、仏教はあらゆる人々に利益をもたらすので、そのような宝が完全に無くなってしまえば人類にとって大変な損失であることを理解してもらい、支援や援助をお願いするということです。
3 チベットと中国が、直接の対話を続けることです。
 その主な内容については
ⅰチベット問題の解決は、中国政府にとって、非常に大きなメリットがあります。それのみならず、中国の民間の人々も、チベットの仏教や文化から多大な利益を得られます。この点について、相互に理解を深めることです。
ⅱ本土にいるチベット人や亡命チベット人、及び外国の支援団体が平和的なデモを継続することは、中国政府と国際社会にチベット問題解決の必要性を認識してもらうため、大変有効だと思います。
ⅲそのような動きに対して、中国側も真剣に考えるべきです。そうでなければ、政治的なイメージや経済面で、デメリットが大きくなっていきます。中国が国際社会から真に尊敬される大国になるためには、人権問題を解決しなければなりません。
ⅳチベット人がデモなどで抗議している対象は、中国の政府や権力者です。一般の中国の人々に対してでは、全くありません。なぜなら、これは決して、民族どうしの憎しみあいではないからです。
4 外国の政府や人々に対して、チベット問題の本質を理解してもらったうえで、中国への働きかけを要請することも重要です。外国の政府、民間団体、宗教団体、様々な立場の個人が中国と関わるとき、人権問題の解決、チベットに於ける宗教や文化の自由などを、「中国の友人」として繰り返し助言することは、とても大きな影響力があると思います。なぜなら、今日の世界は相互依存で成立しており、中国のような大国といえども、他の国々に頼らなければ繁栄は続かないからです。本当のところ、チベット問題の解決は、中国にとってメリットこそあれ、デメリットはありません。チベット人が平和なチベットで幸せに暮らし、自らの宗教や文化を守っていける状況が実現しても、中国にとって何の損失にもならないし、まして「外交的敗北」などではありません。むしろ、全く正反対です。それは、中国にとって様々な実利があるし、大きな名誉も勝ち得られるのです。それゆえ、中国に対してチベット問題の解決を促す言動は、決して「反中国」や「中国敵視」ではないはずです。この点を、外国の政府や人々に理解してもらう必要があります。
5 特にチベットの僧侶として、チベット問題にどう対処すべきかという点については、次のように考えています。
ⅰまず、仏教の偉大な価値を再認識して、それをいつも肝に銘じるように心がけています。
ⅱ他の仏教国の人々との交流にあたっては、それぞれの伝統の特色を知って尊重しあい、相互理解を深め、同じ仏教徒として信頼関係を築いていけるようにしたいと思います。
ⅲ前に申し上げたように、チベットの仏教には、小乗、大乗、密教の伝統が全て揃っています。特に、密教の四段階のタントラの教えが生きた実践の流れとして継承されている点は、極めて稀有で得難いものだと言わざるを得ません。このような特色を有するチベット仏教の伝統が、地球上から完全に無くなってしまったら、取り返しのつかない損失です。仏教という共通の伝統を分かちあっている方々ならば、このことの意味を、より深いレベルで理解してくださるはずです。そのためにも、私たちチベットの僧侶は、自らの仏教の伝統を正しく紹介するように努めなければなりません。そして、実際にそれを必要とする人がいるならば、チベット仏教の至宝を惜しみなく分かち合っていきたいと思います。
ⅳ特に日本という国には、重要な意味があります。なぜなら、チベットや中国と同じアジアに属する仏教国であり、かつ平和な先進国で経済的にも発展し、人々の教育水準が高いからです。また、単に「同じ仏教徒」というだけでなく、大乗仏教や密教など、お相いに共通する要素が数多くあります。
以上のような諸点を踏まえたうえで、日本の伝統仏教界と交流を深め、日本でチベット仏教の正しい姿を紹介する活動を進めて参りたいと考えています。

今まで話したことを少しまとめますと、
1 チベットのこの問題は、チベット人の個人の問題ではありません。たとえば、ダライ・ラマ個人としては、チベットの自由とか平和は必要ありません。なぜなら、外国でも幸せであるし、一般の人から見ればもうご高齢の方であるからです。それと同じように、亡命者である私などにも、必要ないと思います。しかし、前に申し上げたように、未来にチベットの仏教と文化を存続させることができれば、チベット人はもちろんのこと、広く世界全体に様々な利益をもたらします。特に、中国とインドには、大変なメリットがあります。そういうことで、たとえ個人的にメリットがなくても、少しでも慈悲や智慧があるなら、私たちはチベットが自由で平和になるために、時間をかけても努力します。
2 中国政府は、「ダライ・ラマがいなくなれば、チベット問題は自然消滅する」と考えているかもしれませんが、そのように簡単な問題ではありません。なぜなら、チベットの仏教と文化は人類の宝であり、幸せのよりどころであり、それがこの世界から消滅してしまうか否かという問題だからです。たとえダライ・ラマ法王がいらっしゃらなくても、仮に最後の一人のチベット人になったとしても、私たちは非暴力という自ら信念を守りながら、チベット問題の解決を訴え続けるでしょう。
3 このようなデモやチベットの問題は、ただの政治的な問題ではありません。たとえば、いつか私がダライ・ラマ法王の法話に参加した時に、法王様は次のようにおっしゃいました。「このチベットの問題は、一般にいう政治的なものではない。一般にいう政治的なものであるならば、私はそのようなことをしません。あなたたち修行者も、してはなりません」というように強くおっしゃいました。
4 中国政府はチベット民族や文化などを、完全に消滅させようとしています。これは今まで話したとおり、次のようなことです。
 ⅰチベットでは人権がありません。
 ⅱ宗教や文化の自由がありません。
 ⅲ言語の権利がありません。チベット語をきちんと学ぶ場所がないし、公式の場でチベット語を使う機会もありません。
 ⅳチベットという自分自身の国土に於てさえ、今やチベット人は「少数民族」となっています。
 ⅴチベットでは、チベット産の塩でさえ、使う自由がありません。チベット産の塩の代わりに中国から配給された塩には、不妊になる成分が入れられているという話もあります。
 ⅵチベットでは、鉄道が作られてから中国人(漢民族)が急激に多くなり、そのためにますます早く「チベット人」という民族の存在自体が消滅してしまう危険性があります。そのような切迫感から、チベット本土や外国にいるチベット人たちは、必死になって抗議行動を行なっているのです。
5 チベット本土で起きた抗議デモに対し、中国当局が苛酷な弾圧を加えている事実は、広く世界に報道されたとおりです。それでも、チベット人たちは、残虐な行為に対してひるむことなく闘っています。僧侶や尼僧たちも、自分たちの大事な生命をかけて、闘いを続けています。あくまで非暴力とはいえ、仏教の出家者がそのような激しい行動にでるのは、皆様には奇異に感じられるかもしれません。しかしそれは、一国や一民族のためだけを考えた行動ではありません。何のためかといえば、今までお話ししましたように、この世界の幸せや平和のためには仏教が是非必要ですし、その中でも大乗仏教の慈悲の教えや、空と縁起の思想というのは、人類にとって宝のように大切なものであるから、それを守り抜くために必死で闘っているのです。もし、慈悲の教えや、空と縁起の思想が地球上から消滅してしまえば、人類の未来に大変な禍根を残すことになるでしょう。

最後になりましたが、同じ双子の仏教徒として、皆様が私たちチベット人に様々な方法で支援の手を差しのべてくださっていることに、真心から感謝を捧げます。しかし、たとえ目に見える具体的な行動でなくても、心で祈ってくださるだけでも、本当にありがたく思います。今日は最後まで私の話を聞いてくださり、ありがとうございました。

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