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スカラベの愛 三島由紀夫と密教(2)

三島由紀夫の天皇観

私が密教にことよせて三島を考えようというきっかけは三島と唯識の問題であるが、三島の思想に触れようとするともう一つの問題に突き当たる。それはあらゆる視点から論じられてきた三島論に、仏教的視座から論じたものは見当たらないということである。もしも仏教的三島由紀夫論など的外れだというなら、「唯識まで」だった三島の説明がつかないのではないかと私は考える。

三島と密教を語るのに「作家論」や「文学論」は必要ないと思われる向きもあろうが、密教の本質を知るために三島由紀夫は格好の研究対象になるので、いましばらく続けたい。

三島の決起の思想は『文化防衛論』(1968)に明らかだが、それは天皇を中心とした日本の歴史と文化の防衛である。では三島は天皇をどのように定義していたのか概観してみよう。

三島の天皇観は天皇個人を指すのではなく「文化概念としての天皇」である。そのために「天皇の在り方」を問う。いわば「ザインとしての天皇」と「ゾルレンとしての天皇」という二面性でとらえている。ザインとは「かくあり」(事実・実体)ということであり、ゾルレンとは「かくあるべし」(当為)ということである。

三島は近代立憲体制に取り込まれた明治以降の天皇は、もはやその文化の全体性と連続性を喪失したという。したがって日本史上における革命の原理ともなりえる機能を天皇が失ってしまったと説き、その象徴的事件として2・26事件の悲劇を上げている。これは「ゾルレンとしての天皇」を指す。

少しわかりにくいかもしれないので補足すると、まず大日本帝国憲法下における天皇の役割がある。戦前の昭和天皇まで表向きは二つの役割、二つの顔を持っていた。立憲君主としての天皇と、軍の統領としての大元帥である。しかしもう一つ重大な役割がある。宮中の祭祀を司る役目である。昭和天皇はこの宮中祭祀を本当にきちっと守ったことでよく知られている。

2・26事件の皇道派の青年将校たちにとって、すめろぎ(天皇)は皇祖皇宗を祀り、もって国と万民の安寧を祈り奉る現人神であり、大元帥は蹶起したわれら皇軍の忠義・赤心をお分かりになると思い込んでいたのである。

昭和初期の恐慌時、東北地方は大凶作にみまわれ、食料はほとんどなくなり、娘の身売りまでが頻発していた。地方出身者の多い青年将校たちは,この苦境を救済できないのは天皇を取り巻く政治家や財閥たちの責任とし、「君側の奸」と呼んでこれらを排除することを企てた。

これら天皇を覆い隠す黒雲どもを追い払い、日の御子の光り輝く「天皇親政」のもとに、「一君万民主義」を思想とした国家改造を掲げて蹶起したのである。これを「昭和維新」ともいった。青年将校たちにとって、陛下は臣下たるわれら軍人に対して神のごとき美しき天皇でなければならなかった。

日本の歴史文化を体現したこの美的天皇こそが革命の原理となりうる。三島にとっても美は正しいのである。だから天皇は「かくあるべし」なのである。

ところが明治以降の近代天皇からすれば、側近の鈴木貫太郎にしろ、高橋是清にしろ、「股肱(ここう)の臣」が襲撃されたにすぎないのである。このクーデターは「かくのごとき凶暴の将校等、その精神において何の許すべきものありや・・・朕自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当たらん」と天皇を激怒させてしまった。このときの天皇の顔は近代立憲君主である。

2・26事件の悲劇は、軍の統領の怒りによって、よくいえば天皇に忠節を尽くす軍人が反乱軍とされて処刑されたところにある。このときの天皇は皇軍の心情を察する大元帥ではない。自ら政治的行動に立ち上がってしまった天皇に文化の全体性と連続性はないと三島はいいたいのである。

そして戦後、天皇の人間宣言によってさらに「文化の全体性、連続性」は見失われてしまったという。かかる状況下で革命が起きれば「天皇制下の共産政体」という倒錯した事態すら実現しかねない。それを防ぐためには、栄誉大権を復活し、天皇と自衛隊(軍隊)を栄誉の「紐」で繋いでおくしかないというのだ。その天皇とは明治憲法的な「政治概念としての天皇」ではなく、あくまでも「文化概念としての天皇」の復活でなければならないと三島は主張している。

文化防衛論批判

三島が危機を抱いた当時は中国の文化大革命と共産主義を奉じる新左翼学生運動が全国的に荒れ狂っていた。そのような状況下で『文化防衛論』(1968)が出版され、たちまち世間の話題をさらうと、多くの知識人がこれを論評し批判した。文化防衛論批判で唯一三島由紀夫を「ぎゃふん」といわせたのは、橋川文三の『美の論理と政治の論理』(1968)だけである。

橋川は三島の「文化概念としての天皇」という考え方を、幕末国学の尊王攘夷論の現代版と位置付け、一定の評価をしつつも、三島の「文化概念としての天皇」と「政治概念としての天皇」を分けて論じた三島の矛盾を鋭く批判した。

要約すれば、天皇と軍隊の直結を求めることは、直結した瞬間、「文化概念としての天皇」は「政治概念としての天皇」にすりかわり、たちまち「文化概念としての天皇」の非政治性・純粋性は失われるというものである。

これは確かに橋川のいうとおりである。これに対して三島も反論をするのだが(『橋川文三氏への公開状』)、本論の主旨からはずれるので割愛する。私はそもそも青年将校が天皇親政を掲げた時点でこの矛盾は孕んでいたと考えるが詳説は別の機会にしたい。

ここで私が言いたいことはこの論争に参加した知識人の議論内容である。橋川は丸山眞男の弟子だが、孫弟子の宮崎繁明は『三島由紀夫と橋川文三』で二人の議論に参加し、同じく橋川の弟子であった猪瀬直樹は橋川が三島を一方的に論破したものではないといい、また辻井喬は両者の痛み分けであるといい、柄谷行人の三島対橋川の捉え方はまた別である。

さて、『文化防衛論』を批判するなら、その前提として「防衛すべき日本の文化とは何か」、三島のいう天皇中心の歴史と文化とは防衛すべき唯一の妥当性たりうるのか、ということを問わねばなるまい。しかし上記の論争に加わった識者たちに、その前提認識があったか実に疑わしい。猪瀬直樹の『ペルソナ-三島由紀夫伝-』(1995)も力作であるが「守るべき文化とは何か」についての問題意識はない。

私にはただちに次のような疑問が湧き上がってくる。すなわち『文化防衛論』が日本の歴史文化を指すならば、日本文化の基層をなす仏教を排除することはできないのではないかということである。

わが国は聖徳太子の時代から仏教を国家の基本理念とし、聖武天皇の東大寺の建立と、全国にわたる国分寺、国分尼寺の建立に見られるように、国家安寧と衆生済度の仏法を掲げてその下で政治を行ってきた。それは神道と天皇を中心とする王朝文化でもあるが、内実は仏教文化である。

『源氏物語』に漂う浄土思想、『平家物語』の無常感、和歌、連歌などの文芸全般、和風庭園や建築様式、わびさびの茶の湯、能、狂言、剣禅一如の武士道その他の武道全般、枯山水の水墨画や書道など、古代王朝文化から中世禅文化に至るまで、あるいは近世まで濃厚に続いた死生観、来世観、死者儀礼、日本語(日常用語に多くの仏教用語が転用されている)も含めると、有形無形、日本文化において仏教の影響を受けなかったものの方が少ない。

であれば、『文化防衛論』とは、畢竟日本仏教文化防衛論に帰着することにならないか。日本仏教は大乗仏教であるから、つまりは日本の大乗仏教防衛論となるだろう。ところが三島は宗教的には「古神道」である。であれば三島の『文化防衛論』とは天皇+古神道文化防衛論のことかと思ってしまう。

つまり三島の好む王朝文化だけが日本人の精神文化に影響を与えたわけではないのだ。仏教は貴族も含むが民衆の土俗も含む。地下人であった御家人もしかり。武家政権の時代になっても変わらずに、全国津々浦々、わが国全体に浸透してきたのは神仏習合という日本独自の仏教文化ではないだろうか。だから私はここで仏教文化こそ、さらに深くいえば、「密教」こそ守るべき日本文化ではないかといいたいのである。

私がここでいう「密教」とは、広義の意味で仏教伝来以前にあった日本人の基層精神をも含んでいる。神仏習合に顕れているように、日本列島の古代の神々も、仏教(南都六宗)も、儒教も、道教も全て摂取包括した日本密教の根源にある精神性をここでは「密教」と呼んでいる。

空海の密教は日本人の源流ともいうべき心を吸収し生かして、最高度の学問体系にまで洗練した。その上で大乗精神に基づく新しい国家デザイン、いわゆる「弘仁のモダニズム」を推進したところがある。これがいかに偉大なことであるか、「明治のモダニズム」と比較すれば一目瞭然であろう。

文明開化は逆に諸々の古き日本文化を強制的に捨てさせた。その典型が神仏分離令・廃仏毀釈である。つまり千年以上磨いてきた日本の文化を捨て、日本人から宗教心を奪い、代わって実学と合理主義を目指した。選別と効率と実証という西欧的な価値観に切り替えたのである。

そして宗教はもっぱら「国家神道」という天皇一神教に収斂して国民国家を形成した。列強の植民地化をかわした明治政府の功績は十分に評価する。だが木に竹を接ぐような近代化はいずれ制度疲労を招く。太平洋戦争の敗北は、長期的に見れば明治の拙速な近代化の無理が祟ったと見ることができる。

現代、国際社会における日本の未来を見据えれば、私は守るべき日本文化の根源を、融合と調和・共存の密教的精神に求めるものである。これは私の「文化防衛論」である。

確かに日本文化をさかのぼれば『古事記』に記される天孫降臨・国譲りから始まる。しかし稲作の神(弥生文化)は前2~3世紀の頃である。それ以前の1万5千~1万年にわたる日本列島は、狩猟・採集の縄文時代ではるかに長い。しかも稲作の神(天皇)ではなく、彼らは森の神を崇めていた。すなわち自然神であって、いわば密教的世界に生きていたのである。

「稲作の神(大和朝廷)」が全国を制覇した時、あくまで「森の神」に従おうとした本州最後の縄文人が長野県諏訪地方に群集していた。現在の御柱の祭りを継承する氏子たちの祖先である。この異質な二神は、しかし合流し共存することによって日本列島に新しい文化を生み出した。かくして稲作の古神道森の原始神道は融合していった。

私はこのおおらかさと融通性が、後に外来の仏教を採り入れながらも神仏習合という独特の思想に止揚した日本人の知恵だと考える。そして真に防衛すべきは、この異質なものを呑み込み新しい文化を形成する、まさにその密教的な精神文化であるといいたい。

三島は共産主義から日本を守るために天皇という文化概念を日本の体制の中心に置こうとした。しかし時代はよりグローバル化している。世界に拓く日本文化の概念に新たな工夫が必要なのではないか。

仏教的文化防衛論批判

先に仏教的立場から論じた文化防衛論批判はほとんどないといったが、実はあるにはある。真継伸彦の『文化防衛論批判』(1971)、『三島ロマンチシズムの崩壊』(『朝日ジャーナル』1970 年12月13日号)がそうである。特に後者は三島の『文化防衛論』をズバリ「彼の日本文化の偏見を、仏教という側面から批判したい」と宣言している。

しかし両論文とも天皇制を称揚した三島由紀夫に対する反発と批判であり、防衛すべき文化とは何かという問題意識はない。

真継は「能や中尊寺の仏像や禅が何故(なにゆえ)に菊というイメージに抽象できるのかわからない。天皇制に強引にむすびつけようとするこの恣意的な抽象の仕方にまず疑念をいだく。しかしそれ以上に、三島が何故に日本文化の全体を肯定しようとするのか、文化におけるこの全体主義に疑念をいだく」といい、「文化のなかには厭(いと)うべき淫(いん)祠(し)邪教のたぐいも多々ある(略)切腹や斬首が、保存すべき日本文化なのだろうか?」といい、「一民族の文化のなかには排斥すべき要素もあるのだ。また高低の差もある」と反論する。また「いとうべき文化性を体現する者(つまり三島)はいとうべき人間でしかない」と切って捨てる。(『文化防衛論批判』)

私は真継が批判するような全てを肯定する全体主義の問題とも思えなかった。三島はこの文章でルース・ベネディクトの『菊と刀』を引いているが、『菊と刀』とは「文武両道」のことである。三島は「菊」の耽美と、「刀」の野蛮を同時に愛する、つまり相反する価値を同時に包摂する日本人の両義性に「日本的なものが透かし見られる」といったのである。これを菊(皇室)があるから全体主義だというのは偏見に過ぎないか。そして「いとうべき文化性を体現する者」と決めつけるのはどうかと思う。

真継にはどこか傲慢なものを感じる。「文化の中には排斥すべきもの、文化には高低がある」というが、ではその判断は誰が何を基準に決めるというのだ。例えばイスラム教の文化は低く、キリスト教圏文化が高い、いやその逆であるなどと言い切れるのか。

「私は情念から出発した三島由紀夫の文化防衛論を批判するために、体験から出発し、体験がしだいに深めてくれる私自身の文化防衛論を語りたい。情念の合理化のための彼の文化防衛論は一見普遍性をそなえている。少なくとも普遍を志している。もともと神道と仏教と儒教という三思想の複合体であるはずの日本文化のなかから、迷信にみちた神道のみを根幹とする天皇制を強調し、擁護する彼の文化防衛論に普遍性などあるはずはない」(『文化防衛論批判』)とバッサリである。

迷信にみちた神道のみを根幹とする天皇制とは何を意味するのか?もし天孫降臨の日本創生神話を指していうのであれば、このような事例は世界各地にある。世界の歴史はすべて「神話」を根幹にしているといってもいい。ヒストリーの語源は「彼(神)の物語」のことである。であればキリスト教圏は迷信に満ちた文化であろう。ローマ・カトリック教会もギリシャ正教も擁護すべき普遍性などないことになる。

さて、情念ではなく「体験」から語る真継の仏教とはどのようなものか。論文の3分の2にあたる後半は仏教に出会って感動した個人的な体験談である。仏教が真継を魂の深みに誘ったものは、何と『歎異抄』だという。私は甚だ失望した。

『歎異抄』から親鸞の挫折と絶望に深く感動したといい、「私と仏教の出会いの体験はつねに絶望があり,絶望が私を仏教にいざない、仏教は私を絶望させるのである」というのである。これは要するに、自力本願に挫折した親鸞の絶望に真継自身が共鳴したということにすぎない。これを仏教との出会いというには学識者としてはあまりにも稚拙である。

親鸞のあとは「百尺竿頭(かんとう)」や「野(や)狐(こ)の公案」など、臨済禅の『無門関集』に対する自分の体験談や解釈などの披瀝である。『文化防衛論』について仏教哲学を掲げて正面から挑もうという姿勢も立論の形跡もない。

真継は最後にこのように述べる。

「三島由紀夫は日本文化のなかに、ひとつでも同様に崇高なもの、自身を絶望させるものを発見したことがあるのであろうか?私はなかったと思う。彼の理知的で普遍をよそおう文化防衛論のなかには、日本文化に対する愛や敬意すら語られていない」と、コテンパンに断じるのである。(註:文中「ひとつでも同様に崇高なもの」とは、真継が感動した奈良・鎌倉時代の仏像群をさしている。平安時代と密教美術にはまったく触れていない)。

「自身を絶望させるものを発見したことがあるのであろうか?」これこそ愚問である。絶望を発見しない人間が自殺などするわけがなかろう。三島は自殺した。絶望があったからではないのか?まずはその絶望に寄り添おうとすることが仏教的三島由紀夫論と呼べるものではないだろうか。

私の一連の物言いは三島由紀夫擁護に聞こえるかもしれないが、仏教的立場から論じるなら否応なく三島の魂に寄り添わんとする立場に立たされる。「切り捨てること」ではなく「寄り添うこと」なのである。批判は批判でまた後でする。

申し訳ないが、三島は真継より遥かに仏教を勉強し、その本質を理解している。唯識一つとっても相当に詳しい。彼は仏教を理解しようとし、その上で自殺した。何故か?つまり三島の死は、「仏教は三島を救えなかったのか」という重大な疑問を呈しているのだが、真継にその問題意識はない。

私は三島由紀夫の自殺の本当の理由を探ろうとしている。真継も同じような疑問をもってこのようにいう。「私は最後に、三島由紀夫の自殺の、真の原因と思われる事柄に言及したい。明晰な自意識家である彼は、これまで私が指摘したことぐらいのことはすべて承知している。死とエロチシズムとの合一も、予知すればばかばかしいことぐらいはとうに知っている。にもかかわらず決行したのだが、作家の自殺の根本原因は、文学の自信をうしなったこと以外にない」と結論づけている。

仰天した。「文学の自信をうしなったことが自決の根本原因」だとは、何と凡庸な分析であることよ。これが仏教という側面から批判した三島論だというのである。自殺の原因が文学の行き詰まりとは、もっともありふれた素人級の論評である。

こうなると仏教を持ち出した理由は、三島批判にことかけてちょっとばかり『歎異抄』や禅の知識を披露したかったとしか思えなくなる。要するにまともな「仏教的文化防衛論批判」は私の知る限り見当たらない。(ちなみに真継伸彦は高橋和巳・小田実・柴田翔らと同人雑誌で活動した作家・元大学教授)

三島由紀夫と『葉隠』

戦時中多くの若者が自己の死生観の拠り所とした『葉隠』は、同世代の三島も感銘を受けて折につけて愛読したという。「武士道というは死ぬ事と見つけたり」という有名な一句から、三島事件はこのような武士の生き方を真似た時代錯誤の政治的行動として見做されることもある。

しかし『葉隠』は「政治的な理念」に基づくものではない。武士の生き方の哲学である。死ぬ事が生きる事だというのは武士にとっては矛盾ではない。常住戦場の心構えをもつ武士にとっていつでも死ねる覚悟をもつことが生の哲学なのである。それを武士道の美学と考える。その内実は公(主君)に殉じることである。それは忠節、献身、正直、潔さ、卑怯を憎む等々の武人の道徳でもある。

吉田松陰の「君は功業をなせ、我は忠義をなさん」という言葉も、武士はよりもに生きるべしという武士道の美学に貫かれている。三島事件も事の成否(政治行動)よりも、行動の美学に貫かれている。であれば三島の死は政治的な死ではなく美学上の死というべきであろう。そのことを思えば、三島が『葉隠』を愛したもう一つの理由が浮かび上がってくる。それが「忍ぶ恋」である。

『葉隠』は「忍ぶ恋」こそ丈の高い恋であると絶賛している。「これを秘すれば花なるべからず。恋の至極は忍恋と見立て申し候。逢ひてからは、恋のたけがひくし。一生忍びて思ひ死するこそ、恋の本意なれ」とある。

三島の『葉隠入門』(1967)によると、『葉隠』の「恋愛哲学」とは、「恋」と「忠」が献身や自己犠牲を指す同義の観念として主張される。人間の恋の至純で最も激しいものが、そのまま主君に対する忠義に転化されるというものである。「一生忍びて思ひ死にする恋」、つまり主君に対する臣下の恋狂いである。三島が熱烈に求めていたものではなかったか。

三島は最期に宮中に向かって「天皇陛下万歳」を叫んだ。このとき三島の胸中にあったのは今上天皇個人ではなかった。日本の伝統と文化と美の体現者としての美しき天皇(ゾルレンとしての天皇)であった。三島は仁愛深き父なる天皇を求めていたのではないか。言い換えれば 天皇の愛を恋いしていたのである。

では日本的な父なる天皇の愛とは何か。ここに長谷川三千子(哲学者・埼玉大学名誉教授)の非常に示唆に富む分析がある。三島由紀夫・森田必勝両烈士四十三年祭で「三島事件を振り返る」と題して氏はこのように語っている。少々長いが再現する。

「・・・この三島事件というものは、決してただ単純に三島由紀夫個人が、何か勝手なことを思いついて起こしたという、そういう出来事ではない。何かこの昭和45年11月の日本に、ある精神史の電流のようなものが流れていて、本当に敏感な人はそれを感じ取ることができた。この電流は、あるいは三島さんから発していたのかもしれないし、あるいは三島さん森田さんはその電流にもっとも激しく反応して自らを燃やし尽したのかもしれない。しかしこの昭和45年の文芸11月号を見てみると、何か変な言い方なんですが、三島事件というものは、いわば精神史の上での必然の出来事として起こった出来事といえるんじゃないかという気がします。じゃあここで、夏目漱石の『こころ』の中で、先生が「その血を浴びせかけてあなたの中に新しい命が宿れば」といった、その血を浴びせかけることによって伝えようとしたものは、いったい何なのかということ。これはまた大きい謎として浮かび上がってくるんですね。(中略)何か非常に直感的に浮かび上がってきた答えは、日本人、あるいは日本というものは、国民と天皇が互いに命を差し出しあう、それが日本の国柄なんだという、このことが三島由紀夫の自刃の意味ではないか、そういうことが直感的に頭に浮かんだ(中略)三島さん自身は自分の命を捧げものとして捧げた。そういうことを大伴家持の万葉集の古い長歌、海(うみ)行(ゆ)かば、水漬(みづ)く屍(かばね)、山行(ゆ)かば、草生(くさむ)す屍、大君の辺にこそ死なめ、かへりみはせじ、この歌をいわば行動で体現した、というふうにも受け取ることができる。これはわかるんだが、なぜそこに、天皇陛下が私たちのために命を差し出して下さるという、どこからそんな感想が湧きだしてきたのか、当時全く思い浮かべることができませんでした。ところがだんだんいろんなことを考えて、昭和20年8月15日の意味というものは何なんだろうということを考えるうちに、この8月15日に向けて、ポツダム宣言の受諾を、昭和天皇ご自身が決断なすった。もう、内閣は真っ二つに意見が割れて、鈴木首相が、これはもう内閣では決定できません、これはもう陛下のご聖断を仰ぐほかありません、と持ち出してはじめてポツダム宣言の受諾が定まったわけであります。そしてこのポツダム宣言の受諾というものは、当時の国際社会というものを、客観的に振り返ってみると、99パーセント天皇陛下が連合国の手にかかって処刑されるという、そういう決断を天皇陛下がなされた。これが1パーセントの可能性で天皇陛下の処刑が起こらなかった、これも奇跡的なことなんですが、この、天皇陛下が我が身を捨てるというご決断で、われわれ戦後の日本人の命がつながっている。ふつうは8月15日と11月25日というものはそれぞれ全く違った時間というように考えられている。しかし、考えてみるとこれは本当に三島由紀夫さんが昭和45年11月25日に自らの行動で示した日本の国柄というものは、本来国民が天皇のために命を捧げる、そういう国体である。そしてそれと表裏一体となって、身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて、とおっしゃって戦争終結を決断する。それが一体になっているのが日本の国体というものではないか、そしてこのことはいってみればただ頭で理解するべきものではなくて、まさに『こころ』の中の先生が遺書に書いたように自らの心臓を破ってその血を相手方に浴びせかける、こういう形を以てはじめて世代から世代へと伝わる。そういう非常に難しい、しかし大切なことがらだったんではないか。今の私はこの出来事をそんなふうに振り返っております。そしてこの三島事件というものは、これからも、10年、20年、50年、100年と,なおまだ、汲めど尽きせぬ謎の海としてわれわれの前に広がり続けるであろう。そんなふうに思っております」

三島のいう日本文化の源泉たる天皇とは、長谷川三千子のいうような民と天皇の間における父子の情愛・紐帯、血脈のようなものの存在を指しているのかもしれない。これは他国の君主制にはあり得ないことである。日本国民は天皇のためにすすんで死地に赴くというのである。

先の対日戦争でアメリカが一番恐れたものは、この恐るべき忠誠心であったろうと思われる。そして戦後、マッカサ―が天皇と対面して驚愕したのは、天皇の口から直接聞いた自己犠牲の言葉。君主が大衆のために命を投げ出すという、アングロサクソンの文化では考えられない君主の在り方であった。

他国の政府が日本人を心底怖れているものがあるとすれば、ただ一つ、先の戦争で見たこの日本の国柄であったことにおそらく間違いはない。三島の「文化防衛論」とはこの国柄のことだったのかもしれない。

三島は最後の砦である日本人の魂だけでも護ろうとして自刃をしてみせた。しかしながら私は、国民が天皇に命を差し出すという愛の示し方を、昭和天皇が望まれていたとは思えないのである。ここにズレがあったように思われる。

陛下をお護りするかつての皇軍の将校はいつでも陛下の御馬前で死ぬことを喜びとした。しかしズレである以上、行き着くところは慟哭の恋闕(れんけつ)でしかないだろう。そのことは2・26事件で蹶起した青年将校たちの忠誠心が天皇に通じなかったことで明らかだ。

「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」というくだりで有名な「軍人勅諭」に青年将校たちは忠誠を尽くした。ならばせめて軍人として辱めるような処刑をせずに、蹶起せざるを得なかった彼らの心情に涙を流してひと言「死ね」と言うべきである。さすれば彼らは喜々として腹を切ったであろうという三島は論理的である。

「軍人勅諭」のなかで、神武天皇自ら兵を率いて国を平らげたという国の興りを説き、天皇が「軍の総帥である根拠」を勅諭している。つまり天皇家は元々武門の家柄であることを説いている。青年将校たちの忠義もまさにそこにあった。だから天皇は武門の統領らしく「かくあるべし」という三島は筋が通っている。

しかし歴史の現実は、700年間続いた武家政権において「武」の精神は武家社会に移り、古来神事(宮中祭祀)を中心的に執り行う皇室は、歌を詠み「文」を好む貴族化した雅の世界へと変貌している。

王政復古の大号令以降に、突然、再び「防人の統領」に押し上げられた天皇に「武門の統領として」美しき天皇であれと望むのは、まるで初恋の女性に永遠の美を求めるようなものではないか。これは片思い、一方的な恋ではないか。恋の正体は自己愛である。

このすれ違う感情が三島の生涯を「生きることも死ぬこともできない」絶望の淵に追い詰めていくのである。では「このすれ違う感情」とはどのように形成されたのか、次回は三島由紀夫の深層心理と密教について考察したい。

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