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人間の進化と真価 その②

◆ 日本は世界の理想の国-太陽信仰から読み解く日本人の起源-

 太陽というものが最初の人間の精神性、あるいは宗教というものの最初であった。あらゆる国の基本的な信仰の始まりは太陽信仰である。エジプトの太陽神アメン、ギリシャ神話のアポロン、エジプト文明のアテン、太陽神ラーなど、太陽が宗教精神の起源であった。

 アフリカから出発した人類はヨーロッパ大陸やユーラシア大陸に拡散したそうだが、人類はおおむね東方に憧れ、東方を目指そうとしていたようである。人類は太陽を希求してきた形跡がある。

 イギリスのヘルフォード大聖堂にある中世の世界地図(ヘルフォード図)は東が上に描かれている。この古地図は地球を丸い平面図で描かれており、一番下がジブラルタル海峡でその右側にアフリカ、左側にヨーロッパ。中央辺りにエルサレムがある。そこから上の方にガンジス川があり、さらに上方の東方には「エデンの園」があり、一番上にHEAVEN(天国)と書かれている。

 そこには太陽が昇る国に行こうとする、無意識な衝動、希求が見て取れる。人類には「太陽に向かって進む」という信仰的なものがあったようだ。最上の天国にあたる国を求めれば、必然的に極東の日本に到る。それはまさに日の昇る国、日の本の国である。ヘルフォード図は、はからずもそれを平面上に暗示しているように見える。

 この太陽信仰を垂直にした典型的な建造物がエジプトのピラミッドであろう。ギザの大ピラミッドはクフ王の墳墓とされているが、高さは139メートルもある。墓ならばあれほど高く巨大なものを作る必要があろうか。権力を示威したいのであれば、仁徳天皇御陵のような広大な墳墓でもよいはずである

 ピラミッドは山のない砂漠の民が構築した人工の山ではないだろうか。その意味もおそらく太陽に近づこうとする太陽信仰だったのではないかと思う。(私は考古学者ではないので実証できないが)。マチュピチュの「空中都市」にしろ、ブルーゲルが『旧約聖書』を題材に描いた「バベルの塔」にしろ、日本の三内丸山(縄文時代)の巨大な木柱の塔にしろ、少しでも天上に近づこうとする太陽信仰がなしたものだと思う。いずれにしろ、太陽に一番近い国を地上に求めれば、それは「日の丸の国」日本になる。

 我が国も天照大神(太陽信仰)から始まっている。七世紀の随書に「日出ずる国」と書かれているように、日本人は自国が日の昇る国であることを自覚していた。日章旗の「日の丸」は日本人の太陽信仰を端的に表したものだと思う。我々の祖先は、天照大神の子孫たちが降臨して、八百万(やおよろず)の神々となって、大八州(日本列島)に国造りを始めたとある。

 このようにして始まった我が国は、天照大神の子孫たる皇室を中心にした太陽信仰(自然信仰)の国だといってよいだろう。戦前は万世一系の天皇家を国の本家と思い、個々の家庭はそれにつながる末裔(皇民)であることをしっかりと自覚していた。だから国の祝祭日には、各家々は門ごとに「日の丸」を掲げ、国を挙げて国体を祝ったものだ。先の敗戦までは祖国がそういう国柄であることを日本人はみんな知っていた。

 新嘗祭(にいなめさい)は日本の収穫祭のことである。11月23日は天皇が五穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、天皇自らも食して国民と共に収穫に感謝する。戦前までの日本人はみんな知っていた。戦後GHQによって自国の記憶(国史)を抹消されるまでは、国民は「国体」がどのようなものであるかちゃんと心得ていた。

◆ そういう日本を潰そうとしたアメリカ

 ところが戦後は「東京裁判史観」によって、国民みずから祖国をすべて否定するというマカ不思議な歴史観を受け入れた。だが「神道指令」によって「神道の教理や信仰を歪曲して日本国民をあざむき、侵略戦争へ誘導するために意図された軍国主義的で過激な国家主義的宣伝に利用するようなことが再び起きることを妨止するために...以下の指令をする」とまでいわれれば、それは違うといいたい。

 我が国は侵略戦争などやっていない。先の戦争は「自衛戦争」だった。同じ言葉で占領軍総司令官だったダグラス・マッカーサーも証言している(米国軍事・外交合同委員会の証言)。マッカーサーは自ら戦った朝鮮戦争(1950~1953)の経験から、共産主義の脅威からから自衛しようとした日本の立場をようやく理解したのである。

 また第31代アメリカ大統領のハーバート・フーヴァー(共和党)も同じようなことをいっている。第二次大戦というのは、ファシズム・軍国主義対デモクラシーの戦いであり、日本をやっつけたのは、全く正しい正義の戦いであったという「ルーズベルト史観」が日米の主流を占めているが、それは真っ赤なウソだといっている。

 そもそも日本はアメリカと戦争をする気はなかった。フーヴァーは、戦争は日本が始めたのではなく、日本は戦争を避けたかったのだといっている。

 昭和16年の春から、我が国は日米開戦を避けようと最大の努力と譲歩をしている。日本の和平提案はアメリカの外交目的のほとんど全部に達するものだった。それにもかかわらず第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(民主党)はこれを拒絶した。

 フーヴァーは「1941年9月の近衛首相の和平提案は、東京にいる駐日アメリカ大使も、駐日イギリス大使も、祈るような気持ちでその実現を期待していた」といっている。

 日本側が最大に歩み寄っても一向に進展しない日米の交渉に、最後は天皇陛下が駐日米国大使を通じて、行き詰った日米交渉を3か月凍結しようという提案を出されたが、ルーズベルトはこれも拒否した。(天皇はその間に世界の戦時情況も変化するかもしれないし、お互い頭を冷やそう、というお考えがあったのだろうと思う)

 フーヴァーによると、そもそもアメリカは二次大戦を戦う必要はなかったといっている。当然である。当時アメリカはどこからも攻撃されていないので第二次大戦に参戦する必要はなかった。あれはヨーロッパの戦争だった。

 ルーズベルトは三選を果たしているが、それはアメリカをヨーロッパの戦争に介入させないという国民に公約したことも一因だといわれる。「アメリカのお母さんたちよ、安心してくれ、あなた方の息子をヨーロッパの戦争に送ることは絶対にない。」といっておきながら、堂々とウソをついて大統領選を勝ち抜いた。

 しかし本音はドイツの猛攻にさらされて窮地に立っていたイギリスのチャーチルと、ソ連のスターリンとの密約があり、最初からアメリカ軍を戦場にやるつもりだったのだ。このヨーロッパ戦に介入したことが太平洋戦争に発展し日米開戦にまでつながる。ルーズベルトはアメリカ国民の8割が参戦に反対していたのを騙してアメリカを戦争に引きずり込んだのである。

 アメリカが参戦するには大義名分がいる。そのためには敵に先に一発殴らせればよい。アメリカの議会と世論を一気に参戦ムードにするためにルーズベルトは謀略をめぐらせた。ルーズベルトのその罠に落ちたのが日本である。

 1941年7月アメリカは日本に対して経済制裁を開始する。対日経済制裁ABCD包囲網である。特にアメリカは日本の在米資産凍結、石油の禁輸という厳しいものだった。日本は南方に自活の道を求めながら、アメリカとの戦争を回避しようとするが、日本の出口をことごとく塞いで、どうしても対米戦に踏み切らざるを得ない状況に日本を追い込んだ。そしてとどめの一撃があの「ハル・ノート」である。

 当時アメリカ合衆国下院議員ハミルトン・フィッシュⅢはこれを「誰がどう見ても宣戦布告そのもの、これを突き付けられたら、どの国でも開戦せざるを得ない。ルーズベルトは国民を欺いた」と、東京裁判のパール判事と同じようなことをいっている(『(ルーズベルトの開戦責任』)。フィッシュは「日本を追い込んで戦争させるなんてとんでもないことだ。日本は悪くなかったのだ」とはっきり書いている。

 フーヴァーもこれこそ「日本に対する宣戦布告なき戦争であった」といっている。パール・ハーバー(アメリカ太平洋艦隊及び太平洋空軍基地)の攻撃を「だまし討ち」だというが、戦争をしかけたのはどっちだといいたい。あれは奇襲攻撃だ。パール・ハーバーに向かった日本の連合艦隊は、それでも日米交渉次第によっては引き返すつもりだった。

 連合艦隊がハワイ真珠湾に進撃している情報をつかんでおきながら、パール・ハーバーには知らせず、日本軍の攻撃で自国民を3700人も生贄にしておいて〈死者2400人以上・負傷者1300人以上〉、「リメンバー・パールハーバー」とはよくいえたものだ。アメリカも1898年の米西戦争では宣戦布告なしに戦争をした前歴があるだろう。

 要するにルーズベルトはヨーロパに参戦するために、アメリカ国民を騙して日本を開戦のダシにしたのだ。

 フーヴァーはあの戦いはフランクリン・ルーズベルトの陰謀だったことを、膨大な証拠をあげて述べている。それが(『フリーダム・ビトレイト(Freedom Betrayed)』で2011年フーヴァー研究所から出版されている。アメリカにとって不都合な事実が、執筆から50年の沈黙を破ってついに出版された。(邦訳は『裏切られた自由』2017年に出版)。

 フーヴァーはその中で英国のチャーチルとソ連のスターリンと共謀したルーズベルトを狂人(マッドマン)と呼んでいる。精神病だったという意味ではなく、戦争を始めたいというという狂人(マッドマン)という意味である。ルーズベルトの欲望が日米戦を引き起こした」と、フーヴァーははっきり書いている。

 フーヴァーは特に親日派だというわけではない。ただ非常に優れた歴史家であり、冷静に第二次大戦を検証した結果、日本に「非」はなかったという結論が導き出されたのだ。アメリカ国民を第二次大戦に引きずり込み、米国兵士を戦争で犠牲にした上、日本に対しては二度も原子爆弾を投下したこと考えると、確かにルーズベルトは狂人である(投下命令を下したのはルーズベルトの対日政策を引き継いだ民主党のトルーマン)。

 「日本悪玉論」はアメリカが日本国民に対して、無差別虐殺をやった自国の罪を隠すために言いだしたこと。悪いのは軍部、軍国主義であって国民は犠牲者だという事実のすり替えである。多くの日本人は頑迷な陸軍首脳部の戦争続行が原爆まで引き寄せたと思わされているが、それも真実とは異なる。

 ミッドウェー海戦で大敗し、1944年7月にサイパンを奪われて本土空爆を許し、45年3月には東京大空襲といわれる無差別空爆が行われる。全国の主要な都市もことごとく焼尽。実はサイパン島の陥落以降、大東亜戦争の帰趨は決したとして日本は戦争終結への動きを模索していた。しかしアメリカが日本側の度重なる和平交渉の申し出に応じなかったのである。

 ルーズベルトは何が何でも日本を潰したかったったのだ。なぜなら、彼は社会主義者だからである(彼はチャイナマネーで莫大な財も築いている)。降伏を受諾する日本側の条件は「天皇の地位の保全」だけだった。アメリカがその条件さえ呑んでくれたら日本はすぐにでも降伏して早く戦争を終結できた。

 しかしアメリカはあくまで無条件降伏にこだわった。フーヴァーは「無条件降伏の要求さえしなければ、原爆投下はもちろん沖縄戦だって、避けることができただろう」と語っている。

 さらにフーヴァーはアメリカ愛国者の立場から「ルーズベルトは売国奴だ」とはっきりいっている。これはやる必要のない戦争をやって、その結果、多くのアメリカの若者を戦場に送り、しかも世界に共産主義の進出を許し、アメリカの中にも広めてしまったことを指す。

 マッカーサーも「太平洋において米国が過去100年間に犯した最大の過ちは、共産主義者をチャイナにおいて強大にさせたことだと私は考えます」(米国軍事・外交合同委員会)といっている。・・・戦後我が国に社会主義思想が蔓延したのはこういう歴史の文脈を読み解けばわかる。

 フーヴァーは「民主党のルーズベルトは日本を社会主義国にしたかった」という。これは天皇を中心とする日本の保守勢力を一掃するということでもある。実際ほとんどそうなった。(現代の学界、教育界、マスコミ・メディア)。勝者が敗者を裁くという異常な東京裁判によって、本来無実の日本は有罪とされ、アメリカの「夢」は果たされたのだ。

 戦争論が長くなったが、ともかくそのような日本潰しの歴史観のもとで新嘗祭(にいなめさい)の11月23日も「勤労感謝の日」に変えられた。しかし、日本人の底にある太陽信仰まで消滅させることは、ついにできなかった。

 なぜなら日本人は山頂ではご来光を拝み、元旦を迎えると神社に初詣に行く(約9000万人)。これは日本人の潜在的な心の中に、太陽崇拝、自然崇拝、神道礼拝という精神性が生きている証拠である。世界で一番自然な宗教として、日本は太陽信仰の原点の国であることを表している。

◆ 日本の太陽信仰が続いた理由

 太陽信仰の国日本。古代に、実はこのことを知っていたと思われる大陸民族がいた。ユダヤ民族である。ユダヤ人は一般的に「流浪の民」といわれてきたが、彼らの移動経路がそのことを物語っている

 流浪が始まったのは、紀元前1021年に建国されたイスラエル王国が滅亡したのが始まりだとされている。モーセに率いられて「出エジプト」をしたユダヤ人は、もともと12部族いたそうである。紀元前10世紀には、ダビデ王やソロモン王による中近東最大のユダヤ王国を形成し、エルサレムに神殿も建設していた。

 しかし三代目のソロモン王が亡くなるとまもなく北と南に分裂した。南の「ユダ王国」はユダ、イザヤなど2部族、北の「イスラエル王国」はルペン族、ダン族、マナセ族、その他合わせて10部族である。

 紀元前722年「イスラエル王国」がアッシリア帝国に滅ぼされた後、一時期アッシリアの捕囚となっていたイスラエル人10部族は、アッシリアが滅亡した後「離散」してしまったといわれている。この10部族の行方が現在まで不明なのである。これが世にいう「失われた10部族」である。

 彼らの大部分は東の方へ移動したことはわかっているが、ユーラシア大陸を放浪しているうちにいずれかに消えてしまった。北イスラエル王国が消えた800年後、今度は南ユダ王国もローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤ人はついに世界中に「離散」してしまった。(そのときローマによって破壊されたユダヤの神殿跡の一部が現在に残る礼拝場「嘆きの壁」)

 ユダヤ人は国を捨てることを宿命づけられた民族である。『旧約聖書』に最初の人間としてアダムとエヴァが登場するが、二人は禁断の実を食べて楽園を追放される。つまり、ユダヤ人にとって、人類は最初から追放者なのだ。追い出されてしまった楽園こそ、アダムとエヴァの祖国なのだが、もうそこには戻れない。人間は原初から追放されるという規定が『旧約聖書』の信仰そのものにあるかぎり離散は避けることができないのである。彼らは「国に戻れない人々」であった。

 そのためユダヤ人は他国に寄生してもいずれ自分から住み処を変えるしかなかった。ユダヤ人は信仰深い人たちである。『旧約聖書』に忠実な民族なので、どこに行っても他国の文明と同化することはなかった。いずれの地でも異邦人であるために、他国では辺境でゲットーやシナゴークなどを作って目立たぬように暮らしていたのかもしれない。

 1~2世紀ごろ、シルクロードの街道筋、現在の新疆ウイグル自治区の中央アジア寄りに、キリスト教ネストリウス派に改宗したユダヤ人が、弓月(ヤマト=邪馬図)という所に住んでいた記録がある。弓月城遺跡の壁には、昔そこ住んでいた多くの人々が、あるとき大挙して東方に行ったとの歴史が書かれている。彼らは太陽に導かれてさらに東へ向かって移動した。

 実はこの弓月の人々こそ日本に渡来した秦氏(はたうじ・はたし)である。弓月は秦氏一族が一時期住んでいた所で、『日本書紀』には「弓月君」が秦氏を率いて日本に渡来したと記している。西域のユダヤ人にとって、中央アジアから中国あたりは安住の地ではなかったようだ。

 ユダヤ系の人々が日本にやって来たのは、『日本書紀』によると第十五代応神天皇の時代で、弓月国から日本にやって来たことが書かれている。応神天皇は彼らを受け入れ日本に住まわせた。(この辺りの事情は本サイト<長澤弘隆のページ>『空海ノート』補記「空海と深くかかわった渡来系氏族とその周辺」に詳しく書かれている)

 ユダヤ人はエジプトを脱出して以来、モーセの十戒と律法を死守してきた民族である。故にどこに行ってもその土地の文化と融合できないよそ者であった。そういうユダヤ人が3~4世紀に大挙して日本に渡って来たことはわかっているのだが、不思議なことに日本列島を最後にして消えているのだ。

 実はこの事実こそが、日本が素晴らしい国である証左の一つであると私は考えている。よその国では異邦人、よそ者、のけ者扱いされてきたユダヤ人を、日本だけが受け入れたからである。彼らは消えたのではなく、すすんで日本に帰化したのである。天皇の国の民となり、天皇に仕える側についたのである。ユダヤ人にとって三千年間続いた旅路の果てに、ついにたどり着いた日本こそ太陽の国・理想の国であった。

◆ 日本文明に貢献した秦氏と神道

 これまでの歴史学では「帰化人あるいは渡来人と呼ばれる人たちが日本にやってきたという場合、もっぱら「朝鮮半島や中国から来た人々によって日本はつくられた」というような考え方がされてきた。しかし大陸系の人々、ユダヤ系の人々、中東の人々が、東アジア系の人々と混ざった形で来ていたに違いないと考える学者もいる。(日本国史学会の代表・東北大学名誉教授田中英道博士)

 古代にユダヤ人も渡来した事実は文献以外に考古学的にもいろいろある。一番わかりやすい証拠は千葉県の柴山古墳群からユダヤ人の埴輪が数多く出土していることだろう。発見されたのは、つい20~30年前のことだ。つば広の帽子をかぶり、独特の長い顎髭(あごじげ)をたくわえており、鼻が高く、ユダヤ人独特の美豆良(みずら)の原型も見える。明らかにあどけない子供のような顔をした埴輪とは容貌が異なっている。

 日本に来たユダヤ系の人々は天皇から住む土地も与えられた。秦氏一族は、天皇家に忠実に使え、古代日本に多大な影響をおよぼした。日本に渡ってくる途中で入手したアジア各地での技術や物品もたらした。これが「正倉院宝物」に、なぜ中国・朝鮮のものよりも中央アジアからペルシャにいたる広い地域の装飾品や仏具が多く収められているかという理由である。養蚕技術や機織りの技術、あるいは農耕技術、灌漑施設の建設技術、古墳をつくる土木技術なども彼らは伝えた。

 ヘアースタイルまで伝えたのだから面白い。古墳時代に近い飛鳥時代の人物図や、法隆寺の「聖徳太子像」の両側に立つ二人の皇子像にも描かれているヘアースタイルのことである。美豆良(みずら)というが、髪を頭の中央で分け、両耳のあたりで束ねてカールさせ輪状に結ぶ髪型のことである。「太子十六歳像」に美豆良(みずら)がつけられている。秦氏は聖徳太子の側近としても仕えていたのである。

 この髪型を権力の象徴だという左翼系の考古学者もいるらしいが、これは単にユダヤ人の風習に過ぎない。鬢(びん)のあたりで髪を束ねるのは古代ユダヤ教徒独特の髪型で、ユダヤ人は自分たちが他の民族と違うことを、髪の毛や顎髭や割礼などで身体的に表わしていた。

 それはともかく、秦氏は神道にも大きな影響を与えた。八幡神社や稲荷神社など、全国の神社の多くを作ったのは秦氏である。伊勢神宮にも秦氏が深くかかわっている。八幡神社で最も古いのは九州の「宇佐八幡神宮」だが、宇佐地方は多くの秦氏の人々が定住した場所として知られている。

 日本人となった彼らは、日本の文化や伝統を作ることにも貢献し、平安京の造営にも圧倒的な力を発揮したことは『日本書紀』や『新撰姓氏録』にも記されている。彼らの故郷エルサレムの意味は「平和な都市」、つまり「「平安京」である。

 京都の北東に「琵琶湖」がある。エルサレムから少し北上すると「キネレット湖(ガリラヤ湖)」と呼ばれる湖がある。このヘブライ語の「キネレット」を訳すと楽器の「琵琶」や「竪琴」を意味する。つまり「キネレット湖」とは「琵琶湖」なのである。平安京に住むユダヤ系の人々が先祖から言い伝えられた祖国を思い出して同じ名前をつけたのかもしれない。

 秦氏と呼ばれるようになったもと弓月の人々は、唐の時代、キリスト教のネストリウス派で景教徒と呼ばれていた。東方キリスト教はもともとユダヤ教を元に起こった宗教であり、特にネストリウス派はユダヤ教的な色彩の強いキリスト教であるといわれる。日本の各地にキリスト教の遺構が点在しているのは彼らの痕跡である。

 例えば京都の太秦(うずまさ)は文字からも察せられるとおり、多くの秦氏が住んでいた。その地に「蚕の社」といわれる「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)」神社がある。ここは「蚕」という文字からもわかるように、養蚕技術をもたらした秦氏ゆかりの地だ。鳥居といえば二本柱だが、この神社は奇妙なことに三本柱鳥居である。

 「景教の研究」の著者、佐伯好郎博士によると、この三本柱はキリスト教の「三位一体」を表す景教の遺物であるという。そして秦氏はユダヤ系のキリスト教徒だったともいう。ユダヤ人のイエス・キリストも、もとはユダヤ教徒であり、キリスト教そのものがユダヤ教から派生したことを考えれば、日本に来たユダヤ系の人々が景教徒であっても不思議ではない。ともかく秦氏は日本各地に住み着いたようである。

 ユダヤ教と神道の共通点はいろいろある。どちらも偶像を拝まないこと、参道の入り口に鳥居があること、神殿の両脇に狛犬(実はライオン=獅子)があることや、神殿の構造、神官の衣装、供物の特長(特に盛り塩)、礼拝の前の手水の習慣、賽銭箱、ダビデの星、祭り、伝統など。日本に流布しているヘブライのコトバや苗字など入れるとそれこそ無数にある。

 ユダヤ教の経典『タナフ』には次のような記述があるそうだ。「ソロモン王は青銅の柱を二本鋳た。この柱を神殿の廊に立てた」。つまりソロモン王の建てた神殿の入り口の廊下には二本の柱が立っていたというのだ。ヘブライ語の方言にアラム語という言葉がある。この言葉で「入口」のことを「トリイ」といったそうだ。

 しかし鳥居は二本の柱だけではなく、その上に繋がった部分があるが、この鳥居の独特な形は、出エジプトの時の「過ぎ越しの夜」からきている。ユダヤ人が家の入口に子羊の血で描いた形とそっくりなのだ。

 ユダヤ人がエジプトを脱出する前、神はエジプトの民はすべての長子を殺すといわれた。ただその時、羊の血で書かれた印のついたユダヤの家の前だけは過ぎ越すといわれた。そして印のあるユダヤ人の家の長子は死ぬことはなかった、という話だ(エジプト王の長子は神によって殺された)。その時にユダヤの民が扉に描いた形にそっくりなのが、日本の神社の鳥居である。これは一例だが、秦氏は「神社神道」の形成にも貢献していた。

◆ 剣山(つるぎさん)伝説

 少々個人的なことをさしはさむが、私は四十代、四国八十八か所の遍路をしたことがある。そのついでに「かずら橋」で有名な四国の秘境といわれる「祖谷」に行った。徳島の「祖谷」はその昔平家の落人が隠れ住んでいた所だ。葛で吊り橋を作ったのは追討軍がこちら側に渡って来る前に切り落とせるからである。当地にある「平家資料館」にはこの地方に残された平家の旗や武具など数々の遺物が展示されている。

 私はさらに「奥祖谷」まで行き、山頂近くの集落の地元の老人に、ここも平家の落人が住み着いた所かと聞くと、「バカこけ、わしらは昔からずっとここに住んでおる。あいつらは最近来た連中だ」といわれた。

 あえて稲作もできない山上に暮らすのは遊牧民族である。確かに集落の周辺には生贄の祭壇らしき石組みがあり、キリスト教的なものを漂わせる遺跡がいくつかあった。あの老人も秦氏の末裔かもしれない。そういえば徳島には「秦」という苗字が多かった。

 徳島には愛媛の石鎚山(いしづちざん)と並ぶ霊峰、剣山(つるぎさん)がある。この山について少々述べておきたい。石鎚山(1982m)の方は『三教指帰』にもあるように、若き空海が修行した有名な山岳である。だが剣山は少し様子が異なる。ユダヤ教と天皇神道の最大に共通点はユダヤ人にも「三種の神器」があることだろう。

 アッシリアに滅ぼされたとき、「消えた10部族」といっしょに消えてしまった「契約の箱」という秘宝がある。聖なる箱のことで「聖櫃」とも、英語で「アーク(舟)」ともいわれる。剣山(1955m)にはなんとその秘宝が隠されているという伝説があるのだ。

 「契約の箱」の中には彼らのご神体である「三種の神器」が収められているという。「三種の神器」とは「十戒の石板」「アロンの杖」「黄金の壺」の三つを指す。「十戒の石板」はモーセがシナイ山で「われは在りて在る者(神)」から授かったもの。「アロンの杖」とはエジプトで奴隷だったユダヤの民がエジプトを脱出するとき、エジプトの王の前で奇跡をおこすために使われた杖のことである。これらはチャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナーが出演したハリウッドの映画『十戒』にも描かれているので、この場面を思い出される人もいるだろう。

 「黄金の壺」とは、ユダヤの民が40年間荒野を彷徨っていた時に、天から与えられた「マナ」という食べ物を入れたとされる壺である。これらを収めた「契約の箱」の行方も紀元前7世紀からわからなくなっている。ユダヤ王国の滅亡と共に姿を消したため、その行方を世界中の人が探しているということだ。

 その様子はユダヤ人であるスティーブン・スピルバーグ監督、ハリソン・フォード主演の映画『インディー・ジョーンズ』でも紹介されて話題になったのでご存知の方も多いと思う。その「契約の箱」がよりにもよって四国の剣山にあるというのだ。剣山は切り立った石鎚山とは対照的で、山頂がなだらかな草原になっている。なんとなく遊牧・騎馬民族が好みそうな山で、事実最近まで馬場があったそうだ。

 四国遍路を結願したあと、<お礼参り>の途中で私は剣山にも登ったことがある。そのとき剣山の懐に入ろうと思って洞窟に入ったことがある。剣山伝説を確かめようとしたのではなく、当時は空海と水信仰について考えていたので、洞窟の奥に水が流れているのを確かめると納得して出てきたことがある。鍾乳洞の入り口らしい洞窟は、崩落した巨岩で完全に塞がれていた。

 ユダヤの経典『タナフ』には神の様々な「預言」が収められている。例えば「契約の箱=アーク」の作り方やサイズなども神が預言している。「アーク」の上には二対のケルビム(天使)が翼を高く伸べて、その翼をもって箱を覆えとか、「アーク」の大きさは、長さ200センチ×幅80センチ×高さ120センチで、箱は純金で覆えとか、箱の四隅に環をつけよとか、そこに担ぎ棒を通してその棒は抜いてはならぬとか、こまごまと書かれている。

 この「アーク」はちょうど日本の神輿(みこし)と同じぐらいの大きさで、神輿も金ぴかである。ケルビムの代わりに、神輿の上には羽を広げた鳳凰が飾られている。また「アーク」は移動式の神殿で、神輿も移動式の神殿である。構造も担ぎ方もそっくりである。「タナフ」にはこうも書かれている。「・・・こうしてイスラエルは皆、声を上げ、角笛を吹きならし、ラッパと、シンバルと、竪琴をもって打ちはやして、主の「契約の箱」を担ぎ上げた」と。あの賑やかな神輿祭の行列もこれにそっくりだ。

 かつて前駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏が初めて日本に来てお神輿を見た時の衝撃を忘れられないという。ユダヤ人である彼は、そこに自分たち民族がかって行っていた行進の姿を見たという。神輿はその「アーク」の日本版であることはよく知られている。

 毎年7月17日、剣山では神輿(みこし)渡御祭(とぎょさい)が催される。神輿が安置されている麓の「剣神社」から、法螺貝の音を合図に、数百キロの神輿を標高1955メートルの山頂まで担ぎ上げる。そして神輿の行列は山頂一帯の草原を練り歩き、「剣神社」まで担いで戻るという、誠に体力を要する神事である。ちなみに掛け声の「エッサ」は、ヘブライ語で「運ぶ」という意味があるそうだ。はるか昔に剣山に「アーク」を隠すために担ぎ上げた祖先の記憶の伝統かも知れないが、剣神社の氏子たちによって現在も行われている。

◆ 宇佐八幡宮の謎と剣山の疑問

 神輿に関する記述は『続日本書紀』に初めて出てくる。東大寺の大仏開眼の時、九州の宇佐八幡から神輿がやってきて、大仏の開眼を祝福したというのだ。「宇佐八幡宮」は全国44,000ある八幡神社の総本社である。

 一般的に神社では日本神話に登場する神を祭神としているか、神話の神と同神であるとしているため、祭神に関する神話や史実(例えば太宰府天満宮の菅原道真)が残っているといわれている。宇佐神宮には現在八幡大神(はちまんおおかみ=応神天皇)、比売大神(ひめのおおかみ=宗像三女神)、神功皇后の三神が御祭神とされている。

 しかし一番上格の神として祀られている御祭神の出所がはっきりしない。宇佐神八幡の主神はどこの誰だか公にされていないそうだ。(私は秘かに、主神はユダヤの神ではないかと思っている)。

 京都の祇園祭は、この街に疫病が流行らないようにと始めたといわれているが、古代ユダヤの7月の祭りも疫病が起こらないことを祈願してソロモン王が始めたという。双方とも7月一か月間で祭りの日程もよく似ている。7月17日は京都の祇園祭りのクライマックス「山鉾巡行」(船の形もある)が始まる日。

 ユダヤにとっても7月17日は聖なる日で、「ノアの方舟」がアララト山に漂着した日である(『創世記』8章)。このようなことから祇園祭は「シオン祭」だといわれている。そして剣山の神輿渡御祭(みこしとぎょさい)も7月17日に開催される。

 ここでそんな蘊蓄を語りたいわけではなく、私がいいたいのは、秦氏は信仰を捨て去ったのではなく、日本に融け込んで、神道のなかに彼らの信仰を潜ませたのではないかということである。

 それに関して、私は剣山で一つ不思議なことに気がついたことを憶えている。剣山には空海の影が全く見当たらなかった。周辺に寺院もなかったと思う。あれほど山登りが好きだった空海の形跡や伝説が、この霊峰にまったくないのはどうしたことだろう。

 遍路をした人は気がつくだろうが、空海の足跡は四国中にあふれている。空海伝説は全国で3000以上もあるが、大半は四国にある。神仏習合を推進した空海の影が「剣神社」にまったく見えなかったのはどういうことか。些事かもしれないが心に残っているので、これについては本稿その③で述べたい。

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