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スカラベの愛 三島由紀夫と密教(1)

三島由紀夫と唯識

高野山大学大学院で某教授(密教僧)と仏教と文学について話していたとき三島由紀夫が話題に上ったことがある。そのとき教授は「三島は唯識までですから」とさらりといわれた。私はそのときまでまったく知らなかった。

三島由紀夫の仏教理解が「唯識」を中心としていることは、最後の作品『豊饒の海』(1969~1971)によって広く知れわたったようである。実は私は教授にいわれるまでこの作品を読んでいなかったのである。仏教に関心のある人ならこの長編小説のバックボーンに唯識思想があることを理解する。

特に第三巻『暁の寺』ではリグヴェーダから大乗仏教に発展していくインド哲学の歴史が説かれる。アビダルマから子細に説かれる唯識学の精緻な講義、その中で輪廻と無我の矛盾、倶舎論と異なる点など、主人公の息詰まるような哲学的自問が延々と展開され、仏教に不祥な読者でもこのあたりから気がつくだろう。

『豊饒の海』四部作は、各巻ごとに時代と背景と環境の異なる独立した物語として完結しながら、それぞれの主人公が歴史の流れとともに輪廻・転生の不思議な縁で繋がるという、近代文学史上かつてない新しい文学的構成を試みた、三島由紀夫畢生の大長編である。

三島はこの作品をライフ・ワークとし5年の歳月をかけた。そして、それはそのまま三島由紀夫の絶望的な人生観の集大成であると私は思う。三島は最終巻『天人五衰』を書き上げたその日に自殺した。

もし三島が本当に「唯識まで」だったのなら、それは何故なのか。あの頭脳明晰な三島がどうして第六住心の唯識から先に進もうとしなかったのか。三島が密教を知らなかったわけではない。『豊饒の海』の中にも両部曼荼羅の解説があり、他の文章にも顕教と密教の違いに言及したものもある。にもかかわらず、三島が最期に唯識にこだわったのは何か特別な理由(わけ)でもあったのだろうか。以来、教授の言葉が私の心の片隅にひっかかっていた。

学生の頃、当時流行作家であった三島の小説を読んだ経験はあるが、私には難解すぎてあまり理解できなかった。三島の年齢をとうに超えた歳になって空海に出会った私は、改めて三島由紀夫と第十住心(密教)まで極めた空海との相違が、そもそもどこにあったのか考えてみたいと思うようになったのである。

三島は天皇を中心にした『文化防衛論』(1968)を書いている。空海も天皇を中心にした済世利民の日本国家経営に尽力した。しかし改めて二人を対置してみると、天皇に寄せる思い、国家に寄せる思い、民衆に対する思い、生き方に対する思いがおよそ真反対の様相を呈していることに気づく。それは昼と夜、生と死、彼岸と此岸ほどの違いがあるように思われてくるのだ。

この相違の根本原因は何か。それを見極めることは密教の現代的な意味を顕在化する一助になるのではないか。以上のような予感から「三島由紀夫と密教」について考察してみたいと思った。そのために、まずはしばらく三島由紀夫の世界を概観したい。

三島由紀夫と憲法改正

三島由紀夫は大正14年(1925)に生まれ、昭和45年(1970)に45歳で没している。大正14年は昭和元年であるから、昭和の年号と自分の満年齢が一致するなかで、文字どおり昭和の年代とともに生き、戦中・戦後の日本を見つめてきた稀代の作家である。

昨年(2015)は生誕90周年、自決から45周年という三島由紀夫年譜の節目であった。そのためメディアや出版界で特集が組まれ、またぞろ新たな三島由紀夫論が書店に並んだようである。

60代以上は知っているが、三島由紀夫を知らない世代のために少々補足したい。日本の高度成長が離陸した60年代後半、若い男性向けの『平凡パンチ』という週刊誌が絶大な人気を集めていた。その昭和42年5月8日号に「ミスターダンディはだれか」という人気投票の結果が掲載された。

第一位は三島由紀夫で19,590点。第二位は三船敏郎18,870点。「世界のミシマ」と「世界のミフネ」が断トツである。第三位以下は一桁落ちて伊丹十三7,950点 石原慎太郎7,350点 加山雄三7,320点 石原裕次郎 4,557点、以下に西郷輝彦、長嶋茂雄、市川染五郎、北大路欣也と、いわゆるカッコいいスターが続く。この投票結果からも知れるように、ノーベル賞候補作家の三島由紀夫は、例え文学に縁のない若者の間でも有名だった。

この人気投票の3年後、作家人生の絶頂期にあった昭和45年(1970) 11月25日、彼は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決を遂げた。三島は「盾の会」の制服を着用し、会員4人を連れて東部方面総監益田兼利を表敬訪問した。そのとき指揮刀という名目で軍刀(関の孫六)を吊って営門を通過している。総監室で応対した益田総監を人質にとると、総監室のバルコニーの下に自衛隊員を全員集合させるよう要求をつきつけた。バルコニーに立った三島は約千人の隊員たちに向かってクーデターを促す「檄」を飛ばした。このときの騒然たる様子は全国にライブで放映され、当時私も食い入るように見ていた。(今はYouTubeで視聴できる)

自衛隊員に撒かれた「檄文」には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして日米安保体制化での自衛隊の存在意義を問い、憲法改正による自衛隊の国軍化を促している。

三島は「三島帰郷兵に26の質問」(サンデー毎日 1967年6月11日号)でこのように語っている。

「私は、私の考えが軍国主義でもなければ、ファシズムでもないと信じています。私が望んでいるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民とのあいだの正しいバランスを設定することだけなんですよ。(中略)政府がなすべきもっとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値をはっきりわけてPRすることである。たとえば安保条約下においても、どういうときには集団保障体制のなかに入る、どういうときには自衛隊が日本を民族と国民の力で守り抜くかという"限界"をはっきりさせることです」

現在わが国は安全保障問題が論議されているが、三島は半世紀近く前に提起していた。三島は戦後の日本が、日本国憲法第9条を改正しないまま、「解釈」で「縄抜け」するという論理的なレトリックに、日本人の欺瞞と腐敗と自尊心、自立心の欠如を見ていた。この精神的空洞化の最大の要因は、自国の安全と生存を他国民の信義に委ねるという他律的な日本国憲法の精神にあると思っていた。しかし憲法改正には国会の3分の2の議決と国民投票の過半数の賛成が必要である。当時は事実上改憲不可能な高いハードルで、これを突破するには三島は非合法の革命しかないと考えたのである。

日本国憲法第9条の2項があるかぎり、自衛隊は「違憲の存在」でしかない。また「交戦権の否認」を規定しながら、一方ではいかなる国も自衛権はあるという。まことにわかりにくい憲法なのである。

三島は日本の安全保障を担っているのは憲法第9条ではなく在日米軍であるという事実に目をふさぐ日本人、水と空気と平和はタダだと思っている非現実的な平和主義者たち、理念さえ高ければ他国が攻めてくることはないと主張する護憲論者たち、それに迎合するマスコミや左派言論人たち、これらをひっくるめて、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の源流をなしているのはこの護憲精神にあるとみていた。かくなる上は・・・、彼はそう考えて、直接自衛官に訴えたのである。

三島は「健軍の本義」とは何かと問いかけた。このままだと諸君たちは永久に米軍の傭兵のままである、自衛隊はみずからの存在を否定する屈辱的な憲法を跳ね返して立ち上がれ、諸君らは「護憲の軍隊」のままでよいのかと問いかけた。「愛する歴史と伝統を守るために、これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか」とも突きつけた。

しかし三島の本当の狙いはクーデターの成否ではなく、日本人として守るべき価値は何かを考えてほしかったのであろう。三島の自決は戦後日本に対する義憤であり抗議の諌死でもあった。

バルコニーの演説でも「諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫していた。「檄文」でも、「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか、生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の存在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」と訴えている。

だが三島に呼応した自衛官は一人もいなかった。それどころか、三島の血を吐くような絶叫は、バルコニー下に集まった自衛隊員の激しいヤジと怒号にかき消されほとんど聞き取れなかった。私はせめてしばし静聴してやれぬものかと腹立たしい思いでテレビ中継を見ていた。

三島と同時代の言論人吉本隆明も同様な感想をもったそうだ。「・・わたしなどの印象では自衛隊の存在を認め、親和感をもち、体験入隊のかたちで軍事訓練に参加したりしていたのは三島由紀夫と『盾の会』の隊員だけで、自衛隊など市民社会では日陰者的な存在と思われているだけだった。せっかくまれな同調者が語りかけているのに、聞くだけ聞いてやるのが礼儀なのにとおもえた。」(『檄のあとさき』1990新潮12月号)

総監室を占拠された上、最高指揮官である益田陸将を監禁されていると知った隊員たちは怒りに燃えており誰一人彼の主張に耳をかそうとする者はいなかった。バルコニー下の千人余の自衛官は興奮した「群集」であり、寄り集まった「群衆」でしかなかった。

あとで判明したことだが、これは総監を人質にとった三島の要求を市ヶ谷本部が額面どおりに受け入れたためである。要求書には「11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること」と記されており、要求通りにしないと「総監を殺害して自決する」とあった。吉松防衛副長は要求書にしたがい隊員を集合させた。副長の命令を受けた部下が構内放送で「業務に支障のない者は本館前に集合せよ」と通達、命令なのかどうかわかりにくい指示に隊員が従ったためこのような事態になった。

普通なら部隊ごとに命令が下され整然と行動するが、この場合指揮命令系統がはっきりしない。したがって隊員は漫然と集まって次の指示を待つというような状態だった。これは三島の要求書における不備である。一言「三島の演説を隊員に静聴せしめること」と挿入すべきであった。

上層部には三島と親和的な将校が多いので、ともかく言い分を静聴させることぐらいはできたはずである。隊員は命令とあればそれに従う。決して群衆にはならない。

一説には当日市ヶ谷の精鋭部隊(第32普通科連隊)は富士演習場に出かけており、連隊の残留部隊はわずかで、あとは通信・資材・補給などの、いわゆる「武士でない」自衛官が主流であったため、三島の「檄」が通じなかったという説もある。しかし私は例え第一線の精鋭部隊が静聴したとしてもやはり決起することはなかったと思う。

なぜなら自衛官は「憲法と法令の遵守」を義務づけられた国家公務員であるから原理的に無理なのである。これは軍部が独走した先の戦争経験に懲りた私服組が、戦後に考え出したシビリアン・コントロール制度の成果である。つまり国家に「自らの存在を否定する軍隊たれ」といわれれば、ことに臨んで命を賭ける自衛官は素直にそれに従う。軍人アレルギー日本国にとってはまことに安全な軍事組織が自衛隊なのである。

戦後の吉田茂総理が日本の防衛はアメリカ軍に任せて、ひたすら国内の経済成長を目指すという国策を、世界第二位の経済大国になったこの時代まで踏襲していたのである(現在も同じだが)。三島のいう健軍の精神とは、自らの国の独立と安全は、まず自らの意志と努力で守るという国家精神のことであった。

三島由紀夫は、決起の2年ほど前から「盾の会」(志願制の祖国防衛隊)を創設していた。会員を率いて陸上自衛隊に何度も長期体験入隊をし、さまざまな戦闘訓練を受けていた。その間、指導教官や自衛隊員たちと寝食をともにし、ともに汗をかき、その規律正しい生活体験から、日本で武士の魂を引き継ぐ集団は、もはや自衛隊しかいないと思い定めていた。

近年は度重なる災害派遣やPKOなどで自衛隊の存在意義は国民に定着してきたが、70年当時は自衛隊に対する国民感情は決して好意的なものではなかった。自衛隊は違憲であり、廃止すべきだという世論が大多数であった。政府与党の解釈論という「こじつけ法律」で正当化された自衛隊は、日本国憲法の生んだ私生児だと蔑まれ日影者扱いたった。自衛官が制服で街を歩くと唾を吐きかけられることさえあった。

そのような風潮の中、防衛庁(現防衛省)は国民の理解を得ようと、「親しまれる自衛隊」をスローガンにして広く自衛隊を民間に宣伝していた。規律ある集団生活を目的とした合宿や企業の社員研修など、民間人の体験入隊を積極的に受け入れていた。わけても三島由紀夫のような有名な文化人はPR効果もあり、三島の願い出た軍事訓練の体験さえも特別な計らいで受け入れていた。(現在はこういうことはない)

自衛隊との交流から、三島は自衛隊を愛し、その法制上の矛盾を不憫にも思えばこそ、このような行動に出たとも叫んだ。しかし自衛隊に彼の夢見た「武士」は現れなかった。そのことを見極めたのか、怒号の中の演説を途中で打ち切ると、最期に天皇陛下万歳を叫んで壮絶な割腹自決を遂げた。介錯は「盾の会」学生長・早大国防部の森田必勝(まさかつ)である。彼も三島の後を追って切腹した。

三島事件の衝撃

このハラキリ事件は日本のみならず世界中に衝撃を与えた。日本を代表するノーベル賞候補作家の自決である。国内では三島の割腹自殺のニュースを聞いた青年がショック死したくらいである。街の書店の棚からは三島由紀夫の作品が一斉に消えた。増版を重ねても瞬く間に売り切れた。新聞・週刊誌・月刊誌などあらゆるメディアは特集を組んだ。言論人の多くはこの事件を前にしてしばらく呆然としていた。それほど衝撃を与えたのである。

ただ小説家では司馬遼太郎が事件の翌日さっそく論評している。執筆動機は「この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」といい、「三島由紀夫は死をもって自分の思想を純粋に表現しようとした精神的発作だ」といった。

「この行動は、思想に殉じた松陰のような歴史的な系列にあるのではなく、有島武郎、芥川龍之介、太宰治と同じ系列で、異常性がもっとも高いというだけの、そういう位置に確固として位置づけられるべきもので、松陰の死とは別系列にある」と論評した。また「三島氏の狂気は,天上の美の完成のために必要だった」ともいった。(『異常な三島事件に接して』「毎日新聞」1970/11/26)。司馬遼太郎は要するに精神異常の死と見たのである。

当時の中曽根康弘防衛庁長官は防衛庁で開かれた記者会見で、この事件を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊するもの」と批判した。佐藤栄作総理も、「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」といかにも政治家らしいコメントをした。しかし司馬は政治家ではない。むしろ時に反権力であり、人物を描くことを生業とする小説家である。であれば精神異常者の模倣を心配するよりも先に、同じ作家として、三島は何を訴えたかったのか考えようとは思わなかったのか。

多くの文士や言論人がまだ三島の死の意味を咀嚼しかねているさなか、彼は実に冷静で自信に満ちた論評をしたものある。司馬は論評の結語で三島の死に対する悲しみを表明しているが、それは「二度とでないかもしれない文学者を失ったという悲しみにどう堪えていいのであろう」と締めくくられている。(同新聞論評)

私には、何か世界遺産でも失ったような一般的な悲しみであり、三島個人の死を悼む気持ちは素直に伝わってこない。多くの文壇仲間が行動の是非はともかく、まずは三島由紀夫の死を悼んでいるさなか、司馬のこの感覚といい、この評論の異常な速さといい、事件ニュースを速報してそれを解説するジャーナリスト(元新聞記者)の性格が出たなと思った。私は「聞くだけでも聞いてやるのが礼儀だ」といった吉本隆明の感覚の方が同業者としてよほど人間的だと思う。

三島は認識の人である。理知の人である。物事の本質を見抜く人である。徹底した意識の人でもある。精神異常の発作を起こすような人間ではない。世の中は三島事件について賛否両論さまざまな論評で溢れかえったが、さすがに「精神異常者」呼ばわりしたのは政治家だけで文士や評論家にはいなかった。三島の人物像から大きく外れることを誰もが知っていたからである。

では三島の抗議の死は、戦後日本の一体何に悲憤慷慨したのか。『英霊の声』(1966)がそれを明かしている。これは2・26事件の将校や特攻隊で死んでいった英霊たちの、「人間宣言」をした天皇に対する呪詛の声である。俺たちはこんな日本を作るために死んだのではないという、英霊たちの抗議の声である。道徳心を失った戦後日本への憂国の声でもある。空海の十住心でいえば「異生羝羊(いしょうていよう)」の群れ集う祖国への怒りの声である。

私は『空海の仏教総合学』(長澤弘隆著2015)第一章・「人間の強欲を問う」で書かれた現代日本の世相を読みながら全くそのとおりだと思った。「悪行がまかり通る日本」「自我の主張が人間らしさだと勘ちがいした日本人」の各項で描かれた世相、それに対する筆者の秘められた公憤は心ある日本人なら誰もが共感するであろう。そして三島の『英霊の声』を髣髴とさせるものでもある。

三島由紀夫と「盾の会」

右上の写真は「盾の会」の制服を着た三島由紀夫である。「盾の会」は、会員が百名にみたない、そして武器を持たない、無給の、世界で一番小さい民間の軍隊で三島が創設したものである。国内で共産革命が起こりそうになった時、市街戦などにおける情報収集などを受け持って自衛隊に協力する民兵組織であると三島はいっている。会員になるには、陸上自衛隊で一か月の体験入隊による軍事訓練を受け、落伍せずに勤め上げた者とされている。三島は「盾の会」の創設と運営に現代の金額で一億円に近い私財を投じている。

三島の抱いた時代の危機意識は現代人にはピンとこないだろう。当時の革命思想の流行を念頭に置かないと現代ではなかなか理解しづらい。中国の文化大革命は1966年から始まっており、朝日新聞は大礼賛一色の報道であった。対抗して「盾の会」の第一期生が陸上自衛隊に体験入隊したのが1968年である。その当時は共産主義を奉じる新左翼学生運動が全国的に荒れ狂っていた。彼らは武力闘争を掲げ、反日武装戦線を広げようとしていた。対して「盾の会」は早大国防部のメンバーを中心に全国の民族派組織の学生で結成された。

1969年(昭和44年1月18日)全共闘や新左翼学生らが東京大学安田講堂を占拠する安田講堂事件が起こった。(これもYouTubeで視聴できる)日ごろ「革命闘争に命をかける」だの、「命を捨てる」だのと口にしていた左翼学生らが、警視庁機動隊との激しい攻防戦において、実際に思想に命を賭けた東大生は一人もいなかった。

左翼学生の口先だけの大言壮語に対し「盾の会」は三島と共に本当に思想のために命を賭けた。リベラル派言論人は「盾の会」を「玩具の兵隊」だのと嘲笑っていたが、市谷事件が起きた時、その本気度に気がついたのである。

京都大学パルチザン指揮者の滝田修は、「われわれ左翼の思想的敗退です。あそこまで体を張れる人間をわれわれは一人ももっていなかった。動転したね。新左翼の側にも何人もの"三島"を作らねばならん」と語っている。(『日録』1996 )

三島は目的のためには手段を選ばぬ左派過激派の危険性から、はっきり言えば、日本列島の外から彼らを操る共産主義勢力から日本を守ろうとしていたのである。

三島はまたアメリカの金融政策に絡め取られた日本をも憂えていた。三島はニューヨークタイムス東京支局長宅の夕食会に招かれた折、日本から精神的伝統が失われ、物質主義がはびこってしまったといい、「日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない」と、自決の3か月前に語っている。これは元『文芸春秋』編集長・堤堯によって明かされた。

「緑色の蛇」とは何か。この謎めいた言葉を氏はドル紙幣のことではないかと推測している。アメリカの俗語でドル紙幣をグリーンバックという。通貨は主権である。氏はマイケル・ハドソンの『超帝国主義国家・アメリカの内幕』を引きながら、世界をペテンにかける巨大債務国のカラクリを紹介している。なるほど蛇は西洋で商業のシンボルである。

『英霊の声』に込められた呪詛は ドル支配を拝跪して魂を失っていく日本人に向けられている。「なべてに痴呆の笑いは浸潤し・・・魂の死は行人の額に透かし見られ・・・外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ・・・ただ金(かね)よ金よと思いめぐらせば人の値打ちは金よりも卑しくなりゆき・・・」

自決の4ケ月前には、三島はこのように警告している。

「・・・このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本は亡くなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」(『果たしていない約束―私の中の二十五年』)

三島を精神異常者扱いした司馬遼太郎も、晩年の『この国のかたち』では三島と同じように日本を憂えている。そして日本は三島の予言通りになってきた。いや、多くの国民が気づいているように、もはや経済大国の地位すらも危うくなってきた。

かつて日米の経済戦争が取り沙汰されていたころ、金余りニッポンの企業家はアメリカ中の企業や不動産を買い漁った。三菱地所はアメリカ人の魂と言われたロックフェラービルまで買い占めた。世界の名画なども単なる資産形成のために買い漁った。そしてバブルが弾けた。現在そのほとんどが買値以下でアメリカに買い戻され、大損したのは日本。まるで太平洋戦争の逆転大敗を思わせる。

また近年は、戦中派の先人たちが敗戦の悔しさから汗と魂をこめて育ててきた日本の名門企業が次々と外国資本に買い叩かれていく。ソニーはこの10年間赤字を垂れ流してリストラを繰り返しており、シャープは台湾企業に買収され、東芝は不正会計、三菱自動車やスズキはデーター偽装と、企業の不祥事も続いている。人間教育よりも知識偏重教育で育った戦後の高学歴の経営者たちは、偽装はすれども経営努力はしない。日本人の強みである「ものづくり」という本業まで崩壊していく。三島はこのような魂の消えてく日本の姿を見抜いていた。

文壇の反応

三島の市ヶ谷乱入事件の直後から、様々な側面から諸説が挙げられた。文学としての、思想としての、美学としての、政治的事件としての、あるいは革命の論理としての、様々な視点から一斉に三島由紀夫が論じられ始めた。

例えば、事件の三か月後に出版された『評論集・三島由紀夫の人間像』(読売出版社)をみても当時の錚々たる知識人が名を連ねている。

「三島由紀夫君の精神と裸体」船橋 聖一
「時代の不安と衆愚の原理」柴田  翔
「切に希はれた太陽をして」いいだ・もも
「三島由紀夫の予見と行動」林  房雄
「政治オンチ克服の軌跡」大島  渚
「反 古」吉田 知子
「コンプレックスの美学」会田 雄次
「三島由紀夫の死」保田與重郎
「天使的な疾走者」佐伯 彰一
「政治と芸術家"五衰"と」小田切秀雄
「笑いのない仮面」関根  弘
「文化防衛論批判」真継 伸彦

いずれも当代一流と目されていた言論人である。もう少し時間が経つとさらに多くの作家や評論家が加わってくる。

「三島由紀夫」川畑康成
「三島由紀夫の青春について」石原慎太郎
「美意識の効用と危険」山田宗睦
「理解されなかった三島由紀夫」本多秋五
「ナルシシスムの運命」神西 清
「三島由紀夫」佐伯彰一
「三島由紀夫論」寺田 透
「三島由紀夫の戯曲について」尾崎宏次
「三島由紀夫における古典」中西進

今ではその大半は物故者だが、その後も続々と三島研究論文は世に溢れ出た。三島の死後半世紀になんなんとする今日に至っても、未だに三島由紀夫に関する評伝、論考、研究が発表され、その量は膨大なものである。

これはどういうことなのか。その夥しい数の三島由紀夫論や研究書が証明するように、いかに三島由紀夫を論じても、人々はなおそこに語り尽くしえないものを感じるからだろうか。

文学作品は作者によって様々な形成のされ方があるが、三島の場合は理論に基づいて作品が形成されるといわれてきた。同時に、実作の形成過程を作家みずから解析しているのである。これほど明晰に読者の前に執筆動機が投げ出されていながら、作品は読者の前に常に不可知の扉を閉ざしているかのようである。

次は三島由紀夫の「思想」について考察してみたい。

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