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臓器移植に対する密教の私見

 仏教では「無我」や「空」を説くとき、よく命への無執着が説かれる。要するに「煩悩」とは自我の命の執着心から生まれるものだから、命に執着すべからずと言う説教だ。そこから僧侶の六波羅蜜行のひとつ布施行に「命の布施」があると説き始める。
 そこで現代の臓器移植問題を考える時、ドナー(臓器提供者)の善意を菩薩行になぞらえる人々がいる。主に臓器移植肯定派の知識人や哲学者や僧侶たちなど、宗教に詳しい人たちである。国内で臓器移植を推進するグループは、彼らの掲げる菩薩行を楯にしてその正当性を主張してきた側面がある。
 「日本臓器移植ネットワーク」が「命を救う」という医学の倫理によって活動するのは理解できるが、「命そのもの」を考える哲学者や僧侶までもが彼らの倫理の同調するその知性を私は疑う。

 宗教は生死を乗り越えた人間の生き方、魂のやすらぎを扱うもので、臓器移植によって延命を考える医学の論理とは違うからである。もし病によって儚い命に悲しむ人がいれば、その悲しみに寄り添い、苦しみを乗り越え、やすらぎを与える。それが仏の慈悲である。
 臓器移植推進派は、多くの場合移植すれば「救える」命の権利や、移植できない子どもの「可哀そう節」を叫ぶ。かつてはマスコミも「この子の命を救え」と、全国から集まった募金をもとに渡米した親子のドキュメンタリーを美談仕立てで報道してきた。しかし、本当にこれだけでよいのか。事はこれほど「のどかな問題」ではないのである。何か本質的に見落としている事はないのだろうか。

 私は1999年臓器移植の問題が出てきた当初から反論してきた。(拙著『空と海と風と』後編p.110 四国遍路は新世紀への戦いの烽火)。
 人間が人間の臓器を取るという行為自体が私にはおぞましく思えたからである。また臓器移植を個人の善意や医療だけの論理で放置すると、いつか人間性そのものを破壊してしまうような、この世の地獄を見る気がしたからである。
 臓器移植はあくまでもレシピエント(受容者)とドナー(提供者)と担当医の生命倫理の問題であり、たとえ合法的行為であっても、あくまでも、例外的、補完的な領域に留めるべきではなかろうか。というのは、もともと臓器を提供する人の善意や、受ける側の感謝が息づいていた人間的な行為が、ドナーカードのような社会システムに組み込まれると、その善意がやがて無感情な科学的データー処理と、需要と供給の経済的システムにすり替えられるだろう。
 拙書では、まだ生きている臓器を取り出すという合法的な殺人行為の果てにどのような地獄が待っているかを述べた。それを端的にいうなら、金さえ出せば延命できるという「生」のみに執着する現代人の強欲市場主義、自然な「死」を拒絶する人間社会の無限欲望地獄である。
 少し仏教がわかってきたころ、密教徒の立場から反論もした。<本サイト:臓器移植の問題 ①仏教の論理(欲望について)②知識階層の傲慢 ③菩薩行の盲点> ③菩薩行の盲点で詳しく述べた。
 顕教(密教以外の一般的な仏教)の僧侶が菩薩行を根拠に賛成するのは、六波羅蜜に従おうとするからである。しかし密教を学ぶものはそうではないと思っていた。ところが高野山大学大学院(通信科)修了の大阪市立大学名誉教授・瀬岡吉彦博士(経済学)の論文や、臓器移植を肯定する密教僧の本を読み、戸惑いと不審を感じた。
 『仏教と医療の再結合・スピリチュアルケア』(田中雅博・阿吽社)の著者は真言宗の住職であり、境内に「普門院診療所」を建設された医師でもある。もう亡くなられたが、真言宗のお坊さんなら多くの方が知っている大変優れたお医者さんであり、坂東二十番札所「益子西明寺」のご住職でもある。私のような浅学の徒には、仏教の学識や医学知識には教えられることばかりである。
 しかし一点、どうしても納得できない問題がある。それが臓器移植に対する師の考え方である。師はこのようにいう。

-仏教の理想を実践したいと願う僧侶は身体を我が所と執着せずに、自己の生命がなくなるときには臓器の提供を願うわけである。なお、この場合も僧侶が対象であって、人びとに対して一律に臓器の提供を呼びかけるようなことは仏教では行わない。そして、臓器提供を受けて残りの命を生きたいと思う人の願いも、仏教の慈悲の理想は肯定するのである。
 「(五大の譬喩の如くの一切の智智は)菩提心を因と為し、慈を根本と為し、方便を究竟と為す」「菩提」は悟り、すなわち自己は必ず死ぬ存在であることを覚悟して、我の執着から自由になることである。我への執着から離れた人は、他人の苦しみも自己の苦しみと同じように除こうと思う。この他人の苦しみを除こうとする心を「悲」という。この悲を根拠として、「苦しむ人びとのそばへ行くこと」を方便という。
 仏教は、僧侶には戒をたもち慈悲の実践すなわちアイ腎バンクに登録することを指示し、僧侶以外の人びとに対しては対機方便、すなわち臓器移植を受ける人びとの立場を肯定するのである。(前掲書p.50:黒文字筆者)-

 以上のごとく、明らかに臓器移植を肯定されている。前述したように、これが顕教側の僧侶の意見なら、納得はいかないが目をつむるとしても、この考えの依拠するものとして、真言僧である師は顕教の仏典ではなく、まさに空海の著作を挙げられているのだ。ということは、弘法大師が臓器移植を公認されているということになる。
 臓器移植やアイ腎バンクの登録などという、技術も知識も発想もない時代に、弘法大師が僧侶に対してそのような指示をするわけがないが、考えられるとしたら、仏教の六波羅蜜行(布施行=命の布施)しかない。
 田中師は上記の根拠を、空海の著作『平城天皇灌頂文』『三昧那戒序』『秘密三昧那仏戒儀』(『弘法大師空海全集』第四巻筑摩書房)を挙げている。もしもそこに、本当にそのような思想が書かれているのなら、私は即座に大師信者を止める覚悟で件の出典を読んでみた。
 まず『三昧那戒序』を読んだ。そんなことはどこにも書かれていない。私の誤読かもしれないので、三度繰り返し読んだが三度とも同じである。お大師さんがそんな馬鹿なことを言われるはずがないと思っていただけに、私は胸を撫でおろし、改めてお大師さんの偉大さを讃仰した。
 『三昧那戒序』の出だしは概略このようなものである。(現代語訳)

-経典の教えは、心の病をあわれんで説かれたものであり、心の疾患も無数の種類があるから、それに対応する経典の教えも一種類ではあり得ない。そこで世尊(如来)は病に応じで種々の薬を与えて全ての病を治療した」云々と、心の疾患応病与薬の説明から始まっている。-

 続く本文は『十住心論』に説かれた住心の段階を彷彿とさせるような心の妙薬のポイントが列挙される。まずは儒教の五常(仁・義・礼・智・信)仏教の五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)をもって、愚童持斎(ぐどうじさい)の妙薬とし、続けて嬰童無畏住心(ようどうむいじゅうしん)の説明に移る。この第二・第三段階(第一段階は省略されている)に続いて、第四の唯蘊無我(ゆいうんむが)、第五抜業因種(ばつごういんじゅ)第六他縁大乗(たえんだいじょう)、第七覚心不生(かくしんふしょう)というように、各段階における「住心」の解説が続く。
 この第六、第七段階の文中に、田中師が依拠したと思われる個所が見える。それは「第六他縁大乗、第七覚心不生の二種の教えは、自己の身命を捨てて施しをし、妻や子すらも他人に施し与えるのである。(このようなすべての善行の根本である)六波羅蜜行を三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎごう)という長い間にわたって実践し完成する。」という文章だ。

 確かに「命の布施行」ついて述べられている。しかし、これは密教の説明ではなく、第六他縁大乗(法相宗)、第七覚心不生(三論宗)を説明したに過ぎない。覚心不生は「空」や「無我」を説く(ここから命への無執着論が出てくるのだと思う)が、主題は「中道」である。
 しかし直後に空海はこのように続けている。「超えるべきほとんど無限に長い時間(劫石こうじゃく)は、あまりにも広くて高くて、とても尽くすとはできそうにない。そこで気が臆して六波羅蜜の実行は後退し一向に進展しない。(進んだと思えばたちまち後退し)十進九退を繰り返すばかりである。こうした情況にどうして辛抱できようか。」とある。要するに趣旨は第六、第七をそのまま受け入れていないことがわかる。
 文脈からわかるように、空海は六波羅蜜行=命の布施をそのまま受け入れてはいない、と私には読み取れるのだ。空海の住心は、あくまで第十段階の「密教」なのである。

 第七段階に続いては第八の如実一道の心(天台宗)の解説に移っている。ここでは如実一道の住心の優れた点(仏性論)や、天台学の中心「空・仮・中」を解説した上で、文末は「・・・まだ金剛のように堅固不滅な宝蔵にも喩(たと)えられる仏教の至極に入らない。だから真言の実践者はこの住心に住すべきではない。」と認めてはいない。
 さらにもう一段上の、第九の「極無自性住心(華厳宗)」に移り、真理の世界が相互にわたり合っているさまを帝釈天の宮殿を荘(かざ)る網の目の宝珠が互いに照らし、わたり合っていることに喩(たと)え、心と仏と人々がまったく無差別であることを金と金で細工されたもの、水と波との関係で説いている。この縦横無尽に関係し合っている真理の世界(事事無碍法界の真実相)を説き、これすなわち極無自性住心の仏果(さとり)であると結んでいる。しかし「仏果(さとり)をまだ得ていないにもかかわらず仏果を得たとし、まだ究極の位に到達していないのに到達したと考えるから、だから真言の実践者は、この住心に住すべきではない、と、これまでと同じことを明確に述べておられる。

 つまり第十段階の密教に到達しなければ究極の住心(法=宇宙の真実)に則ることはできないと言っているのである。しかしながら空海は「このような妙なる真理の教えは全てみな素質能力に相応して不思議な効能(はたらき)を発揮する妙薬である。」といい、各住心の優れたところをも認めている。その上で。顕教の解釈だけでは世界の真実には到達できないといいたいのである。
 ここまで語った後で、無尽荘厳金剛界(むじんしょうごんこんごうかい)すなわち密教の「三昧那戒」という妙薬の効能を説いている。逆に言えば密教(法身大日如来の秘密語)をキャッチできなければ、顕教、すなわち経典に書かれた人語(六波羅蜜行など)では「一番大切なこと」を見失う場合があるということでもあろう。
 『平城天皇灌頂文』は天皇に授ける灌頂の意味を説くものである。そのためそもそも密教とはどういうものかを「付法の八祖」から説き始めている。「付法の八祖」とは大日如来→金剛薩埵→龍猛→龍智→金剛智→不空→恵果→空海のことであり、自分は密教相承の正統な第八祖であることを説くところから始まっている。

 ここでも顕教と密教の違いを説き、こちらは律宗・俱舎宗・成実宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗の八宗について懇切丁寧に述べている。これが布施行の勧めが主題とはどうしても読めなかった。『秘密三昧那仏戒儀』も、趣旨は真言密教の悟境を説くものであって布施行を勧めるものではない。この三つの出典によって、どうして弘法大師が臓器移植を肯定したことになるのだろうか。
 この議論は要するに、密教はこの問題をどのように解釈するか、ということになる。そこで出てくるのが、「三句の法門(さんぐのほうもん)」である。臓器移植推進派の瀬岡吉彦博士は「方便を究竟と為す」の一句にその根拠を認めている。これは極めて学術的な解釈になるので高野山大学にお尋ねしたい。
 博士号(密教学)を取得した彼が言うように、お大師さんが臓器移植を肯定しているとの結論が高野山で出されるのかと。中国ではチベット僧を殺害して臓器を抜き取り臓器移植ビジネスで大儲けをしている。これを高野山大学が認めてよいものかと。

 そもそも臓器移植を認めることは、お釈迦様の教えに逆らうことになる。釈尊は生・老・病・死を「」と言われた。「」とは「思いどおりにならない」と言う意味であることぐらい僧侶なら知っていよう。
 ところが「」だけは受け入れず、他人の臓器を頂戴してでも延命を望んで「思い通りにしよう」とする。また「(仏の慈悲で)させてあげよう」とする。これは四苦の矛盾、釈尊への反逆にならないか。
 田中師はこのようにも書かれていた。

-仏教の理想を実践したいと願う僧侶は、身体を我が所と執着せずに、自己の生命がなくなるときには臓器の提供を願うわけである。なお、この場合も僧侶が対象であって、人びとに対して一律に臓器の提供を呼びかけるようなことは仏教では行わない。そして、臓器提供を受けて残りの命を生きたいと思う人の願いも、仏教の慈悲の理想は肯定するのである。-

 私はこの意味も理解できない。仏教の理想を実践したい僧侶が臓器の提供を願うのはご自由だが、受容者に対して「臓器提供を受けて残りの命を生きたいと思う人の願いも、仏教の慈悲の理想は肯定するのである」とは一体どういうことか?
 これは仏教の慈悲とは言わない。単なるヒューマニズムである。医者の論理であり仏教のこじつけとしか思えない。
 大乗仏教とは「声聞」や「縁覚」のような小乗ではなく、行者が独りだけ覚って終わりではない。その慈悲とは、救いを求める衆生もいっしょに「覚りの岸(彼岸)=やすらぎの境地」へ渡ろうという、大きい乗り物のことである。
 ならば「覚り」の中には当然衆生(凡夫)も視野に収まっていなければならない。つまり生死の覚りは衆生ともどもでなければならないのだ。
 他人の臓器を頂いてでも延命しようと、命に執着する衆生の欲望を肯定することは、彼らの根本的な煩悩を置き去りにしていることにならないか。これでは僧侶みずからが大乗仏教を否定することになる。

 この点について元高野山大学学長の松永有慶師も指摘されている。これは先の瀬岡吉彦博士の論文『真言密教と死体腎臓移植』からの引用であるが、

-松永有慶師は臓器移植に関して否定的な態度を取られる。その理由はレシピエントの自我的欲望にあって、『欲望を積極的に肯定した密教でも自我に基づく欲望は退けられる。』」とある。これは衆生の(自我に基づく)根本的な煩悩を指しているものだと思われる。
 しかし瀬岡博士はこう反論する。「しかし、これでは無限の修行時間を要求する顕教における行者の『布施波羅蜜行』の論理と変わらないのではなかろうか。」と。私には松長有慶先生の指摘は理解できるが、瀬岡博士の反論の意味がよく分からない。いずれにせよこの論文の結論はこうである。
 『第4節結論』第2節で、死体腎提供者を増加するためには、人々の「評判欲」に依存する限り、死体提供者にともなう『痛み』を超える『評判欲』の持つ人々の存在とそのような潜在的な提供者のうち、ある割合を超える潜在的な提供者の存在が必要であることが示された。第3節では、真言密教は、このような凡人のうちの少なくとも一部の『評判欲』を、仏の『奉仕欲』に変えることが示された。このときは、上述の死体腎提供者を阻害している諸条件は消滅するはずである。幸いなことに、現在、日本の真言密教は、僧侶数66,100人、信者数1,270万人を擁している。(2000年12月31日現在「平成12年度文化庁統計」)。この勢力が深い悟りを得た高僧の指導の下で死体腎提供の運動を展開するとき、おそらく日本における移植腎不足問題は解決するであろう。-

 要するに真言僧と真言宗信者はこぞって死体腎臓提供の運動を展開せよと主張しているのである。実に僭越な主張ではなかろうか。
 これでも学術論文なので、全体を読まなければ私の引用箇所は恣意的だと思う人は、「瀬岡吉彦のホームページ」で検索すれば全文が閲覧できる。
 そもそも命は自分のものであって自分のものではない。両親から頂いたものだという人もいるが、その両親の命もそれぞれの両親から頂いたものである。こうして次々と過去に遡れば、膨大な数のご先祖様が現れてきて、結局人類の命は宇宙から生み出されたことがわかる。そして死ねば再び宇宙に帰ることもわかる。弘法大師の「阿字の子が、阿字のふるさと立出でて、いま立ち帰る阿字のふるさと」である。
 わが命をただ父母から産んで「頂いた」と考えるから、自分の所有物だと勘違いするのである。私自身は自分の命は両親から「頂いたものや貰ったものではなく、宇宙(命の本源=阿字=大日如来)から預かったものだと思っている。預かったものはいつかそのままお返ししなければならない。これが「法」に則った密教の教えだと思う。
 私にとって臓器を供与することは、自分のものでもないのに、勝手に切り売りすることになるのだ。これは不偸盗の破戒である。いや、「切り売りではない善意の提供だ」と瀬岡博士は言うかもしれないが、臓器の受容者は莫大な金を支払う。支払先がどこであろうと、これは結局「切り売り」したことと同じである。経済学者なら需要と供給の理屈ぐらいは理解できよう。

 私が言いたいのは、臓器移植には必ず経済の論理が働くということである。わかりやすく言えば、金持ちだけがその恩恵を受け、貧しい人は移植したくてもできないということだ。仏教ではこのような命の不平等を問題にしているが、瀬岡博士の論文にはその視点が見当たらない。なぜか、真言僧や信者は「経済的弱者を救うために」死体腎提供の運動を展開せよ、とは言っていないからである。
 臓器移植して延命しても永遠に生きられるわけではない。いつかは必ず死を受け入れなければならないのだ。仏教は寿命が長い短いという話ではない。「預かった人生を精いっぱい生きよ、できるなら『覚りの岸』を目指して努力して生きよ」と、それが仏の教えであり大乗の教えであろう。

 さて、私は臓器移植を賛成、反対という「のどかな問題」ではないと言ったが、実はもう一つ大きな問題があるからだ。臓器移植を仏教が認めると国際問題に発展する恐れもあるからだ。
 中国の臓器移植産業の隠れた大虐殺を知っている人もいよう。中国では臓器移植産業はすでに巨大産業と化している。私が1999年当初に危惧したように、資本主義と手を結んだ「生」のみに執着する強欲市場主義が現実のものとなってきたのである。また「無実の囚人」を対象とした臓器収奪と臓器売買、いわゆる臓器狩り犯罪は間違いなく今世紀最大の人道問題であり国家犯罪でもある。
 現在この時点においても、信仰や民族の違いを理由にして、捕縛した人々から、多くの場合生きたまま心臓、肝臓、腎臓などの臓器を抜き取り、中国共産党政府幹部とその一族、そして国内外の富裕層の需要に応じて提供する非人倫行為が半ば公然と横行している。その数は年間6万件から10万件以上に及び、毎年1兆円もの利益を生み出す巨大産業と化している。

 では、その「無実の囚人」とは一体誰か?中国共産党に従順でないと見なされた人々だ。ウイグル、チベットなどの少数民族、あるいは法輪功修練者やキリスト教徒など、特定の宗教的コミュニティーに属する人々が、いわれもなく続々と逮捕されている。強制収容所に閉じ込められた彼らは、国内外の患者の需要に応じて臓器を抜き取られた後、秘かに闇に葬られているのだ。
 各種情報によると、今年6月17日、ロンドンで開かれた「民衆法廷」で、ある大きな国際的疑惑に対する最終裁定が出たとある。約1年にわたり中国の臓器収奪問題について50人以上の証言と調査の結果を審議し、議長(元検事総長ジェフリー・ナイス卿)は、中国では移植手術の供給のために臓器収奪が行われている事実をほぼ認定した。この日、有罪と断じられたのは、中国で継続して行われている移植のための強制的な臓器摘出、いわゆる「臓器狩り」である。

 中国では十数年前から臓器移植の件数が急激に増加していて、いまやアメリカに次ぐ世界第2位の移植大国だ。ところが、ドナー(臓器提供者)の報告がされることはほとんどなかったという。しかも、外国人患者向けの臓器移植のあっせん(売買)サイトが多数存在し、肝臓=1000万円~、腎臓=600万円~、心臓=1300万円~、角膜=300万円~などと臓器別の値段を明示し「若くて新鮮な臓器が、早ければ数週間以内に見つかる」などとアピールしている。
 移植大国アメリカの10分の1程度の金額、しかも他国では2年も3年も待たなければならない適合臓器が、「たった数週間で見つかる」との謳い文句に各国から移植希望者が殺到しているそうである。もちろん、日本からの移植希望者も相当数含まれている。こうした状況は、かなり早い時期から国際的な注目を浴び、問題視されていた。
 しかし、中国国内の状況は非常にわかりにくく、一部の人権団体や調査機関などの実態解明への取り組みにより、2006年初めから収容施設での臓器収奪を告発する内部関係者の証言が相次いだ。
 事態を大きく動かしたのは2006年3月、元中国医療関係者の女性が米国で自らの体験を証言したことだった。女性は遼寧省蘇家屯の病院に勤務する医療事務員で、夫は脳神経外科医。病院地下には5000~6000人の法輪功学習者を監禁しており、そのうち約4000人が薬物注射で仮死状態となり心臓、肝臓、腎臓、角膜などが摘出され、その後、身体を病院近くのボイラー室で焼却しているという。

 法輪功は中国の伝統的健康法である「気功」を体得するための修練法だが、1999年に邪教と定められ活動が禁止された。以降、実践者たちは逮捕、投獄、収容所での虐待などを受けているといわれる。
 関係者による赤裸々な証言を受け、カナダの元アジア太平洋地区担当大臣デービット・キルガー氏や、人権弁護士デービッド・マタス氏が「臓器狩り」の独立調査団を結成。これまで『Bloody Harvest: Organ Harvesting of Falun Gong Practitioners in China(血まみれの臓器狩り:中国での法輪功修煉者からの臓器収奪)』と題する報告書、および『Bloody Harvest-The Killing of Falun Gong for Their Organs (Seraphim Editions)』とのタイトルの本にまとめている。同書は2013年に日本で翻訳書『中国臓器狩り』(アスペクト社)として出版されている。

 マタス氏は自著の中で事の経緯を簡潔に説明している。

-中国はまず、死刑囚の臓器を使って臓器販売を始めた。しかし、世界的に臓器の需要は大きく、また病院にはお金が必要だったために、死刑囚の臓器だけでは供給が追いつかなかった。そこに法輪功の学習者が登場する。
 彼らは迫害され、人間性を奪われていただけでなく、人数も膨大で、身元不明という無防備な立場にあった。これらの要素が組み合わさり、法輪功学習者が、臓器のために殺された。摘出された臓器は外国人に売られ、中国にとっては数十億ドル規模のビジネスになった(p.112『中国臓器狩り』)。-

 囚人からの臓器提供は中国政府も認め、中国当局は2015年までに死刑囚からの臓器移植を段階的に中止するとの発表も行っているが、今回の民衆法廷では最悪の事態はまだまだ継続しているとの見解を示している。
 ヨーロッパ各国や米国はここ数年、相次いで中国共産党による臓器摘出問題を公に非難している。2016年6月13日、米下院で343号決議案が満場一致で可決。「中華人民共和国で、国家認定のもとで系統的に合意のない良心の囚人から臓器が摘出されているという信頼性のおける報告が継続的に出されていることに関して懸念を表明する」そして「(犠牲者には)かなりの数の法輪功修煉者、その他の信仰を持つ人々並びに少数民族グループが含まれている」と言及している。

 欧州議会主席も同年7月27日、414名の議員が共同署名した48号書面声明を正式に発表。中国共産党に対し、囚人からの臓器摘出を停止するよう要求した。
 今回最終裁定を出した「民衆法廷」は、これまで国際法上問題があると考えられる議題を、有識者らが公開検証する独立調査パネルでは、これまでイラン、ベトナム、北朝鮮などでの人道犯罪を取り上げ、世界各地で開かれてきた。今回は中国臓器収奪が議題となり、中国から脱出した少数民族、信仰者、人権専門家、医師、作家らの証言を基に、英ロンドンで裁定を下した。
 議長のナイス卿は、最終裁定により各国政府および国際機関は「義務を果たすべきだ」と述べた。そして、中国臓器収奪問題は、いまだに大量虐殺が進行している可能性があることから、国際裁判所や国連に訴える必要があるとした。
 中国の臓器収奪問題に詳しい、多言語メディア「大紀元」の元編集長でジャーナリストの張本真氏は、日本での当事者意識の少なさと無関心は共謀に匹敵するとこう語る。

-国連人権委員会の調査、アメリカ議会、欧州議会などでの決議案をはじめ、あまりにも多くの国際的な非難に耐えかね、2005年、中国は公式に死刑囚からの臓器摘出を認めた。しかし、事態は何も変わっていないし、手口はより巧妙になっている。もちろん、今回の判決は大変いいことだが、臓器収奪は中国の共産党が主導し国家ぐるみで行われている犯罪で、共産党による統治体制が変わらない限り、大きな変化は期待できない。ただ、正しい道への修正には時間がかかる。地道にこの問題を世界に訴え続けて行くべきだと考えている。-

 また、マタス氏はたびたび来日し、「まさに現在進行形のホロコースト(大量虐殺)である」と、国会議員などに対しても惨状を訴えているが、同行したことのある張本氏は「日本での反応は、あまりにも鈍い」と指摘する。

-中国の移植業界と日本とは深いつながりがある。日本人向けの移植ツーリズムの需要に応えた移植センターは、日本の移植ブローカーと連携している。日本で移植技術を学んだ移植外科医も多い。中国は日本から大量の移植関連薬剤を輸入してきた。日本政府が一部資金を提供している中国の移植病院もある。私が報告書を発表してから10年以上経過したが、中国の移植乱用に関して日本が共犯となることを避けるための措置はとられていない。日本の官僚も医療界も、何もしない。日本が何も言わず、何もせず、何も知らないと主張する理由は、能力が不足しているからではないはずだ。見て見ぬフリをしているだけだ。それは沈黙という共謀になる(マタス氏)。-

ともいう。

 2016年のマタス氏の講演会で、日本のメディアがこの問題にまったく関心を示さないことが話題になったとき、大手新聞社の記者だった男性が「囚人からの臓器摘出などはもちろん知っていた。仮にその問題を取り上げれば、中国にある支局はすべて国外退去となる。どのメディアもそんなことはできるはずがなかった」と発言したという。メディアの責任も大きい。これだけ大きな問題を、なぜ日本の主要メディアは取り上げないのか。
 ある日本の移植専門医によると、「中国では人を意図的に脳死させる<脳死マシーン>を開発しているとの噂を耳にした」と明かす。
 側頭部を打撃することで脳幹を停止させ、人を瞬く間に脳死に陥らせるこの機械については2017年、韓国テレビ局の調査報道番組「セブン」が、中国臓器移植の病院や関係者の現地取材を基に、脳死マシーンの模型を製作していると報道した。「脳死にすることで移植用臓器の鮮度を長時間保つための機械ではないか」と指摘している。臓器保存液を必要とせず、運搬時の虚血許容時間を考慮する必要がないため、新鮮な状態を保つことが可能となるのだと。

 この問題はいずれ国際的な問題に発展するだろう。そのとき中国が「仏教では命の布施たる菩薩行を認めている。臓器提供を勧めている。学者も臓器提供運動展開せよと、臓器移植を認めているではないか」と主張したら、日本仏教はどのように答えようというのか?どう反論ができるのか?まして瀬岡氏は高野山大学大学院が認めた博士ではないか。
 一帯一路構想や南沙諸島の軍事基地建設を挙げるまでもなく、中国はどうにでも大義名分という屁理屈をつけて自国の野望を押し通す国である。日本の仏教界が他人事のように見ていていいのだろうか。
 もし国連の人権会議か国際司法裁判所で僧侶に参考意見を求められたときは、明確な主張をまとめていなければ手遅れになる。ヒューマニズムや「可哀そう節」では通用しない。ことは生命哲学に関する問題である。その時「三句の法門」だの、「命の無執着」だの「無我」だの「」だの、「三輪清浄」だのと、日本人でも訳の分からないような言い訳をしても、外国人に通じるわけがなかろう。
 ここはハッキリと日本仏教は臓器移植を認めていないと言うべきである。このくらいの英文なら外国の小学生にもわかる。そして急いでこれを公式見解として、声明文にして国内外に公表すべきである。
 仏教界には様々な意見の相違があるというのなら、せめて真言宗は上記の立場を早急に明確化し「密教は臓器移植を認めていない」と、統一見解として内外に公表すべきである。
 これは国際問題に巻き込まれるのを回避するという政治的な意味で言うのではない。目的は、密教の教理には臓器移植などという発想はどこにもないという、密教の正法を宣布することが目的なのである。
 杞憂かもしれないが、この問題を放置しておくと、中国が日本仏教を破壊しようとするだけでなく、高野山まで魔の手を伸ばしてくる恐れがある。高野山は日本人の心の拠り所、聖域であることを知っている彼らは、国家的・長期的陰謀で裏から仕掛けてくるかもしれない。「事なかれ主義」は自滅を招くだけである。

 私はチベット密教の兄弟たち、ウイグル、法輪功、キリスト教徒、全てを救済したいために発言しているのだ。お大師さんが現代に生きておられたら、必ずや同じことを言われるに違いない。
 私が大学院生の頃、高野山の標語は「生かせ命」だった。「高野の山に大師は生きておわす」のなら、あの標語は弘法大師の精神であろう。臓器犯罪を知ったならお大師さんは必ず「生かせ命」と言われると私は信じている。これが私の信仰する弘法大師である。
 臓器移植の問題は、オウム事件に怒り、正しい密教を伝えようと、本サイトを立ち上げられた長澤弘隆師と共に、当初から反対を叫ぶ孤独な戦いであった。今、私は再び声を挙げよう。「臓器移植に対する密教の公式見解を内外に宣布せよ」と。

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