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脳死移植を解禁して20年、いっこうにドナーが増えない現実

日本臓器移植ネットワークの門田守人理事長によれば、脳死ドナー(臓器提供者)数は期待したように伸びず年間平均50人程度で、年間数千人の欧米に比べるとかなり少なく、人口100万人当りでは世界最低レベルだそうで、この想定外の現状に門田氏は「とても脳死移植をしている国とはいえないし、私も日本の移植医と公言できない」と嘆いているのだそうである。
 今から20年前の平成9年(1997)6月、政治の力を借り、移植医を医療殺人の罪から免責するため、「臓器提供する場合は脳死を人の死」とし「臓器提供しない場合は脳死は人の死ではない」とした奇々怪々な「臓器移植法」を閉会間ぎわの国会で滑り込み成立させた時、「これで3年の間に1000例の脳死移植が可能となる」とうそぶいたのは移植学界のトップだったが、その見通しの甘さというか、脳死移植に内在する複雑な問題にうといというか、ともかくこの問題をリードする人たちが20年経っても一向に目覚めないことは「科学オタク」のサガとでも言うほかない。
 さらに、門田氏はドナーが増えない原因を、司法解剖を優先する日本の医療体制にあると言っているのだそうである。ならば、土台脳死移植は日本の医療の現状を無視した無理スジだったということに他ならず、今さら何を言っているのかと言いたくなる。この人には、科学的合理性とか脳死移植=ヒューマニズムの盲信しかなく、日本人特有の生命観とか死生観とか宗教観とか、人間共有のカニバリズム(人肉狩り)や人体実験への忌避感とか、文化人類学的教養や死に関する宗教哲学が全く欠けているのだろう。

以下、いわゆる「脳死移植」のもつ問題点である。
 無邪気なヒューマニズムで「脳死移植」を安易に理解している方は、どうか別な角度からも深く考えていただきたい。

人類社会は、人間の理性や文明の証しとして、人肉を漁ること・人肉を食べること・人肉を売買すること・人肉を何かのために供すること、すなわちカニバリズムをタブーとしてきた。タブーとは、文明から取り残された未開種族に見られる野蛮行為や習俗を文明社会が「禁忌」として忌避する事柄で、これは人類社会共有の禁止規範である。
 ところが、この文明社会において、脳死状態となったある人の、心臓も動き体温もある生体から臓器を切り取り、その結果その人の生存を(故意に)終らせてでも、他の生体に移植する人肉のやりとりが行われ、この国ではそれを法制化していかにも文明社会の先進医療であるかのように偽装され、臓器売買までが闇の世界で行われるようになった。
 しかし、日本人のほとんどはこの犯罪的医療のおぞましさにたじろぎ、「臓器移植でしか助からない命を救う」という美談を半信半疑としてきた。「輸血だって、角膜移植だって、肝移植だって、腎移植だって、臓器移植に変りはない」と言う人がいるが、日本人の死生観・生命観・宗教観・人生観は脳死移植というタブー破りを容易に受け容れようとしなかった。

旧「脳死移植法」が成立した当初、関係者は「(これで日本の「脳死移植」は前進し)3年の間に1000例は可能だ」とうそぶいたが、現実は10年でわずかに81例に過ぎなかった。この惨憺たる結果に、功をあせる脳死移植推進派の人はカニバリズムのおぞましさを省みず、また指定病院の体制が未だ十分でないことを承知で、またぞろ政治の力を借りて「臓器移植法」の改悪(更なるタブー破り)に走ったのである。
 平成21年(2009)6月18日、改悪「臓器移植法」(いわゆるA案)が衆議院で可決された。これによれば、臓器提供をする場合にかぎり脳死を人間の死とし、臓器提供をしない場合は脳死は人の死ではないとした「旧法」(これも動いている心臓を体温のある生体から切り取り、人為的にその人の生存を止める医療殺人を極めて政治的に国家権力を借りて正当化した異常な法律だったが)に込められていた「脳死臨調」や有識者または宗教者・市民有志の慎重論・反対意見に対する配慮も葬り去られ、脳死は臓器提供しようとしまいと一律に、この国に住む人間の「死」ということになった

およそ人間の「死」の定義は、単に移植外科医や脳死移植を待つ人の都合のためにあるのではない。「死」を認識しそれを悲しむことが人間共通のものである以上、「死」の定義は人類共有のものでなくてはならない。
 ところが改悪法A案は、WHO(世界保健機関)の「臓器移植は自国で完結を」(2009年5月)という指針、すなわち「今後はアメリカに行っても脳死移植を受けられなくなる」事態をこれ幸いに、いっこうに進まない日本の脳死移植の現状を打開するために、脳死を人間の「死」に加えることを強行したこの国の衆議院は、人類共有のものであるべき「死」の定義を移植外科医や脳死移植を待つ人の都合だけのために法制化し、ふたたび文明社会のタブーを破った
 改悪法A案は、脳死状態から蘇生する可能性が子供にはあるとして、「旧法」が認めなかった15才未満の子供の脳死移植を可能にし、さらに「旧法」の生命線というべき「本人の意志」を放り捨て脳死移植は「家族の同意」だけで可能とした
 この結果、生命倫理の歯止めが完全に取り除かれ、「臓器移植でしか助からない命を救う」という美名のもと、蘇生するかもしれない脳死状態の児童が、「本人の意志」に関係なく、身体を切り裂かれ生きている臓器を切り取られ、恣意的にあの世に強制送致されてもよいということになった

改悪法A案に賛成した国会議員はすべて、自分が脳死状態になった時はかならず臓器提供をするばかりでなく、妻・夫・息子・娘・孫もみな臓器提供することを誓約し公表すべきである。改悪法に賛成しておいて自分は臓器提供をしないばかりか、家族も同じでは理屈に合わない。率先垂範して、この国の脳死移植の進展に協力してはどうか。政治的ポーズなら誰にでもできる。この問題に手を染めた以上、政治的道義的責任をとらなければ政治家である資格はなく、単なる政治的パフォーマンスに過ぎなくなる

然らば、普通の外科手術も臓器移植も政治や法律(国家権力)の力を必要とはしないのに、なぜ脳死移植だけが政治や法律の力を必要とするのか。脳死移植は、心臓も動き体温もあり、ヒゲも伸びお産もできる生体から、生きた臓器を切り取り、その結果その人の生存を人為的に終らせてしまう殺人行為を前提にしている。それ故、法律の力を借りて移植外科医が殺人罪で訴えられないよう保護する必要があるからだ。
 こんな政治的な特例扱いを受ける医療行為がほかにあるか。そこまでして移植外科医の身分を守らなければならないこと自体、脳死移植がそもそも殺人と表裏一体のタブーであることを証明している。「臓器移植でしか助からない命を救う」医療がタブー破りの「禁忌」である限り、それは仁術や人道であるはずがない。筆者は先ずそのことを問うているのである。

医療はもともと、社会規範や人倫道徳に合致し、かつ崇高な生命倫理にもとづいて行われるべきものである。事実、この国の医療も、かつては「医は仁術」と言われ、人道の模範だった。国家権力を借り殺人行為を正当化してまで強行する医療を仁術や人道というだろうか。日本の仁術や人道とは、我欲と物欲とをサイエンスで満たすことを人間の幸福とする欧米のプラグマティックなヒューマニズムとちがうのである。

さらに、自分が生き永らえる(自己の生存本能を満足する)ために、あるいはわが子を少しでも永く生かしてやりたい(父性・母性本能を充足したい)ために、他人の臓器まで欲しがること、さらには他人の「死」を心のどこかで期待すること、そのおぞましさも問うてみたい。
 人間には寿命がある。老いも若きも異なりなく、人間は、与えられた命を、与えられた有限の時間を、生かされ生きているのである。見ず知らずの他人の臓器を欲しがり、人為的に殺された人の臓器をもらい受け、それで平気なのか。生きる時間が多少伸びた分、それをただただ生存するだけで無為徒食に過すとしたら、それで幸せか。それを問うては失礼か。
 医療はしばしば科学という武器で自然界を征服しようとする。理系の人はこの武器が万能だとよく錯覚をする。移植外科の独善と傲慢は、この科学至上主義・自然征服主義の典型である。欧米では山は人間が征服するものだが、日本では山は神仏の宿るところ、人間が拝むものなのである。日本の山の頂にはよく神仏が祀られている。その精神が日本人の身体観となり、日本人は永く肉体と精神を分けなかった。動いている心臓を切り取ることは、その人から心や魂を抜き取ることを意味するのだ。デカルトはそこがわからなかった。肉体と精神を二分したのである。それが欧米の医療の基本理念で人間の生命観にもリンクしている。
 「ターミナルケア」という言葉がある。「終末医療」といわれる。欧米では「死」はすなわち生命の「ターミナル」(終着駅)で、これ以上生きることはないのである。しかし、湯川秀樹や井筒俊彦から世界レベルの哲学と評された空海の密教では、「死」は「不滅の滅」。始めもなく終りもない不滅無限の大生命(大日如来)から生れた生滅有限の生命活動を終えて、またその大生命のもとに帰ること。日本的に言えば、「仏となってあの世で永遠に生きる」のである。これが東洋の知恵であり農耕民族日本人の精神風土である。

空海は、「死」期をさとると五穀(食物)を断って五臓六腑を浄め、弟子たちに遺誡した日と時刻に(弥勒菩薩の)三昧(瞑想)に入った(「即身成仏」の)まま、高野山で有限の生を終えた。空海は、無垢なる六大所成の仏身となって「法爾自然」の原郷(大日)に帰ったのである。

  阿字の子が 阿字のふるさと 発ち出て また発ち帰る 阿字のふるさと

 切り取られた五臓六腑が自分の死後も他人の身体のなかで生きているという実質半死半生の人は、美談の主にもかかわらず、生命の原郷に帰る途中生死の境で迷うことになろう。私たちはこの生死の境で迷う半死半生の生命を「仏」とは言わない。「仏」とは迷いの世界を越えた人のことだからである。日本人は「死者」を「仏さま」と言っておがむ。脳死移植推進派の人のように、人間の冷厳な「死」を軽々しくもてあそべないのである。

最後に「脳死移植」のおぞましい闇の歴史にもふれておく。その闇とは、移植医療先進国といわれるドイツの医学にかつて暗い影を落とした優生学や人体実験であり、そしてその優生学の信奉者ヒットラーが行ったあのユダヤ人の迫害と大量虐殺(ホロコースト)であり、ドイツに並ぶ移植医療先進国のアメリカも優生学的な政策で長いこと人種差別を行ってきた、ということである。

とくに、ヒットラー時代のドイツの強制収容所で、回復の見込みのない収容者(ユダヤ人)の臨床実験が行われていたことは、ニュルンベルグ裁判が明らかにしたところである。生きる見込みのない人の身体を、ある意図のもとに強制的に切り刻むことは、この強制収容所の人体実験に由来すると言っても過言ではなかろう。身体の自由を奪われ、意思の表明もできない、まったくの弱者を、無慈悲に死刑台に送るこのような医療行為の亡霊が、移植外科医には自覚されないまま今の脳死移植に影を落としていないか。よくよく考えてみることである。

世界で最初の心臓移植手術を行った南アフリカの心臓外科医クリスチャン・バーナードは、アメリカのミネソタ大学で心臓移植を修得し、交通事故で脳死状態になった黒人女性の心臓を白人男性に移植し、「この移植には人にいちばん近い形をしたもの(黒人)を使った」とうそぶいた。世界初の心臓移植は、黒人の人権を認めなかった人種差別国南アフリカで行われたのである。かのドクターは黒人女性のドナーを人間ではなくモノと見ていた
 脳死移植は、このような優生学的人種差別、非人道の医療からはじまった。そして、生命の選別という悪しき本質は今もなお変っていない。もともと人体実験の犠牲になってきたのは、奴隷や犯罪者や死刑囚や、貧困層や被差別民や知的障害者たちであった。日本の臓器売買の闇ルートで買われる臓器はフィリピンほか東南アジアの貧困層のものだといわれ、中国における臓器提供者はほとんどが死刑囚である。

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